後編
三年生。
卒業の歳になる頃には目標金額まであと少しというところまでお金は溜まっていた。なんとなく監視を振り切り隣国へ逃げる算段もついた。ギルドで任務をこなす間に親しくなったレイアという女性に手助けしてもらって、隣国の身分も用意できた。
「卒業前にいなくなっちゃったほうがいいのかも……」
リチアは寮の自室でため息をつく。
ため息の原因は机の上にある紫色の封筒。養父からの手紙だった。
どうやら縁談の話が上がっているらしい。しかも隣国の貴族と。歳はかなり上で縁談を希望した貴族の中で一番高い金額を提示してきたからだと聞いている。嫌すぎる。幸いなのは自分たちが行こうとしている国とは違う国だったことくらいだ。
来月には婚約者候補の人が隣国から家に来るから帰ってこいとの連絡だった。入学してから一度も帰っていないのを何も言わなかったくせに。いや、言わなくてもいいのだけれど。
幸い、来週は校舎の改修工事とかで二日余分に休みがある。ウィリアムとの予定も今のところ入っていないから、あと少し足りない分のお金をギルドで稼いでこよう。そうしよう。
少し難易度の高い大型の討伐あたりを受ければ足りるはずだ。
そして来月までにはこの国を出立しよう。
リチアは心に決めた。
「ウィリアムには……、言わない方がいいよね」
黙って逃亡することについて、唯一の気がかりはウィリアムだった。
二年と半年ほど恋人として過ごした日々は本当に楽しかった。
「リチア、こっちにおいで」
「リチア、これ美味しいよ」
「リチア、かわいいね」
「リチア、ずっと一緒にいようね」
仮の恋人とは思えないくらいによくしてもらった。平日の放課後はずっと一緒に過ごした。週末も目ぼしい任務がない時はウィリアムと街へ出かけて美味しいものを食べたり、お揃いのものを買ったりしてみた。
公爵邸にお呼ばれした時はとても緊張した。でも使用人も、ウィリアムのご両親も、平民生まれの私に優しくしてくれた。
娼館のみんなも優しくて大好きだったけど、公爵家の人を見ていると「これが家族なんだなあ」と思えた。それくらい温かい人たちだった。
「ああ、マリアリアそっくりだ……」
公爵家の誰かにとても似ていたらしい。ウィリアムの父親である当主様と、奥様の二人は私の顔を見て泣き出しそうな顔をしていた。
帰らなくていい、ずっとここにいてほしいというウィリアムとご両親を宥めるのは大変だった。
公爵家が本気を出せば、もしかしてこの状況を脱せるのかな、なんてリチアは一瞬考えたが、仮初の恋人に過ぎない自分が、そこまで頼るのは違うなと思った。
悩んだ末、結局ウィリアムに黙っていなくなることに決めた。
学園で静かな生活を送るために恋人になった。もうすぐ卒業なのだから、自分がいなくなってもきっと大丈夫だろう。
とはいえ、ここまでよくしてもらったのに黙っていなくなるのは不義理だろうから、落ち着いたら連絡してめちゃくちゃ謝ろう。
許してもらえなかったら……。その時考えよう。
***
「これ、いけるかな」
ギルドで見ていたのは大型の魔獣の討伐クエスト。
大型魔獣のクエストは複数人で受けるのが基本。どうやらパーティに魔法使いだけ足りずに、募集をかけているようだ。
普段はこういうクエストは絶対に受けない。特に大型魔獣の討伐クエストは。
パーティメンバーの当たり外れが大きいからだ。ベテランで安定したパーティか、あるいは見栄を張るためにクエストを受けたパーティか。それによって難易度が大きく変わる。
とはいえ、今ある依頼の中で一番報酬が多いのはこのクエストのようだ。それ以外は少額。となれば仕方ない。リチアはこの依頼に応募することを決めた。
「なんだよ、ガキかよ。しかも男じゃねーか」
「……」
クエストを受けて、他のパーティメンバーと合流した開口一番がこれである。残念ながらあまりいいパーティではなさそうだ。
