モラトリアムと中央階段
どの高校にも名所やスポット、あるいは人々の記憶に残り続ける場所がある。その高校では「中央階段」がそれにあたる。
中央階段と呼ばれるその場所は、北館と南館を繋ぐ渡り廊下の真ん中にあり、後に造られた北館を南館と繋げる際に生じた「高さの齟齬」を解消するために半ば強引に造られた階段である。それは、階段と言ってもそれを昇ってひいひいと息を荒らげるようなものでは全くなく、むしろ1段飛ばしでひょいひょいと軽々こえていけるようなごく小規模の階段である。
中央階段をはさんで北と南に建物があるが、もともとは南館を取り壊すために北館を造り始めたのであり、今も南館取り壊しの計画が頓挫したわけではないものの、とりあえずその時が来るまでは北館と南館を併用しようということになり、ならばということで北館と南館が繋げられることになった。しかしながら、そんな計画、建てる前にはなかったものであり、「建設途中で言われても」というごもっともな反論もあったようだが、お偉いさんがたが話し合って調整をしたのだろうと思われ、例外的な処置として、急遽渡り廊下が設置される流れとなった。
そうしてできた渡り廊下と中央階段は、北館と南館を繋ぐ唯一の通路として多くの人々に利用された(渡り廊下が使えないときは玄関からわざわざ回り道をしなければならない)。また突貫工事的に造られた割には景観もよく、中央階段から見た夕景は北館と南館の間を夕陽が沈んでいく様が美しい。中央階段はいつしかその高校のスポットとして認知され、友達同士集合するための場所となり、告白の場所となり、休憩場所となって、利用する人々の記憶に残り続けた。
その中央階段の隅にある女生徒が座っており、本を読んでいた。熱心に本を読む様子はロダンの彫刻作品「考える人」のごとく、奥底に潜む人間の本性を鋭い眼光によって摘出してやろうという「人間の本性」が垣間見えた。地獄を見るか本を読むか、そこに大きな差はない。
本を読む女生徒の背後から誰かが忍び寄り、彼女のつむじを指で軽くおさえる。
「わぁっ!」驚きのあまり、本を落とす。
「チセ、よっ。」
「あ、ユキちゃん。」
優希は智世が落とした本を拾い、「ごめんね」と言いながら智世に手渡した。優希は智世の隣に座った。
「探したよ。」と優希が言う。
「えっなんで。」
「会いたかったから。」優希は無邪気な子どものように笑った。
「なんの本読んでたの?」
「これは、その、れ、恋愛小説。」
「恋愛小説。」
「うん。」
「誰か好きな人でもできたの?」
「えっ、えっ?!」智世は赤面する。
「へへっ、かわいい。」優希は智世の頬をつついた。
「そういえば、この中央階段で告白すると成功するって言われてるよね。」
「えっそうなの?」
「うん、なんかよく知らないけど、中央階段が造られた経緯が関係してるらしい。」
「そうなんだ。」
「誰にも見られちゃいけないんだって。やってみたら?」
「えっ?! いや、全然そんなんじゃないから……。」
「そっか、ざーんねん。あ、先生だ。おーい!」優希が手を振る。
前の方から吉野先生という数学の先生が歩いてきた。優希は吉野先生の方へ駆けていき、何やら楽しげに話をしていた。優希の横顔、その笑顔は智世にみせたそれとは違う。噂によれば、優希は吉野先生のことが好きらしい。
智世は手持ち無沙汰になり、本を開いて読みはじめた。いつの間にか吉野先生と優希はいなくなっており、智世は安堵するとともに無力感のような、あるいは悲哀のような、何かモヤモヤとした気持ちが心に残りつづけた。
中央階段は放課後になると滅多に人が通らなくなる。智世は今日も中央階段に座って本を読んでいた。
「告白、ね。」周りを見回すが誰もいない。
「もしユキちゃんの話が本当なら、私がこんなとこに居たらだめだよね。みんなの邪魔しちゃう。」
人の目を気にするあまり、誰かに見られていることを想定し、姿も分からぬ“その人”に気を遣う。透明人間にも気を遣うなんておかしな話だ、と言い捨てることができればどれだけ良いかと智世は思った。生きづらい世の中にしたのは誰なのか、そう強く問うてみるが、結局その答えは分からずに「自分が悪いのだ」と自己嫌悪に陥るのである。きっとこの先、社会に出ても同じように気を遣い続け、ぼろぼろの身体と心に鞭打って惰性で生きていかなければならないのだ。強い者と弱い者の埋めることのできない絶対的な格差、その格差を縮めることなどできやしないし、そんなこと考えたくもない。互いの理解を阻む壁は双方を隔絶し、そして互いを幸せにする。
