第二章:フェアリーリングの残響(後編)
僕はまた色のついた風探しに歩き出した。この風は魔力の残滓なのかもと考えた。なら死んだ人間にはないものだし、狼は本当に魔獣だったのかも知れない。僕を追い出したエルフの周りに色とりどりの風がまとわりついていたのも納得だ。そして魔力は時間経過とともに空気に溶ける。僕自身の歩いた後を見ると黄色の風が漂っていた。
「赤、黄、灰に黒。種族によって色が変わるのか? まだ憶測でしかないけれど、この風を頼るのは間違ってなさそうだ」
おあつらえ向きに灰色の風が僕の足元にまとわりついた。次は何が待っているのだろう。
さらさらと水の音が僕の耳を捉える。ピコンと耳を弾き、慎重に足を運ぶ。魔獣や敵意のある人間がいるかも知れない。水場はオアシスであり、危険な場所なのだ。
やがて道が開けてくると反射した太陽が僕を刺した。目をしばたかせ川を見渡す。まずは水嚢に水を入れよう。顔を洗い、手で水を掬い口に運ぶ。そして水嚢に川の水を汲んだ。……もし食中毒になったらその時に考えることにする。
灰色の風は川上から流れていた。河原のゴツゴツした石に足を取られそうになる。前世での運動不足が反映されているのか? 三十路で死んだ僕の行いを少し悔いた。
膝あたりを漂う風の行く先は四体の首のない遺体だった。
「また首がない。これは討伐証明で確定かもな」
野盗とは言え雑に打ち捨てられた死体だ。僕は先程と同じように手を合わせ簡単に弔った。
「手がかりはさっきのと同じ手紙が三通にひと際恰幅の良い男の身なりか」
恰幅の良い男はオイルランプとは違った仕掛けのランプを手にしている。つまみのような物がありカチカチと回すと光が灯った。魔道具だろう。これは僕には必要な物だ。まだ陽は高いので光を消し、腰にぶら下げた。
他には何かないかと辺りを見渡す。すると遺体から離れた場所にとある紙が落ちていた。
『討伐依頼:五人組の盗賊(似顔絵は下記の通り)
森に潜み夜な夜な村や旅人を襲う盗賊。
リーダーに一ルード金貨、構成員一人につき五ズローネ銀貨を報酬とする。討伐証明は首。盗賊の持っている金品についてはなるべくギルドに提出するように。
掲示:ルーネ領ギルド連盟』
つまりは遠くない場所に人間の街があるのかも知れない。しかし、なるべくという事はちょろまかしてもギルドは黙認していますよと言っているようなもんだ。民度という点ではあまり期待しない方がいいだろうな。ここは日本とは常識が違う。
野盗達が持っていた干し肉を巾着袋に仕舞い、陽の傾いた空に背を向けて川下に歩いていった。
僕は目を瞑る。魔力の流れを手に集中して火が出るよう願った。下には集めておいた乾いた枝が河原に置いてある。手の温もりが熱く感じたその時、ポッと枝に着火した。
「成功だ」
思わず声が震えてしまったが、ここには誰もいない。
しかし、何か詠唱的なものでも唱えた方が発動までに時間がかからないかもしれない。これはまた今度試すことにしよう。着火した火が消えないように少し太い枝を上に重ねていった。パチパチと燃えた枝が爆ぜ、温かな光が辺りを包む。陽はとっぷり沈み、紺色の空と星が散りばめられていた。
「あれがオリオン座で……って違うか」
空に二つの月が浮かんでいる。夜の空気は寒く、両手を火に当てた。巾着袋から干し肉を一枚取り、歯で食いちぎった。咀嚼には時間がかかる。空を見るのに飽きて焚き火を見つめた。うつらうつらと船を漕ぐ。焚き火のパチパチという音を埋めるように虫の合唱が聞こえる。手放しそうになる意識に突然、遠くで何かが地面を踏み潰す重い足音がして、僕は息を止めた。