ニヤニヤとした目で値踏みしてくるのも気に食わない。
リチアはギルド内では男装している。男装している理由は、まあ、そういうことだ。変なのに絡まれる可能性があるし、舐められることも多いから。
「お前たち、やめないか」
奥の方から一人の男子が出てくる。冒険者の格好はしているが、装備は新品に見える。他のメンバーは彼が出てくると一歩下がる。
ーーああ、なるほど。おぼっちゃまの実績づくりか。
リチアは納得した。この男子の実績づくりや練習のためにギルドでクエストを受けにきたのだ。おそらく家が騎士の家系か何かなんだろう。
「仲間が失礼した。僕はフェン。君、名前は?」
「アルと呼んでくれれば」
「わかった、アル。よろしく頼む」
まとめ役のフェンがまともなのが救いか。ああ、無事に終われればいいなあと思いながら、アリスにもらったお守りを密かに握りしめた。
***
「最悪だよ、あー…まったく」
パーティメンバーと顔合わせを済ませた3時間後、リチアは重傷を負って森の中にいた。目の前には何人かの死体が転がっている。
依頼通り魔獣は倒せた。問題は倒した魔獣の血の匂いを嗅ぎつけて、さらに強力な魔獣が現れたことだ。パーティメンバーは先の戦いで疲弊していて、一瞬で蹂躙された。
魔力に余裕があったリチアがなんとか倒したものの、戦いの中で深傷を負った。
フェンだけは守れたからよかった。それ以外は死んだ。
貴族かもしれない坊ちゃんだけは守ったのだから及第点だろう。死なせてたら責任を問われてたかもしれない。
リチアの傷を心配するフェンを無理やり説得して、街まで助けを呼びに行かせた。そのうちギルドから応援がくるだろう。
ーーそれまで持つかな……。
全くもって動けそうにない。
血を大量に失って体温も下がっている。日が暮れてきた、夜になれば冷えるだろう。フェンの足で街に行くまでに夜を迎える。ギルドからの応援は最悪明日の朝になるかもしれない。
夜の間に新しい魔獣が現れるとも限らない。一応気配を消す魔道具をフェンが置いて行ったが、どれくらい効果があるのやら。
「低体温で死ぬかもな」
とはいえ体を温める魔法を使う体力も魔力もない。
「眠くなってきた、はは」
寝たら死ぬだろうか。アリスを残して死ぬわけにはいかないのに。
少しだけ寝たら、次に目が覚めたら魔力は回復しているはずだから、大丈夫、この私がアリスを残して死ぬわけない。
そう言い聞かせて、リチアは静かに目を閉じた。
***
「……???」
次にリチアが目を覚ましたのは、全く知らない場所だった。
「ここ、どこ……」
「リチア!!」
かろうじて声になっていただろうか、というくらいの音に反応してウィリアムが視界に飛び込んできた。目が合うと顔を歪ませ泣きそうな顔をする。
あれ、なんで私はここにいるんだろう……?
最後、何をしていたっけ。
「……いっ!!」
体を起こそうとすると全身に痛みが走る。
「だめだよリチア、寝ていて。君は重症だったんだ。一ヶ月も目を覚まさなかったんだよ」
ああ、そうだ、そういえば大型の魔獣を討伐してたんだった。あれからもう一ヶ月…。
「一ヶ月…???」
伯爵に召喚された日も過ぎてしまっている。
ーーアリスが危ない…!!
痛みを我慢して無理やり体を起こして動こうとするリチアを焦ったウィリアムが止める。
「待って、待って待って、リチア、本当に君の体はボロボロなんだ。魔獣から呪いを受けて治癒魔法が全然通らなくて、だから無理して動かないで」
「だめ、今行かないとだめなの」
「だめだめだめ、傷が開くってば」
言った側から腹部に鋭い痛みが走る。
「リチア!!落ち着いて、君の妹なら屋敷で保護してあるから」
「……え?」
フリーズする。え、アリスが保護されている???伯爵は?監視は???
