悪役聖女は晩餐会に招待される
今晩、王宮にて王家主催の晩餐会が開かれるらしい。
なんと、葵もその晩餐会に出席しなければいけないというのだ。
「……私は出席しない方がいいのではないでしょうか」
暗に出たくない、と滲ませて葵はカイを見上げるが、苦笑するだけで頷いてくれなかった。
悪名高き前代聖女が晩餐会に出ても、場の空気を悪くするだけではないだろうか。
今回の召喚の理由がはっきりしていない現在、葵は宙ぶらりんな立場であり、聖国も持て余している厄介な存在だった。
それに王家主催の晩餐会に出席するような貴族は、腐敗した教会の司祭達によって直接損害を被ったような人間が多いに違いない。司祭達の腐敗の黒幕とされている前代聖女を前にして、どんな反応をされるのか。想像するだけで悪寒を感じる。友好的な人などいなさそうだ。
しかしかといって、こうやって王家や軍部によって手厚く保護されている現状、絶対に嫌だと拒否できる立場でもなく、葵はうなだれた。
「大丈夫ですよ、私も一緒に参加しますので」
カイが一緒、というのは確かに心強い。しかし、先日の王女との茶会を思い出して、葵は憂鬱な気分になった。
黒龍騎士団将軍であるカイの傍であれば、身の危険からは守られるのだろう。しかし、別の意味で、色んな人達――主に女性達の反感を買うことになるのではないだろうか。そんな葵の予想はやはり当たることになったのだ。
白亜の王城へと足を踏み入れるのはこれで三度目だ。
二年前は半年もいたのに、一度も訪れることはなかった。ただ、大神殿の奥から、美しい王城を眺めていただけだ。
カイに励まされながら、葵は彼のエスコートで晩餐会の会場へ足を進めた。
二人の到着が告げられて、会場内の視線が一斉に集まる。
品定めをするような視線、興味深そうな視線、明らかな嫌悪を含む視線。様々な視線が葵を突き刺してきた。
これだけ大勢の人々から注目を集めたことのない葵は、緊張と動揺が頂点に達していて、隣にカイがいてくれなければ、すぐに回れ右をしてこの場から逃げ去っていたことだろう。
「漸く今宵の主役の登場か」
「……何をおっしゃっているのですか、王太子殿下ともあろう方が」
誰もが遠巻きでいる中、二人に近づいてきたのは、謁見の間で見た美貌の男性だ。
揶揄するような男と呆れたようなカイのやりとりに、二人の親密さを感じる。
王太子殿下ということは、ミシェル王女の兄でもあり、カイとも幼馴染となるのだろう。
それにしても、絵になる美形な男性が二人も並び立つと圧倒される。中世的なカイの美貌とは違うタイプで、王太子の美貌は野性味を感じる。俗にいう俺様タイプだ。ここにスマホがあれば、確実に写真を撮っていただろう。意外と葵はミーハーなのだ。
写メを日本に持ち帰り、イケメン好きな美佳や玲香に見せて自慢したい。二人とも黄色い声をあげて喜ぶだろう。まあ前回も今回も、スマホをこの世界に持ち込むことはできなかったので、無駄な妄想なんだけど。
緊張を紛らわせるため、とりとめのないことを考えていた葵だったが、直接話しかけられて慌ててしまう。
「直接話すのは初めてだな。アオイ、と呼んでも構わぬか」
「は、はい、構いません」
「先日の謁見では、ろくに話せなかったからな。やっと挨拶ができた。我が妹は俺を出し抜いて、茶会に招待していたようだが」
「あの、王女殿下にもお世話になりました……」
「あれも、中々変わった性格だからな。相手をするのは大変だったのではないか?」
「い、いえ、そんなことは」
牽制されました、なんてとても口にできない。
「殿下、あまりアオイを困らせないでください」
返答に困っている葵を見かねて、カイが口を出す。アウレーリウスは楽しそうに口角をあげた。
