番外編:初めての夜
お立ち寄り下さりありがとうございます。今回、3話投稿しています。1話目です。
彼のその眼差しに私は全てをからめとられた。
全てを忘れていた。
動くことも、息をすることも、――ここに何のために忍び込んだのかも。
実家から侯爵家に戻り、昂った感情と魔力を意思をかき集めて抑え込みながら日常をこなし、ようやく夜の帳が下りた時刻を迎えたとき、私は彼の部屋に転移した。
彼はちょうど入浴を済ませたところだった。
――実に具合がいい。
心の奥底で皮肉な笑いが漏れた。
覚悟はできていた。手段は選ばない。むしろ今の私の状況では選ぶことはできないといった方がいいだろう。
彼に女性として見られていない私が、5人の敵を蹴散らすにはもうこの作戦しか残っていなかった。
それでも漲る決意と緊張は隠せず、彼は私を見つめながら、私の異様な気配を受けて徐々に緊張を露わにしている。
私に警戒しながらも――さすがだ。いい勘を持っている――、非礼な時間の訪問者にお茶を用意してくれる彼と何とか会話を交わしながら、私はいつ行動に出るか機会を探っていた。
会話を始めたのは失敗だった。
彼のもてなしを振り切って、行動に出るのはかなり至難の業だった。
出だしから苦戦を強いられ、思わず、父を恨む。
なぜ、もっと早くに婚約の申し入れを教えてくれなかったのだろう。
知っていれば、家を継ぐ、継がないは、別にして、ともかく婚姻へ話を進めてもらっていたのに。
彼と婚姻できるのなら、兄と決闘してでも家を継ぎ彼を手に入れていたのに。
5人の敵が現れる前に…!
私の物思いは彼の言葉で打ち破られた。
「――誠実に返事をしなければいけないとは思っている。とても難しくて苦しいことだけどね」
彼の声音には、聞く者の胸を痛ませるほどの苦しさがあったのだ。
彼を見遣ると、いつかのように手合わせに連れ出したいほどの、苦しみに覆われ沈み込んだ彼が目を伏せていた。
「誰か…、想う相手がいるのか?」
我ながらよく声を出せたと思う。
今まで彼の口から聞くことを避け続けていた現実を突き付けられると分かっていたが、打ちひしがれ立ち尽くした彼を見ていられなかった。
抱え込まず、吐き出してほしかった。それがどれだけ私に重いものでも。
彼は私を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「ああ、特別な女性がいる。僕の独りよがりな思いだけど」
その声は、もし彼に魔力があるなら、部屋中に光が放たれるであろう、強く深い想いのこもった声だった。
私に向ける彼の眼差しは、今まで見たことのない熱があった。
普段、穏やかな優しさを湛えた彼の瞳にこのような熱が灯るとは想像したこともなかった。
私はその熱に呑まれた。
彼は瞬きもせず私にその瞳を向け続ける。
全てを忘れて彼の瞳を、彼の熱を、ただひたすら受け止めていた。
時を忘れ、その熱が自分ではない女性へのものだということも忘れ、彼の瞳に溺れていた。
二人してどれほど立ち尽くしていたのだろう。
強い風の音と葉擦れの音で、呪縛が解け、二人して息を吐いた。
時が戻り、彼がお茶の準備に戻るのを見つめながら、私はじわじわと広がる熱い思いを感じていた。
それは、嫉妬も羨望も通り越し、怒りに近かった。
彼にあれほどの眼差しをさせる想い人は、なぜ、彼に応えないのだ。
彼に何の不満があるのだ。
ここまで彼に想われていながら、なぜ、彼を苦しませたままでいるのだ。
彼は苦しんでいるのに、どうして一人にしているのだ。
私なら――
ふつふつと湧き続ける想い人への怒りが、私に再度決意をさせた。
私はマントを外した。微かな音を立ててマントは床に落ちた。
夜の冷えた空気が肌を打つが、湧き上がる怒りは冷たさを凌駕していた。
