最後の練習
お立ち寄り下さりありがとうございます。
本当に急いでいたようだ。マイクは馬に疲労が見え始めるまで、走り続けた。
夜が明けて、一睡もできなかった僕は、ようやく訪れた休憩に地面に転がり込むように馬から下りた。
「坊ちゃん、体力が足りませんな」
こんな時でもマイクは指導を忘れない。悔しいことにマイクの端然とした佇まいは全く崩れていなかった。
寝不足で疲れた頭と、マイクのいつもの佇まいから、国境を越えようとしているのが夢のような気がする。
「夕方ごろには、国境に着くはずです。迎えが到着しているといいのですが」
朝食の包みを僕に渡しながら、マイクはあっさり夢を打ち破った。
「もう父上のところに戻ってください。迎えの人の特徴を教えてくれれば、後は僕一人で落ち合います」
マイクは国の剣技大会で何度も優勝した経験を持つ凄腕の元騎士だ。
正直なところ、なぜ父の下でまだ働いているのか、農作業をこなしているのか疑問に思っていたぐらいだ。
とにかくマイクには今は誰よりも父の傍にいて欲しい。
瞬く間に朝食を食べ終わったマイクは顎を摩った。
「それはできません。旦那様から必ず迎えを見届けるように厳命されています。そして私もその指示には賛成です。
それに、実は、私も迎えの方と面識がないのです。『どこから見ても人のよさそうな』人物としか聞いていないのです」
自分の行き先に少々不安を覚えた。せめて髪と目の色ぐらいは聞いてほしかった。
どうやらウィンデリア国には一人で侵入して、働き口も自力で見つけるしかないようだ。
「『見ればすぐにこの特徴で分かる』そうです。まぁ、坊ちゃん、楽しみにしておきましょう」
僕は諦めて朝食に意識を戻した。好物の蜂蜜とマスタードで漬け込んだ鶏肉がパンに挟んであった。水筒には水ではなく林檎のジュースが入っていた。今年は林檎があまり実らなかったのに、このために絞ってくれたらしい。性懲りもなくまた目頭が熱くなる。
何とか僕が朝食を食べ終えると、再び国境へと向かった。父の領地から離れるにつれ、疲弊した生活が窺える景色となり、僕はマイクの背中だけを見るようになった。
日が傾き始めたころ、ようやく川のせせらぎが耳に入り始めた。
「ここがウィンデリア国と一番近い場所になります。ウィンデリアと交易もあるのです」
マイクがぽつりと呟いた。
国境近くのこの村は、それまでの村と異なりささやかな幸せがまだ感じられる景色だった。
少し慰められる心地で村を見遣りながら、マイクに付いて村を通り過ぎ川沿いに残された木立に入った。
遅くなった昼食兼夕食を食べ終わるとマイクが出し抜けに言った。
「約束より早く到着しました。時間があります。腹ごなしに今日の練習をしましょう」
食べたばかりで体に悪そうだったが、僕は提案に飛びついた。
じっとしていると、余計なことを考えて目頭が熱くなりそうだったのだ。
練習用ではない真剣で向き合うのは初めてだった。
マイクは泰然と構えている。それでも威圧感がいつもより増していた。
全く隙が見当たらない。仕方なく飛び込んだ。
マイクは一歩も動かずに、僕の攻撃を全て受け止め弾き返す。
初めての真剣の重みにもう息が上がり始めてしまった。確かにマイクの言う通りだ。体力が足りない。
悔しかった。
これでマイクとの練習は最後になるかもしれない。
僕は少し離れ、息を吸い込んで気を整えた。
せめて一太刀――!
霧が晴れたようだった。世界から音が消え去り、全ての動きがゆっくりに感じられ、体が勝手に動いていた。
僕の振り出した剣をマイクは一歩下がって受け流し、彼の手首の動きからそのまま攻撃に移ることを感じた。
身体が警鐘を鳴らし、僕は地面を蹴り後ろに下がって間合いを取った。
マイクがふっと笑い、剣を収めた。
「素晴らしい観察です。そして先ほどの振りは、今までの振りで最高のものでした」
僕も剣を収め、いつものようにお辞儀をした。
「ありがとうございました」
これが最後の練習なのか。
飽きもせず目頭が熱くなって俯いた。
「坊ちゃん、これからも基本の型は毎日行うんですよ。
もっと、…もっと教えて差し上げたかった。私の全てを伝えたかった。貴方が上達していくのを見ていたかった」
マイクの声が掠れ始めた。
「ですが、できないものは仕方ありません。坊ちゃん、強くなるための一番大切な秘訣を教えましょう」
僕は顔を上げた。マイクの目は赤かった。それでも僕を真っ直ぐに見据えていた。
「仕えたい主を見つけるのです。守りたいものを見つけなさい。勝つことの、負けないことの意味を作るのです。
そうすれば、貴方はきっと…、必ず強くなる。私を超えることが出来るでしょう」
昨日の昼にマイクからこんなことを言われれば、嬉しさに舞い上がって何も手に着かなかっただろう。けれど、今は遺言を聞いているような気分でしかない。言わないで欲しいと言い出さないために、奥歯を全力でかみしめていた。
「確かに、君の歳であれだけの動きをできるなら、将来が楽しみだね」
長閑な、穏やかな声が響いた。
マイクが目を見開いた。マイクも全く気配に気が付いていなかったのだろう。
木立の陰から、一人の小綺麗な身なりの男性がゆっくりと出てきた。
瞬間、分かった。
『どこから見ても人のよさそうな』人物、まさに言い得て妙だった。迎えだった。
「やぁ、チャーリー君、待たせてしまったようだね、それでは行こうか」
その人は、まるで今から散歩するように声をかけた。気が付けば肩に手を回され抱き込まれていた。初対面の相手なのに、服越しに鍛えた体を感じるのに、これだけ密着しても嫌悪も警戒も抱かなかった。とんでもない人だ。
「これより先は宜しくお願い致します」
振り返れば、マイクが最敬礼をしていた。
頭上から、穏やかな声が答えていた。
「任せて下さい。必ずフォンド公爵家に届けます。ベインズ侯爵とマイク殿に幸運を」
マイクは歪な顔で目礼を返す。
気が付けば叫んでいた。
「僕が『坊ちゃん』を卒業するまで、必ず生き延びて下さい!必ず卒業して見せますから!」
マイクは再び最敬礼をして、そのまま頭を上げなかった。彼の肩が微かに震えている。
しばらくして頭上から微かに溜息が聞こえ、呟きが降ってきた。
「それでは、行こう」
その瞬間、目の前が白い光に包まれた。
お読み下さりありがとうございました。2/16「恋の締め切りのこぼれ話」に、チャーリーが少し登場する話を投稿しています。よろしければそちらも併せてお読み下さい。