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4章、社会人時代

4章では、「僕」がついに社会人時代になり、仕事を始めます。しかし、そこで初めて人生の一大イベントである「うつ病」になってしまいます。そこでどうしたいかと考えた「僕」は自分の人生を洗い流し、これからどう生きていくか?今後どういう事をするのが適切なんだろうかと考えて生きていきます。自分の一度きりの人生好きなことをして、好きなように生きていきたいものですね。

4章、社会人時代

 1、保護所時代

保護所時代、こども達と一緒に僕は和気藹々と過ごしていた。問題を起こす児童もいたがそれほどの問題にならなかった。また、子ども達の問題が起こると一般スペースから離れたり、過ごす場所が変わって反省させたりしていた。それでも僕から見たら子供たち自身には問題があるように見えなかったし楽しそうに過ごしていた。一方で、関わる大人には一つの共通点があった。それは普通の子と保護所に来た子を分けて考えること。様々な事情があるため一緒に考えるのは難しい。何よりも、『仕事』としてみんな分けて考えていた。

ただし必ず共通する一つの出来事があった。子ども同士で小競り合いをする。そんな時保護所の大人全員、アルバイト、正職員関係なく連携することで過度に争いが起きないように努めた。また、子ども達が好きなものに対しては私財を出して費やす職員もいた。何よりも子どもの為にしようとする努力、過ごしやすくする工夫がそこにはあった。

2、児童養護施設入職から、挫折まで

 僕は満足していたが、一時保護所のアルバイトは2か月の休みをもらうことになっている。正職員と違いボーナスをもらうことがないというお金の問題、子どもの為により良い仕事したいという自分の志があった為児童養護施設就職という夢は捨てきれないでいた。

そのように考えていた僕はついにある児童養護施設に就職する。僕はとても喜んだ。僕が行きたい所だ。頑張りたいところだ。ここで一生費やすと決心した。入って一番驚いたのが自分の配属先が幼児ホームになったことだ。今まで未就園児を相手にしなかった為とても不安になり、同時に言葉が通じない子たち相手にどう接したらいいかわからない。すべて手探りの状態から仕事を始めることとなった。不安は重なるもので自分の周りはすべて女性という所で初めての仕事を始めることになった。僕は恥ずかしながら女性と付き合ったこともない、積極的な関わりも持たなかった。高校も男子校で女性と一緒に仕事をするという感覚がなかった。まあ、一番の原因としては小学生時代に女性に裸を見られ笑われたことをずっと引きずっていた。だから女性に対しては常に笑われるのではないかという恐怖から、常に殻をまとって接しようと心掛けた。そのおかげか常に仕事場では失敗続き、失敗理由も深く考えず反省ばかりして過ごしていた。

しかし、そんな僕を変えたのがある上司の言葉である。その上司は僕に対して「何のために仕事をしているの?」と質問してくれた。僕は言われた瞬間、答えることが出来なかった。その言葉が僕に与えた影響は大きく、それからは常に考えながら仕事をすることになった。それからは仕事が楽しくなった。何よりも仕事をしていて悩まず、考えることを重視していった。僕の社会人として人生はここから始まったと言っていい。それからは子どもとも職員とも仕事関わりなく過ごせるようになっていった。

しかし、ある転機が訪れる。それは自分が尊敬している上司二人とのお別れだ。一人の上司は口数少ないが自分が仕事していくうえでのどのようなことを軸に仕事すればいいのか?考えて仕事する事、自分で仕事を取りに行くことの重要性を教えてくれた。もう一人は、その上司が伝えないこと、チームワークの大切さと子ども達の為とはどんなに大事であるかという事を教えてもらった。どちらも尊敬できる人で今日の僕が出来る為にはどちらの上司から学んだことも大事だ。つまり仕事に生きるという事は人生に生きることであることを二人に教わることが出来た。その大切な二人との突然の別れだ。僕の心にはぽっかりと穴が開き、次第にやる気も減少、ミスが目立つようになる。

このようなことをしているうちに気づいていくのだが僕の人生に関係ないものにお金を費やし、必要のある物には金を渋った。また、僕が何のために仕事をしているのか分からなくなっていった。そして、ついにはうつ病に近い状態と診断され職場から離れることになってしまう。