智世はよいしょと立ち上がる。
「結構いい場所だったんだけどな。」
智世は本を読む場所を探すため階段を昇る。その時、後ろから声をかける者があった。「あの、チセさん……。」
「は、はい。」
自分に声をかける者、誰。ぞっとした。姿の分からぬ“その人”が現れた気がして、心の中でつぶやいた自己嫌悪が口から漏れだして聞こえていたのではないかとヒヤリとした。
振り返るとそこには同じクラスの美樹がいた。
「あの、チセさんが持ってるその本……。」
話を聞くと、どうやら美樹はこの本の作者のファンらしい。気づいたら智世は美樹と中央階段に座って本について色々と語り合っていた。そしてその日から二人は中央階段に座って話をするようになった。
「ユキさん、これお願いしていい?」
「全然大丈夫ですよ。やっときます。」
優希は生徒会の仕事に追われていた。やってもやってもたまり続ける書類の山。
「なんでうちの学校ってこんなに書類多いんすかね?」
「さあね。生徒の自主性を重んじる、とかなんとか言って、生徒自身ができそうな書類が回ってくる感じだよね。」
「こき使われてる感じするんですけど。」
「これが大人のやり口ってやつよ。」
「なるほど。」
書類の山をさばいていく。調べ物をしようとしてスマホを探すが、ポケットにない。「しまった、教室だ。」
「どうした?」
「会長すみません、教室にスマホ置いてきちゃいました。」
「あぁ、取りに行っといで。」
「いってきます。」
優希は廊下を駆け足で教室に向かう。渡り廊下の入口にさしかかったとき、中央階段の方から何やら楽しげに話す声が聞こえてきた。
「あれはチセと、ミキか。そういえば二人、最近仲良さそうだもんな。」
渡り廊下の入口をまたごうとする。ふと、歩みをとめる。
「邪魔しちゃ悪いかな」とつぶやく。少し遠いが回り道をすることにした。
数日後、この日は美樹が風邪で休んでいた。智世はひとり教室で本を読んでいる。
優希が後ろから智世のつむじを軽くおさえた。
「ひゃっ!」
「ちーせっ!」
「ユキちゃん。」
「今日さ、前言ってたカフェ行かない?」
「うん、行く! ……あっ。」
「どうした?」
「ごめん、今日ミキちゃんのお見舞い行かなきゃ。」
「そっか。今日ミキ風邪だっけ?」
「うん、でも明日には来れそうって。」
「ミキと仲良いんだね。」
「そうなの、同じ作者さんが好きで、それで意気投合したんだ。」
「そう、良かったじゃん!」
「うん。」智世はうつむいて微笑んだ。「カフェごめんね。明日とかどう? きっと明日なら行けるから。」
「ごめん、明日生徒会の集まりがあるんだ。」
「そう……。」
「また暇な時誘うから。絶対予定空けといてよ!」優希は無邪気に笑った。
「うん、わかった! ありがとう。」
鐘が鳴り、優希が席に戻る。智世に友達ができることは良いことだと優希は自分に言い聞かせた。
智世に話しかけたのは、ひとりで本を読んでいる智世がクラスに馴染めるようにするため。クラスの中には彼女を嫌うものもいたが、話を聞く限りでは、彼女のことをよく知らないから避けているだけの所謂「食わず嫌い」の場合がほとんどであったため、クラスの雰囲気を悪くしないよう私が率先して彼女に声をかけた。お節介かもしれないが、これも生徒会の仕事だと割り切って智世に接してきた。智世もそんな私を受け入れて、カフェの話や流行りの曲などの話で盛り上がった。私の話に合わせてくれていたのかもしれないが、それでも彼女が笑顔で話してくれることは嬉しいと思った。
智世と美樹が仲良く話をしている。これで良い。でも、その様子を見ていると心がズキズキとする。何故だろう。
「ねぇユキちゃん。」智世が話しかけてきた。
「うん?」
「今日、空いてる?」
「うん、今日は何もないよ。」
「やった! じゃあさ、前言ってたカフェ行かない?」
「お、いいね! 行こっか。」
「うん! じゃあ放課後ね!」
智世が足どり軽く席に戻る。彼女にしっぽがついていたら、きっとぶんぶんと振っているに違いない、そんなくだらないことを考えながら、優希は頬杖をついてその様子を眺めていた。
カフェの窓際の二人席に座り、パンケーキを食べる。
「ミキちゃんに話しかけられたのは中央階段だったんだ。『その本ってもしかして……』って。」
