6.情人節
登場人物:長兄、長兄の奥方、雨仔
里帰りから戻った奥方が執務室の扉を開けると、護衛が震える手で短剣を主人に突きつけていた。
すわ革命かとも思ったが、どうにも様子がおかしい。あの気弱そうな護衛……もとい脱走男の捕獲係の手と膝が震えていることは理解できるとして、夫君の様子はどうか。あれは突き付けられた短剣など気にせぬ豪胆さを持ってはいるが、それを踏まえてもどうにもおかしい。あやつ、目を瞑っている時間が異様に長い。まさかとは思うが、舟を漕いではおらぬか。
「駄目だ、もう瞼が開かぬ。このまま寝かせてくれ」
「主人様、しっかりなさいませ! 寝てはなりませぬ! 先ほども鼻の皮が薄っすら剥けてしまったではありませんか!」
顔の前に刃物があるというのに、男は全く気にならないらしい。男の愛用の短剣を持たされている護衛の方が、よっぽど死にそうな顔をしている。気の毒な護衛のために、訳のわからぬ茶番は終わらせてやらねばならぬか。里帰りの間に溜まった仕事を片付けに来たのに、先ずは阿呆の片付けをせねばならぬとは先が思いやられる。
女が溜息をついて執務室の扉を大きく開こうとした時、主人に訴えかける護衛の声が聞こえてきた。
「そもそも刃物があれば、昼間の書類仕事でも目が冴えるとか言い出したのは主人様じゃあございませんか。寝ないでくださいませ!」
「ええい、いっそ血が出てしまえば、痛みで眠気も覚めるはずだ! よしお前、一気に突き刺せ」
「そんな無茶苦茶な」
「つべこべ言うな! 男なら黙って言われた通りにすれば良いのだ」
「主人様に何かあれば、一族郎党打ち首で村が一個消えるんです。まったく簡単に言わないで下さいよ」
男と護衛はもはや気安い仲であるらしい。もともと怪しかった護衛のとってつけた丁寧語は既に何処かに吹き飛んでいる。何と夫君は、書類仕事をするためにあんな阿呆な事をやり出したらしい。一体どういう風の吹き回しかしらん。女が訝しげに様子を伺っていると、義弟が笑いを噛み殺したような顔で現れた。どうやらこの状況は、男のすぐ下の弟も公認らしい。
「もう諦めて、市場で花か何か買いに行きましょうよ。奥方様が帰ってこられるまでに、残りの書類仕事を終わらせるなんて無茶ですよ」
「ならん、ならん! 今日は情人節ではないか! あやつは好みがうるさいから、俺が流行外れのものを買ってやっても、始末に困るだけだろう。かと言って花など腹の足しにもならん。せめて仕事を少なくして、ゆっくりさせてやりたいのだ」
「日頃からそういう殊勝な態度で仕事に励めば宜しいのに」
「無茶を言うな。椅子に座って何かするなど、尻がむず痒くてたまらん。このままでは尻から苔が生えてしまうぞ」
男は見るからに憔悴しきった様子で、ひたすらに筆を走らせる。事務方に向いていないというだけで、元は有能な男なのだ。見る間に仕事は進んでいく。
女と弟は顔を合わせて、くすりと笑う。いささか心配は残るが、この場は男に任せるとしよう。久しぶりにこの手で料理を振舞ってやるか。女が男の好物をあれこれ思い浮かべていると、男の弟はすでに丸々太った良い鶏を何羽か用意したという。さらに酒と甘味は自分がすでに買い求めていると。準備の良い兄弟に、女は思わず吹き出した。