悪役聖女は騎士に拘束される
なんとか気力を振り絞り、その日を乗りきった葵は、自室のベッドに腰かけて、ひたすら自分の膝を見つめていた。
昼間の話がぐるぐると頭を巡ってはなれない。
どうしよう。
まず、それしか浮かばなかった。
当初とは別の意味で、軍部に見つかってはまずいと思った。
あのあと軍部の悪い噂を聞くどころか、一般庶民からの評判はとても良いことを知った。特に黒龍騎士団は精鋭中の精鋭の集まりらしく、聖国を守る多くの戦いで活躍し、国民の憧れの的らしい。黒龍騎士団とは、聖国軍部の要、つまり、葵がさんざん聞かされてきた、教会を目の敵にしている人物の集まりなのだ。カイ様と呼ばれる騎士は、それらを率いる将軍閣下の名だ。通称、黒龍公とも呼ばれる人物だ。葵も何度か彼のことを耳にしたことがあるし、一度だけ見たことがある。といっても遠くからしか見たことがなかったが、遠くからでもわかるほど美形な騎士様だった。
わがまま聖女として悪名を轟かせ、汚職の象徴となった自分が見つかれば、他の教会の人と同じように捕縛されてしまうのでは?
知らずとはいえ、司祭達の悪事に加担していたらしい。
いつのまにか悪役聖女になっていたようだ。
間違っても、厚遇など期待できない。よくて冷遇、悪くて投獄、最悪が処刑かもしれない。
二年前、大神殿の人たちの言うことを鵜呑みにして、正義感に駆られた葵は、軍部を敵対視していた。あまつさえ、教会の言う通りにして聖女の力をふるっていた。葵のおかげで大陸の穢れは浄化されたが、代わりに権力の腐敗がひどくなってしまったらしい。
あのとき、とっさに逃げたのは正解だった。今更、のこのこと現れて、二年前のことは何も知らないと言っても信じてもらえないに違いない。
となるとこのまま城下町にいるのもまずいかもしれない。
もっと遠い場所へ逃げたほうがいいとは思うが、しかし聖都を外れれば外れるほど治安も不安定になるらしい。
生計を得るには冒険者になるのが手っ取り早いが、戦う力はもっていない。
その日は深夜まで考え込んでしまったが、結局、何も良い考えは浮かばなかった。
翌日も同じように食堂で働いていると、マリーとグレースが食堂へ昼食を食べにきてくれた。どうやら、葵がちゃんとやっていけてるか、心配してくれたらしい。マリーが葵を見つけた途端、満面の笑顔を浮かべて、おねーちゃんと呼んでくれる。葵は少し元気をもらったような気がした。
「よかったわ。楽しく働けているみたいで」
「グレースさんのおかげです。ありがとうございます」
「マリーは?」
「マリーちゃんのおかげでもあるよ」
「やったぁ」
昨日の噂のせいで大分と落ち込んでしまったけれど、今日は二人のおかげで癒された。
少し雑談したあと、出来上がった料理を運ぶ。おいしいと舌鼓を打っている二人を見守りながら、ほのぼのとしていた、そのときだった。
「全員、その場で動くな!」
扉が乱暴に開かれ、どかどかと軍靴が踏み荒らす音が聞こえた。全員ぎょっとして入口を見ると、青の騎士服に身を包んだ騎士数人が食堂に座っている客たちを取り囲むようにして入ってくる。
――軍部の騎士だ!
