5.餓狼之口
登場人物:セイ、ヒスイ
夜半過ぎまで仕事をしていたある日、滋養のある食べ物があるのだと女が黒い塊を持ってきた。
「おや、これは?」
「南方のとある国の特産物だ」
先日使節が挨拶の際に、これを手土産として献上したらしい。中身を知るや否や、面倒な狸共がそわそわし始めたので、さぞや良い物であろうと珍しく手元に置いていたのだという。普段は捨ておかれることの多い諸国の贈物。今回も……と期待していた中年男共は、大層がっかりしていたと女は嬉しそうに笑った。
女に言われ、男は酒の用意をする。まあ今日の仕事もそろそろ終いだ。酒を嗜むのもまたよかろう。だが火酒を所望され、男はこっそり渋い顔をする。西国の特産ではあるが、実は女の苦手な酒である。自分といるときにまで気を張る必要はないものを。甘え下手の王のことを、男は少しばかり残念に思う。
「加加阿というそうだ。あちらではこの実がその昔、貨幣として使われていたというから貴重品だ」
「ところで陛下、使節殿は何とおっしゃってこの食べ物をお持ちになったのですか」
掌に乗る小さな小箱。箱の蓋を開けてみれば、ふわりと甘い匂いが漂った。その香りに覚えがあり、男は少しばかり眉を曇らせる。一番上の兄の成人近くに己は誕生しているのだから、男の父はそちらの方面に対しての探究心もまた貪欲であった。その父が、時折南方の国から何ぞ取り寄せてはいなかったか。
「滋養のある食べ物だと言っていたぞ」
「……左様でございますか」
男は天を仰いだ。使節が西国語を言い間違えたのか、西国側の通訳が言葉足らずだったのか。王の理解と受け取った贈物の中身は、少しばかり乖離している。正確に言えば、箱の中身は『滋養のある食べ物』ではなく、『滋養強壮に良い食べ物』である。
ええいままよ。覚悟を決めて食べてみれば、それは何とも甘くほろ苦い摩訶不思議な食べ物であった。火酒とも意外によく合うのだ。もともと貪りたくて堪らぬ女の横にいるのである。この食べ物の効果を試す機会がないことが残念なばかりだ。しばしこれを味わって、男ははたと女を見た。
気付けば、女の瞳がとろんとしている。どこか幸せそうなその表情を見て、男は思い出した。この滋養強壮に良い食べ物とやらは、女に対しては媚薬として使うのではなかったか。しかも甘く口当たりが良かったせいであろう、女の火酒の減りがいつもより早いのだ。
「そなたがきてくれて、ほんとうにうれしいのだ」
まるで睦言のように頬を染めながら、女は言う。そのままふわりと微笑んだ。
「ずっとひとりでさびしかった。ごしょうだから、どこにもいかないでくれ」
普段は心に掛け金を掛けて、封じ込めているであろう本音。恋しい女の心の声は、甘く優しく、男はくらりと眩暈がする。お仕え出来て嬉しゅうございます。そうそつなく答えようとして、男は身体を強張らせた。いつもよりも女の座る位置が、少しばかり近くはないか。なぜ上目遣いで己を見てくる。こちらの肌をなぞるな。体が火照って暑いからと服を脱ぎ始めようとするとはどういうことか。
前言撤回。甘え上手な王の姿は強烈である。据え膳食わぬは男の恥というが、この膳には食われる気などさらさらないのである。飢えた狼の口に己が咥えられているなどとはつゆ知らず、女は無邪気に男の胸に頬を寄せた。もはや己は、今夜は一睡も出来そうにない。幸せそうにむにゃむにゃと腕の中で眠る女を抱え、男は苦悩した。しゅきーと何やら聞こえたのは、恐らく己の幻聴であろう。
翌朝、女はいつも通り自室の寝台の中で目を覚ました。どうやら男が運んでくれたもののようだ。ふと気がつくと廊下がやけに騒がしい。
何と、演習場の古井戸に幽霊が出たのだという。その髪の長い幽霊は上半身裸のまま、びしょ濡れで何やらぶつぶつ呟いていたというのだ。外に出るにも外套が必要な時期である。これは幽霊に違いない、その昔、古井戸で入水自殺でもあったのではないかと上へ下への大騒ぎであった。
面白い話を聞いた。女が早速男の部屋を訪ねてみれば、何と男は風邪を引いたのだという。昨夜まで元気であったというのに、どうしたことか。女が不思議そうに小首を傾げる横で、男は嘆息する。滋養のある食べ物は懲り懲りだと男は呟いた。