第三章:灰色の風と師匠の影(前編)
「気が付いたか?」
次に目が覚めた時には知らない天井が僕を迎えた。しゃがれた声のする方へ顔を向ける。
「まずは水でも飲め。食事の用意もある。落ち着いたら夕飯にしよう」
老人は背の低いずんぐりむっくりした体を重そうにしながら部屋の奥へと消えていった。
僕は粗末なベットからゆっくりと起き上がると額に手を当てる。頬にかかる髪を耳にかけ、ベット脇のサイドボードに置いてあったマグカップに手をかけ、口につけた。久方ぶりの水がじんわり体に沁みる。一息ついておじいさんの後を追いかけた。しかしまだ思うように足が動かない。床に敷いてあった煤けたラグにつまずいた。「ギャッ」と叫ぶと先程の老人が慌てて駆け寄ってきた。
「無理はするな。なぁに、疲れが溜まっているんだろう。そこにしばらく掛けておれ」
無骨な指で背もたれのある椅子を指す。僕の背中を支えながら椅子まで運び、また奥の方に消えていった。備え付けてあった机には白百合の小さな花束が花瓶に飾られてある。僕は疲れから机に突っ伏してしまった。やがて部屋の中に溢れるクリームスープの良い匂い。僕の腹が待ってましたと反応した。
ピコンと尖った耳を弾く。奥からおじいさんが帰ってきたようだ。
「さぁさぁ、食事の時間だ。ワシも人と食事を楽しむのは久しぶりじゃ」
おじいさんの手には熱々の鍋。小脇に抱えた鍋敷きを机に置き、その上に鍋を置いた。奥とこちらを行ったり来たりして、ウキウキとカトラリーや皿を順番に僕の前に並べた。おじいさんの鼻歌は弾んでいる。僕を歓迎しているのが目に見えて分かった。
「……ぐすっ。あの、助けていただいてありがとうございます」
鼻をすすりながら声を絞り出した僕を見て、おじいさんはゆっくり微笑んだ。
「積もる話は食べてからにしよう。せっかくのスープが冷めてしまう」
おじいさんはスプーンにすくったスープに口をつける。それに続いて僕もスプーンを口に運んだ。じんわり体が温まる。紅潮した頬をクリーミーな後味のスープが包み込む。舌の上でじゃがいもや人参の甘さが溶け込んでくる。温かなスープが僕の尖った耳を熱くさせた。ふぅとついたため息、首元をパタパタと手で扇ぎ、熱を逃がした。次に黒パンに手を伸ばし、スープに浸す。舌でパンを受け、咀嚼も程々に飲み込む。『そんな食べ方……行儀の悪い』と笑いながら僕を窘める母を不意に思い出した。熱い涙が溢れた。腕でゴシゴシと乱暴に拭う。僕は前世での思い出とともに食事を掻きこんだ。
「そんな泣くほど美味かったのか?」
おじいさんは楽しそうに僕を見つめる。
「熱いから、急がんでもスープは逃げんよ」
「ええ、美味しいですから!」
僕とおじいさんは笑い合った。
「ごちそうさまでした!」
手を合わせ、大きな声で言う僕を不思議そうな顔で見る。
「ごち……なんじゃ?」
「いえ、昔からの癖です……」
おじいさんは、両手を組み、僕に合わせるように「ごちそうさまでした」と呟いた。ここでの常識が違ったのかもと思う間もなく、おじいさんは首にぶら下がった眼鏡を鼻に掛けた。
「ワシはモーリス。この村、ユルゲン村唯一の墓守じゃ」
鍋の湯気が薄れ、部屋に残るスープの香りが白百合と混じりあっていた。
「僕の名前はセルゲイです。この度は食事に介抱にと……その、お世話になりました」
「なぁに、良いってことよ。しかし油断してていいのかえ? ワシは悪い墓守かもしれんぞ」
たっぷり蓄えた顎髭を掴み、にたりと笑う。しかしその笑みに悪意は感じられなかった。
「……あははは! モーリスさん、あなたは“悪人”じゃないです! 僕のような異邦人をこんなにも手厚く介護しますか?」