「お前ばかり独り占めはずるいではないか。二年前は教会によって隠されていた、異世界の幻の聖女だぞ。どんな娘かずっと見てみたかった」
異世界の幻の娘。響きだけ聞くと、儚げで可憐な少女を想像してしまう。
こんな平凡な娘ですみません、と思わず謝りたくなってしまった。
アウレーリウス王太子殿下。御年二十四で、カイより一つ年上らしい。
近衛でもある赤龍騎士団の統帥権を有し、武勇とカリスマに溢れ、軍部や貴族からも絶大な人気を誇る次期国王らしい。事前にセレンから聞いた情報を思い返していた。
「そうだ、アオイを王宮にて少し預かるというのはどうだ? 二年前は王宮に訪れることもできなかったろう」
「お断りします」
王太子の発言にぎょっとしていると、笑顔のカイが冷たい声で両断していた。
「ふん、心の狭いやつめ。……まあ、おふざけはこれくらいで。カイ、少しいいか」
ふいに笑みを消して、真面目な色をにじませる。
「殿下、ですが……」
渋るカイに王太子は顎先で後方を示す。
「ジーンがいるだろう」
「あ、あの、カイ様、わたしは大丈夫ですから」
王太子の命に渋っているカイを見て、王族に逆らうなんてとんでもない、と一般庶民の小心者な葵は震え上がる。それが自分のせいだと思うと、慌てて葵は自分など気にせずにいてほしいと心の底から願う。そんな葵の様子を見ながら、「申し訳ありません」とカイは申し訳なさそうな色を秀麗な面に滲ませた。
「ジーン」
「はっ」
カイが名を呼ぶと、いつのまにか葵の背後に男が立っていた。会場に着いてからもそばに控えていたらしいが、葵はまったく気づかなかった。
「アオイ、副官のジーンです。私が離れている間は彼のそばにいてください」
「はい、わかりました」
ジーンと呼ばれたカイの副官は、青髪に灰色の鋭い三白眼が印象的な男だった。彼に葵の護衛を任せ、カイは王太子とともに会場から出ていってしまった。聖国の将来を担う二人だ。きっと色々込み入った話があるのだろう。
そうは思っていても、途端に心細くなってしまうのは止められなかった。
相変わらず、遠巻きにひそひそと陰口を叩かれて、とても居心地が悪い。
居た堪れない思いをしている葵のもとへ、華やかな笑顔を湛えた王女がやってきた。
今日のドレスは光沢のある生地で薄水色、裾に向かって薄紫色へとグラデーションになっていた。豊かな黄金の髪はアップに纏められ、きらきらと輝くティアラがのせられている。先日の真っ赤なドレスも似合っていたが、パステルカラーのドレス姿の王女は頭上のティアラと相まって、ますます天使のようだ。
「ごきげんよう、アオイ」
「王女様、今宵は素敵な晩餐会にお招き頂きましてありがとうございます」
「うふふ、堅苦しい挨拶はいらなくてよ。さあどうぞこちらへ。アオイとおしゃべりしたい、という方がいるの。紹介してあげる」
王女に誘われてついていくと、貴族の令嬢達が何人も待ち構えていた。葵は内心今すぐ帰りたくてたまらなかった。
葵と同じくらいか少し年上くらいの年代だろうか。どの女性も華やかに着飾り、高貴なオーラを漂わせている。
品定めする視線が遠慮なく注がれ、葵の作り笑顔も引きつってしまう。
「まあこの方が前代聖女様なのですね」
「本当に真っ黒な髪と瞳をお持ちですのね」
順番に紹介されるが、貴族の名前は長ったらしくて、とてもではないが一度で覚えきる記憶力はもっていないし、精神的余裕もない。
どの女性も王女と交流があるくらいだから、高位貴族のご令嬢方なのだろう。
「葵と申します。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします」
