夢の通い路
手を握る。
肩を抱く。
瞳を見つめ、名を呼びかける。
けれども、その焦点は定まらぬ。
恐怖に肩は震え、手は握り返されることもなく、宛てもなく彷徨う。
わかっていた。理解していたはずだった。
思い人の末路がこういうことだと理解して契ったはずだ。
けれど、その憐れな最期を前に、自分の無力さを噛み締める。
情けなさに零れ落ちようとする涙を、虚空を噛み締めて耐える。
自分は彼女の夫だ。諦めてなるものか。
命を喰われていく妻の、うわごとのように繰り返される赦しを求める言葉を聞きながら、何度も何度も呼びかける。
まだ言葉も知らぬ娘が、泣きもせず、笑いもせず、その様を粛々と眺めていた。
* * * * *
……弱い女であった。
とてもその宿命には向き合えぬほど、優しい人でもあった。
自分は彼女のそんなところに惹かれたのだと思う。
彼女を失ってから今日までの日々が本当に短く感じられる。
娘を育てながらも、いつあの狂気にあてられるのではないかと怯えるように生きる日々であった。
けれど、それでも確かに幸せを感じる瞬間は存在していた。
娘が無邪気に笑ったこと。
娘が自らの名前を呼んだこと。
娘の顔が母親に似てきたこと。
娘の存在はもはや自分の生きがいになっていた。
(だと言うのに……)
自らを嘲る。
結局、自分は妻だけでなく、娘も守ることができなかった。
妻は狂い死に、娘は自死を選んだ。
これでよかったのだろうか。
そのことだけが繰り返し自問される。
けれど少なくとも……あの子は、自らの意志で、その運命に抗った。
この感情は親として誇りであり、立派に育て上げたという安堵でもある。
黒々とした後悔の念とせわしなく行き来する情緒は、濁流の中で息継ぎをする心持ちに似ている。
「ありがとうございました」
暗闇の中に女の声が響く。
その懐かしい声に思わず振り向く。
思い出の中の女が、そこには居た。
そうか、これは夢か。
そうでなければこの状況は合点が付かぬ。
自分はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「はい。夢の中ならば、多少の無理も通りましょう」
優しく微笑みながら女が言う。
あぁ、この笑顔を自分はどれだけ求めていただろうか。
どれだけ記憶を掘り返しても、思い浮かぶのは今わの際の表情だけだ。
「すまない。私はお前だけでなく、娘も救うことができなかった」
「いいえいいえ、これでいいのです。
私たち一族の因縁は、私たちの娘によって終わらされたのです」
「けれど、自分は……」
もし叶うのなら、自分が代わりになってやりたかった。
歯がゆくて、いたたまれなくて、憐れでならなかった娘のことを想う。
「もう何もなくなってしまった」
ぽつりと口をついて出たのは、そんな弱音だった。
「ええ、ですから……」
女が優しく微笑んで、ふわりと抱き着く。
彼女の名前と同じ、花の香りが鼻孔をくすぐる。
「末永く、健やかであらせられますように」
辺りが光に包まれる。
あぁ、夜が明けてしまう。目が覚めてしまう。
……自分は未だ、お前に会いに行くことも許されないらしい。
薄い明かりが辺りを包んでいる。
……やはり夢であったか。
懐かしい夢を見た時特有の感傷に浸っていると、胸の上に乗った手紙が目に入った。。
あぁ、そうだ。昨晩はあの子からの最後の手紙を読みながら眠ってしまっていたのだったか。
もう何度となく目を通したそれを仕舞おうとして、今まで気づかなかったことに気づく。
包み紙の裏に、本当に小さな字で「お父様、末永く健やかであらせられますように」と書かれていたのだ。
「そんなところまで似なくてもいいのに」
ずっと堪え続けていた涙が流れる。
朝陽が包み込むように優しく、辺りを照らしていた。