帝国へ②
異臭が鼻をついた。タンパク質の焼けた匂い。遠巻きにしていても、うっすらと漂ってくる。サディは吐き気をもよおした。
先日まで住んでいた街が瓦礫の山と化し、両親や友人がいたことを示す痕跡がこんな悪臭だなんて、ひどい悪夢だった。
街の外壁はすべてくずれていたから、どこからでも侵入できた。血と脂の染み込んだ廃都市。自然と気分が悪くなった。サディは顔をしかめた。
重苦しい空気が、サディの体にまとわりつく。
レジーは、兵士の死体から、剣とナイフを剥いだ。剣をこちらに手渡し、その場に座り込んだ。両手で髪をかきわけ、ねじれたツノの根元をあらわにした。
「ノコギリの要領で、切断してほしい。あまり気は張らなくて大丈夫、俺はもう死んでるから。一思いにやっちゃって」
サディはうなずいた。片手用の剣を、両手でしっかり持って、ツノの根元に刃をあてた。慎重に動かす。
断面が綺麗になるよう、専心する。頬を汗が伝う。顎から、地面に滴り落ちた。
1本目が終わった。マーコールの立派なツノが、カタッと地面を鳴らした。
サディはハッとする。音が鳴るまで、サディの意識は深いところにあった。それほどの集中力だった。
2本目も苦労はしなかった。
サディ自身、なにかに集中しているときのこの感覚にやみつきになっていたから、物足りないくらいだった。
レジーは、ヒューマンの好青年みたいになっていた。マーコール族はスタイルがよく、顔も精悍で、目鼻立ちがかなり整っている。
薄汚い格好に目をつむれば、モデルと見紛う。誰も、彼が死んでいるとは気づかないだろう。それくらいみずみずしい体をしている。
レジーが体をこちらに向けた。手にはナイフが握られている。サディは背筋を凍らせた。嫌だッ、ととっさに思って、耳をかばう。一歩後退る。すべて無意識のうちの行動だった。
「やめる?」レジーが首をかしげた。こちらのことなど、心底どうでもよさそうな表情だった。
サディは悔しかった。侮られるのは嫌いだ。親、兄妹、友人が無残に奪われた今、その性格にはさらに拍車がかかっていた。
また、未練も強くなっていた。意識が深く沈んだときの、機械のような精密性は、何にでも応用がきく。漠然と、強くなれる気がしていた。なんでもやってやる。
「やる。ナメんな」自然と口に出る。とにかく生きてやる、そう思った。思ったら、喧嘩腰になった。死んだ目で自殺を考えていたころに比べたら、かなり自分らしく振る舞えている。良い事だ。
「そうこなくちゃ」レジーは笑った。ナイフを手で弄んでいる。啖呵をきった以上、後には引かない。それでも、不安は残る。
「私はちゃんと生きてるから、丁寧にやって」サディは真顔で要求した。
結果として、レジーが手こずることはなかった。すさまじい膂力で、一瞬のうちに耳と尻尾が切断された。はじめは痛みを感じなかったが、遅れて、激痛がやってきた。
神経が、焼きごてに押し潰されているような疼痛。
傷口を圧迫して止血しているあいだ、サディは息も絶え絶えだった。痛みと恐怖に意識も遠のく。
レジーに話しかけられたとき、一瞬、どちらから音がしたかわからなかった。見当違いな方向をキョロキョロと見たあと、レジーに視線を戻した。
バカみたいだ。耳を切ったせいだ。
サディは、惨めさに死にたくなった。涙をこらえられなかった。
「音の方向はまったくわからなくなるわけじゃない。落ち着いて。すぐに慣れる」
「もう死んでる人は、気楽でいいですね」
「そりゃね。それで、血は止まったけど、行けそう?」
「行けます。ここまで来たらもう、タダでは死んでやりません」サディの目が据わっていた。
レジーは、剣とナイフをサディに渡した。サディは剣を佩き、ナイフを懐に仕舞った。
レジーとサディは、野宿と狩りを延々と行い、街道を進んだ。誰とも出会わなかった。寂れた雰囲気が続くだけだった。
レジーは、食事も睡眠も性処理も必要としなかった。仕留めた動物は、焼き、干し、サディだけが食べた。夜は、サディが寝ているあいだ、一晩中見張りを請け負った。サディに欲情することもなかった。
なにより、レジーはいっさい疲れなかった。心身の疲労を共有できないことに、苛立ちを覚えることもあったが、それは余裕のあらわれだった。そんなことに苛立てるなんて、普通はない。
長く、過酷な行程に、抑鬱的な気分になることも多かったが、旅は快適な面もあった。すべてレジーのおかげだった。
サディは道中、強くなることについて考えた。人間は魔法と呼ばれるものを使う。これは亜人にはないものだった。だから滅ぼされた、と続く思考に、拳を握りしめる。爪が食い込んだ。痛くはない。憎悪の念が、そうさせていた。今ではもう、希死念慮はなかった。深呼吸をする。
魔法を学ぶための、専門機関があるはずだと思った。そこに入る。机にかじりつき、日がな一日勉強する。そして、誰よりも強くなる。ワクワクする未来だと思った。
サディは、魔法の習得を夢見た。
「ねぇ、レジー」
