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エピソード1

バタン、とドアが閉まる音。どうやら、大智は仕事に出勤したらしい。

「やれやれ。行ったか。まさか、抱き上げた時にスマホのバイブレーションが鳴るとはね」


『やれやれ。行ったか。まさか、抱き上げた時にスマホのバイブレーションが鳴るとはね』

(バイブレーション……そういえば、最後にこの感触を覚えたのは、いつのことだったかしら……)

メリーの意識は、遠い過去へと遡っていく――。

まだ、自分が一体何者なのかもわからずにいた頃。薄暗い部屋の片隅に、他のたくさんの人形たちと一緒に置かれていた。持ち主は、幼い少女だった。その子は毎日、丁寧にメリーの髪を梳かし、可愛らしい服を着せ替え、優しく話しかけてくれた。メリーにとって、それが世界のすべてだった。

しかし、少女は成長するにつれて、人形遊びをしなくなった。他の人形たちは箱にしまわれたり、誰かに譲られたりしていく中で、メリーだけが、ずっとその部屋の片隅に置かれたままになった。

ある日、少女が部屋に連れてきたのは、どこか悲しそうな表情をした若い女性だった。女性は、部屋を見回しながら、ぽつりと言った。「懐かしいな……私が小さい頃に遊んでいた人形も、まだどこかにあるのかしら」

その時、メリーは初めて、自分以外の存在の『思い』を感じた。それは、過去への郷愁と、満たされない何かを求めるような、複雑な感情だった。

その女性がふとメリーに目を留めた。埃を被り、忘れ去られたように佇むメリーの姿に、何かを感じ取ったのかもしれない。女性はそっとメリーを手に取り、微笑んだ。「この子、可愛いわね」

その瞬間、メリーの中で何かが弾けた。彼女は、その女性が抱える『思い』が、かつての少女の純粋な感情とは違うことに気づいた。それは、もっと深く、もっと切実な願いだった。

そして、その願いに触れた時、メリーは初めて理解した。自分は、ただの人形ではない。人々の心の奥底にある『思い』を感じ取り、それを何らかの形で受け止めることができる存在なのだと。

(あの時、初めて『思い』に触れた感触……今のバイブレーションに、少し似ているのかもしれないわね)

メリーは、遠い記憶の断片を辿りながら、静かに目を閉じた。

翌朝、大智が目を覚ますと、いつものようにメリーはソファーに座っていた。昨夜の出来事は、まるで遠い夢のようだ。大智は欠伸をしながら、メリーに軽く挨拶をした。

「おはよう、メリー」

メリーは、その声に応えることはない。それが、彼女がこの家で演じる役割だった。ただの、少しだけ特別な人形。

大智が朝食の準備を始めると、メリーはぼんやりと窓の外を眺めた。団地の向こうに見える空は、今日も灰色に淀んでいる。昨夜、願いを叶えた『女性』は、今頃どこで何をしているだろうか。ほんの少しだけ、彼女のその後が気になった。

その日の午後、大智が仕事から帰宅すると、珍しく玄関に誰かの靴があった。見慣れない、女性もののパンプスだ。

「ただいまー」

リビングのドアを開けると、見知らぬ女性がソファーに座って、にこやかに大智に話しかけた。

「あら、大智さん?お待ちしていましたわ」

その女性の隣には、もちろんメリーが座っている。しかし、その時のメリーは、いつもと少しだけ雰囲気が違っていた。まるで、何かを警戒しているかのように、わずかに身を固くしているように見えたのは、気のせいだろうか。

「あの……どちら様でしょうか?」

大智は、戸惑いを隠せない。自分の家に、見知らぬ女性がいるのだ。しかも、どこか親しげな様子で。

「まあ、堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。私の名前は――」

女性がそう言いかけた時、メリーは静かに、しかしはっきりと念を送った。

(この女は、危険だ)

その念は、大智には届かない。しかし、メリー自身は、その女性から発せられる、微かなけれど確かに存在する『歪み』を感じ取っていた。それは、これまで出会ってきた、願いを持つ人々のものとは、明らかに異なる種類の感情だった。

(くっ。この女が入ってくるのは計算していなかった……)

大智が仕事へ行き、メリーがいつものように静かに過ごしていた夕暮れ時だった。ガチャガチャという音に、大智が帰ってきたのかと思った瞬間、あの団地で会った紫のドレスの女性が入ってきたのだ。メリーを見るなり、その女性――瑠衣はにこやかに言った。

「あら、この間のお人形さん。私を女性にしてくれてありがとうね。大智が帰るまでお邪魔するわね。」

そう言って、瑠衣はまるで自分の家のようにリビングに上がり込んだ。

「ええと、なぜ君が僕の家に、しかも名前まで……」

大智は明らかに戸惑っている。

「もう!大ちゃんたら!私よ!私!元彼の姫川瑠衣!」

「えっ!?あ……瑠衣!?マジか!いや、なんかなんか可愛くなったな。」

(えええ!まさかの元彼!?あの時、痩せこけて隈のできた男性だったのに……?)

