課題
レジーはずっと監視していた。商人が荷をたたみ、護衛を引き連れて宿に入るまで、片時も目を離さなかった。執念のにじみ出た、なめるような視線。レジーの膝がせわしなく揺れている。今にも飛びかかりそうな勢いだった。
帝国領に入り、人間を目にしたときから、レジーの衝迫は強まる一方だった。この手で、肉を裂き、骨を砕きたい。頭を占めているのは、兵士の頭蓋骨を踏み砕いた瞬間に押し寄せた、甘美な快感の渇望だけだった。骨の砕ける感触を思い出し、そのときに得た快感を何度もなぞることで、かろうじて体を制御した。
実のところ、この異常な心理的欲求に支配されてから、レジーは衣服だの金だのといったものに頓着できなくなっていた。運賃が必要だから、着替えが必要だから、そんなものは、サディを怖がらせないために言ったに過ぎなかった。
村に到着して、人間を目にしたときから、湧き上がる獣欲をどうしても抑えられない。いっとき、自分がアンデッドなのを忘れることができたのは、隣にサディがいたからだった。レジーは、自分ひとりだけでは、身も心もただの化け物に過ぎないのだと自覚した。レジーは、サディに見限られるのが、怖くなっていた。うまくやる必要がある。そう思った。
日が暮れはじめていた。
隣のサディは船を漕いでいる。肩をゆすって起こす。商人の後ろ姿を指差し、サディの背中を軽く叩いた。「ごめん、部屋番号だけ見てきてほしい」レジーが言った。
「ん、了解」サディが、商人のあとを追った。遅れて宿に入り、しばらく経った。レジーはそのあいだ、目を閉じ、深呼吸をし、頭の中をカラにしようと努めた。護衛の抵抗を破り、腹を裂く。臓物の感触を味わい、肋骨に手を伸ばす。商人が、這々の体で逃走を図る。そんなことばかりが頭を駆け巡り、ため息をついた。瞑想は失敗に終わった。殺人衝動は消えない。
宿から出てきたサディが、こちらに駆けてきた。
「2階の一番大きな部屋だった。205号室」
「ありがとう」
「それと、不審がられたときにテキトー言ったら、2千ウェルもらえた」サディが、2枚の紙幣を握っていた。紙幣は、金貨や銀貨との交換が保証された証書としての役割を持っている。少なくとも、亜人の国ではそうだった。
「良かったじゃん。なにか食べてきたら? さすがに、なにもできない金額は渡さないだろうし」一人になりたかったから、そう言った。サディは察しが良い。気も利く。言葉を重ねる必要はなさそうだった。
「わかった。食べたあとは、どこかで待ってればいい?」
「金と服をもらったら、俺は浴場に行く。いい感じの時間にそこに来てくれたら、服も金も渡すよ」
「お願いしてもいい? じゃあ、時間潰してる」サディは手をひらひらと振った。
日は完全に沈み、家屋からもれる淡い光だけの世界になった。レジーは闇夜に立ち上がった。宿屋は目と鼻の先だったから、点々と灯る光をわずかに追うだけでたどり着いた。
心臓が動いていれば、きっと躍動していた。目的のモノが目前にせまると、力がみなぎり、口角が上がる。大声で笑いたかった。体が熱を持っているようだった。興奮している。両手が血に濡れるのを待ちきれない。レジーの思考は、ただそれだけだった。
扉をくぐる。中は吹き抜けになっていた。1階は食堂、2階に寝室が並んでいる。食事をしていた人間から、視線が飛ぶ。無遠慮で、粗野な目。彼らのほとんどは、好奇心からレジーを睨め付けた。視線はすぐに外れた。薄汚い格好をしているからだと思った。
レジーも、遠慮はしなかった。奥のカウンターで待ち構えている受付員を無視して、階段を上る。
受付員が怪訝な顔をしたが、レジーは見向きもしなかった。
「おい、待て!」
食事をしていた男が、食器を置き、声を張った。レジーは階段の中腹から、男を見た。見知った顔だった。日中、商人のそばにいた護衛のひとりと、顔が一致する。男は、苦い顔をして席を立った。「めんどうな……」とつぶやいたのが、ここまで聞こえた。
男は大股で歩いた。レジーのそばを通り過ぎ、階段をふさぐようにして立った。
「今日、2階はヴァンサン様の貸し切りなんだ。帰ってくれ」
ずいっと、男が体を寄せた。レジーの胸に手を当て、力をかけてくる。退かないなら、突き落とすつもりだろう。レジーの心臓が、ドクッと跳ねた気がした。手の届くところに、肉がある。男の腕をぐちゃぐちゃにして、むき出しになった骨を握りつぶしてやりたかった。とっさに、周囲を見る。複数の視線がレジーをとらえていた。
欲望に身を任せるなら、男も、客も、不快な目を向ける連中は全員殺してやりたかった。レジーはひたいに手をあて、顔を覆う。不用意に事を大きくすれば、サディと一緒にいられなくなるかもしれない。サディは唯一、自分がグラッジであることを忘れられる相手だ。関係を続けたいと思っている。だから、言葉の通じない相手だと思われるような行動が露見するのは、避けなければならない。
冷静になる必要があった。事を小さく済ますために。