その間にゆっくりと寝台に戻される。
疑問しかない。
なんでアリスが?
というかどうして妹のことを知ってるの。
リチアは妹のアリスの存在を、ウィリアムどころか誰にも明かしたことがない。知っているのは平民仲間と伯爵だけのはずだ。
「なんで、うそ」
「嘘じゃない、今すぐ連れてきてもいい。その代わり君は横になって、絶対動かないで。本当にあと少し遅かったら死ぬところだったんだから」
ね、と言いながらゆっくりとシーツの中に戻される。
アリスがここに保護されているなら一旦大事ではないけれど、縁談の件はどうなったんだろう。約束の日を過ぎているのに、ここにいても大丈夫なのかな。
気を失う前の記憶を思い返していると心配なことがたくさん出てくる。ぐるぐると考えをめぐらせていると、部屋のドアが勢いよく開かれた。
「お姉ちゃん!!!」
「アリス…!いっ……!!」
反射で体を起こしてしまい、また鋭い痛みに襲われる。
「ああもう、リチア、ダメだってば」
アリスは辛そうな顔をするし、ウィリアムには怒られる。
「ああ、アリス、本当にアリスなの」
「お姉ちゃんがいつまで経っても娼館に来なくて、こんなの初めてだったから、どうしようって思ってたらウィリアム様の部下の方が娼館にやってきて、あの監視の人をコテンパンにして、それからこの屋敷で保護してくれたの。それから重症のお姉ちゃんも連れてきてお世話してくれたんだよ」
それはなんとも。お世話になりまくりである。
チラリとウィリアムを見るとゆっくりと頷かれた。事実らしい。
「えっと、伯爵家の人は何かしてこなかった…?」
アリスはリチアを繋ぎ止めるための人質である。そのアリスを攫われ、リチアも保護となれば何かしらありそうな気がするのだけど。縁談の予定もすっぽかしている。多分とても怒って探しているんじゃなかろうか。
「大丈夫。伯爵家が公爵家に何かできるわけないしね」
「難しい説明は省くんだけど、色々悪いことをしてたからリチアを保護すると同じタイミングで告発したんだ。で、今伯爵家はリチアどころじゃなくなってる」
「え……、本当に難しい説明省くじゃん」
「複雑なんだ。元気になったら話すよ。でも、そういうことだから安心してほしい。国外に逃亡するのも中止して」
「……知ってるの?」
「私が話したの。お姉ちゃんのこと、絶対絶対助けてくれるって言ったから。その代わり、お姉ちゃんのこと全部教えてっていうから」
全部って、一体何を全部話したんだろう。
アリスがリチアの機嫌を伺うようにしょんぼりした顔をする。リチアはその顔に弱い。なんでも許してしまう。
「わかった、アリス。そんな顔をしないで」
「お姉ちゃん、抱きつきたいから早く元気になってね。私はもう安全だから、お姉ちゃんは自分のことを大事にして欲しい」
「わかった」
微笑んであげるとアリスは約束だよ、と念押しした。可愛い。
それから少し会話をしているうちにリチアは体力の限界が来たのか、話の途中で寝てしまった。アリスは公爵邸に用意された客室へ戻り、リチアのそばにはウィリアムが残った。
「リチア、早く元気になってね。ずっと一緒にいようって言っただろう。国外に行くなんて許さないよ」
うっとりしながらリチアを見つめるその目には、明確に愛情と執着が浮かんでいた。
***
リチアは順調に回復した。
