前夜の銀の光
お立ち寄り下さりありがとうございます。
夜が深まり、静けさを感じるほどなのに、まだ夜を信じられない。
どうしても明日を考えてしまうからだろう。
明日は、とうとう殿下のお披露目の会が開かれるのだ。
セディやシルヴィア嬢、そして、ハリーの無事を祈るしかできないことが、一層、感情を穏やかなものから引き離している。
僕は窓を開け、無理に、夜を感じ取ろうとした。
息を吸い込んだ瞬間、空気が清められた心地がした。
――まさか、明日なのに…?
振り返れば、銀の魔法使いが端然とソファに腰かけていた。久しぶりに目にした人から外れた究極の美が、彼を近寄りがたい存在に感じさせる。
「久しぶりだね」
驚きのあまり、声が掠れていた。
ハリーは微かに片眉を上げ、頷いた。
「お茶を飲むかい?」
夜も遅く、普通ならお茶を飲む時間ではないが、彼を見ると条件反射でお茶を考えてしまう。そして、彼はしっかりと頷いたのだった。
少し頬が緩んだのを感じながら彼のお気に入りのお茶を淹れ、彼に差し出したとき、彼の手首に腕輪がはめられていることに気が付いた。
花の文様が刻まれている。女性向けの物に感じられた。
「シルヴィが私にはめたのだ」
夜に浸み込む声が僕の疑問に答えていた。銀の髪を掻き上げながら、彼は話続けた。
「元々は私がシルヴィを守護するために贈ったものだ」
それでは、明日、彼女の守護が薄れてしまう――、そこまで考えて、彼女の意図に気が付いた。
「君は、敵に一人で向き合うつもりなのかい?」
心臓が冷えていく気がした。
銀の魔法使いは目を伏せ、お茶を味わう。
否定しないのか。
一国の王太子を暗殺する者だ。いや、人数がどれほどなのかも分からない。けれど、確実なことは、相当な手練れであるということだ。
それなのに――、
「明日、城にやってくる者は、本人にその記憶はないが、エルフの生まれ変わりだ」
冷えていく身体に、その言葉はじわりと浸み込んだ。そして、身体は麻痺したようにすべての感覚がなくなった。
エルフの生まれ変わり?
エルフそのものでないにしろ、人を超えた存在なのではないか?
その存在と人が戦わなければいけないのか?
それも一人で。
「一人でなければいけないのかい?」
そう言葉を絞り出しながら、答えは分かっていた。だから、腕輪がはめられているのだ。
彼の纏う清らかな空気が、一段と彼を孤高な存在にしている。
「明日の相手は、既に人から忘れ去れたほどの昔、この地に暮らしていたエルフたちの敵だったものだ」
ぼんやりとした頭に、澄んだ声が染み込む。
こんな時なのに、彼が僕に気を遣い、声音を和らげたことに気が付いた。
僕は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を深めた。
魔法のことは分からない。政治的に難しいフィアスの立場を振り切り、城に行っても、エルフとの戦いに足手まといになるだけなのかもしれない。
剣の戦いにおいても、人数が戦力と一致するわけではない。
そのことは十分に分かっている。
けれど、認めたくなかった。
ハリーを一人で敵に向かわせたくはなかった。
僕は立ち上がり、彼のソファの脇に立った。
銀の長いまつ毛に縁どられた紫の混じった青の瞳が、お茶からゆっくりと僕に視線を移した。
僕は胸元から彼にもらった銀の魔法石を外し、彼にかけた。
彼が作ってくれた魔法石だ。
幾ばくかは彼の力になるだろう。
そのまま彼の肩に手を置いて、歯を食いしばった。
そうしなければ、ハリーたちの戦略を乱してでも、自分の立場を踏みにじってでも、彼の傍にいると言い出しそうだった。
息を吸い込み、彼の肩から手を放した。
この不器用な優しい魔法使いを信じている。
この国に来てから、長年、この銀の魔法使いは、お茶を味わいながら不器用に僕にも心を配ってくれた。
この無謀な戦略が失敗したとき、周りの人間にどれほどの痛みと後悔を負わせるか、分かった上での決断だと信じている。
――過去の因縁に囚われて、決断を誤る人間ではないと信じている。いや、彼がどんな存在であろうと信じている。
ゆっくりと息を吐いた。
だから、僕の言うことはこれしかない。
「約束を覚えているかい?今年作ったバタタス酒が、そろそろ飲める頃だよ」
紫の混じった青の瞳を正面から覗き込んだ。
ふわりと彼の顔が綻んだ。美しさが限界を超え、空気までもが恥じらったように揺れた気がした。
「いいかい、君がもし明日へまをしでかしたら、僕は可能な限り君のお墓に通って、君のお墓の前でバタタス酒と君のお気に入りの紅茶を存分に味わい、君には一切捧げてあげないよ」
銀の魔法使いはクスリと笑った。
「手ごわい脅しだな」
僕は澄ました顔で答えた。
「そうだとも」
その瞬間、ハリーの腕が肩に回され、抱え込まれた。
意外に厚い胸が僕を受け止め、清らかな空気に包み込まれる。
「明日が終わったら、すぐにセドリックの誕生日だ。その夜に、飲み交わそう」
空気に浸み込む声に頷きたかったが、頷けない事情があった。
もし殿下がシルヴィア嬢と婚約したら、僕とシャーリーは天使たちの駆け落ちに奔走しているはずだ。この屋敷を離れている。
「お前がどこにいても、お前の下に転移できる。このことも信じてくれ」
笑いを含んだ声が肩に響いた。
ああ、信じることが出来るとも。
僕は力強く頷いた。
そして、心の中で祈りを捧げた。
どうか、この魔法使いに武運がありますよう。
お読み下さりありがとうございました。インフルエンザではなかったのですが38度台の熱が出ました。この部分、非常に時間がかかりました。お恥ずかしい限りです。