とりあえず、これ以上悪評が広まらないようにしなければ、とできるだけにこやかな笑顔を心掛ける。
「アオイ様、異世界のお話をお聞きしたいわ」
「異世界にも女神さまはいらっしゃるのかしら」
さすがに王女の手前、直接的には何もなく、微笑を浮かべて会話が始まるが、瞳の奥は笑っていない。友好的ではないのは明らかだ。しかしそれと同じくらい、異世界から来た人間という存在、聖女としての葵に興味があって仕方ない、と空気は感じる。
「異世界はこことはまったく違う世界で、私のような黒髪黒目の人間がたくさんいます。魔法という存在もありませんし、女神様もいらっしゃいません」
「まあ、そうなの。女神様がいないだなんて……」
「ええ、黒髪の人間がそんなにいらっしゃるの? なんだかおそろしいわ」
悲壮な表情を浮かべる者や、黒髪を忌避するものなどさまざまだ。
葵からすると、金髪ならともかく、緑だったり青だったりカラフルな髪色を持つこの世界の住人の方がびっくりだ、と言いたい。
「わたくしはそんなことより、カイ様のお話が聞きたいわ」
今まで黙っていた、濃緑髪の令嬢が話題を変える。
確か名前は、メリルで、伯爵令嬢だ。垂れ目がちの、色気のある美人である。
「わたくしも是非お聞きしたいわ。カイ様はお屋敷ではどんな風にお過ごしでいらっしゃるの?」
カイの話題になると、一転して、女性達の目が輝いてにぎやかになる。世界は違っても、若い女性の興味はイケメンだったり、憧れの人や恋愛の話だったりするのだろう。その気持ちはわかる、と葵はひそかに思った。それにしても、予想通りにカイは貴族のご令嬢達からの人気が絶大だった。彼に想いを寄せるのはティファナーナだけではないのだろう。
公爵家当主、黒龍騎士団将軍、王太子にも重用されているかつ王家と懇意、美形、丁寧な物腰とこれだけの条件が揃えば、もてない筈がない。しかも二十三歳だが、カイにはいまだ婚約者すらいないのだという。同じくらい人気の王太子殿下は既に正妃がいるので、余計に人気が集中しているらしい。高位貴族ほど十代のうちに婚約者をたてられることが多いのだが、ちょうどその頃、隣国との戦争の気配が漂っていて、すでに騎士団に入団していたカイはあえて婚約を避けていたという話だった。同じ理由で王太子も避けていたらしいが、さすがに王太子がいつまでも独身のままではいけない為、数年前に正妃選びが執り行われたという。そのときの正妃争奪戦は恐ろしいものだったとか。これも事前にセレンから入手した情報だ。
そういうわけでカイの情報を知りたくて必死な貴族ご令嬢はたくさんいるのだ。公爵夫人の座を狙うご令嬢達にとって、突然戻ってきた前代聖女がカイの屋敷で世話になるという状況は看過できないものだろう。
これは下手なことを言えば、恨みを買って前以上に悪い噂を流されてしまうやつだ。ただでさえ、色仕掛けしただの言われているのだ。葵は必死に頭を巡らせた。
「ええと……それがあまり屋敷でお話とかはしなくて……カイ様のことをよく知らないのです……」
「まあそうですの? カイ様はお優しい方ですのに」
「仕方ないですわ、お忙しい方ですもの」
言葉では同情しつつも、明らかな安堵の色が見える。この調子で、あまり知りませんと主張し続ければなんとかなるかもしれない、と葵がほっとしたときだった。
「あら、でも遠乗りに一緒に行かれたとお聞きしましたわ」
「ええっ」
メリルが不満そうに、遠乗りの話を持ち出した。そのことを知らない令嬢もいて、驚きと嫉妬の混じった視線が突き刺さる。
「そ、それは、カイ様が気を使ってくださったようで……それに、ほんの少しの時間だったので……」