アリスとの再会のあと、さらに5日ほど目を覚まさなかった。その間随分と高熱を出したらしく、目が覚めるとリチアの眼前には泣き腫らして目が真っ赤になったアリスと、クマができてやつれたウィリアムがいた。
なんで君までやつれてるんだよ、とリチアは心の中で少し笑った。
「具合はどう?」
「だいぶいい。傷の痛みもおさまってきた」
「それはよかった」
公爵令息が自ら食事を運び食べさせてくれる。そういえばこの家にお世話になってからまだ使用人を見ていない。すべて世話はウィリアムかアリスがしてくれる。
まあでも確かに、養女とはいえ告発された家の娘がいるのはよろしくないか。
目が覚めてからはウィリアムと医者とアリスが変わるがわる出入りする日々だ。目が覚めてからもしばらくは微熱が続き、ほとんど寝て過ごす日々だった。
重症だったんだなあ。
魔力もほぼ枯渇してたし、それもそうか。
毎日こまめに何度も病状を確認しにくる医者を見て、重症の実感が湧いてきた。どうやら二匹目の魔獣を倒したときに呪いを受けてしまったらしい。
最初は治癒魔法が全然通らなかった。治癒魔法が通らないと怪我って治るのにこんなに時間がかかるのか。今後は気をつけよう。
ちなみに今ではほぼ呪いは解けている。治癒魔法はまだ通りづらいが、一年もすれば呪いは消えるだろうとのことだった。
ウィリアムはわざわデスクを持ち込んで、リチアの眠る部屋で執務をこなした。それでもなおリチアの部屋に入ってくるのはウィリアムとアリスと医者だけだった。
「そろそろ一人でも大丈夫だよ?」
「僕が不安なんだ。僕のわがままを叶えると思ってくれない?」
「それを言われたら何もいえないなあ」
何もいえない、けどリチアにとってちょっと困った事態だった。
公爵邸にずっとお世話になるわけにはいかない。傷が治ってきた今、厄介者はそろそろ出ていくべきだと思っていた。
それなのにウィリアムはその手の話題をことごとく無視する。
アリスも「ずっとここにいればいいじゃん」なんて言い出す始末。
いくら公爵家だからといって、あの狡猾な養父がリチアを手放すとは信じられなかった。ウィリアムのことは好きだ。それこそ、隣国へ行くときに唯一の心残りになるくらいには。
でもだからと言ってここに居座って、ウィリアムに迷惑をかけるのも嫌だった。伯爵が告発によって罪に問われれば、リチアは罪人の娘ということになる。醜聞だ。
罪に問われなければ取り戻すために何かするかもしれない。どっちに転んでも確実に迷惑をかけるだろう。
この際アリスは置いて行こうか。
アリスがずっとここにいればいい、なんて言うからには、きっと公爵家の居心地がいいんだろう。
公爵家で保護してもらえないだろうか。気が利くしなんでもできる器用な子だから、使用人としてでも雇ってもらえるようにお願いしよう。
伯爵の目的は私なのだし、私がいなくなってアリスが安全で居心地のいい場所で保護されればいい。
アリスの分の身分を買うためのお金は、公爵家に渡そう。それでアリスの面倒を見てくれないかお願いしてみよう。
うんうん、と自分で頷いた。
早速、夜の誰もいない時間にウィリアム宛に手紙を書いた。とてもお世話になったこと、アリスを引き取ってもらえないかと言うこと、とても感謝していること、隣国に行こうと思っていること、ーーそれからウィリアムのことが好きだと言うこと。
言い逃げするのは卑怯だなと思いつつ、これでいいんだと言い聞かせた。
あとはウィリアムとアリスが不在の時に抜け出せばいい。