「なんというか、ロマンチックだね。」
「そう、運命だと思ったよ!」
「良かったじゃん。あれだね、中央階段ロマンスだ。」
「ロマンスって、そんなんじゃないよ。ただの友達だって。」
「そう。」
「ねぇユキちゃん。最近生徒会の仕事どう?」
「相変わらず忙しいよ。やることばっかでさ、こないだも吉野先生が生徒会室に来て、『これ頼むわ』って、大量の書類持ってくんの。自分でやれよってあの変態教師。ある程度は書類まとめてあるんだけど、あいつガサツだからさ、結局こっちで全部まとめないといけないわけ。中途半端にやるな二度手間なんだよハゲちまえって思ったよね。」
智世が笑う。「吉野先生ってそんな人だったんだ。」
「そう、あいつ皆が思ってるよりクソだよ。私あいつ嫌いなんだよね。」
「そうなんだ、良かった。」
「え?」
「あ、ごめん。私てっきりユキちゃんが吉野先生のこと好きだと思ってて。」
「あぁ、あの噂ね。知ってる。たぶん、あいつとよく中央階段で会うから、それで変な噂が流れてんだと思う。」
「中央階段恐るべしだね。」
「でもさ、チセはミキと中央階段で仲良くなれたんだし、やっぱり中央階段の話は本当なんだと思うよ。恋愛というか、縁結びというかさ。」
「うんそうかも。」
パンケーキを食べ終え、しばらく駄弁って店を出た。
「生徒会の仕事大変だったら言ってね。私手伝うから!」
「じゃあ今度お願いしちゃおっかな。」
「任せて!」
「うん、ありがと。じゃあまた明日ね。」
「うん、じゃあね。」
中央階段ロマンスなんてあるわけない。智世も私も、みんな、馬鹿だ。
「あぁしまった、今日もスマホ教室ですー。」
「いってらっしゃいみてらっしゃい。」
「すみません会長、すぐ戻るんで。」
「おけまるー。」
駆け足で教室に向かう。今日は、いる。智世と美樹。
今日はあえて渡り廊下を歩くことにする。あえてってなんだ、智世が他の人と仲良くしていたって別に気にすることじゃない。
今日もこっそり近づき、つむじをつつこうとするが、今日はいつもと違った。先に智世が両手でつむじを隠したのである。
「へへっ、ユキちゃん。」
「あら、バレちゃった。」
智世が威勢よく立ち上がる。
「ふふっ、私も成長しているの──」智世が階段を昇ろうとして踏み外した。
「危ないっ!」
優希はあわてて智世を支えようとしたが、智世と優希は倒れた。
「ごめんユキちゃん、大丈夫だった? ユキちゃん? ユキちゃん?!」
「先生呼んでくる!」美樹が階段を降りて先生を探しに行く。
「ユキちゃん大丈夫? ユキちゃん、ごめんユキちゃん、ごめんなさい。ユキちゃん……。」智世が大粒の涙をこぼす。
優希の目がパチリと開いた。
「大丈夫だよ、チセ。」優希は微笑む。
「良かった、良かったぁ! ユキちゃん死んじゃうかと思った。ごめんねユキちゃん、ごめんなさい。」
二人は身体を起こして廊下に座り込む。
「ね、チセ。」
「うん。」
「周り誰もいないね。」
「え、うん。」
優希は無邪気な子どものように笑い、その笑顔とは裏腹に“いやな大人”が口を開く。「私ね、わざと目をつぶってたの。ミキを追いやるために。いやな人間でしょ?」
「えっ……、なんでそんなこと……。ううん、ユキちゃんはいやな人間なんかじゃないよ。」
「ねぇチセ、ホントのこと言って。いやでしょ、きらいでしょ? チセの大切な友達を邪魔者扱いして、チセに心配させて、嫌いになっちゃった?」
「ユキちゃんは……。」智世は、今の気持ちを表す言葉が出てこないことにもどかしさを感じた。
優希の頬に一粒の涙がつたう。「私、チセのこと嫌いよ。」
「えっ……。」
優希は立ち上がる。「私行かなきゃ。」
「……安静にしてなきゃだめだよ。」
「大丈夫だって。心配させてごめんね! じゃね!」
しばらくして美樹と吉野先生が中央階段に来た。智世は呆然とただ座って渡り廊下の出入口の方を眺めていた。
優希は息を切らしながら教室のドアを開ける。誰もいない教室。自分の机に行き、引き出しからスマホを取り出してポケットにしまう。
「はぁ……。」
なぜあんなことを言ってしまったんだろう。いや、その答えは明白だ。
嫉妬。
智世が自分以外の誰かと楽しそうに笑うのが許せなかった。ただそれだけ。幸せになってほしいと願う気持ちは嘘だった。もう私が智世の幸せを願う資格はない。
こんな子どもみたいなことを、いやな大人のやり口でやってしまうなんて、最低だ。