しどろもどろになった葵を見逃さないかのように、メリルは追撃してきた。
「まあ、お忙しいカイ様にアオイ様がねだったのではなくて? カイ様はお優しいもの。異世界から来たアオイ様にこちらの世界を見たいと言われてしまえば、断るのも憚られるでしょう」
これはどう答えるのが正解なのか。ねだった覚えはないが、ねだってないと言えば、カイが自発的に連れて行ったということになり、ますます彼女たちの嫉妬や敵対心を煽ることになる。ねだったと言えば、やはり見目良い男を狙ってる悪女という噂の信憑性を自ら高めてしまうことになる。
どちらにせよ、詰んでしまった。葵は、うううと内心うめきながら悩んだ。
「……カイ様は王命に忠実な騎士様とお伺いしていますから、前代聖女としてのわたしに気をつかってくださったのだと思います」
答えに詰まった葵は、先日、王女に牽制された通りに答えてみた。不満そうな色はあったが、ご令嬢達は、王命を出されて批判するようなことは言えないのだろう。
葵は王女の様子が気になって、ちらりと窺う。
今まで話に加わっていなかった王女は、艶やかな笑みを浮かべたままだった。
どういう感情が隠されたものなのか、経験値の少ない葵にはわからない。
「ええ、アオイの言う通りよ。カイは王命に忠実な騎士なのだから。女神の御言葉に従っただけ」
王女の一言で、他のご令嬢も不満を表から隠した。
彼女の反応から、正解だったのだろうか。
それにしても、やはり十五歳とは思えないほどの貫禄のある笑顔だ。正直、恐ろしい。
学校帰りに友人達とだべって、恋人のいる友人ののろけを聞いて、「彼氏ほしーい」と無邪気に叫んでたあの日々がひたすら懐かしかった。
一方、会話の間ずっと、王女はアオイを見定めていた。
どうも噂と違うような気がする。
悪逆の聖女、とまで言われていた前代聖女。贅沢を好み、プライドが高く、侍女を顎でこきつかい、人前には姿もほとんど見せようとしない。聖女は聖国の誇り。民衆にとっては、女神による祝福そのものだ。栄誉ある立場を賜ったことを女神に感謝し、民のために国のために尽くすのである。そう、ティファーナのように。聖女の鑑のような、敬虔で謙虚で思慮深い女性。そんな彼女が苦労しているのも、前代聖女の葵が教会を腐敗させたからだ。聖女の権威は失墜し、民衆の信頼を取り戻すには多大な貢献が必要となるだろう。
二年前に召喚されたあと、好き勝手やらかしたあげく、たった半年で彼女はこの世界から消えていた。聞けば、元の世界へと戻ったという。こちらに何も言わずに、まるで逃げ去るかのように。王家も軍部も唖然として、どういうことかと教会を問い詰めた。しらを切る教会に、軍部と王家は協力して彼らの腐敗を明らかにして、正すことに成功したのだ。兄もカイもどれだけの労力を費やしたのか。アオイがいる間は、彼女の強力な結界が大神殿を守り、潜入することもかなわず、中で執り行われていた企みの数々は、彼女が帰還して結界の力が消え、ようやく暴くことができた。アオイのせいでどれだけの人間が迷惑をこうむったのか。彼女の世話をしていた侍女や司祭はみな口をそろえて、聖女の悪逆さを語る。どれだけ非道な人物だったのか。ミシェルはずっと顔を拝んでやりたくてたまらなかった。
女神はどうして彼女を選んだのか、疑問でならない。
再び召喚された葵を、王家は歓迎し、厚遇した。女神の思惑が判明するまでは、そうするしかないのだろう。監視の意味合いもあり、黒龍騎士団を率いるカイの手元に置くのはわかるが、何も彼の屋敷に滞在させなくてもいいのではないか。
