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1.前虎後狼

登場人物:長兄、長兄の奥方、雨仔

「弟が帰ってくる!」


 まるで子どものように息急き切って走りこんできた厳つい男を一瞥し、執務室の席についていた赤毛の女はまた書類仕事に精を出す。どうやら仕事が溜まっていたらしい。積み重なった書類の山が少しばかり崩れたのを、神経質そうに指で整えながら、女はやはり下を向いたままだ。


「ああ愛しき妻よ、何故俺を無視する。いよいよ王の資格を持つ弟が帰ってくるのだ。もう次期国王の妻として、面倒な行事に駆り出されることもないのだぞ?」


 芝居がかって、男は両手を挙げた。妻に一報を伝えるべく駆け込んできた男は、己の存在を無視されて狼狽うろたえる。そのまま足音高く、妻の元に近づいた。


 王家になど嫁ぐ気はさらさらないと突き放す女の元に通うこと幾年か。ようやく妻にした女は、月日が経つごとにますますその美しさを増しているような気がする。子犬のように尾を振り、心底不思議そうに小首を傾げる男の様子を見て、赤毛の女は苛々したようにこめかみを押さえた。


「わたし、言ったわよね。面倒なことは大嫌いなの。次期国王の妻ではなくなる……まあ良い知らせっちゃあ良い知らせね。ちょっとはのんびりできるかも。王族になんてさらさら、本当にさらさらなる気は無かったんだし。でも、考えて見てちょうだい。貴方がそれを毎日占い婆の所にお伺いにいっている間、代わりに職務をしているのは何処の誰かしらね? まさか仕事が一人でに消えていくとでもお思いかしら?」


 春ももう間近だというのに、部屋の温度が氷点下のように下がったのを感じて男は慌てた。女に惚れたのは美しさだけではない。その高い能力は、男の目から見ても大層魅力的であった。事実、女の補佐はこれまでにないほど男の政治能力さえも高めてくれたのだ。二人の関係を次期国王と補佐官としてみるのか、駄犬とそれを躾ける飼い主としてみるのか、それは周囲の自由であるのだが。


 あるはずもない頭の上の耳をへたらせて、男は事態に気づく。奥方の怒りは相当なものである。あたふたと周りを見回せば、すぐ下の弟がいるではないか! 味方につけようと男はゆっくりと近づき、弟と官吏の会話に耳をそばだてる。


「……兄上が屋台街を破壊し尽くしただと?」


「はっ、報告に入っております限り、幾つかの屋台が倒壊全損、倒壊を免れたものの売り物にしていた商品がことごとく駄目になった店もあります。被害が少なかったものでも、今日一日分の稼ぎは飛んでしまったと店の主人や行商人たちが怒り心頭でして……」


 不味い、この空気は不味い。そろりそろりと後ずさりする男の存在を初めから知っていたように、すぐ下の弟はにっこりと柔和な笑みを浮かべて男を見た。


「おや、ちょうど良いところに兄上がおられる」


 後ろに数歩下がれば、触れるのは柔らかな身体。


「今帰ってきたばかりで、一体何処へ行こうというの?」


 にっこりと艶やかに笑う女の赤毛が、まるで意志を持つ生き物のように広がって見えたのは気のせいか。


 前門に虎を拒ぎ後門に狼を進む。いくら猛き武人でも、虎と狼に挟まれてはどうにもならぬ。この後の仕置きを想像して、東国の次期国王という肩書きを持つ男は、情けない悲鳴を上げた。

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