3、うつになった原因

 ここでは回想ではなく現在の僕から見てどうして鬱になってしまったかを自分なりに分析し、その結果を伝える。

僕の鬱になった原因の大本としては、昔から続く自分の起こした行動の責任を転嫁する性質である。責任転嫁することは簡単だ。

いじめを例として出そう。いじめというのは経験した僕が言うのは変だがある特定の人物に対して、グループ、または個人が物理的、精神的に嫌がらせすることによって自分達の優位性を保とうとする行為だと認識している。ただし、いじめという物は強者同士では成立しない。強者と思いたがっている精神的弱者が優位性を保てると思う弱者に対して行う。またはグループの中で突出して目立っている児童に対しての妬みからくる嫉妬心、羨望が歪んだ形で出ることが発端になることもある。そこにはいじめられる側、いじめる側双方にも責任を転嫁してしまうというシステムがある。

いじめられる側を例にとると、自分は普通に過ごしていたのに急に嫌がらせをされた。普通なら逆らうか自分よりも上の者に助けを求めるが怖くて言い出せない。そこから徐々に自分が何もできない弱いものだという無用の責任をうんでしまう。そして本当の意味でする必要がある自分の苦痛からの解放という責任を転嫁してしまう。そうしていじめられ側の悪循環が生まれていく。

一方、いじめる側の責任は自分がしている事件の重要性を認識する事。今自分が行っていることでどれだけいじめられている側が苦痛に思っているかを感じることにある。しかし、現実は大勢で行っていることによる責任の分散、グループのボスについていくコバンザメがよく口にする、「言われたから行った。」という自分が行った責任を一人のボスに転嫁してしまう事が問題になっている。

いじめ問題が起こった場合は誰かが自分の行ったことに対してきちんと責任を感じることが必要である。これはいじめる側もいじめられる側も双方考えなければいけないことだ。

昔の自分は何事にもこの自分の責任を他者に転嫁する傾向があった。その為、失敗しても常に自分がいけないと思っていたしそこから学ぼうなどとは絶対に考えていなかった。うつになったことでいろいろ考えるようになり、責任転嫁することはなくなった。

 極度なネガティブ思考も原因の一つだ。昔の経験から常に自分はダメだと思い込み蔑んでいた。その結果何事も生まれないし、むしろ悪いように進むことがほとんどであった。極端なネガティブ思考は行動さえも悪い結果に進ませてしまう。現在はそれをやめ常にポジティブに考えるようにした。その結果か何事もうまくいくようになっていった。または、上手くいかないまでも、別の方法を試し、自分の近い未来を創造できるように努力するようになった。

 そしてうつ病になった一番の原因として、自分の道が見失ったこと。それが一番の原因に尽きる。責任を転嫁させたって、ネガティブ思考を持っていても、自分の気持ちにうそをつき続けなければ問題なく過ごし続けることが出来る。しかし、僕は仕事を続けていくうちに子供の為というより自分の刹那的な幸せの為だけに仕事を続けていった。自分の人生の道からそれてしまったのだ。うつ病になった僕は一から人生を考え直し、今まで起こったすべてのことを整理して考えようとした。

そして、うつ病を克服する最大の原因は、過去を現在の生きる糧として考える生き方を始めたことだ。

それまで僕は過去を、いじめられたこと、彼女が出来なかったこと、受験に失敗したこと等を負い目に感じて辛いものとして受け止めていた。しかし、うつ病になったからこそそれに向き合い、負い目に感じて生きるやり方に何か得るものがあったのだろうか?真剣に考えた。その結果、経験は僕に何をもたらしてくれたのか?僕は過去の一つ一つの事象に向き合い乗り越えようと努めていった。

いじめに対しては自分の原因は何があったかを問い続ける辛いものだった。彼女が出来ないことに対してはその時の僕に足りないものを真剣に見つめ続ける辛いものだった。受験に失敗したことについてはなぜ受験に失敗したか、受験という作業によって獲得したものは何かという失敗要因を探り続ける辛い作業だった。夢の中で何度も同じような場面を体験し続け、何も考えていない時にフラッシュバックが起こり周り全てが敵に見えるほど恐ろしいものだった。

