第二章:フェアリーリングの残響(前編)
良い人生だった、と言いたかった人生だった。
走馬灯が見える。
中学生時代、成績は中の下。選べる学校は少なかったが高校は友達にも恵まれ、それなりに充実した生活だ。
しかし私生活は破綻していた。父のリストラ、借金が発覚し母は僕を連れて家を出た。六畳一間の木造のアパートに身を潜めた。それもすぐ父に見つかった。僕の担任が家を教えたのだ。あれほど口酸っぱく言ったのに。
父は生活保護を受けている僕の家に半同棲の形で転がり込んできた。母の保護費で食事を食べ、家事は母任せ。仕事もせずゴロゴロしては母に暴力も振るっていた。しかしそれ以上に許せないのは妹が寝ている間に行為に及ぼうとしたことだ。母は激怒した。そして強制的に追い出し、僕達もアパートも引き払った。
大学には行けなかったのですぐに就職した。高校の奨学金に加え大学もとなると経済的負担が大きくなるのが目に見えているからだ。就職してから一年は母と妹の家にいたが自立のために家を出た。給料の三分の一を実家に仕送りし、残りは生活費や奨学金の返済に充てた。
十年の返済期間を経て完済し、僕は会社を辞めた。
「やっと約立たずが辞めるのか」
退職願はすんなり受理された。社内のあいさつ回りの際にチクチクと数人に嫌味を言われたので僕は会社には必要のない人間だったのだろう。もう疲れた。首を吊ろう。
学生時代に読んだライトノベルの主人公みたいな人生じゃなくていい。ほんの些細な幸せを望んで僕は首にロープを巻き、自宅のベランダから飛び降りた。
『ならば自分なりの幸せを探してみるがいい』
頭の中で声が響いた。男とも女とも取れる声だ。透明感のある神秘的な声だった。真っ白な視界が更に輝き、落下感が体を襲う。眩しい、落ちる!
そして僕はこの世界に生を受けた。赤ん坊にでも生まれ変わるのかと思いきや、僕はある程度成長した姿で木々の中に放り出されたらしい。足元には円形に生えたきのこが紫の煙を放出していた。フェアリーリングと呼ばれる現象だ。胞子を放つのはなんだろうとは思ったが、まずはここがどこなのか把握する必要があるだろう。
僕の背丈の何倍もある木々はまるで僕を拒んでいるかのようだった。太い幹には苔やツタがびっしりと張り付いてる。枝の隙間から差し込む陽光は地面にまだらな影を落とし、足元の落ち葉を緑や茶色に染めていた。こんな鬱蒼とした森の中に放り出されたのか。
近くで水の音がする。川があれば重畳と足を運ぶ。すると木々がまばらになり、枝のカーテンが僕の動きに合わせてカサカサと音をたてる。けたたましい鳥の声がしたと同時に湿度の帯びた香りに目を見開く。そこには湖があった。
湖のそばに座り、覗き込んでみた。見た目年齢は二十歳くらいだろうか。肩まで真っ直ぐ伸びた髪を指に絡める。緑がかった色の薄い茶髪は光の加減で青にも紫にも映る。構造色というやつだろうか? 不思議な色合いだ。スッと伸びた鼻筋にヘーゼル色の目が横に並んでいた。薄いコーラル色の端正な唇からため息が漏れる。前世よりは断然美形だろう。しかし尖った耳の先が常に冷たい。見慣れないはずの僕の顔に、なぜか既視感を覚えた。そして尖った耳を動かす感覚はなんだか楽しい。