「なに?」
「私、街に着いたら学校に入りたい」
「いいと思う」
「でも、お金がいる」
「少しくらいは協力する」
「ありがとう」
レジーとも気兼ねなく話せるようになった。
荒涼とした土地を抜けて、ついに国境に足を踏み入れた。立て看板には、テオフィル帝国領と書かれている。
サディの心臓が、早鐘を打った。顔が蒼白になり、息が浅く、速くなる。
レジーが肩を支える。力が込められた。
「いざとなったら俺がどうとでもする。堂々としてればいい。大丈夫、人間にしか見えない」
「……わかった。ありがとう」
帝国領に入っても、しばらくは何もない平原だった。かろうじて轍があるだけだ。なぞるように進んだ。
地平線に、城壁が見えた。村々を通って城壁を目指す。
村人たちには、亜人だとバレることはなかった。ひと安心してレジーを見ると、彼のまぶた、手脚がしきりに痙攣していることに気づいた。
これまで見たことのない、険しい顔をしている。呼吸も荒かった。
心配で見つめる。レジーがこちらを向き、「案外、大丈夫そうかも。慣れればおさまるはずだから、心配しないで」と言った。サディは思い出した。彼はグラッジなのだ。サディに害意がないことは、じゅうぶんに確信を得ている。だから、レジーが本物の化け物だということを失念していた。
ただ、レジーの自我が崩壊して、村人がたくさん死んだとしても、サディとしてはどうでもよかった。この点において、サディに迷いはない。
「私にできることがあれば遠慮なく言って」
「ありがとう。その言葉でかなり楽になった」目に見えて、レジーの震えが小さくなった。
グラッジに心があるのか、レジーに心があるのかは知らないが、サディはたしかに、彼と心が通じたのを感じた。まぶたの痙攣はとまっていたし、手脚の震えもほとんどわからないくらいにまでおさまっている。
レジーが深く息を吐いた。立ち止まる。サディも足を止めた。
レジーが村人を呼び止め、笑顔をつくった。少し引き攣っているが、村人も笑顔で対応してくれた。いくつか質問を投げた。首都や最大都市、学校についてだった。
首都はユルバンだという。首都より栄えている街がひとつあり、それはローランというらしかった。
最も権威と実績のある学校は、ユルバン魔法学院で、首都にある。金と実力さえあれば誰でも入学することができる。
ユルバンへは、ここから馬車を乗り継いで2ヶ月かかる。テオフィル帝国は、とにかく広大であるらしかった。料金は2万ウェルほど。すべてを馬車に頼った場合の金額だ。高いのか安いのかはわからなかった。
レジーとサディは礼を言って離れた。レジーの痙攣は完全になくなっていた。
「もしかして歩いていくの?」サディはおそるおそる聞いた。
「馬車があることを知ったのに歩くなんて無理だろ……2万ウェルか……」
サディは剣に手をかけ、ナイフを取り出した。
「売ったらいくらになるかな」
「今思ったけど、剣もナイフも思いっきり紋章が入ってるから、面倒なことになりそう。いけるかな?」
「さあ……」
漫然と村内を歩いた。すべきことがわからないときの足取りは重かった。足首に鉛がくくりつけられているみたいだ。
賑わいを見せる区画があった。サディは人混みをかきわけ、つま先立ちになる。行商人が露店を開いていた。商人の前まで行き、剣とナイフを置いた。商人が目を丸くする。サディと目を合わせる。彼の戸惑いを無視して、サディは単刀直入に言った。
「これっていくらで買い取ってもらえますか」
商人が剣を手に取る。
「これは……軍に支給されているものですね。残念ながら、これは帝国に返還しなければなりません。私では責任を負いかねるので、預かることもいたしません」
「お金にならないってことですか」
「そうなります。他に用件はございますか?」
サディはため息をついた。剣とナイフを手に持ち、踵を返した。レジーと視線を交わして、首を横に振る。
レジーは、虚ろな目で行商人を眺めた。地を這うような、重く暗い、蛇のような視線。それだけで、サディも察した。振り返る。人の良さそうな商人だ。サディは、人間への憎悪と、これまで培った倫理観とのあいだで、板挟みになった。事務的にとはいえ、言葉を交わしたせいだ。村人が全員レジーに殺されてもなんとも思わないのに、ほんの少し言葉を交わした行商人には、情が生まれていた。知るか、と内心で吐き捨てた。知るか、知ったことか、消えろ、と唱えた。頭には帝国軍の残虐行為を思い返した。そうしてようやく、目の前の商人が肉の塊に見えてきた。
サディの瞳から、次第に光が失われていくようだった。
「ちょっと多めにもらおうよ」サディが提言した。
「そうする。いい加減服も着替えたかったんだ」
「それは本当にそう」
サディは、思い出さないようにしていた事実にまた直面してしまった。臭くて不潔な衣服。着替えられるとわかった途端、ニオイもカビも認識できるようになった。もうすぐ、おさらばできるから。
夜を待った。