メリーは驚愕していた。まさか、あの時の男が、こんなにもあっさりと大智の元彼だと明かすとは。そして、その変貌ぶりにも目を見張る。

「ごめんね。鍵、返しに行くってLINEしたんだけど、待ちきれなくて入っちゃった。」

瑠衣は悪びれる様子もない。

「あ……ああ。全然いいよ。」

大智はそう答えたものの、どこか気まずそうだ。

(あー、なんかこの二人、まどろっこしいわね)

メリーは、二人のやり取りを静かに見守っていた。瑠衣の纏う雰囲気は、やはりどこか引っかかる。ただ願いが叶っただけではない、何か別の意図があるように感じられるのだ。

メリーは、二人の間の微妙な空気を敏感に感じ取っていた。瑠衣の瞳には、過去への未練と、再び繋がりたいという強い願いが宿っている。一方、大智は驚きと戸惑いを隠せないながらも、どこか懐かしさを覚えているようだ。

夕食時、瑠衣は手際よく料理を始めた。以前付き合っていた頃から、料理が得意だったのだろう。大智はそれを少し離れた場所から、複雑な表情で見守っている。

「ねぇ、大ちゃん。これ、味見してくれる?」

瑠衣がそう言って差し出したスープを、大智は 口にした。

「……うん、美味しい」

その言葉に、瑠衣の顔がぱっと明るくなった。その笑顔を見た大智の表情も、少し和らいだように見える。

(ふむ、悪くない流れね)

メリーは静かに念力を使い、リビングの小さな観葉植物の葉をそっと揺らした。微かな風が、二人の間に吹き抜ける。

「あれ?なんか涼しい?」

瑠衣がそう呟いた瞬間、大智はふと何かを思い出したように言った。

「そういえば、瑠衣がよくこの香りのアロマを焚いていたな」

彼はそう言いながら、棚に置いてあったアロマランプに手を伸ばした。それは、別れる前に瑠衣がプレゼントしたものだった。

「あ……」

瑠衣は、大智がアロマランプに触れたのを見て、言葉を失った。二人の間に、気まずいけれど、どこか温かい空気が流れる。

(よし、もう一押し、ね)

メリーは再び念力を使い、今度はテレビのリモコンをそっと動かした。画面に映し出されたのは、かつて二人がよく見ていたという恋愛映画のワンシーンだった。

「あっ……この映画!」

二人は同時に声を上げた。顔を見合わせ、思わずクスッと笑う。

ぎこちないながらも、二人の間に会話が生まれ始めた。別れてからの互いのこと、あの頃の思い出……。メリーは、静かにその様子を見守っていた。瑠衣の願う気持ちと、大智の心の奥底にある感情が、ゆっくりと近づいていくのを感じていた。

(はぁぁぁぁ。まったぁぁぁく、世話のやける……)

あれから、あの二人は良い雰囲気になり、無事に交際を再開したらしい。今はリビングで、幸せそうに映画を観ている。ちなみに、そのソファーの真ん中には、なぜかメリーが座らされている。

(あああ!居づらいったらありゃしない。ったく……)

左右から聞こえてくるのは、楽しそうな笑い声や、時折囁かれる甘い言葉。メリーは無表情の人形のふりをしながらも、内心では盛大にうんざりしていた。

(私の力を使って復縁したくせに、感謝の一つもないのかしら。まあ、感謝されたところで困るのだけれど)

映画のラブシーンが映し出されると、二人は顔を見合わせ、照れたように微笑んだ。その様子を、真正面から見せつけられているメリーの心中やいかに。

(お願いだから、せめて私の前ではイチャつかないでくれるかしら。ただでさえ人形なのに、これ以上無機質な気持ちになりたくはないわ)

ポップコーンの弾ける音と、映画の甘いセリフが、狭いリビングに響く。メリーは、早くこの気まずい時間が終わることを、ひそかに願っていた。

(ど……どういうことよぉぉ!)

あれから一ヶ月後、なんと大智と瑠衣は同棲を始めた。この事態に、メリーの内心は盛大に荒れ模様である。

「瑠衣、こちらはメリー。メリー、こちらは交際中の瑠衣。今日から一緒に暮らすからよろしくね。」

大智はそう言って、ソファーに座るメリーを指さした。瑠衣はにこやかにメリーに手を振る。

「メリー、よろしくね」

(よろしくなぁぁあーい!)

メリーは心の中で盛大に叫んだ。まさか、自分の目の前でこの二人がイチャつく日々が始まるなんて。

「大ちゃん、このお花、どこに飾ろうか?」

「んー、じゃあ、メリーの隣とかどう?」

「あら、素敵ね!」

(素敵じゃないわよ!私の存在意義って一体……ただの邪魔者じゃないの!)

また、あの甘ったるい言葉が部屋中に響き渡るのかと思うと、メリーは心底うんざりしていた。

(甘すぎて砂糖を吐きそうだわ)

メリーはうんざりした目で二人を見た。

(本当に、この人たちは……)

ソファーでは、クッキーを食べさせ合う二人の姿があった。大智の頬には、瑠衣がわざとつけたであろう小さなクリームの跡。それを見て、二人はキャッキャと笑い合っている。

(微笑ましい、とでも言うのかしら、この状況は)

メリーは、無機質な表情のまま、窓の外に目をやった。夕焼けが、二人のシルエットをオレンジ色に染めている。その光景は、傍から見れば幸せそのものだろう。しかし、メリーにとっては、ただただ気まずく、そして少しだけ退屈な時間だった。

(私の能力は、こんなバカップルの仲を取り持つためにあるわけではないはずなのに)

心の中でそう呟きながらも、メリーはただの人形として、そこに座っているしかなかった。二人の甘い会話は、まるで背景のBGMのように、彼女の耳を通り過ぎていく。

「ねぇ、大ちゃん。明日はどこに行こうか?」

「んー、瑠衣が行きたいところならどこでもいいよ♡」

(出たわ、この手の会話……)

メリーは、小さくため息をついた。もちろん、それは音にはならない。ただ、彼女の内部で、静かな諦めのような感情が広がっていくのだった。

(2人が出かけるなら、私もいきますか。あの紫乃川団地に)

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