***
チャンスは思ったよりもすぐに訪れた。
どんな理由かは知らなけれど、その日は朝からみんながバタバタしていた。依然としてリチアは部屋から、というかベッドから出ることを許されていないが、それでも屋敷の雰囲気はわかるのだ。
「今日は何かあるの?」
朝食を持ってきたウィリアムに尋ねる。
「バタバタしててごめんね。今日はちょっと外出の予定があってバタバタしてるんだ。」
何かを隠してるんだな、と言うことはリチアにもわかった。ウィリアムは基本的に嘘をつかない。その代わり何か隠し事があると言葉を濁す。
リチアには知られたくない用事なんだろうと察した。
「僕とアリスは外出するんだけど、いいリチア、絶対に絶対にこの部屋から出ないでね。危ないから」
「お姉ちゃん、ベッドからも出ちゃダメだからね」
二人して深刻な顔をして何度も念押しした。ウィリアムとアリスは名残惜しそうにリチアの部屋から出ていった。
彼らが公爵邸を出ていった気配を感じてリチアは身を起こしてベッドから出る。
「あー、まだ痛い」
歩いたりしゃがんだりするとやっぱり傷が痛い。見た目は塞がってきたものの、まだ中身が傷んでいるのだろうか。
それでも我慢できないほどじゃない。リチアは自分に対して痛みを軽減する魔法をかけた。
たっぷり休んだから魔力は回復していた。
クローゼットで見つけたトランクに荷物を詰めた。アリスと一緒じゃないとなると随分と荷物が少ない。路銀と着替えとちょっとした魔石とポーション。あとは思い出の品が少し。
「私のものって思ったよりないんだ」
リチアは母親が亡くなってからずっと生きるのに必死だった。だからだろうか、荷物はとても少なかった。余裕のある鞄を閉じる。
テーブルの上にあるメモの少しだけ書き置きをして、あらかじめウィリアムとアリスに書いておいた手紙をおいた。
「さて、この部屋以外に知らないから、扉から出たらみんなびっくりするよね」
何せ使用人に一人も出会っていない。そんな中トランクを持ったリチアがうろうろすれば不審者として捕まるかもしれない。
窓を開ける。実は窓を開けるのも初めてなのである。
景色からしてそれなりに高いフロアにいるとは思っていたが、どうやらここは4階のようだ。そのまま飛び降りれば怪我をする高さでも、リチアには魔法がある。
風魔法を使って減速しながら地上に降りた。
ゆっくりとした着地だったけど、体に鈍い痛みが走る。
魔法をかけているからそこまで痛くはない、が、魔法で鈍くした感覚の向こうに鋭い痛みがあるのはわかった。思っていたよりも重症のようだ。隣国まで行けたとしても働くのはしばらく無理かもしれない。
「これは療養だなあ」
「そう、リチアはまだ療養しないといけないんだよ」
呟いた瞬間にここにいるはずのない声がして身をこわばらせる。
焦った隙をついて後ろから抱きしめられた。
「リチア、そんな体でどこに行くつもり?だめだろう、部屋から出ないようにいったじゃないか」
「ウ、ウィリアム……なんでここにいるの。さっき出て行ったばっかじゃん……。」
「リチアが部屋を出た気配がしたから飛んできたんだよ」
なんだそりゃ。
「隣国になんて逃すわけないだろう」
仮初の恋人設定だったはずなのに、ウィリアムは逃さないと言わんばかりに冷たく笑っている。後ろにはドス黒いオーラが見える気がする。
「大丈夫、全部、全部僕に任せてくれればいいよ」