カイが彼女を遠乗りにつれていったと噂を聞いたときは耳を疑った。まさか、あのカイまで聖女の手管に落ちたのではないかと、気になって仕方ない。そう簡単になびく男だとは思わないけれど。それでも、王命もあって、聖女として厚遇しているのは、もやもやする。
何より、ずっとひそかにカイに想いを寄せているティファーナが可哀想だ。
だから、ミシェル自ら動いて茶会を開き、アオイに牽制することにしたのだ。
教会の後ろ盾がない今、王女としての自分の方が上なのである。
だからこそ、訪れた葵を初めて見たとき、拍子抜けしたのを覚えている。気合をいれて、真っ赤なドレスを身に着け臨んだというのに、相手はまるで小動物のウサギのように、びくびくとこちらを窺っていた。こちらが獅子にでもなったかのようだ。これが演技ならば、本性を隠すのがうますぎる、とも思った。
とりあえず、今宵の晩餐会で見極めてみようと思って、一人になった頃を見計らって貴族の令嬢達の中に放り込んだ。
先日の茶会よりは、うろたえながらもなんとか対応している気がする。それにしても感情が外にだだ漏れであったが。王女として生まれ、幼い頃より徹底した淑女教育を受けてきた彼女にとっては、信じられないくらいの感情の豊かさ。だが、それもこちらを油断させるためのものかもしれない。大神殿の司祭達を裏から操るほどなのだから。
そうして、まだ警戒は緩めないでおこう、と王女は決意するのだった。
* * *
高貴な女性達による品定めおよび尋問から解放された直後、疲労困憊といった様子で葵は広間の中央へと戻ることにした。
「……いつまでそうやって、本性を隠したままでいる? 今度は何の企みだ」
「え」
いきなり上から降ってきた声に、葵はびっくりした。きょろとあたりを見渡すが、周りには護衛としてついたジーンしかいない。
おそるおそる彼を窺うと、葵はごくりと唾を飲む。ジーンは鋭い三白眼をさらに鋭くさせ、葵への嫌悪を侮蔑を隠さなかったからだ。
「厚かましい女だ。散々好き勝手に周囲を振り回したあげく、何事もなかったかのように再び戻ってきて、よりにもよって、カイ様にご迷惑をおかけするとは」
「え」
「いいか、カイ様に今後一切近づくな。お前が不用意に近づくだけで、カイ様の名誉まで汚されてしまう」
言いたいことを言い切ったとばかりに、また男は押し黙り、歩を進めた。
不意打ちの敵意にろくに反応も返せなかった。彼の言うことは葵にとっては酷い言いがかりなのだが、事実でもあるので、反論したいができない。
カイの名誉まで汚される、という言葉に、まるで小石を飲み込んでしまったかのような不快な気分に陥る。それは葵も最も危惧していることだ。
よくしてくれているカイまで巻き込んでしまうのは心苦しい。しかし王命もあり、彼も逆らえないのだろう。何より葵には彼の他に頼れそうなところもないのだ。
その後、カイが戻ってくるまで、気まずい時間を過ごしたのだった。
ちゃんと聖女の役目を果たした筈なのに、自分なりに未知の異世界で頑張ったつもりなのに、なんでこんなに言われなくちゃいけないんだろう。
もっと周りを疑えばよかったんだろうか。
ちゃんともっと自分で動けばよかったんだろうか。
どれだけ考えたところで、堂々巡りだし、過去は変えられない。
じわり、と視界が滲む。
葵は慌てて、お湯をすくって顔を洗った。今が入浴中でよかった。周りに誰もいない。声を漏らさないように、葵は一人で泣いた。
「アオイの様子が?」
「ええ、お帰りになられたときも沈んだご様子で……お疲れのためかと思っていたのですが、湯浴み中に泣いていらしたようなのです」
充血した目について触れられないよう、明らかに空元気を振り撒いたあとは「疲れたのでもう寝ます」といって寝室に入ってしまった。心配になったセレンは、カイにそのことを報告したのだった。
