帝国へ①
馬に乗った兵士が、地平線にしずんで消えた。レジーは、ぽつねんとして立った。
ここに残っていた兵士たちを焼き尽くし、露出していた頭蓋骨を踏み砕いてから、レジーは憑き物が落ちたように平静になった。
怒りも、憎悪も、殺人衝動も、すっかり霧散していた。
それら以外に、レジーを突き動かすものもなかった。
だから、レジーは、自分が次に何をしたいのかがわからなくなっていた。
ズズズッと音がする。都市を覆い尽くす汚泥のような炎が、いっせいに動き出したのだ。津波となってレジーに向かっている。
レジーの全身が、青黒い炎の波に隠された。それらは、次から次へとレジーの体に凝着した。無数の人面がかたどられた炎と、レジーの体表が、液状に溶けて融合する。
炎の流動と、地鳴りが続く。炎はまだまだあった。レジーの体に吸着し、ドロドロに溶けて一つになる。間断なく繰り返される。
都市を覆っていた人面は、またたく間に数を減らした。都市があらわになる。城や塔、外壁は崩れ去ったあとで、一面真っ平らだった。
レジーは、自分の体をながめた。青みがかっていたが、しばらくして肌色に戻った。
そこではじめて、衣服がボロボロに傷み、煤で汚れていることに気づく。不潔だった。においはしなかったが、いかにも臭そうな見た目をしている。不快感がこみ上げる。
一度気になると止まらなかった。髪も、体も洗いたい。清潔な服に着替えたかった。
レジーの顔がほころんだ。さっきまでの自分からは考えられないくらい、人間らしい欲求だったから。
レジーは川に向かった。服を脱ぎ、頭まで浸かった。ワシャワシャと手を動かし、軽くすすぐ。皮脂が分泌されていないからか、それだけでも意外と満足だった。便利な体だと思った。
今度は、歯を磨きたくなった。さらには、清潔なベッドに横になりたいとも思った。川につかりながら、「……全然グラッジぽくないな、案外こんなもんなのか」とひとりごちた。
乱雑に脱ぎ捨ててある服に視線を投げる。ゆすぎはしたが、汚れは取れなかった。ため息が出る。新しい服、歯ブラシ、清潔なベッド、どれもここにはない。
亜人だけの国家は滅亡したのだ。もし、文明に触れたければ、人の国に行かねばならない。
川面に顔を映した。立派なツノが天を衝いていた。おもむろにさする。腕に力をこめてみたが、折れることはなかった。
「できれば刃物で根本から切りたいな。そうすればもうヒューマンだろ」
レジーは立ち上がった。均整のとれた肢体があらわになる。川から上がる。薄汚れた衣服を見て、嫌悪感がわいた。率直に、これをまた着るのは嫌だった。
清潔な衣服を手に入れる手段を模索するが、奪うか、買うか、以外に思い浮かばない。廃都市と化した故郷の方角を向く。焼けずに残っている服があるかと思ったが、瓦礫を掘り返すには、広大だ。
レジーはしばらく立ち尽くした。目線がまっすぐを向いたまま、硬直している。
なにを考えているわけでもない時間。
ハッとする。生前ではありえないことだった。街の外で無防備に立ち尽くすなんて。
兵士に囲まれたときもそうだったが、保存本能のようなものが麻痺していた。
生理的欲求は消失し、安全欲求は薄れている。
「まあ、人間らしい生活がしたいって思えるのはいいことだな。街に行って、テキトーに金を稼いで、いい暮らしをする。今したいと思えるのはそれくらいかな……生きてたころとなんも変わらねぇ……」殺戮マシーンになるのはもちろん嫌だが、平凡な考えしか浮かばないいつもどおりの自分にもまた不満だった。
パキッと、枝の折れる音がした。
レジーの視界が人影をとらえる。
木立から現れたのは、年端もいかない少女だった。少女はこちらを凝視した。目が合う。
少女は、毛深い耳をぴょこんと立たせ、ふさふさの尻尾を揺らした。亜人だった。
レジーはとっさに目を伏せる。人間の兵士を見たときのように、殺人衝動に体を支配される恐れがあったからだ。