それに空気中に漂う赤や黄色の色とりどりの風はなんだろうか。その先に集落でもあるのだろうかと跡を追ってみることにした。
しばらく森の中を歩くと明らかに人工的な建造物が見えてくる。巨木の幹にくり抜かれた家々が目に入った。窓には色とりどりの布が揺れ、枝には花で編まれた飾りが吊るされている。中心の樹の下には青い結晶が埋め込まれた祭壇があり、微かな光と色とりどりの風が周囲を照らしていた。甘い花の香りと木の樹脂の匂いが混じり、耳には歌声のような詠唱が響く。
「これは壮観だな」
その景色に見惚れるがまま呟く。ここが色とりどりの風が一番濃かった。僕は立ち尽くしていて気付かなかったが、住人はいち早く僕の存在を察知して家の中に避難していた。窓から怯えた顔を覗かせていたようだ。
「おい、貴様。この村に何用か」
後ろから声をかけられ吃驚して素早く振り向く。すると僕より長く尖った耳を持つ女性が怒りを湛えた表情で弓をこちらに向けている。
「穢らわしい。卑しい血の身でなぜ結界を越えてこれた?」
後ろにいた彼女と似たような容姿の長耳の老人が吐き捨てた。
「クサイ、こいつまさか……」
顔を歪ませた老人を取り囲むように数人の男女が弓や杖を構えていた。
「貴様はハーフエルフだな。穢れた血だ。そのような者が我がエルフ族の村に足を踏み入れるなど言語道断。それになぜ同胞セルゲイの服を着ている? ますます怪しいやつだ。セルゲイを殺したのか? ならば火刑の上、死体は村の外へ打ち捨ててくれる」
ハーフエルフ? セルゲイの服と言われても最初から着ていたものなので僕に言われても分からない。とにかく、僕は金髪緑眼のエルフ族からは相当嫌われているらしい。話し合う余地はない。すぐにここを立ち去らねば。
ジリジリと後ろに下がる。彼女らの隙は僕には見つけられない。が、少しでも見つけられないと僕は死ぬだろう。彼女らの殺気がそう言っている。
隙がないならどうするか。この睨み合いをこちらから止めればいい。チラリと右に視線を動かし、彼女たちの気を逸らす。
――――今だ!
僕は力を振り絞って足を動かす。もう破れかぶれだ。足元の土がエルフの放った矢で弾け、火の玉が空気を裂いて飛んできた。熱が頬を掠め、焦げた髪の臭いが鼻をつく。枝で衣服が破れようが、腕に傷が付こうがそんなことはどうでもいい。疲れようが足を動かすんだ!
「フェアリーリングで変容した者は殺せ!」
なおも後ろから火の玉や水の玉がすごい勢いで飛んでくる。それでも僕は足を止めなかった。
あれから何時間経っただろうか。陽は傾き、火の玉が飛んでくることもなくなった頃、やっとこさ立ち止まった。とっくに限界を迎えた僕の足は悲鳴をあげている。
「……っはぁっ、はぁ」
息を整えるために胸に手を添えた。心臓が激しく鼓動を打っている。そうしているうちに段々、肩で息をしなくなった。僕の意識はそれまでだった。その場に倒れ込んで事切れてしまった。
「……!!」
鳥のさえずりが耳に入る。ここはまだ森の中らしい。しかしあんな無防備に寝ていて獣の類に襲われなかったのは運が良いのだろう。泥だらけの靴を軽く払い、よいこらしょと立ち上がる。モンスターとかいるのかしらと呑気に覚醒しない頭で考えたが、それどころではない。今は喉が渇き、お腹も鳴っている。