僕はおじいさんが着替えさせたであろう寸足らずの服を見せつけるように、その場に起立した。僕が着ていたボロボロの服は枕元に畳まれていたのを僕は知っている。
おじいさんは顔を赤らめ、目を逸らした。
「ほら、つるつるてんですよ。この服はどちらから?」
ケラケラと笑いが止まらない僕にモーリスさんはすぐさま反応する。
「ええい! ワシの若かった頃の服じゃ。こやつ、少し親切にしてやると調子に乗りおって」
分かりやすく腰に手を当て怒ってますよとポーズを取る。おじいさんのコミカルな一面に僕はふわりと笑った。思わず涙が出たので指で拭う。
そしておじいさんに向き直り真剣な声色を作った。
「……僕は知っての通りハーフエルフです。そしてエルフの村を一日で追い出された身です。こんな僕を匿ってはモーリスさんの身が危ないのでは」
「さもありなん。しかし、ワシは村の厄介者じゃ。墓と向き合ってりゃ、そうなるわな。じゃがな今更、何を拾おうと村人の態度は変わらんよ」
寂しそうに笑うおじいさんにハッと気付かされた。墓守とは僕と同じように差別に晒される職業だ。でも彼はそんな中でもユーモアを忘れず、気丈に生きているのだ。
「モーリスさん、僕をここに置いてくれないでしょうか? 都合がいいのは承知の上です。モーリスさん、あなたに一宿一飯の恩を返したいのです」
モーリスさんは飽きれた様に笑う。煤けた壁にかかったミモザのドライフラワーが静かに僕らを見つめている。
「そんな大袈裟な、ワシはその言葉を待っておったんじゃよ」
鼻にかけた眼鏡を外し、胸ポケットにしまった。
「この仕事は生半可な覚悟にゃそうとう辛いぞ」
低く唸るように僕に言い放つと、モーリスさんの灰色の瞳に僕が映っている。
「僕には行く所がありません。僕は追われる生活にはもう疲れ果てたんです。覚悟は……今はモーリスさんの域にはきっとありません。でも続けていくうちに出来上がっていくものだと思うのです」
自分なりの言葉で精一杯伝えたつもりだ。永遠かと思われる両者の無言をパチパチと暖炉の火が爆ぜる音が埋めていた。
はぁと老墓守が溜め息をつく。
「……負けたよ。まぁ最初からワシはお前さんを育てるつもりじゃったよ」
僕は目を見開き口角をあげる。
「では――」
「もう夜も遅い。墓守の朝は早いからの、さっさとベットで休め」
喜びも束の間、モーリスさんの言葉に僕は甘えることにした。
*
暖炉の前の安楽椅子に腰を下ろす。キィキィと前後に揺らし、キセルに火を灯した。口内に空気と一緒に吸い込んだ後、ぷはぁと煙を吐き、吸い込んだ煙の余韻にしばし浸る。立ち込める紫煙が雑然とした部屋に溶けた。
自分のものではない寝息が規則正しく聞こえる。
「随分待った。もう現れないものかと思った」
どろりしたこの心の感覚は罪悪感だろうか。美しいハーフエルフの青年に自分のような泥臭い道は相応しくないのではと考え込む。しかし後継者はいない。
司教に駆け寄ってはみたものの良い返答は得られなかった。
『修道士を墓守に寄越せと? モーリスさん、あなたはご存知ないかも知れませんが、人手が足りないのですよ。今は魔法なる長耳の長命種の穢れた力が台頭する時代。教会は神の奇跡が使えるものが重用されます。それに穢らわしい職業に進んで就きたがるものなどおりません』
踵が削れ、泥だらけのブーツで教会を後にした。司教は修道士に教会の清掃を再度指示していた。
それもそうだ。灰色の麻製のチュニックの袖や裾は継ぎ当てがあり、土埃で汚れている。茶色のズボンの膝には補強用の布が縫い付けられている。腰にはキセルや煙草袋が吊るされており、それを縁がほつれた黒の古びた外套で包んでいた。こんな薄汚れた非民の自分の言葉に耳を傾けるものなどいないだろう。シワシワになった自分の手を見つめ、ぎゅっと握った。