髪飾りを乱暴にとる。智世とショッピングに出かけた時に買った、お揃いの花の髪飾り。お気に入りの髪飾りでよく使うから少しくたびれている。それを床に投げつけようとするが、できなかった。髪飾りをもう一度見る。くたびれた花びらが今の私の心のようで、この髪飾りを大切にすることだけが自分を救う唯一の方法であると知った。涙が溢れてくる。私は自分のことがかわいいのね。自分で勝手に破滅して、勝手に救われようとしている。
しばらく泣いた。どれだけの間泣いていただろう。頬をたたいて顔を上げる。
「謝らなきゃ。」
ドアを開けようとしたその時、向こうからドアを開ける者がいた。
「ひゃっ!」
「ユキちゃん!」
ドアの向こうにいたのは智世であった。
「チセ、さっきはごめ──」
智世が優希を抱きしめた。「謝らないで。あなたは私を嫌いなままでいい。」
「えっ……。」
「ユキちゃんに話しかけらたあの時から、今までどうでもよかった学校生活が楽しくなったの。今では毎日学校に行くのが楽しい。幸せよ、ユキちゃん。私、とても幸せ。」
智世の髪には優希のものと同じ髪飾りがつけられており、優希のものと同様、色あせてくたびれていた。
「あなたに救われた。それだけで私は生きていける。それ以上何かを望んだらバチが当たってしまう。」
「チセ……。」
「ひとつだけお願い、中央階段に行きましょ。今、誰もいないよ。」
二人は中央階段まで歩く。智世の言うように、中央階段には誰もいない。二人は階段に座る。
「ねぇユキちゃん。」
「うん。」優希はうつむいたまま返事をする。
「私、ユキちゃんのことが好き。」
「えっ……。」
優希は智世を見る。智世は微笑み、下を向いて話し出す。
「私居場所がほしかったの。どこにいても、誰と話していてもつきまとう、孤独の感覚。クラスにいても私はひとり、家でもひとり、誰も私を必要としていない。それは気楽ではあるけど時折寂しくなる。寂しくなったら本を読めばいいじゃない。だから私は本を読むようになった。孤独を覆う本の檻は私を閉じ込め、私は別世界で生きている。でも、孤独なの。それはそう、物語の主人公は皆輝いている。私とは違う。ごめんね、こんなつまらない話に付き合わせて。」
優希は首を横に振る。「ううん、チセの話、聞かせて。」
「ありがとう」と智世は言い、話を続けた。
「私にとってこの中央階段は、この世界と物語の世界を繋ぐ架け橋なの。美樹とも出逢えたし、それに、つむじゲームも楽しめる。」智世は無邪気に笑った。
「中央階段はいずれ取り壊されるけど、私はどちらの世界でも生きていける。私ね、本を読むのが好きなの。何故かといえば、主人公が輝いているから。私なんて放っておいて、輝ける人は存分に輝いていてほしい。それで救われる心があるってことも知っていてほしい。ねぇユキちゃん。私の居場所はユキちゃんがいるところ。私、ユキちゃんが大好き。」
優希はうなずいた。「チセ。」
「うん。」
「私がチセを置いていくことはないよ。私たちは今を生きている。ここが取り壊された時だって、教室でも、カフェでも、買い物でも、家でも、そしてモラトリアムを踏み越えて、日本、世界、行けるところはたくさんある。それに、物語の世界がチセを置き去りにするのであれば、私たちで新しい物語をつくってしまえばいい。チセとなら、はるか遠くどこにでも行けるし、時にはカフェでくつろぐこともできる。自分ひとりだけ我慢すればいいなんて私が許さない。一緒に幸せになろ。」
智世は立ち上がる。「えいっ!」と優希のつむじを軽くおさえた。
「やったぁ!」
「や、やられた……!」優希はつむじを両手でおおった。
智世と優希は笑いあった。
「チセ、さっきはごめんね。私、チセのこと大好き。これからも一緒だよ!」
「うん!」
「……あっ。」優希の顔が青ざめる。
「どうしたの?」
「やば、生徒会の仕事やらなきゃ! ごめんチセ、じゃあね!」
「あ、ちょっと待って……。」智世が優希を呼びとめる。「私も手伝いに行っていい?」
「うん、いいよ! ありがとう!」
その後智世は生徒会に入ることになる。優希は生徒会長になり、智世は優希の助手を卒業まで務めた。
また、しばらく後で南館の取り壊しが正式に決定されたが、それを支持、主導していたのが優希と智世であることは意外と知られていない。彼女らは象徴としての中央階段を破壊することで、逆説的に、彼女らの関係性を証明したのである。