少女の呆然とした気配が伝わる。まだその場にいる。レジーは焦燥感をおぼえた。
「離れてほしい」
「ごめんなさい、裸を見るつもりはなくて」
そういうことじゃない、と言いかけて、レジーは自覚する。レジーの体の中に渦巻くなにかは、目の前の少女に、ピクリとも反応していない。
薄目を開ける。チラッと少女を見やる。意識は明瞭のまま、なんともなかった。
殺人衝動は、一切わかなかった。亜人だから? レジーは疑問に思った。
ともあれ、誰かと話せるのは嬉しかった。レジーはそそくさと服を着た。話し合いを円滑にするためなら、汚れた服に抵抗はなかった。
布地が肌とこすれるたび、不快感がこみ上げるが、努めて無視をする。
少女は、依然として上の空だった。うつろな目をこちらに向けたまま、自失している。
少女はつくねんと立っている。よく見れば目が赤く腫れていた。号泣したあとのようだ。
レジーは得心がいった。虐殺からは逃げおおせたが、帰る場所がないのだ。このあたりをさまよっていたのも、おそらく消極的な自殺のようなものだろう。いっそ誰か殺してくれ、といった類の。
がっかりした様子の少女が、踵を返した。無言でどこかへ行こうとする。
「ちょっと待って、やることないなら少し話さない?」レジーは慌てて呼び止めた。
現状、グラッジの体が、どういう仕組みになっているのかはわからない。わかっているのは、誰かと話したいということと、殺意を抱かずまともに話し合える機会は貴重だということだ。
少女が振り向く。
「そうですね、話したいです」平淡な低い声。しかし好意的な返事だった。
「よかった。じゃあ適当に座ろう」
少女は緩慢に歩き、レジーのそばに腰を下ろした。膝を抱え、地面を見つめている。
「名前は? 俺はレジーって言います」
「サディです」
「ここでなにしてたの?」レジーは間髪入れずに質問した。うつむいていたサディが顔を上げ、怪訝な表情をつくる。
「レジーさんもアレを生き延びたんですよね……? なんでそんなに元気なんですか……?」
レジーは神妙に答えた。
「生き延びてないよ。死んでる」
「え、でも」
「ほら」手を突き出した。
てのひらの皮膚がただれ、青黒い物体が浮き出る。苦しそうにあえぐ無数の人面。サディはそれを見て、「ひっ」と悲鳴をもらした。
汚泥のようなそれを、再び体内に押し戻した。レジーはひらひらと手を振り、「俺、怨念体なんだよね、怖くなった?」とおどけた。
サディは固まったまま動かない。
「だから生き残ってないし、べつに元気ってわけじゃないよ」
「あ、いえ、ごめんなさい、びっくりしちゃって」
「こっちもいきなり変なの見せてごめん。信じられないかもしれないけど、害意はないから」
「そうなんですね」サディが残念そうにつぶやく。踵を返そうとしていたときと、同じ雰囲気だと感じた。
「なんでガッカリしてるの? 殺してほしかった?」
「……みんな死んじゃって、どうしていいのかわからないんです。私も死のうとしたんですけど、それがどうしようもなく怖くて。私が……」サディは言葉をつまらせた。続けようとするが、嗚咽が邪魔をした。
涙を流している。目元を、服の袖で強くこする。きっと、自分が死のうとしたことを誰かに話した途端、涙が止まらなくなったのだ。
レジーは声をかけなかった。生前の記憶と、記憶から形作られる彼の人格が、サディの泣く姿を見て、かわいそうだと言う。
しかし、どこか遠かった。そういえば涙って出なくなったなと、レジーの関心は、自身の涙腺に向かうばかりだった。
サディは鼻水をすすった。涙をぬぐい、放心していた。小さな声で、「取り乱してごめんなさい」と言った。
レジーは頬杖をつく。生前の自分なら、なんて言うだろう。そんなことを考えた。考えて、すぐにどうでもよくなった。レジーは口を開いた。
「いますぐ死ななくてもよくない?」
「え?」