「そんなこともあったな……」
思い出に浸りながら独り言を紡ぐ。
「神様、この出会いに感謝いたします。ワシももう疲れたよ。天国では褒めて下さいますかの……」
窓から見える教会の灰色の石壁は年季が入ってひび割れており、尖った屋根の上に立つ錆びた風見鶏はいつものようにキィキィと音をたてているのだろうな。色鮮やかだったステンドグラスは今は曇って聖人の顔も拝めやしない。礼拝は許されていなかったが、遠くから見える教会に毎日お祈りしていた。
自分をじっと見つめるハシバミ色の瞳がモーリスの頭に過ぎる。その瞳には年老いた自分の姿が写っていた。
「随分老いたの。あやつが独り立ちするまでワシは生きねば」
老人の小さな決意が固まった瞬間だった。
*
まだ陽も登らない静かな夜明け。ユルゲン村の一日は教会の鐘の音とともに始まる。
「よぉ、起きたか。昨日はよく眠れたか?」
モーリスさんは暖炉に火を入れ、昨日の残りのスープの鍋を立てかけた。
僕は目をこすりながら食卓につく。おじいさんはまだ温まらない内に木製の皿にスープをよそおう。
「今日はワシの仕事の手伝いがてら村を案内しよう」
僕に黒パンを渡し、スープに口をつけた。ズズッとすする音、固い黒パンをちぎる音が辺りに響いた。
「墓守の仕事……。僕に務まるでしょうか」
「何を言ってる。お前さん、自分で言っていただろう。続けていく内に覚悟が決まると」
口にパンを頬張ったままモーリスさんは続ける。
「初めが一番不安になるのも分かる。向き不向きもまずはやってみにゃ分からんだろう。やればそれが杞憂だったと分かれば儲けもんよ」
ぬるいスープとモーリスさんの言葉が沁み渡る。そうだ、まずは何事も行動あるのみだ。
モーリスさんと僕は瓶の中の水を汲んで食器を洗う。洗剤はないので水で簡単に洗い流しただけだ。
それが終わるとスコップを僕に渡し、ニヤッと笑う。
「ちっとばかし似合わねえな」
細身の体にスコップは合わないと言いたいのだろう。自分でもびっくりするほどのへっぴり腰だ。スコップは思ったより重く、僕がこれを扱う姿なんて想像できない。
「いつかモーリスさ……いや、師匠のように似合うようになりますから」
フンッと鼻を鳴らし、明後日の方向に顔を向ける。ちらりとモーリスさんの様子を伺うと、老墓守はあんぐりと口を開けていた。
「し、師匠だと? ……悪くない。いいか、セルゲイ。ワシは今からお前さんの師匠だ。ほれ、白百合でも摘んでこい」
カラカラと笑う師匠の顔は照れのためか丸い耳まで赤らんでいた。
黒い古びた外套を羽織り、墓地へ向かう。いつの間にか太陽は地平線を越え、二人の長い影が墓地に落ちていた。僕に向き直り、師匠然とした態度で話す。
「セルゲイ、陽が登ったらここに来るんだ。土と向き合い、土と対話する時間だ。身長分くらい掘れ。遺体が来る予定地に石工が墓石を置いているからな。そっから棺桶分、また墓石と反対方向に掘っていけ。そうしている内に棺桶を運んでくる連中が来るだろう。いいか、誰に何を言われようが、されようが相手にするな。その内慣れるだろうがな」
師匠の話を元に穴を掘る。途中「あんまり浅いと死体が這い出るぞ」と注意される。これはゾンビやスケルトンといった魔物が出るということなんだろうか。穴から脱出し、土と汗で汚れた顔を袖で拭く。慣れない作業に腰が悲鳴をあげていた。
「いててて……」
痛む腰に手を当てる。腰に集中するように魔力を込めた。白い光が僕の体を癒やす。
「お前さん、今のはなんだ?」
怪訝な顔で尋ねる師匠に僕は
「癒やしの魔法です。師匠は魔法を見たことがないのですか?」
すると老墓守の顔が曇ってくる。
「魔法はなるたけ使うな。ここじゃあ魔法は“穢れた力”じゃ。使いたい時は周りの目を気にしろ」