葵の思考は一瞬で混乱に陥った。
心臓が痛いほどにばくばくと鳴りだす。
彼らの狙いはきっと葵だ。もう居場所がバレてしまっていたのか。まずい。どうしよう。逃げなきゃ。
動揺して震え出した身体をなんとか宥めようとするが無駄だった。
中心にいた長身の男が食堂内を静かに見渡し、葵で視線を止める。
「お前だな、前代聖女」
「!」
身を翻して逃げ出す前に、葵はまず結界の力をふるおうとした。けれど、動きを読まれていたのか、騎士がそれよりも早い動作で回り込み、葵の腕をひねりあげて引き倒そうとする。強い力で引っ張られ、無我夢中でもがいた体のあちこちにテーブルや椅子がぶつかり倒れ、皿やコップが次々と落ちて割れる。
「きゃあっ」
「わああんっ」
すぐ傍で行われた暴挙にグレースとマリーは悲鳴をあげた。
髪ごと後頭部を捕まれ、乱暴に床に打ち付けられた葵は一瞬息ができなかった。強烈な痛みに、頭の中で光が散る。うつ伏せにされて、両腕を背中にまわされてきつく拘束された。
「おとなしく投降しろ! この悪逆の聖女め」
十八年生きてきて、これほどの怒りや侮蔑がこめられた言葉と暴力を受けたことがなかった葵は、恐怖で固まり、呼吸することさえできなくなるほどの衝撃を味わった。
あまりの恐ろしさに思考が止まり、聖女の力を行使することさえできない。
数人の騎士が少女一人を取り囲むその異様な光景に、食堂にいた誰もが身動きすらとれず、呆然と成り行きを窺うしかなかった。マリーがわんわんと泣き叫んでいる声だけが食堂に響く。
長身の騎士が夫妻に向かって、詫びた。
「食事を楽しんでいたところ、すまないな。前代聖女が城下町へ逃げ込み、平民に紛れ込んでいるとの情報が入り、捜索していたのだ」
「え……アオイが、前代聖女……?」
騎士の言葉に、食堂にいた全員が一斉にざわついた。誰もが信じられないといった様子だった。
「さっさと立て」
両腕を後ろに縄で拘束された葵は、二の腕を掴まれ無理やりに立たされる。罪人のような扱いを受けるのは初めてで、葵は全身震えながら、なされるがままだった。視界の隅で、泣きわめくマリーを抱きしめながら、こちらを心配そうに見ているグレースが映った。
食堂の前で止められていた馬車へとつれていかれる。きっとこのまま王城へと向かい、そして断罪されるのだろう。
「待て」
「閣下!?」
その場に落とされた声に、長身の男は驚愕した。他の騎士たちも一斉に緊張が走り、即座に敬礼をする。かつかつと軍靴の音が聞こえ、男は葵達に近づいてくる。
「その拘束はなんだ? 今すぐに外せ」
「え? いえ、ですが、この娘は前代聖女で」
低く厳しい詰問の声色に、長身の男は慌てて理由を述べようとするが、それは許されなかった。
「聞こえなかったのか? 今すぐにその拘束を外し、下がれ」
「はっ!」
即座に騎士達が葵の両腕の拘束を外し、離れる。恐怖に固まって、自分の力で立つことすらできなかった葵は、その場でふらふらと膝をついてしまった。次から次へと起こる展開に頭がついていかない。
「無礼な真似をしてしまい、申し訳ありません。立てますか?」
男は片膝をついて、打って変わった丁寧な口調で葵に声をかけてきた。
金の刺繍がされた黒の騎士服の裾が葵の視界に入る。
ぼんやりと見上げた葵を優しく支えてくれたのは、黒の騎士服を着た銀髪の男――黒龍騎士団を率いる将軍、黒龍公とも称される、カイ・イェーリス・ローマイアーだったのだ。
銀髪の騎士とともに、葵は馬車に乗った。
「本当に申し訳ありません。彼らに代わり、謝罪いたします」
「い、いえ……大丈夫です……」
再度謝られてしまい、葵は返答に困った。
隣に座るカイの存在をいまだに信じられない。先程の恐怖を引きずっており、いつまた暴力をふるわれるのかびくびくしながら窺っていた。
司祭達の言うような存在ではないとわかったけれど、それでも彼らにとって、葵や教会の人間は、聖国の秩序を乱した敵対勢力に違いないだろう。嫌悪や怒りは先程の騎士達の態度で嫌になるほどよくわかった。
これから一体どうなるのだろう。
暗い思考に陥っている葵を止めるかのように、カイが話しかけてきた。
「自己紹介が遅れましたが、私はカイ・イェーリス・ローマイアーと申します。どうぞカイとお呼びください。聖女様の御名を伺っても?」
葵はびっくりして、顔を上げた。
