マイクの祈り
お立ち寄り下さりありがとうございます。
耳に馴染んだ、剣が空気を切る音。
けれど、今日の音は少し耳に慣れない。傍らで剣を振る少年の姿がないからだ。
私は目を閉じ、剣に集中しようと試み、気が付けば少年と出会った日を思い出していた。
「私の息子の剣の師匠になってほしい」
ある日、突然、侯爵が部屋に訪ねて来て、出し抜けに依頼された。
自分は剣士として名を馳せていたから、この手の依頼も何度か受けている。
――全て断っていたが。
しかし、今までのように即座に断ることを躊躇ってしまった。
侯爵の縋るような瞳は、「剣の師匠」に向けるレベルではなかった。強いて言うなら、神の像に泣きつくような瞳に感じた。
気が付けば、子息と会ってから決めることになっていた。
だが、今ではこう思ってもいる。
あの時は、侯爵の瞳に何かを感じたと思っていたが、己惚れるなら、剣士としての勘が働いたのかもしれない。
素晴らしい剣の使い手に会えると
侯爵が用意してくれる馬車を断り、旅をする気分でベインズにのんびりと馬で向かった。
しかし、ほんの一日でのんびりした気持ちは消え失せた。
王都を出た途端、目を背けたくなるような貧しい現実を、至る所で目にすることになったのだ。
通り道にある畑は萎れ切り、人々の顔も同じように輝きが消え去っていた。
私は、馬を早駆けさせていた。
そして、ベインズにたどり着いて、気が付けば馬を止めていた。
そこは別世界が広がっていた。
いや、ほんの数年前までの「当たり前」の景色がそこに残されていたのだ。
見渡す限りの農地は青々として、領民は豊かではないが生気に溢れている。
心が洗われるような景色だった。
こんな領地の主が、なぜあんな縋るような瞳をしなければならなかったのだろう。
疑問に思いながらも、この別世界をゆっくりと味わいたくて、馬から下りて歩きながら領主の居城を目指した。
居城に近づくにつれ、農地で耕している男たちの体つきが逞しくなっていった。
恐らく職にあぶれた騎士崩れと思われたが、どの男たちも表情は明るい。
さらに気になることは、あの体は鍛え続けた賜物に思われることだった。
農作業は体を使うが、騎士の筋肉が残っている。
いつか騎士に戻ることを夢見ているのだろうか。
その予測は外れている気がしたが、答えは見当もつかなかった。
いよいよ居城の敷地に入ったと思われたとき、――敷地も農地と化していたので恐らく入ったとしか言えなかった――、黄色に近い金の髪をした幼い子どもが、木の棒を片手に笑いながらこちらに駆けてきた。
聞く者の心をふわりと温かくするような、楽しそうな笑いだった。
思わず足を止めて、子どもを見つめた。
5歩ほど離れたところで、子どもも立ち止まり、笑顔のままで私を見つめ返した。
私は息を呑んだ。
今まで見たこともない程、澄んだ眼差しの持ち主だった。
この眼差しの前では、自分の全てをさらけ出してしまう、そんな澄み切った瞳だった。
子どもは、笑顔を一段と深めた。
「今日は、5人で遊ぶの?」
もはや気配を隠すことを止め、殺気すら漂わせたいかつい男が4人、姿を現した。
当然、その殺気は子どもではなく、私に向けられている。
この子どもに4人も護衛がついているのか?
一領主の子どもにここまで警戒が要るとは、どういうことだ?
溢れる疑問を抑え込み、子どもを見つめ、鞘ごと剣を腰から外しながら答えた。
「そうですね、今日は私も加えて下さい」
子どもは輝くような笑顔で頷くと、笑顔を収め、棒を構えた。
――!
何の特徴もない、構えだった。だが、その構えを向けられた私の背筋に緊張が走り抜けた。
私の剣の腕が上がり、好敵手がいなくなり、ここしばらくこんな緊張は味わっていなかった。
私も鞘に収まった剣を構えた。
4人の男たちも一斉に構えたが、私は目の前の子どもしか気にならなかった。
いや、子どもに全ての意識を刈り取られていた。
集中しなければいけない、そう剣士の勘が告げていた。
そして、子どもはすっと自分の間合いに入り込んだ。
その流れるような美しい動きに、私は時間を止められたように、ただ魅入っていた。
――!
気が付けば子どもは私の剣に棒を合わせ、そのまま走り去っていた。
護衛の一人が子どもを追いかけている。
その足音が耳に入り、時が戻ったとき、鳥肌がたった。
あの子どもには天与の才がある。
あの才が花開くのを見てみたい。
私は自分の鼓動を感じていた。
そして私はそのままベインズに住み着くことになったのだった。
教え始めて半年が経った時、侯爵から「坊ちゃん」に護衛が4人も付いた理由を打ち明けられた。侯爵が私に縋りついた理由も分かった。
親としてその「理由」は、耐え難い運命の足かせに思えただろう。
けれど、私は密かにその理由に感謝している。
そのおかげで、あの澄んだ瞳の天才に出会えたのだ。
澄んだ瞳に惚れたのが先か、才に惚れたのが先か、今となってはもう分からない。
ただ、坊ちゃんが私の傍らで、少しずつ成長し、私の技術を身に着けていくことを見るのは、至上の喜びだった。
坊ちゃん、次にあなたと会えたとき、貴方の剣はどのようなものになっているのでしょう。
どうか、その剣が、貴方の眼差しが曇らぬよう日々を過ごしてください。
私の願いはそれだけです。
私は、朝の清らかな空気を吸い込み、素振りを再開した。
お読み下さりありがとうございました。割り込み投稿のため投稿時刻が変わっていますが、最新部分の投稿は11時の予定です。当初、完結してから投稿する予定でしたが、体調が悪い日が続き気弱になったところに、キーボードのバックスペースキーが嫌な音を立て始め、投稿しました。申し訳ございません。