なるほど。この村は魔法を恐れているのか。
遠くにある村の中央を見やると灰色の石を積み上げた建物は、まるでこの村の重苦しい空気を形にしたかのようだった。尖った屋根には錆びた風見鶏が鎮座し、キィキィと音を立てている。入口のアーチは苔に覆われ、かつての白さが薄汚れた緑に染めていた。両脇に立つ二つの塔は、対称的でありながらどこか歪んで見え、片方は崩れかけた石が剥がれ落ちている。ステンドグラスは色褪せ、聖人の顔が曇った光の中でぼんやりと浮かんでいるだけだ。
「あの教会が見えるじゃろ。教会は“神の奇跡”という魔法のようなものをありがたがっている。奇跡は女神様に祈って使うが、魔法は自身の魔力や精霊の力を借りる。じゃから魔法はエルフの穢れた力なんじゃと」
師匠は顎髭を撫でながら胸にぶら下がる眼鏡を鼻にかける。
「信仰を脅かすとでも思っているんでしょうね。分かりました。以後、気をつけます」
にんまり笑う師匠の背後に小さな黒い影が近づいてきた。「おおーい! 爺さんやー!」と声がする。
近づいてきたのは師匠より背の低い醜女の老婆だった。
「ゾーイか、いつもすまんのう」
老婆が黒い外套から小さな麻布の袋を師匠に放る。
「ふぇふぇふぇ、良いってことよ。膝と腰に効く薬を持ってきたえ。……して、そこのひょろいのはなんじゃ?」
ぎょろりと目玉を動かし僕を見つめた。その風貌に胸がざわめいた。
「おお、こっちはセルゲイという。セルゲイ、こちらは薬屋の」
「魔女じゃよ」
にたりと口を歪ませ、言葉に含みを持たせる。体に見合わない大きな翡翠色をした数珠つなぎのネックレスが老婆の怪しさを称えていた。僕はゾーイと呼ばれた老婆にゆっくりお辞儀をする。
「ゾーイさん、はじめまして。師匠……モーリスさんの元でお世話になることになったセルゲイと申します」
風が僕の髪を撫でる。尖った耳に髪をかけ、笑ってみせた。
「これはエルフ……いや、ハーフエルフか。変わったモンを弟子にとったんじゃな。厄介者同士、こりゃ気が合いそうじゃな! 婆も仲間に入れてやれ」
ケケケと笑う大きな口の鷲鼻の魔女は、前世での物語に出てくる“悪い魔女”そのものだった。
「さてと、村人が通りかかる頃かの。アタシはこれで失礼するよ」
村人がいないかキョロキョロと周りを伺うゾーイさん。薬屋を営む怪しい老婆……。これは魔女と呼ばれても仕方ないかもしれない。
「ゾーイはな、村はずれにある小屋に住む変わった婆さんじゃよ。もう十年も前になるか。枯葉のようにこの村に流れ着いて、いつの間にか小屋を建て住み着いておる。誰ぞ手を貸したとの話も聞かん。じゃが、婆の薬は立ち所に効くと評判でな」
「神の奇跡とどっちが良いんでしょうか」
僕の疑問に師匠は考え込んだ。
「神の奇跡は効果抜群で即効性があるが高額じゃ。五ペセナ大金貨から一ペネ聖金貨ほどかの。婆の薬は臭いが高くても五ズロタ銅貨。比べるまでもないじゃろ」
師匠はゾーイさんから薬を分けてもらう側らしい。僕ならゾーイさんから買うが、信心深い人なら神の奇跡に頼るかもしれない。あるいは経済状況で変わるか。
「いつも妙な色をした煙が立ち昇っとる。村人も気味悪がってはいるものの、小屋を訪ねる合図とばかりに観察しておるよ」
掴みどころのない老婆は僕の第一印象通りの人物だったようだ。師匠はキセルに火を灯し、フッと煙を吐いた。
「ゾーイさんと仲が良いんですね」
僕の言葉に乾いた笑いで返す。横にある墓石を撫でながら師匠は何も言わない石に向かって語りかける。
「悪かねぇかもな。じゃが人の目があるでの、大っぴらには話しかけん。村人が作業しとる午前中か陽の落ちた夕暮れか。そんな時間じゃねぇと談笑も出来ねぇ」