驚いて何も言えないでいるリチアをぎゅうと強く抱きしめると、先ほどまでいた部屋に転移して戻される。リチアをベッドへと寝かせる。
怒られるかと思ったけどウィリアムは黙って部屋から出て行った。その代わり、そして扉と窓、外に通じる全てに『ガチャリ』と強力な魔法付きの外鍵をかけられる音がした。
ーーどうしてこうなったの……。
リチアは呆然と扉を見つめることしかできなかった。
***
それからどうしたかと言うと、ーーリチアは諦めて眠った。
何度か扉や窓の魔法を突破できないか試したけれど、難しそうだったので諦めた。2時間くらい頑張ったのだけど、だんだん傷が痛くなってきて起きているのが辛くなってきたのだ。
ベッドに戻ればすぐに眠気はやってきて、目が覚める頃には外は薄暗かった。
そして当たり前みたいにベッドのそばにはウィリアムがいて、書類を捌いていた。すっかり見慣れてしまった光景である。
「ウィリアム…」
出した声は驚くほど弱く乾いていてリチアは驚く。呼ばれたウィリアムは手を止めリチアに駆け寄った。
「リチア、目が覚めたのか…!」
近寄ってきたウィリアムの目にはクマが見える。このパターンはもしかして。
「また数日寝てた?」
「三日寝込んだよ。覚えてないかもしれないけど、また高熱が出たんだ。傷が悪化して。リチア、だから部屋から出るなって言っただろう」
軽くデコピンをされる。
「ほら、果実水だよ。これを飲んでもう少し寝て」
「ウィリアムはねないの?」
「リチアが寝たら寝るよ」
「ふうん」
ちゃんと寝てよね というリチアの声は、音になっていたのかわからない。
果実水を飲んだリチアは、ウィリアムに頭を撫でられるとすぐに眠ってしまった。
ーーーなんか、すごくあったかいんだけど。
なんだろう、懐かしい感じがするなあ。
「わーお」
リチアが次に目を覚ますと、目の前にウィリアムの顔面があった。何がどうなったか全く記憶にはないがどうやら同じベッドで眠っているらしい。
ウィリアムは眠ったままガッチリとリチアの手を掴んでいた。逃がさないとでも言うように。
「んあ、リチア、おはよ」
「おはようなんだけど、なんで同じベッドで寝てるの」
「そりゃだって、リチアが逃げようとするから……。大丈夫リチアが眠ってる三日間も同じように一緒に眠ってたから」
「何が大丈夫なんだよ……」
突っ込めばふふ、と笑ってくれたけど、その目は全然笑っていなかった。
黙って出て行こうとしたことを怒っているらしい。
「リチア、リチアは僕の恋人だよね」
「あっ、ハイ」
「リチアが僕との恋人関係について、あんまり本気じゃなかったのは知ってるよ。でもリチアがのんびり恋人ごっこを楽しんでいる間に、僕は外堀を全部埋めたんだ」
「え」
「リチアは三ヶ月後に僕と結婚するんだよ」
「えっ」
「リチア、リチアが隣国に行かなければいけない原因は全て潰した」
「ええ、」
「伯爵家は聖女候補を監禁した罪で取り潰しだ。リチアとアリスは昨日公爵家の遠縁の子爵家の養子になってるし、アリスに至っては次代の聖女候補になった」
「んん!?」
話が急に飛んで急に訳がわからなくなる。
「リチアは自分とアリスの両親についてどれくらい知ってる?君のお母さんは貴族出身で、父親も地位の高い人なんだよ」
「えっ、私とアリスは父親が一緒なの?」
「そのはずだよ。君の母は娼館にいたけど娼婦として働いていないし」
ええ…?