「いますぐ死ぬ勇気がないんなら、だって死ねないじゃん。別のこと考えたら?」
サディは悲しそうにうつむいた。
「そんなふうに簡単に割り切れません。あなたは死んでるから、そんなことが言えるんです」
「それは、そうかも。でも実際、自殺する勇気はないんでしょ? なら、自分を哀れむ時間を少しでも減らすことに頭を使ったら?」
「……ひどいこと言いますね。被害者ぶるなってことですか? 私はあいつらに何もかも奪われたのに?」サディは膝の上で拳を握りしめた。
レジーをにらみつけてから、ふっと遠い目をした。両親や友達のことを思い出しているのかもしれない。
そして、サディは嘔吐した。もうほとんど唾液が糸をつくるだけで、吐瀉物はほんの少しの胃液だけだった。吐き気が収まり、サディの体から力が抜ける。
レジーはサディの背中をさする。サディに振り払われる。
サディから、恨みがましい目が向けられた。
「被害者ぶるな、なんて意味じゃないよ。どっちにも転べるようにしとこうってこと」レジーは無機質に投げかけた。
「どういう意味ですか」
「今のまま自分を哀れみ続けても、結局自殺なんて決意できない。どうしようもなくなって死ぬしかなくなるってことはあるかもしれないけど、そんな死に方いやでしょ?」
「それは……いやです」
「自分を哀れむ暇もないくらいなにかに熱中すれば、いつの間にか生きててもいいかなって思えるようになるかもしれないし、あるいは、ある日突然すんなり自殺できちゃったりもする。生きたくても、死にたくても、どっちしろ今のサディの状態はなんにもならないと思う」
「……なるほど。死にたいなら死にたいなりにやることやれってことですか……」
「いや、まあ、うん。偉そうにごめん。他人事だし。なにか未練とかないの?」
「未練ですか……。ヒューマンを、殺してやりたいです……一人でも多く……。でもそんなこと、できないじゃないですか。だったら私の人生に意味なんてないって、思っちゃうんです」また、サディの目から涙がこぼれた。
レジーがはつらつと手を叩いた。
「いいじゃん! 殺せるくらい強くなろうよ」レジーが何でもないことのように言う。
「そんなの、どうやって……」
「じつは、人間の国に行こうと思ってるんだよね。ひとりだと寂しいから、一緒に行かない? そこで方法を探そうよ。死ぬ気ならなんでもできるって」
サディが眉間にしわを寄せた。レジーは構わず続けた。
「どうせ生きていくなら街に行かないといけない。もう人間の国しか残ってない。どうする?」
「……どうするって言ったって、レジーさんにはツノがあるし、私も耳と尻尾が……生活していけるんですか……?」
レジーはあっけらかんとサディを見た。ぴょこぴょこと動く耳は、不安に怯えているようだった。尻尾も緊張で硬直している。サディは、レジーの次の言葉を聞きたくなかった。
「切り落とす。亜人の特徴のものは全部。サディの場合は耳と尻尾」
「……い、いやです」サディは後退った。
「どうしても? どうせ死ぬにしてもひとりくらい殺してからのほうがよくない?」レジーはずいっと体を乗り出した。
「……ど、どれだけひとりで行きたくないんですか」
「ほんとにいやなら俺ひとりで行く。でも、何も試さないままここで死んでいいの?」
レジーは立ち上がった。街道に出るために歩く。無理やりにでも連れて行くか迷ったが、そんな熱意は今のレジーにはないし、なにより、そんなことをしなくても、レジーには確信があった。
ツノをさする。腕に力を込めるが、やはり折れることはなかった。
刃物のあてはあった。兵士の死体から剥ぎ取ればいい。
後ろから、息を切らせて走ってくる音が聞こえた。サディだった。
「待ってください、やっぱり行きます。うまくいかなきゃそのときに死ねばいいんですよ、そうですよね、レジーさん」
「絶対うまくいくよ。これからよろしく」
レジーは連れ立って歩いた。