11.嫉妬羨望
登場人物:セイ、ヒスイ
廊下の片隅で、男が侍女の手を握りしめ何事か囁いていた。
制服の色を見る限り、まだ下っ端の侍女である。男の顔を見て頬を染め、年頃の少女らしく何やら懸命に話をしている。廊下の片隅だというのに、何やらそこだけ絵巻物のように眩しく色づいて見えて、女は男に声をかけぬまま踵を返した。
可愛らしい手をしていたと、女は思い出す。桜色の爪が輝く、女らしい手。振り返って己の手を眺めてみれば、短く切り揃えられた爪。書類仕事や剣の鍛錬で指先は荒れ放題。ささくれ、かさついている。侍医に言って、薬でも貰うべきか。女はあの鼻が曲がりそうなほど薬草臭い軟膏を思い出して、げんなりとした。
椅子に腰掛け書類に目を通すが、さっぱり内容が頭に入らない。それに何ということか、男は所用で街に出かけたと別の人間に聞かされた。己の許可を取る手間さえ惜しいのかと、唇を噛む。
そういえば異国から来た隊商が市に店を出していると、侍女たちが朝からざわついていたではないか。なるほど、白昼堂々あの侍女と逢引とは良い度胸ではないか。自然と目がつり上がってくるのだが、己でもどうしようもない。あれだけ良い男なのだ、恋人の一人や二人いてもおかしくはないとわかっているというのに、己の心の狭さに嘆息する。
ああ、けれど! ずっと自分だけを見ておいて欲しいのだと言えたなら。男のふりなどしていなければ、するりと出るはずのその言葉。けれど、それだけは言えぬのだ。女として生きてはいない自分には、先ほど見た二人の姿は眩しすぎた。じくじくと、抉れた心の傷が疼く。
そんな女の苦しみなど知らぬ顔で、男は帰ってきた。仕事を抜けたのは一刻ほどであるから、逢引にしては随分短い。少しばかりむくれた顔をした自分のことをどう思っているのか、男はにこにこと話しかけてきた。
「良い話を小耳に挟みまして。隊商がもう国へ帰ると聞いたので、慌てて買い求めて参りました」
己の前に差し出されたのは、年頃の女が好みそうな華やかな包みである。思わず胡乱な目をすれば、男は恥ずかしそうに頭を掻いた。店主に大切な方への贈り物だと伝えたところ、恋人に贈るのだと受け取ったようだと。その言葉に思わず、胸が高鳴る。不機嫌そうな顔を崩さぬように懸命に努めながら、女は包みを開いた。
そこにあったのは、きらきらと宝石のように輝く玻璃の小瓶に納められた香油であった。蓋を開ければ、甘く濃厚な薔薇の香りがする。女は知らぬが、店で一等上等な品であった。余りの値に売れ残っていたものを男が買い求めたものだから、商人は嬉しくてたまらなかったのであろう、包み方にも気合を入れたものと思われる。
けれど、やっぱり今朝の件が喉に引っかかった小骨のように気になって、つい冷たい口調で咎めてしまう。可愛らしい恋人とともに出掛けていたのではないのかと。
「可愛らしい恋人……? 今朝方、確かに侍女殿に廊下で呼び止められましたが、そのことでありましょうか。はて何のことやら見当もつきませぬが……」
今朝の件について尋ねてみれば、見知らぬ侍女に恋文を渡されそうになったのだという。主人以外のことに、注ぐ時間はないのだと答えれば皆引き下がると言って男が笑うのを見て、女は密かに胸を撫でおろすのだ。
「しかし、何故ご存知なのです? 」
困惑したように答える男は、嘘をついているようには見えない。女はこの件について不問とすることにした。これ以上突けば藪蛇になる。
涼しい顔をして品を受け取り、綺麗になった手を見せつけてやろうと思っていたら、何と男が香油を塗りこんでくれるのだという。按摩というそうだと、男は嬉々として話す。ただ塗るのではなく、血行を良くしてやればより美しい肌になるのだと熱っぽく語るのだ。
ゆっくりと掌をほぐされて、手首から指先まで優しくなぞられる。爪先のささくれまで丁寧に香油をもみこまれて、女は顔があげられない。ちらりと上目遣いで見上げれば、一生懸命な男の顔が妙に近くて、女は目が離せなくなる。
男の大きな掌に己の手をなぞられて、女は顔が熱くなった。掌だけでなく、全身の血行が良くなるのだと思うことにする。あまりに心地よくて、少しばかり甘いため息が漏れた。