欲しいのはあの薔薇
僕は、欲しかったものを全て手に入れた。
家も。
食べ物も。
服も。
権利も。
教養も。
自由も。
女も。
金も。
…………だが思う。僕が欲しかったのは本当に、こんなものだったのだろうかと。僕が歩んだこの人生を振り返り、数多の屍のようなものを見たとき、それでも良かったと感じることが、できるのだろうかと。……できるわけがない。なら僕は、どうすれば良かった。
「………まぁ汚い子ね、まるで屑入れを被ったみたいよ………でも顔は綺麗。ねぇおまえ、わたくしの下僕になって頂戴」
大輪の薔薇のように赤い、毒々しいほどに鮮やかなドレスと装飾品。それらに引けを取らないほどに、彼女は実に毒々しく華やかなものだった。
派手で馬鹿なお嬢様と、まるで野良犬のような子供。冗談のように始まった不確かな関係はいつか、侮れないほどに深く結び付いていった。
「………おまえは鴉のように辛気臭い、嫌な髪と目の色をしてること。そうね今日から、おまえは鴉よ」
「ねぇ鴉。今日もみんな、いないみたいよ。………これなら、体裁を気にせずおまえを甚振れるわ」
「………わたくしは金持ちの侯爵の下へ嫁ぐの。ふふ、たくさん贅沢ができそうで嬉しいわ」
優秀な兄に親を取られた彼女は、家族が死んでいる自分にどこか重なる。そう気付くと、慰めて優しくしたい気持ちと捩じ伏せてボロボロにしてやりたい気持ちが交錯した。
昨日も今日も、明日も明後日も彼女は僕に言葉を紡ぐ。それは決して、弱音ではなかった。気丈に笑っているその様が、僕にはぞくぞくとして好きだった。
「………ねぇ。嫁ぐのに、ペットの一人もいないのはつまらないわ。鴉、おまえも一緒にいらっしゃい」
「……侯爵もいい加減、耄碌したみたいね。ここに来てから一度も伽が無いとはついているわ」
「………ここでの生活は、良いわね。おまえのほか誰も、目障りな者がいないのだから」
ご結婚されても、出会って数年が経っても、彼女は何も変わらない。相も変わらず口を開けば毒を吐き、滑稽なほどによく笑う。誰に見られてる訳でもないのに彼女は常に自分を、周りを、決して貶めない。ただ幾ばくかのプライドでもって、それら全てを殺すのだ。
「ついにやったわ、侯爵が死んだ。これでわたくしは未亡人よ」
「ここの全てがわたくしのものよ。子なしなら、男やもめの後妻も悪くないわね」
「………どう鴉、欲しいものはあって? 今なら特別に、お小遣いをあげるわ」
若い時間の全てを注ぎ、そこに残ったのは家と金。これが正当か不当かはわからない。ただ漠然と可哀想だとそう思い、自分にまだそんな感情があることに驚いた。何せ僕はこれまでずっと、感情の全てを押し殺してきた。
僕の欲しいものだと? そんなものは決まってるじゃないか。
「………そろそろね。わたくしの生は永くて、とても短かったわ」
「特におまえと会ってからは、退屈もできないほどだわ。おまえと生きることが忙し過ぎて、結局火遊びもできなかった」
「…………そんな顔しないで頂戴。………遺産は全てあなたにあげるわ、使いきるまでは顔も見たくないから、あの世へこないでね」
本当にこの人は、悪魔のようにひねくれた人だ。“楽しかった”、も“生きていて”、も普通に言えば僕だって、涙の一粒も流したのに。
「………今だから言えるけれど」
「わたくしは鴉を、愛していたのよ」
それは一輪の赤い薔薇のように。愚直なまでに真っ直ぐな、告白。
…………止めてくれ。今の今まで、知らないでいたのに。知らないでいたかったのに。彼女が旅立つこの場で、残酷に響く。
そう。拾われたあの日から少しずつ積もったこの思い。
つまるところ僕が本当に欲しかったのは、この薔薇のような人。手に入らない、彼女。