近距離で見た男は、葵が見たことのないくらいに、美しく整った顔立ちをしていた。新緑と海の青を混ぜ合わせたような綺麗な碧眼が少女を真っ直ぐに射抜く。
「あ、葵といいます」
「アオイ様、ですか。良い御名ですね」
動揺と困惑の波に攫われている葵に向かって、カイは穏やかな笑みを浮かべてそう言った。
そのまま王城へ連れていかれるかと思ったが、着いたのは王城近くの大きな屋敷だった。
広くて立派な部屋に案内された葵は立ち尽くす。アンティーク調の高そうな調度品が並び、淡い色合いに統一された部屋が目の前に広がっていたからだ。こんな状況でなければ、まるでお姫様の部屋のようだと喜んでいただろう。
「手当をお願いします」
「かしこまりました」
侍女らしき女性にそう言い残して、銀髪の騎士はまたどこかへ行ってしまった。
「さあ、聖女様。こちらへ」
言われるがままに葵は椅子に座り、手当を受ける。食堂の床に引き倒されたときに作ったのだろう、膝や腕などあちこちに擦り傷ができていた。
「少し沁みますが、どうか我慢してくださいませ」
「は、はい、大丈夫です。あの、ありがとうございます」
消毒されたときに少し沁みたが、顔には出さないようにして、目の前の侍女にお礼を述べた。すると、侍女は驚いたように目を大きく開けたが、すぐに優しく微笑んで、「いいえ、どうかお気になさらないでくださいませ」と返してくれた。
そのあと、尋問されたり、牢屋みたいなところにでもつれていかれるかと思ったが、そんなことは一切なく、豪華な食事が出てきて、大きなテーブルで一人で食べる。
入浴もさせてもらうことになり、介助はもちろん遠慮したが、湯に浸かってはじめて一息つくことができた。
「どうしよう……」
怒濤の一日だった。
明日からどうなってしまうのか。ここで監視されるということだろうか。いつ尋問されたり、投獄されたり、裁判にかけられたりしてしまうのか。
この世界の常識や法律なんて何も知らない葵にとって、次の展開を予想することも難しく、ただひたすら悪い想像ばかりが広がってしまう。
入浴後、先程の部屋に戻ってきて、綺麗に整えられた天蓋付きの寝台で休むように言われた。
次の日も、そのまた次の日も、葵が妄想するような恐ろしい未来はやってこなかった。侍女に起こされ、綺麗な服を着て、おいしい食事やお茶を用意してもらって、夜はゆっくりとお風呂にはいって、天蓋付きのベッドで眠る。貴族の令嬢のような生活を過ごした。
ただ初日にここに連れてきてくれたカイはこの屋敷の主人らしいのだが、一日も帰ってきていないのか、会っていない。
そんなに忙しいのだろうか。黒龍騎士団のトップなのだから、当然忙しいのだろうけど。
まさか、私がここにいるから帰ってこれない、とか?
なんだかあの日以来、ネガティブ思考が半端なくなってしまっている。
葵はこのままでは駄目だと、気分転換にお庭に出ることにした。庭には自由に出ていいと、侍女――セレンという名前らしい――から聞いていた。
中庭というには広すぎる庭に降りて、葵は散策することにした。
新緑の眩しい季節なのか、青々とした木々が生え、短く整えられた芝生が広がっている。薔薇園もあるようで、そこへ行こうと思った。
白い小石が敷き詰められた小道の途中で、がさがさと枝の擦れる音がして葵は見下ろす。
「あっ!! 待って、君……っ」
灰色の鱗に覆われた小型犬くらいの大きさ、背には蝙蝠のような一対の翼が生え、双眸は宝石のように綺麗な琥珀色――小さな竜が木陰にいた。懐かしい姿を見て、葵は笑顔で駆け寄った。葵の姿に気づいたのか、その小竜は、くぁと鳴く。
「久しぶりだね、私のこと、覚えてる?」
まさかこんなところにいるなんて。
葵は突然の再会に興奮した。小竜とは、二年前にも何度か一緒に過ごした、葵にとっては異世界でできた異種族の友達なのだ。言葉は交わせないけど、穏やかな小竜の傍にいると落ち着いて、癒されるのだ。
「また会えるなんて嬉しい、元気にしていた?」
小竜の隣に座り込んで、つらつらと話しかける。小竜はまるで人間の言葉がわかるかのように、じっとこちらの言葉を聞いてくれるのだ。それが嬉しくて、葵は二年前も会うたびに色んな話をした。
「私は散々だよ。原因不明に呼び出されて、なんかこっちでは私の評判は最悪で……ひどい目に遭っちゃった……はぁぁ」
しばらくの間、葵は小竜の傍で愚痴を漏らしたりして、時を過ごしたのだった。