カップにお茶を注ぎ終えた彼が私に振り返り、そして、カップを落とした。
私を女性として見ていなくても、私の裸には驚くようだ。いや、訪問者が突如裸になればだれでも驚くだろう。
彼は落ちたカップには見向きもせず、目を見開き、身体を固まらせながらも半歩後ずさっている。
けれど、私の決意は変わらなかった。
そう、彼を苦しませる想い人に彼は渡さない。どんな手段を使ってでも、彼を手に入れる。
「私は諦めない。チャーリー」
私の声と共に部屋には私の魔力が満ちた。
彼は私の裸を見て欲情することなどなく、背を向けてドアに縋りついたが、私の魔力の方が早かった。当然だろう。私は計画を立てて乗り込んできたのだから。
私の結界に気づかず、ドアと格闘する彼との距離を詰めると、彼は強い口調で私に離れるように言う。
強い拒絶に気圧されそうになるが、私は止まらなかった。
この覚悟を見くびらないで欲しい。
私は背中から彼を抱きしめた。
初めて触れた彼の背中は、緊張で強張っていたものの、しなやかな筋肉で覆われた逞しいもので、なぜだか爽やかな優しさを持つ彼そのものに感じた。
彼の身体の熱を肌で受け止めるうちに、背後から抱きしめている私は、彼に包み込まれている心地がした。
彼の温もりは私の砦を崩してしまう。
気が付けば口にしても仕方のないことを、情けなくも口にしていた。
「私を女として見ていないのは分かっている」
身体を一段と強張らせた彼が、唸るように言った。
「どこから見ても君は女性だ…!」
「口先だけの慰めは要らない!」
間髪入れずに私は叫び返した。
裸の私に抱きしめられて、一切、欲情しない彼が何を言うのだ…!
叫んだことで、私の砦は完全に崩れ落ちてしまった。
決意と共に蓋をした思いが、止めようもなく溢れだしてくる。
「私に、女としての魅力がないのは分かっている」
脳裏に、彼にダンスを申し込み、断られそうになった愛らしい女性が浮かんでいた。
ドレスを着た彼女は、裸にならずとも彼に女性として見られていた。
――!
とうとう子どもの様に涙まで溢れだしていた。
けれど、それを隠す気力がもう私にはなかった。
「君は、僕にとってこの世で一番大切な人だ」
私を抱きしめながら彼がくれた言葉は、虚しく私を打ち据えた。
「大切」であって、決して女性として「愛している」わけではない。
何て様だろう。
彼の愛など要らないと思っていた。自分の愛だけで十分だと思っていた。
それなのに、詰まるところ、私は彼の愛がほしかったのだ。それが、私の、浅ましい私の本心だったのだ。
涙が止まらなかった。
こんな浅ましい私を彼は何度も抱きしめ、頭を撫でてくれる。こんな私に彼は優しさをくれる。彼の優しさが私に弱さを許してしまう。
涙は止まらなかった。
泣き疲れた私の口から心が零れた。
「抱いてほしい。せめて…、せめて思い出を私にくれないか」
零れた心を取り繕うつもりはなかった。私はもはや心まで裸になっていた。
せめて、一瞬でも女性として彼に見て欲しかった。
私の涙を拭った彼は、私の目尻に口づけた。
トクリと鼓動が跳ねた。
その口づけに友情と親愛以外のものを感じたのだ。
ゆっくりと唇を肌から離し私を見つめる彼の瞳は、熱を帯びていた。
見間違えようのない、すべてを忘れて私を溺れさせたあのときと同じ熱が宿っていた。
私の魔力が立ち上る。
「シャーリー」
彼は声にも熱を込めた。
私の全てが予感に震え始めていた。
「いいかい、少しでも、ほんの少しでも嫌だと思ったら――、怖いと思ったら、転移して僕から逃げるんだ」
彼の瞳にからめとられ、私は爪の先まで歓喜が駆け巡るのを感じた。
彼は私に口づけ、そして、私は彼との一時に身も心も溺れさせた。
お読み下さりありがとうございました。




