彼女の訪れ
お立ち寄り下さりありがとうございます。申し訳ございません、大変長くなってしまいました。お詫び申し上げます。
――長い一日だった。
シャワーを浴び爽やかな心地を味わい、ようやく心身の疲れが少し収まった感覚に包まれると、今日一日をそう振り返っていた。
タオルで髪を拭きながら、ゆっくりと息を吐く。
夜を感じる静まった部屋で身体を解していると、目まぐるしかった一日がぼんやりと思考に漂う。
ハリーが部屋に来てくれないだろうか。
話したいことがたくさんできたのだ。
ふと、まだ何も着ていない僅かに湿った胸元を見て、思い出した。殿下のお披露目の前夜に、ハリーに守護石を返したまま、まだ新しい石を作ってもらっていないのだ。
思わず眉を寄せてしまった。
恐らく、明日からセディは手合わせに入れるほどの復調を見せるだろう。
魔力の攻撃に対する手段がこの体での回避だけだと分かれば、セディは本気を出せないだろう。
彼の練習の足かせになってしまう。
何とか、早急に石を作ってもらおう。
彼が転移してこないかと、未練がましく辺りを見回したとき、部屋の空気が変わるのを感じた。
咄嗟に剣を置いた場所を見る。
この空気はハリーではない。
剣に向かって体を傾けるのと同時に、青い光が部屋に浮かび、シャーリーが現れた。
現れたのが彼女と分かり高揚した気持ちは、立ちどころに消え去った。
彼女は全身から隠すことなく緊張を漂わせていたのだ。手合わせをするときですら、彼女はこれほどの緊張を身に纏っていなかった。
彼女でなかったら、迷わず剣を握っただろう。
部屋に佇む彼女は、魔法使いであることを示す踝までの長さの紫のマントを羽織っている。
彼女はれっきとした魔法使いなのだから紫のマントを羽織る資格があるが、彼女がこのマントを身に着けているのを初めてみた。
見慣れないマントが、彼女の緊張の異常さをさらに際立たせていた。
「こんな夜中に、どうしたんだい?」
つばを飲み込み、僕は尋ねた。
彼女は瞳をしっかりと閉じた後、勢いよく目を開けた。
「兄が婚約したのだ」
「え…?」
普通なら喜ばしい事態だが、彼女のこの様子では咄嗟にお祝いが言えなかった。
「相手はエリー嬢なのかい?」
気持ちを立て直して尋ねると、彼女は力強く頷いた。
安堵のあまり僕は息を吐いた。
「おめでとう。良かったじゃないか」
リッチーとの手合わせの後、彼とエリー嬢がどう決着をつけたのか分からなかったが、少なくともリッチーからすれば喜ばしいことだろう。
僕も彼らの岐路に無理やり引きずり込まれ、後味の悪い思いをした立場だ。
何はともあれ祝いたい気分だった。
幾分、気持ちが和らぎ、僕の顔は緩んでいた。
「紅茶を飲むかい?」
彼女は一瞬目を見開いた後、頬を染めながら横を向き、こくりと頷いた。
その横顔を見つめながら、今更な思いに気が付いた。
僕がいつも彼女のこの横顔を眺めていたかったのは、彼女のことを想っていたからなのだろう。
自分の間抜けさに苦笑が浮かび、そっと俯きながらお茶の準備を始めた。
凛とした声が部屋に響いた。
「エリー嬢は一人娘なのだ」
「そうだったのか。知らなかったよ」
僕は返事が素っ気ない響きにならない様、注意した。
はっきり言おう。エリー嬢のことはできる限り避けたかったので、知りたくもなかったというところだ。
「兄はエリー嬢の家を継ぐことになった」
「それでは、クラーク家はどうなるんだい?」
「私が継ぐことになった」
その声は固さを伴っていた。
ああ、彼女のこの緊張は家を継ぐことへの責任から来ているのか。
得心した僕は茶器から顔を上げ、彼女を見つめ真摯に考えを伝えた。
「君なら立派に家を継げると思うよ」
「ありがとう」
深紅に染まった彼女の横顔を見て、思わず目を逸らしてしまった。
深紅の頬を見て、何か自分でもよく分からない衝動がこみ上げたのだ。
浮き立った僕の心と体に、彼女の言葉が突き刺さった。
「父はこの事態を見越して、随分前に、内々に私の婚約の申し入れをしていたらしい」
気が付けば目を閉じていた。
ゆっくりと少しずつ息を吐いて、身体を貫いた鋭い衝撃を逃がしていた。
手元のポットに意識を集中させた。そろそろお茶を注ぐ時間だ。ポットを持ち上げ、思いのほか滑らかに声を出していた。
「相手の男性は君の知っている人なのかい?」
「ああ、知っている。父が申し込んだ相手を知って、私は舞い上がって、家中に火柱を立ててしまった」
再び目を閉じた。
ほんの一瞬前までの浮かれていた自分を笑う余裕もなかった。
今日になって気づいた自分の気持ちに振り回され、彼女の気持ちを推し量ることはできていなかった。