「今日も色々あったな」
手頃な布は無かったので石の上で雑魚寝することになる。火の番もしないといけないからあまり眠れないかもしれないなと思いながら、僕の意識は暗い水の底に沈んでいった。
あまりの寒さに飛び起きると空は白み、霧が辺りを包んでいた。焦げた臭いが鼻をつく。見ると焚き火はいつの間にか消えている。
「あのまま寝てしまったのか」
手元にあった食いかけの干し肉はそのままだ。遠くで獣の遠吠えがするものの、近くに魔獣の気配はない。昨夜も僕は襲われず無防備にグースカ眠っていたのか。
今日は街に行く手がかりがほしい。なにか街道とか、舗装された道とかそういうものを発見したいと思う。ハーフエルフを差別しているのはエルフだけで、人間はそうでもないかもしれない。とにかく僕は人に飢えていた。食いかけの干し肉を口に放り込み、急いで飲み込む。そして水嚢の水を補給しその場を発った。
歩いても歩いても手がかりは見つからない。川下に何かあると期待したのに、角の生えた兎が一匹現れただけで成果はゼロ。夜になり、焚き火を囲んで最後の干し肉を口にする。安全な旅路はありがたいけど、魔獣に無視される理由が分からない。不安が頭をよぎるが、火を見つめるうちに眠りに落ちた。
翌朝、食料が尽きた。闇雲に歩くのは終わりだ。川に魚が泳いでいるのを見て、釣り竿を作ることにした。
前世では釣りなんて縁がなかったけど、会社の先輩の言葉がヒントになる。
「釣り針を忘れた時は骨を使え」
森で拾った枝とツル、魔獣の骨をショートソードで削って即席の竿を完成させた。不格好だけど、なんとか形にはなった。
川に糸を垂らすと、すぐに手応えが来た。初めての釣りにテンションが上がったけど、結局その日は釣りに夢中で終わってしまった。焼いた魚五匹を腹に詰め込んで、「ごちそうさま」と呟く。塩気が欲しかったけど、この世界で二度目の満腹感は格別だった。
ここで僕はごみ処理がてら魔法について研究することにした。コホンと咳払いをし、体内から手の平へ集中させる。空気中の酸素を燃やすイメージでいいだろうか。そのうち手の平が熱くなってきた。
「……ファイア」
着火にかかった時間は一秒未満ほど。念じるより早かった。やはり詠唱する方がいいのか。頭の中に文言が浮かぶ……ということもなかったのでイメージし、出したい魔法の言葉を発する。今は誰かに倣う事は出来ない。魚の骨はすぐに炭化したので、それを足で払った。
朝から川下に向かって歩き、昼過ぎに釣りという生活を数日繰り返した。釣果がない日もあったが腹いっぱい食べられた日もあるのでさほど苦労はしなかった。しかし人恋しさに泣く日もあった。僕はいつまでこんな生活を続けなければならないのだろう。
「魔獣はそこらにいるのにな……。忘れていたよ」
僕は朝から黒い狼と対峙していた。仲間からはぐれたのか一匹だけだった。額にかいた汗を拭く間もなく、剣を向ける。狼はそんな僕に動じず、あくびをしていた。
「おいおい、僕の相手は余裕ってことか?」
魔獣相手に僕は毒づく。彼より余裕がない証拠だ。狼との距離を詰め、僕は飛びかかった。ひょいと魔獣は避け、またひとあくび。完全に遊ばれている。狼は飽きたのか僕に背を向け、森の中に姿を消した。
その場にへたり込んだ僕は魔獣の後を急いで追うことにした。黒い風を辿るだけなので簡単だ。しばらくすると風の色が濃くなってきた。魔獣の息遣いが聞こえる。
「……クゥーーン、クゥン」