「水……、何か食えるものも探さなきゃ」
あたりを見渡すも木、苔、草の森の中だ。耳を澄ましても鳥の羽音しか聞こえない。仕方ない、重い腰を上げて痛む足を引きずり移動することにした。
「どうしたものか、うーん」
独り言つのも仕方がないだろう。どこに行っても川や果樹が見つからない。色とりどりの風も見えない。このまま闇雲に動くのは得策ではない。何かしらの手がかりはないものか。
空を見上げる。木々の間に微かだが灰色の風が見えた。煙かと見紛うたが明らかに不自然な動きをしていた。下に下に揺れているのだ。
「あれだけが頼りだな」
灰色の風の元を辿っていく。
ゆらゆら揺れる風は数十メートル先の洞窟から漏れ出ていた。焚き火の跡はない。この洞窟の中に住居があるのだろうか。しかし暗い洞窟の中をどう進めば……。
考えても仕方ない、腹の虫も限界だとばかりに鳴っている。右手を壁につき、そろりと進んでいく。段々と視界が暗くなっていく。数メートル先に灯りが見えた。パチパチと音をたてているので松明であると分かる。温かな火が暗い洞窟を灯している。先を見ると数メートル間隔に松明が設置されていた。
しばらく歩いていると三つの分かれ道が現れた。僕は迷うことなく右の道を選ぶ。灰色の風は右の道の方が濃く流れていたからだ。
松明に沿って進むと誰かが生活していたかのような跡が広がっていた。机に椅子、簡素なベット、散乱した酒瓶と汚れた衣服。天井には火を灯されていないオイルランプが吊り下がっていた。粗悪なガラスで出来たランプは表面がボコボコで煤と埃で汚れている。
「ここで誰かが暮らしていた? いや、暮らしている?」
疑問は尽きないが、喉も腹も限界だ。散らかった中見つけたのは何かの皮で出来た水嚢。しめた! と蓋を開けて口をつける。中からはご期待通りのモノが喉を潤す。
「神様、ごめんなさい。どうか僕の行いを咎めないでください……」
いるかどうかも分からない神に懺悔する。転生? 転移? してきた身で何をと思うかも知れないが、見てないものは信じられないものだ。
ふとタンスを見ると、横に薄汚れたカーテンらしき布が垂れ下がっている。その先には奥に続く通路のようなものも見える。僕はカーテンをくぐり、水嚢を手に奥へと進んでいった。
そこには石造りの簡素なかまどとスキレット、ココットや大鍋といった調理器具が雑然と置かれていた。それに黒パンまで……。かまどの横には大きな燻製肉がある。ソーセージもぶら下がっている。食べ物を見るなり腹の虫が激しく叫んだ。仕方ない、住人の人ごめんなさい、と心の中で罪悪感が湧き上がったがそれ以上に空腹感が上回った。
食べ物に腕を伸ばすのにコンマ一秒もかからなかった。黒パンと燻製肉を交互に食らいつく。思ったより固かったが関係ない。久しぶりの食事に体が喜んでいた。
「ごちそうさまでした」
あっという間に目についた食料を食い尽くし、食後の喉を水で潤した。
満腹感にしばし息をつくと、ふと疑問が浮かんだ。これだけ生活感のある住居だ。一時間も経ったがここに住んでいる人が帰ってこない。なぜだろうか。村を追われた人がここに拠点を築き住んでいる? 野盗に追われて帰って来られない?
