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2.水蜜桃

登場人物:セイ、ヒスイ

 その日の甘味は、甘く香りたつ柔らかな水蜜桃であった。


 書類仕事に差し障るからと、普段は汚れにくいものを用意する男にしては珍しい。気になって聞いてみれば、八百屋の店先で売り子の少年が、仕入れたばかりの果物を盛大にひっくり返してしまったらしい。林檎やら梨やらであればまだ良かったのであろうが、水蜜桃は直ぐに傷んで駄目になる。小さく震えるその姿は見るに堪えず、ついつい買ってきたというのだ。


 女の前には小さな器に、一口大に切り分けられた果実が美しく盛られていた。


「そなたは食べないのか?」


「傷みが激しいものもありましたので、僭越ながら店先でそのまま食べてまいりました。旬の水蜜桃ですので、簡単に素手で皮が剥けるのですよ」


 おそらく水蜜桃を切り分けもせずに、そのままかぶりつくというのは無作法の部類に入るに違いない。けれど、男が街角で美味そうにものを食べる様子は、何故だかとても絵になるだろうと思われた。だからであろうか、つい口に出してしまったのは。同じように食べてみたいと言えば、男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。


 大きな水蜜桃を、丸ごと手づかみで食べるのはなかなかに難しい。少しばかり躊躇いながら、思い切って大口を開ける。はむはむとかぶりつけば、思ったよりも蜜が溢れて、口から少しばかり汁が溢れる。仕方なしに手の甲で拭えば、今度は捲らずにいた袖に甘い汁が垂れそうになり、女は慌てて男に命じて己の服を捲り上げさせた。


 それでも食べるごとに手からたらたらと甘い蜜が流れ出てしまう。女は慌ててぺろりと、腕から手首まで舐めあげた。お行儀は悪いが仕方ないではないか。桃を食み、腕を舐め上げる。頬を膨らませ、甘い果実を口いっぱいに堪能する。一口大に切った桃とは異なる、大胆な味。ただ咀嚼する音だけが部屋に聞こえる。


「このように食べるのも案外良いものだな」


「それはようございました」


 だから女は、そのままおねだりしてみたのだ。


「もっと……欲しい。我慢できない」


 男に笑いかけてみるが、男は顔を赤くするばかりでものも言わない。あまりにも水蜜桃に苦戦する自分が可笑しかったのか、男は少しばかり前屈みである。確かに水蜜桃に夢中になりすぎたのは子どものようであったかもしれぬ。少しばかり恥ずかしくなって男を睨めば、急に男が立ち上がった。


「……そういえば、午後は新兵との訓練があるのを忘れておりました。申し訳ありませぬ」


「そうか? ならば行ってくるがいい」


 いつもならばそつなく片付けていく茶器もおざなりにして、男は飛び出していく。女の顔の汁気も拭き取り、服も綺麗にはしてくれたのだが、珍しく慌てていた。そんなに約束を忘れていたことを気にしていたのだろうかと女は不思議に思うのだ。


 その日の午後、運悪く城の演習場にいた新兵たちは荒ぶる男によって散々な目に遭ったらしい。彼らはどんなに王に聞かれても顔を青ざめさせるばかりで、決してその口を割らなかったという。

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