子犬? いや、子魔獣の声がする。先程の狼の子なのかえらく懐いていた。ちぎれんばかりに尻尾を振り、鼻を鳴らす様子は愛おしい。しかし鳴き声は弱々しく消え入りそうだった。親魔獣も心配そうにウロウロしている。やがて子魔獣は力尽き、ぐったりと親魔獣に身を預けた。子魔獣を纏っていた黒色の風もスッと消えて後には親魔獣の咆哮が悲しく木霊している。
「お前、泣いているのか?」
ふと前世の妹を思い出した。彼女は今も生きているか。不便な思いはしていないか。父親の顔が過っては泣いたりしていないか。
目頭が熱くなる。僕は前世を諦め、今世でまた命をもらってしまった。どんなに母や妹に懺悔しても叶わない。せめてこの命を大切にしよう。
魔獣との遭遇から数日後、僕はボロ布を纏った浮浪者のような格好で森を彷徨っていた。川下に人家があるのではと歩いている内に川の水質は汚染されており、魚も見かけない。勿論、この水を飲むのを躊躇われた。そこで綺麗な水源を求めて森の中を歩く事になったのだ。遠くに幾重にも立ち上る煙や灯りが見える。やっと人に会えるかも。
朧気な視界の先には墓石。両膝をつき、ふらふらと腰を落とす。
「僕の今世での命もここまでか……。墓場で死ぬなんて幸運なことだ」
パタリとその場に倒れ、子どものような声が聞こえる。
『このままこっちに来ちゃうの? ねぇ、それじゃあつまんないよ。せっかく女王様が君を助けてくれたのに』
同時にしゃがれた声も聞こえた。
「おい、お前さん! しっかりしろ!」
老人は僕の体をひょいと担ぎ自分の家に運んで行った。
陽光が眩しい。僕はじわりと痛む目を開けてみた。
「目覚めたか、私の美しい子」
白金の長い髪の見目麗しい女性が木の根に腰をかけている。周りに傅くエルフ達の額には緑色の宝石が埋め込まれていた。同じく彼女に頭を下げる様々な動物達は僕の前世でも覚えのない姿をしていた。
「ここは……一体どこなんです?」
優雅に笑う女性が目を開けると琥珀の瞳が僕を捉える。この世のものとは思えない程美しかった。白く揺らめく陽光のカーテンが彼女の神秘性を深めている。
「わたくしはティターニア。ここは隣人の国。お前達が妖精界と呼ぶ世界」
「僕は森の中で行き倒れて……いや、日本で死んで森に来て、ええと……」
「混乱するのも無理はない。わたくしがお前の魂をとあるエルフに入れ替えておいたのでな」
僕は僕ではないのか。セルゲイと言ったか、彼の身体を勝手に拝借したのか。悪い事をしたな、君の身体で無理をさせてしまった。
「気紛れに捕まえてみたが、何やら“幸せ”について探求したいのかとこちらに呼んだのだ。今はその美しい姿に乗り移させたので幸せであろう?」
美しければ幸せ? 何を言っているのか理解が追いつかない。ニコリと微笑む彼女は本当に良い事をしたと思っているようだ。
「ティターニア、さん。僕は前世で美しくなりたいと願っていたと思っているのですか? それは大きな誤解です」
周りにいたエルフの一人が「何と不敬な、この方は……」と言いかけたところでティターニアは手で制止した。そして花の吐息をフッと吐き、鈴の音の様な声で紡いだ。
「あら、でも人間は美しい者ほど幸せだと聞いたのだけれども。それに魔獣よけの加護もそなたの助けになったであろう?」
首を傾げる姿も優雅だ。その魅力に抗いながら僕は言葉を続ける。
「大多数の人はそれでも僕は違います。僕の幸せは僕自身で決めます」
「……そう。それではその様になさい。小さな子どもたち、この者を元の世界に戻しなさい」
すると光の粒が僕の周りに集まり、取り囲む。子どもの笑い声が包み込み、暗い闇の中に落とし込んだ。ティターニア、彼女の憂いた表情がいつまでも僕の心に残っていた。