もう一人の天使
お立ち寄り下さりありがとうございます。
澄んだ朝の空気の中、剣を振る馴染んだ音が耳に響く。
柔らかなベッドで十分に体を休めたからだろうか、体が軽い。剣の振りにも切れがあった。そして気持ちも軽かった。天使のお陰だろうか、それとも父たちの命の不安はなくなったためだろうか。
今日、いよいよフォンド公爵家に移る。
シルヴィから満面の笑みを向けられても、涙が零れることはなくなったのだ。相変わらずその愛らしさに衝撃は受けるのだが。
自分はこれからどう生きていくのだろう。どんな生活になっても、師匠のマイクの教えは守りたい。
――坊ちゃん、これからも基本の型は毎日行うんですよ。
師匠、分かっています。「坊ちゃん」を卒業するために、必ず行います。
「うん、本当に見事だ。素晴らしいね。マイク殿の気持ちが分かる」
長閑な声が背後からかかった。ここ数日感じることだが、レスリー殿の気配は感じにくい。
まだ修業が足りないということだ。
「おはようございます」
「おはよう、チャーリー君。明日から君の剣が見られないのは残念だよ。いつか、僕と手合わせをしてくれるかい?」
「はい!喜んで!」
勢い込んで返事をすると、レスリー殿は横を向いて笑いをこらえた。
だが、レスリー殿とは手合わせしてみたかったのだ。彼の筋肉のつき方からすると、相当な剣の使い手のはずだ。細身にも見える筋肉のつき方は、俊敏な動きに特化したものだろう。是非、手合わせをお願いしたいものだ。
「では、その日を楽しみに、君をフォンド家に送ることにしよう」
笑みが残る人の好い顔でレスリー殿は僕の肩に手を回し、屋敷へと促した。
フォンド公爵の王都の屋敷は、厳かな雰囲気を感じる建物と対照的に緑豊かな「庭」が開放感を醸し出していた。
屋敷の入り口で公爵一家自らが出迎えてくれた。
建物と似た厳めしい雰囲気のある公爵と、隣にたつ華やかな花を思わせる美貌の夫人が、屋敷のように対照的だった。
夫人は、神の末裔と天使に出会っていなければ、見惚れていたであろう美しい容姿の持ち主だった。
この数日で自分はもう大方の美に感動できなくなってしまったのではないだろうか。
そんな不安を抱きながら、夫人の横に立つ幼い子どもに目をやった。
天使…
まだ、美に心打たれる余地があったのか、美はどんな時でも心を打つのか分からなかったが、再び、すべてを奪い取る美がそこにあった。
そうだ、天使には色々な天使がいるのだ。シルヴィは陽の光をまとったような天使だったが、この天使は月の様な天使だった。
月の天使の背丈はシルヴィより少し高いぐらいだ。薄い茶色の髪は艶やかに光っている。驚くほど長いまつ毛に縁どられた目はまだ芽吹いたばかりのような淡い緑色をしていた。この緑色は僕の好きな色だ。これからどんどん育っていく力を感じる色なのだ。
月を思わせたのは眼差しだろう。まだ幼いのに何を考えているのか知りたくなる思慮深いものだ。整った容姿にどことなく表情に乏しい雰囲気も、月を思わせる。
しかし、特に鍛えた体でものないのに姿勢が美しい。
思わずこちらも居住まいを正したくなるほどだ。
ここ数日の衝撃の美の中で、一番好みの美だろう。
「残念だ。少し見そびれてしまったのか」
全てに沁みこむ声が、天使に見惚れた僕を現実に引き戻した。周りの空気が清々しくなった気がした。
いつの間にハリーは僕の隣にいたんだ?転移だろうか。
天使の目つきが厳しくなった。表情が乏しいように思えたのは間違いだったらしい。
「何を見そびれたというのです?」
「お前の容姿に見惚れる瞬間だ」
「…っ!僕はハリーに見惚れる瞬間をみたかったです」
「そんなよくあることを見ても意味はないだろう」
神の末裔に怯むことなく月の天使は口答えしている。その勇気に感心して、膝をついて彼に視線を合わせ、挨拶した。
「見惚れてしまって申し訳なかったです。チャーリー・ベインズです。よろしくお願いします」
はっと息を呑んだ彼は僕に一瞬視線を合わせた後、ふいと横を向いた。
薄っすら頬が染まっている。
そしてまた表情を月に戻し、こちらに視線を合わせて丁寧な挨拶を返してくれた。
「セドリック・アンドリュー・フォンドです。挨拶が遅れて失礼いたしました。フォンド家へようこそお越しくださいました。こちらこそよろしくお願いいたします」
幼い彼が最大限の礼を尽くしてくれているのが、愛らしかった。
僕は彼の頭を撫でたくなった。
不本意ではあるけれど、ベインズで僕の頭を撫でまわしていたマイクたちの気持ちが初めて分かった。
小さく幼いものが精一杯頑張っている姿は、頭を撫でたい気持ちにさせるようだ。
衝動をこらえきれず、僕は頭を撫でてしまった。
とても柔らかな髪だ。触っていて実に気持ちがいい。撫でるのを止めるのに意志の力を要した。
子ども扱いされて気を悪くしていないかと、セドリック様を見ると特に体が強張ることもなく嫌がってはいない様子だった。
セドリック様は再びふいと横を向いた。薄っすらと頬を染めている。
くっ…!
可愛らしさに頬が緩むのを感じた。
「ほほほほ」
突然起こったその笑いは、上品なものなのになぜか背筋がぞくりとするような迫力があった。公爵夫人が艶やかな笑顔を見せていた。美しい笑顔なのになぜだろうか、恐いものを感じる。
「彼は大事な客人で家族の一員だ。ゆめゆめ、遊ばないように」
公爵が夫人に意味が不明なことを呟いていた。
「気に入られたようだな。良かったじゃないか」
沁みとおる声はなぜか笑いを含んでいた。
――これが、公爵家との長い付き合いの始まりだった。
お読み下さりありがとうございました。