疑問を解消するためにこの洞窟を探索することにした。
まずは分かれ道まで引き返し、僕が選ばなかった道の先に何があるのか見てみよう。
――――真ん中の道。
ここは寝室のようだ。右の道にあった簡素なベットより悪く、わら敷きの寝床が四人分あった。ボロ切れのような服からはなんとも言えない臭いがついていた。
――――左の道。
ここにはゲームで見たことのある宝箱が乱雑に置いてあった。中には金貨や銀貨、高価そうな意匠のネックレスなどの装飾品が入ってある。
「これは真っ当な住人ではないだろうな」
小さな巾着袋を手に取り、罪悪感と共にそっとズボンのポケットにしまった。
洞窟を後にした僕の目に青い空が沁みた。陽はまだ傾いていない。あの洞窟の物を色々と拝借してしまったが、もし彼らが真っ当な人間だったら事情を話し、ポケットの巾着袋は返そう。飲み食いしたものは返還出来ないが平謝りする他ないだろう。腰にぶら下げた水嚢がチャプッと音を立てた。
水のある場所はないかと耳をそばだてて歩く。足元の湿った土が靴底に絡みつき、歩くたびに重く冷たい感触が膝まで伝わってくる。鉛のように重い体を支えるように木の幹を触るとざらついた感触が伝わってきた。時々、尖った耳を動かし風を受け流していた。しかし、森のざわめきがすべてをかき消してしまう。
森の中は非常に歩きづらい。舗装された日本の道路が少し恋しいと思った。石で転ばないよう下を見ながら歩いていると、足元に灰色の風が見えてきた。この色のついた風はなんなんだろう。転生ものなら神様が教えてくれたり「ステータスオープン!」と言えばなんとかなるのだろうが、それは叶わなかった。試してみたが返ってこなかったのだ。
ヒントはこの色付きの風だけ。さて次は何があるのだろうか。エルフだったら逃げよう。ショートブーツの紐を少しきつめに結び直して灰色の風の後をつける。相変わらず筋肉痛のためか脚が痛いが先程よりは幾分マシだ。
程なく目的の場所に着いた。灰色の風はそこで途絶えている。そこには首のない男の遺体が転がっていた。引きずった跡のある地面や木、切断された首の断面は人為的なものだろう。他にも腕や肩に生々しい戦闘の跡がある。致命傷であろう背中の傷からはまだ血が滴っていた。むせ返るような鉄の臭いに僕は先程食べた物を嘔吐してしまった。
「……本当に異世界ってやつは」
凄惨な現場に頭がクラクラする。でもここに存在しているということは僕はこんな世界で生きていかねばならないのだ。
遺体に手を合わせる。僕なりの弔いだ。そして遺体のポケットや装備品を漁った。ショートソードに青い水の入った瓶。胸元からは見たことのない文体の手紙らしきものが見つかった。なぜかスラスラ読める。
『アジトが見つかった。早々に放棄して例の場所に拠点を移す。持てるだけの金品を持って集まれ。後は諦めろ』
これはあの洞窟のことなのだろうか。この遺体からは金品が見つからなかった。首を切断した誰かが持ち去ったのだろう。もしこの遺体が野盗の類なら討伐証明のために首を持っていったのか。同じ人間相手によくやるなと感心した。
灰色の風はいつの間にか消え去っている。この色付きの風は僕を遺体まで案内した後、空気に溶けてしまったようだ。
遠くから木の葉が擦れる音がする。まずい。血の臭いに引き寄せられた獣なのか、こちらに向かって複数の足音が近づいてくる。急いで近くの木の影に身を隠した。すると黒色の風をまとった二メートルはあろう黒色の狼らしき姿が数匹見えてきた。唸り声をあげ周りを警戒している。しばらくして僕には目もくれず遺体を鼻先で動かし、狼は食べ始めた。
(気付かれていない? もしくは見逃してくれたのか。何にせよチャンスだ)
僕は細心の注意を払ってその場を後にした。
あれが魔獣なのか元の世界にいた野生動物と同様の生き物なのかは分からない。しかし狼がいたとなれば昨晩はとても幸運だったのだろう。彼らは生きたモノでも狩りをして殺すだろうから。震える体を両腕で抱きしめ必死に堪えた。
その時、両手から光が溢れた。
「! なんだこれは……」
光が体を包み込む。程なくして消え、僕は呆気にとられた。あんなに重かった足も体の震えも止まっていた。
頭によぎったのは『魔法』という言葉だった。癒やしの魔法というのがあるのだろう。肩を回し、屈伸をし、体の調子を確認する。――軽い。足も痛くないし、怠さもない。すこぶる調子がいい。
「しかし、なんで今なんだ?」
右手を見ながら魔力の流れというものを意識してみる。ほんのり温かな感覚が全身を駆け巡った。やはりこれは魔法だ。
「よしよし、僕にも魔法が使えるのか。他にも使えるものがあればいいのだけど……」
今は水や食料など優先させるべき項目が多い。当面の生活の心配がなくなった暁には魔法の鍛錬をするのも良いかも知れない。