初出しの情報ばかりで混乱する。
頭に疑問ばかりが浮かぶリチアにウィリアムは簡単に説明した。リチアの母はウィリアムの父親のいとこだったらしい。ある時に隣国の高貴な方と恋に落ちてしまった。だけど母の両親はそれを許さなかった。
だから家を飛び出し、ツテのあった商人が経営する高級娼館に身を隠して、数年に一度だけ恋人と静かに逢瀬を重ねていた。
そして生まれたのがリチアとアリス。
公爵家ではリチアたち家族を定期的に見守っていたらしい。公爵夫人がリチアの母の親友であったのも大きいそうだ。
「実は僕はリチアのことを何度か見にいってるんだ」
「えっ、あそこ歓楽街なのに……?」
「向かいの建物の一部を公爵家で買い取ってるんだよ。監視と護衛のために」
「そうだったんだ」
「初めて見た時から、僕はリチアが好きだったよ」
「小さい頃なんてろくなことしてた記憶がないんだけど」
「ううん今と変わってなかった。かわいくて、優しくて、不器用でさ。あの時絶対にリチアを奥さんにするって決めたんだ。祖父が亡くなって公爵家がバタバタしている隙にリチアは伯爵家に掻っ攫われてたけど、ようやく手に入れることができた」
「ねえリチア、君が望むもの、望む生活、全部叶えてあげる。だから僕の奥さんになろうね」
「ちょっと話が急すぎて……」
混乱しすぎている。自分が平民じゃなくて、ウィリアムは昔から自分が好きで、アリスは聖女候補で??どうなっているの。
「アリスが聖女候補っていうのは」
「そう。リチアの怪我を治療する過程でね、アリスに聖女の適性があることがわかったんだ。だから正式な手続きを踏んで、近いうちに神殿で聖女見習いとして働くことになる。安心して、公爵家から通わせるから。リチアと離れ離れになることはないよ」
「アリスにそんな適性があるなんて知らなかった……」
今まで怪我の治癒はリチアがおこなっていたから妹にもその適性があるとは知らなかった。
「あと三ヶ月後に結婚っていうのは……」
「うん?その言葉の通りだよ」
ウィリアムは説明してくれた。
まずリチアが討伐で重症を負った後から。
あの日の夜のうちにギルドの応援が来て、重症のリチアはギルド内で治療を受けていた。本来ならギルドでも手に負えない怪我だったが、フィンが家の力を使って手を尽くしてくれたようだ。
リチアの家に監視をつけていたウィリアムが、リチアが帰宅していないことに気づく。何かあったのではとリチアの家に侵入して、リチアが隣国へ行こうとしていること、近々お見合いの予定があることを知ったらしい。
ギルドでクエストを受けている形跡もその時に見つけて、ギルドまで探しに来て、重症のリチアを連れて帰った。同時にアリスも保護した。
リチアの縁談を進めようとした伯爵にブチギレて告発。当初はリチアに対する虐待や脅迫で罪を問う予定だったらしい。
ところがアリスの聖魔法への高適正が発覚。
告発に聖女候補への監禁も加えたようだ。
「実は、伯爵家には何度もリチアとの婚約の打診をしてたんだよ。それなのに無視して隣国に売り飛ばそうとするから悪い」
「そうなの? 知らなかった……」
学園に入学してから伯爵とはほとんど関わりもなかったから、ウィリアムが縁談を打診しているだなんて知らなかった。
「まあ派閥が違うから無視したんだろうね。このまま無視されるようなら無理やりにでも結婚するつもりだったよ」
今回もだいぶ強引だと思ったけど、リチアは言葉を飲み込んでおいた。
「そんなわけで、リチアはアドラー家との養子を解消して、今はルーベン子爵家の養女だ。アリスもね」
「ご挨拶とかしなくていいのかな」
「大丈夫だと思うよ。ほら、君がギルドで会ったフィン。彼の家の養子だから。息子の命の恩人の役に立てるならって大喜びで養子にしてたよ」
「そんな上手い話が」
「あったんだよねえ」
「で、リチア、もう隣国には行かなくていいよね?アリスとも一緒に暮らせる。君を売り飛ばそうとする養父もいなくなった」
「……そうね」
「君の手紙を読んだけど、僕のことが好きなんでしょう?」
「ああ……」
置き手紙で言い逃げしようと思っていたのに。思わぬ形で知られてしまってリチアはほんのり顔が赤くなる。
「これ以上、僕の前からいなくなる理由ある?」
「……ないです」
お手上げです。
降参の意思を表明すれば、ウィリアムは嬉しそうに笑ってリチアを抱きしめた。
***
三ヶ月後、リチアはウィリアムと結婚した。
聖女になったアリスの祝福を受けて、盛大に行われた。
その場に父親を名乗る、帝国の聖者が来たりして、ちょっとした騒動になったりもしたけど無事大団円だ。
後日ウィリアム、アリス、養父母、義理の父母、実の父で集まりせっかくなのでと奇妙な肖像画ができあがった。リチアは密かにそれがお気に入りである。