僕に想う相手がいるのだから、彼女にもいて何ら不思議はない。
相手が自分でないことも、全く不思議はなかった。
手にしたポットも自分の身体も、恐ろしい程重かった。
僕は息を深く吸い込んで、それから目を開けた。
彼女はなぜか苦虫をかみ潰したような顔で、「もっと早くに教えてもらっていれば」とぶつぶつ呟いている。舞い上がった気持ちと彼女のその表情の因果が僕には理解できなかったが、疲れた自分には追及する気力が湧かなかった。
不可思議な彼女を見つめながら、僕は心からの言葉を紡いだ。
そうだ、この言葉なら無理なく今の僕でも言える。
「君の幸せを祈っているよ」
海に近い青の瞳を見ながら、微笑んだ。
僕が初めて愛しいと思った君の幸せを心から祈っている。
彼女は瞠目し、息を呑んだ後、喘ぐように話し出した。
「チャーリーには、アメリア様を通してたくさんの婚約の申し込みが来ていると聞いた」
「僕は今日知ったばかりなのに、シャーリーの情報網はすごいな」
笑って話題を済まそうとした僕を、彼女の食い入るような眼差しがそれを許してはくれなかった。
肩を竦めて、僕は正直に答えていた。
「そうだね、ありがたいことにいくつか申し込みが来ている」
「申し込みを受けるのか?」
珍しく彼女の声は掠れ、小さいものだった。
僕は髪を掻き上げ、気持ちを少しでも切り替えようと試みた。
「迷っているよ。以前、公爵の遠縁の家が、出自は極秘のまま僕を跡継ぎに迎え入れてくれる申し出をしてくれたときとは、状況が違う」
出自を明らかにすることになり、他国の他家を継ぐ立場はなくなった。
そうだ、あの話を聞いたとき、ベインズに戻ることを諦めるのと同義に捕らえた僕に、彼女は思いもよらない光をくれたのだ。
懐かしい思いが過り彼女を見遣ると、彼女は懐かしさには囚われていない様だった。
一段と顔を歪め、歯ぎしりまでしている。
少し哀しいことだが、彼女と物の見方を共有できないのは不思議なことではない。
一抹の寂しさを覚えながら、この話題を切り上げることにした。
「僕の出自を知って、いつかベインズに戻ることも承知で、それでも僕との縁を望んでくれた女性たちだ。誠実に返事をしなければいけないとは思っている。とても難しくて苦しいことだけどね」
思わず本音がこぼれ出てしまったが、それを気にかけてはいられなかった。
難しい、苦しい、で済むのだろうか。
彼女へのこの思いを鎮めて、レスリー殿の言う通り、僕は誰かと穏やかな幸せを築けるのだろうか。
欠片も自信が持てなかった。
気づくまでに時間のかかった思いは、気づいたときには僕の全てを侵していた。
一体、どれほどの時が経てば、この思いを穏やかに振り返られるのだろう。
絞り出すような彼女の声が、僕の思考を遮った。
「誰か…、想う相手がいるのか?」
口の端が上がるのを感じた。彼女の海に近い青の瞳を見つめ、僕の魂にかけて真実の思いを口にした。
「ああ、特別な女性がいる。僕の独りよがりな思いだけど」
彼女は息を呑み、瞠目した。
僕は彼女から目を逸らせなかった。声に出せない想いを込めて彼女の瞳を見つめていた。
鳥の鳴き声も、風が木々の葉を揺らす音も確かに遠くでしていたが、僕は彼女の存在だけを感じていた。見つめ返してくれる彼女の瞳だけが世界だった。
この部屋で彼女と向き合うのは、これが最後なのだろう。
一瞬、一瞬が惜しかった。
どれだけでも、彼女の傍にいたかった。彼女の瞳を見つめていたかった。
どれほど二人して縛られたように立ち尽くしていただろう。
一際強い風の音で、呪縛はふと途切れた。
息を小さく吐き、身体のこわばりを解した。
彼女との最後のお茶を淹れている途中だった。
お茶を注ぎ終わり、彼女に渡そうと彼女に目を向け――、
僕は茶器を落としていた。
声も出なかった。
息も止まった。鼓動も止まった。
何もかもが吹き飛んだ。
一瞬後、息が戻ったとき、自分は驚いているということが分かった。
厳密には、驚き、驚愕、そんな言葉では足りなかったが。
今まで何度も彼女に驚かされてきた。
けれど、これ以上の驚きがこの先の僕の人生で起こりうるとは思えない。
いや、断じてないはずだ。これ以上があってはならない。
窓から差し込む月の光が、彼女を照らし出していた。
彼女はマントを脱いでいた。
月の光は、一糸まとわぬ彼女の身体を青白く浮かび上がらせていた。
「私は諦めない。チャーリー」
決然とした、凛とした彼女の声が、部屋に響き渡った。
お読み下さりありがとうございました。長くなりましたこと、重ねてお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。