レジーは、男の手首をつかんだ。潰れない程度に、折れない程度に、力を調整した。鬼のような形相を向ける。男が目を見開き、苦悶した。男がもう片方の腕で、レジーの顔を殴りつけた。レジーはびくともしなかった。殴打、殴打、殴打。男は痛みをごまかすために、雄叫びを上げながらレジーを殴り続けた。
レジーの目が潰れた。それでも、つかむ手を離しはしなかった。手首の骨の割れる音が、鈍く響いた。男が絶叫する。
レジーの眼窩に、青黒い人面が無数にあらわれる。うごめき、膨張し、眼球の形になる。レジーの目が、もと通りになった。一部始終を見た男が、悲鳴を喉元に詰まらせた。レジーの手を振りほどこうとして、後ろにのけぞり、尻もちをつく。
「助けて……」男が懇願した。
事ここに至って、レジーはようやく自分のしたことを認識した。内心で、焦る。まったく冷静ではなかった。いたずらに衆目を集めるだけでなく、男にグラッジであることが露呈した。吹けば飛ぶような理性が、いまさら警鐘を鳴らした。サディの顔が頭をよぎる。グラッジとして追われる身になれば、サディに危険が及ぶ。一緒にはいられなくなる。
男が、涙ながらに命乞いの言葉を重ねている。大声で、耳目を集めるようにして。
皆がこちらを見ていた。食器の鳴る音など、ひとつもしなかった。騒ぎが大きくなっている。
レジーは、自身の未熟さを思い知った。あまりにお粗末な状況に、愕然とする。獣欲に身を任せるばかりで、なにも想定していなかった。計画性もなく、想像力もなかった。こうなるまで、それがわからなかった。
自分ひとりなら、殺せた。男も、客も。あるいは村ごと滅ぼせた。愚にもつかない言い訳。なにが、うまくやる必要がある、だ。サディと別れた瞬間、サディの目がなくなった瞬間、どうとでもなると考えてしまっていたのだ。
目の前の男は、この場では殺せない。だが、必ず始末する。グラッジであることを知られた以上、生かしておくわけにはいかなかった。
205号室のドアが開いた。もうひとりの護衛が顔をのぞかせた。床にへたり込む男を確認する。レジーを食い入るように見て、すぐ部屋の中に引っ込んだ。
レジーは察した。男は見捨てられた。もうひとりの護衛は、商人を窓から逃しているはずだ。レジーは、笑いをこらえた。205号室は無人だ。
「今、お前の仲間がこっちを見てすぐに引き返した。窓から逃げたのか?」できるだけドスの利いた声を出す。男を睨む。
「た、たぶんそうです……」男は、大粒の汗を浮かべて返答した。手首の骨折が祟って、発熱しているようだった。
「部屋に金目のものは残ってるのか?」
「部屋じゃなく、倉庫を借りて荷を保管してます。ただ、価値の高いものは個別に、ヴァンサン様自身が持ってるかも……」
「倉庫の場所は?」
「この宿の裏です、宿が所有している倉庫を借りてます」
「そうか。そういうことなら倉庫に行く。お前もついてこい」男の二の腕をつかみ、引きずった。絶叫が響く。男は、手首をかばうように体をよじった。
「助けて! イヤだ! イヤだ!」
客と、受付員が目を背けた。
レジーは1階の正面口から、男とともに、夜に溶けた。
ひと気のない裏路地に死体があっても、誰も気に留めないし、公的な捜査なんて行われない。亜人の国ではそうだった。宿の対応と、客の反応を見た限り、ここでもそうだろうと予測が立った。
レジーは、男の首の上から頚椎をわしづかみにし、そのまま引きずり出した。男が即死する。頚椎は握ったまま、死体から手を離す。ドサッと地面に落ちる。レジーは、頚椎を砕いた。男の死体に馬乗りになり、肋骨を一本ずつむしり取った。心臓を握りつぶし、おびただしい血に恍惚とする。立ち上がる。無我夢中だった。口角が吊り上がる。男の頭蓋骨を、思い切り踏み砕いた。最後の仕上げだった。レジーの全身がブルッと震える。落雷に直撃したかのような、激しい快感が突き抜ける。満足だった。しばらく、悦に浸った。
鼻唄でも歌おうと思った。気分がよかった。軽い足取りで、倉庫に向かった。錠を破壊し、侵入する。
現金はなかった。だから、金になりそうなものを見繕った。魔導書や、装飾品、儀礼用だと思われる華やかな武具など、あまり荷物にならないもの。そして、服。もっとも上等な素材のものを選んだ。それらを袋に詰め、肩に提げた。
浴場に向かう。現金のことを考えた。レジーは、男の死体を思い出して、ピンときた。死体のあるところまで引き返す。原型をとどめている下半身を漁り、財布を抜き取った。中に、紙幣が5枚。4万1千ウェル。ひとまず、これでよさそうだった。
浴場でサディと合流する。汚れを落として、着替え、宿をとって夜を明かした。
翌日、馬車に乗った。サディは、ずっと魔導書を読んでいた。
レジーは、ほかの乗客を見る。衝迫はなかった。ほっと一息つく。しばらく、獣欲に振り回される心配はなさそうだった。満たされているあいだは、人間でいられる。ユルバンに到着するまで、2ヶ月。今度こそ、うまくやる。