「そうですか……」
カイはしばし考え込んで「セレン」と侍女に声をかける。
「何でございましょう?」
「あなたはアオイのことをどう思っていますか」
突然の質問にぱちくりと目を瞬かせたあと、セレンはふわりと微笑みを浮かべた。
「……アオイ様が屋敷に初めていらしたとき、手当てをさせて頂きましたが、沁みるのを我慢して、わたしにお礼を述べてくださったのです。そのあとも、アオイ様はわたし達が何かを手伝おうとすると、遠慮したり、申し訳なさそうなお顔をされるのですわ。周りに何かしてもらうことに慣れていない、素直で不器用なお方なのだと思います。……噂とは当てにならないものですね」
寝台に入ったのはいいものの、目が冴えて、寝返りを何度も打っているとき、扉をノックする音がした。
「アオイ、今、よろしいですか」
「えっ」
まさかの声に、驚いて声をあげてしまう。
しまった、これでは狸寝入りをしてやり過ごすことができなくなってしまった。
葵は迷ったが、すぐに寝台から抜けて返事をする。
「は、はい、どうぞ」
「就寝前に申し訳ありません」
扉を開けると、礼装を解いたカイがそう言って、部屋に入ってくる。手櫛で髪を整えながら、葵は内心どぎまぎして迎え入れた。こんな夜遅い時間に男性と二人っきりになるのは人生初めてなのだ。しかも今は情緒がぐちゃぐちゃに乱れていて、うまく対応できる自信がない。
案の定、訝しげな様子でカイは口を開く。
「晩餐会で私がいない間に何かありましたか」
「なっ、何もないですよ」
いきなり核心をつかれて、葵は下手な取り繕いしかできなかった。
帰りの馬車ではうまく乗り切れたと思ったのに、どうしてバレてしまっていたのだろうか。
王女や令嬢達の反感を買っています。そしてあなたの部下にめっちゃ嫌われてます、なんて言えるわけがない。
個人の主観をどうすることもできないのだ。ましてやそれを上司にチクるだなんて真似はしたくなかった。何より、王女やジーンはカイを思い、カイの為を思って、葵を牽制し、毛嫌いしているのだ。その気持ちはわかる気がした。自分も彼らの立場なら、カイのことを心配していたと思う。
「さすがに王宮の晩餐会ってすごい華やかで盛大ですね。びっくりしちゃって、気後れしちゃったから、疲れてるのかな?」
じっと見据えてくるカイに根負けしそうになる葵だが、無理やり笑顔を作って誤魔化す。
白々しい態度だが仕方ない。今の精神状態では、これ以上の演技ができそうにない。
引きつった笑顔を浮かべ続ける葵に、カイは溜息を吐いた。どうやら聞き出すのは諦めてくれたようだ。
「そうですか… … 明日にまた時間がとれますが、以前に言っていた城下町におりてみますか? 大通りを案内しますよ」
「え……」
遠乗りのときに確かに彼は案内してくれると言っていた。そのときは、聖都を見れるのが楽しみで、カイの気遣いが嬉しくて満面の笑顔で「行きます」と即答してしまった葵だが、そのときと今とでは状況と心境が違う。
あのときよりもずっと、葵は自分の立場と、周りの人たちの思いを知ってしまった。
「ありがとうございます……でも、疲れていて……外には出たくないです……」
ジーンに言われたから、というわけではない。葵自身がカイの為を考えると、これ以上近づいてはいけないと思う。また噂になったら、ティファーナも王女も心配するだろう。他のカイの周りの人達もきっと心配しているに違いない。カイの迷惑にしかならないのだ。
「……アオイ?」
「もう寝ます……おやすみなさい」
早く今回の役目を知りたい。
カイのためにできることは、できるだけ早く役目を終えて、この世界から去ることだけなのだった。