16.窮鼠噛猫
登場人物:長兄、雨仔
奥方に間男が出来たと、厳しい武人が泣いていた。
「いやいや、さすがにそれはありますまい」
すぐ下の弟が慰めても話にならない。昨日も、何やら記念日だと言ってご機嫌で買い物に出かけて行ったのだという。何やら良い魚を買ってきたようだが、自分の夕餉にその魚はなかったのだとさめざめと語る。その姿は、東国の次期国王という肩書きを持つ男のものとは到底思えない。
「俺よりも、仔仔の方が良いと言ってずっと一緒に寝てもらえないのだ。貴方より、彼と一緒にいたいのだと! 何が仔仔だ! 俺のことも愛称で呼んでくれ……」
もはや訳がわからない。そもそも奥方は、間男を囲える立場ではないのだ。東国の男が幾人もの妻を持つことができるのに対して、女が持つことのできる男は夫ただ一人である。もちろん例外もあるだろうが、もし囲うにしても、もっとやり方というものがある。いくら広いとはいえ、同じ屋敷内に間男を引き込むだろうか。夫の前で、そうべたべたと相手の男の愛称など話すであろうか。
「そんなに気になるのでしたら、義姉上に直に聞いてみれば良いではありませぬか」
どうせまた何か兄が暴走しているに違いないのだ。付き合いきれぬとばかりに一蹴すれば、間男の方が良いと言われたら生きてはいけないと暗くなる。文官の誰それが奥方の好みで怪しいだとか、武官の誰それが奥方に色目を使っていたようだなどと、男は虚ろな眼差しで剣を見つめながら呟いていた。斬り伏せるつもりであろうか、なかなかに心臓によろしくない声音をしている。
鬱陶しいことこの上ない。梅雨時でもないのに、部屋に黴が蔓延っているような心持ちがする。仕方がなく、兄を引きずりながらすぐ下の弟は奥方の部屋を訪れた。部屋の扉に耳をそば立てれば、くすくすと楽しそうな囁き声が聞こえる。普段の奥方からは想像も出来ぬ甘く優しい声に、義弟は驚いた。その隣で絶望的な顔をした兄がふらふらと扉を開ける。
寝台で女が横たわっていた。寛いだ格好の女の膝には、間男……ではなく小さな仔猫がちんまりと座っている。至福の時を邪魔されたからであろう、女は大層機嫌の悪い声で何かご用かしらと男に問いかけた。想定内の事態に弟は溜息をついた。どうせ、兄は最初の一番重要な情報を飛ばして、奥方の睦言のような仔猫への愛情にばかり耳を傾けていたのだろう。
「ああ俺も猫になりたい……」
奥方に甘えたい。良い子良い子と撫でられたい。手ずから食事を与えて欲しい。間男の正体が判明したというのに、兄の悩みは晴れるどころかますます混迷したようにも見える。そのままずるずると崩れ落ちると、喵喵と鳴きながら、奥方に飛び掛った。
窮鼠猫を噛むとは聞くが、窮鼠猫を喰うとは知らなんだ。すぐ下の弟は、奥方の膝から追い出された仔猫を抱えてそっと退室する。勝気で気まぐれでなかなか甘えてくれない奥方は、人に慣れない野良猫のようだ。その癖、本当は寂しがり屋で甘えたがりなのだと兄は笑うが果たしてどうであろうか。
ややこしい女心について考えるくらいなら、きっちりと計算で見えてくる帳面の細かい数字と付き合う方がまだましである。可愛がってくれる相手が急にいなくなってご機嫌斜めの仔猫を抱えながら、男は執務室へと一人戻る。