10.平伏叩頭
登場人物:長兄
返り血を浴びた猛き鬼神が、舞を踊っていたのだ。
自分の主人は奥方に心底惚れている。さぞや美しい思い出があるに違いない。一体どのような出会い方をしたのか聞いてみれば、至極真面目にそう返された。男の言葉に、護衛は素っ頓狂な声を上げる。
「主人様、全くもって意味がわかりませぬ」
「何、言葉通りだぞ。ある日街を歩いていたら、暴漢が出たと聞いての。駆けつけてみたら、確かに現場は酷い有様でな」
「なるほど、そこで主人様が暴漢を打ちのめし、そのお姿を見た奥方様と恋仲になったのですね!」
何だ、主人の奥方も昔は極々普通の可愛らしいお方だったのだと護衛が一人納得する。日頃ぼんやりしている主人だが、こう見えて剣の達人でもあるのだ。窮地に陥った娘が、救い主に恋をする。良くある話ではないか。ところが、男の主人は至極真面目な顔で否定した。
「もう忘れたのか。先ほど言ったであろう、鬼神が舞っていたのだと。暴れまわっておったのは奥方の方よ。助け出したのは嬲られた暴漢でな、捕縛された後に安心して泣いておったのだから、よっぽどあれが怖かったのであろうな」
「あの華奢な奥方様がですか?!」
「見た目は細いがな、意外とあれでしっかりとした筋肉がついておるのだ。あやつ、利き手ではない方でりんごを握り潰せるぞ」
穏やかに笑いながら林檎を握り潰す奥方を想像し、男は肝を冷やした。そう言えばここ最近、机の上に妙なところで折れた筆が幾つか転がっていたことを思い出す。おかしなこともあるものだと屑入れに捨てていたのであるが、あれは奥方からの牽制ではなかったのか。
「あやつ、蹴りも強く速く的確に決めるのだ。ああ見えて脚も尻も相当に良い形をしておるぞ」
そのまま足の筋肉について語る主人を見て、護衛は混乱する。東国の美意識の中では、折れそうなほど華奢で、淑やかな女性が好まれているのではないかと。どうやら奥方様は、脱ぐと凄い方のようである。別の意味でだが。
「膝に斜めから蹴りを入れたら、折れそうな脚の女など抱くのが恐ろしいであろう」
「普通は女性の膝を蹴る機会などありませんが……」
「女の脚は多少むっちりしている位で丁度良いのだ」
あれでもう少し乳があれば最高なのだがなあと勝手なことを言う。一瞬、護衛は悪寒を感じた。春はすぐそことはいえ、やはり夕方は冷える。道草はほどほどに、やはりもう帰るべきではなかろうか。護衛の話を聞いているのかいないのか、男の話は止まらない。
「そのまま女の実家を調べ上げて求婚に行ったのだが」
「急転直下ですね」
「女には平手打ちを食らい、義父上には跪座し謝罪された」
「はああああああ?!」
「もともと女だてらに武術を嗜んでいることを、実家でも良くは思われておらんかったようでな。告げ口に来たのかと頭に血が上ったらしい。そんな娘を見て、義父上はお家取り潰しかと思ったそうだ」
私情でそんなことするわけないとぼやく男を見て、護衛は至極真っ当な常識を持っているらしい奥方の岳父にひどく同情した。男子両膝に黄金を持つ。東国の男は、生半可なことでは決して膝をつかない。それは相手への服従を意味することになるからだ。その上で、最上級の謝罪を咄嗟に行った奥方の岳父の心労は如何程のものだったであろうか。規格外の娘に惚れたという、これまた規格外の男。さぞや胃と頭皮に心労がかかっているに違いない。
思わず岳父の御髪の状態をついつい聞いてみれば、男が不思議そうに答えた。
「面識はないのであろう? 確かにお前の言う通り、年々荒野が拡大しておってな。つい先日、遂に綺麗さっぱり無くなってしまっておった」
「先日……でございますか?」
「いつだったか。ああ、科挙をなくすと伝えた翌日だったかな?」
護衛は顔も知らぬ奥方の岳父に、心から同情した。もはや犠牲になるべき毛根がない状態で、今後、胃に負担がかからないことを祈るばかりである。
だが護衛は知らない。またもや仕事を抜け出して、おしゃべりに夢中になっている二人の後ろに奥方が仁王立ちしていることを。拳の中に固い胡桃の実を握りしめながら、夫とその部下が自分に気がつくのを今や遅しと待っていることを。主人が粛々と妻に膝を折るのは、そう遠くない未来である。