なぜこのようなことをしたかというと、同じ失敗を二度としたくなかったから何度も同じ失敗を繰る返した僕が出来る唯一の人生においての教訓だった。失敗して終わらせるだけでは意味がない。失敗を乗り越えて初めて人生は充実したものとなる。

そして、今までの僕にないうつ病を終わらせる方法として、二つ新しいことを始めた。一つはポジティブに考えること、それをずっと続けた。僕は考えを続けていくうちに僕は自分を取り巻く環境を変えていきたいと考えるようになった。すると、今まで過去にとらわれた僕が馬鹿らしくなった。そしてある考えが浮かんだ。悩んでいるならまず行動をしようとする原理、もやもやしているなら、まずもやもやを解決するために動き続ける。それをずっと続けていこうと決めた。

もう一つは今までと違う人と付き合い始めること、自分よりも高い役職だと思う人に会いに行く。自分よりも高い役職の人や地位がある人と直接会いその人たちの意見を聞くことで自分の考えの中で必要なものと必要でないもの、現在では実現不可能なものと実現可能なものの選択を行う。徐々に自分の考えを磨いていくことで同じ失敗を繰り返さず行動を突き進める。楽しい世の中を作っていく為に、頑張る人がきちんと報われる世の中を作ろうとするため。

これを繰り返していくと知らぬ間に自分の中から悩みという枠組みが消え、イライラという感情が消え、自分のしたいことに向かって行動することが出来る性格になることが出来た。

4、うつになってから

僕は仕事でうつとなった。なってからは何をするにもやる気がなく、意欲が向かなかった。その時に、ちょうど、僕はある女性に職場とは違う場所に誘ってもらった。ある程度知っている女性だから不安などなくその場所に付いていった。それからだんだんとうつになっても僕を見捨てない人がいることに気づく。職場にいる僕としてではなく僕個人としてみてくれる。それがたまらなく嬉しかった。それから僕は行動を起こす。

職場の僕ではなく、過去の経験からの僕ではなく現在の僕がどのように行きたいかそのための行動を始めていく。普通はしない。刹那的に今を一生懸命生きる。だけど僕はそれだけでは嫌なのだ。自分の近い人たちの未来をもっともっとよくしたい。そのような欲が生まれてしまった。今まで僕という人間を形作るための恩返しをこれから始めよう。

普通の人は先を予想しながら生きようとしない。未来という物は不透明だからだ。しかし、うつ病を克服しようとする僕はその先を見ながら行動することを決めた。すると今まで大事にしていた過去を抱えて生きる生き方が馬鹿らしく思えた。自分が楽しく暮らせる未来を作るために今を頑張ろうと考えた時、不思議と死にたいとも休みたいとかの考えがなくなっていった。あるのは未来のために頑張りたいという気持ちだけだった。

そこから僕のしたいことは徐々に決まっていった。自分は何をしたいかどのような人と一緒にいたいか、頑張っていきたいか段々と決まっていった。僕初めてこの道生きると決めた、『血がつながってなくてもその人が大事なら自分の損を考えずに行動する。』『一度つかんだ手は決して放してはいけないという事』『自分の育ち方に誇りを持ちながらも足りないところは周りにきちんと教えてもらう柔軟性を持つこと』を大事にする。

そして僕の未来創世期を形作る指針、『未来の子ども達が笑えるような社会を作れるように行動する。』それは自分が頑張り行動し続ける価値があると感じている。その為に今何と言われようが自分の意見を曲げないで続けていくべきだ。そのような社会を作っていく為に僕は一歩見えない社会に向かって突き進んでいく決心をした。そして、その為に今を一生懸命生き続けている。

終わり。


あとがき

物語は普通ハッピーエンドもしくはバットエンドで終わらせるのが良作だと決まっている。なぜこのような中途半端で終わらせたかというと、現実社会が動き続けているようにこの物語の僕は今もなお動き続けている。つまり現在進行形で生きている僕が社会を変え続けようと努力している僕がいるわけだ。一区切りさせたような形で見たいという人もいるだろうが僕は「結果」よりも「過程」から何を学ぶかが重要だと思っている。そこからどのようなことを学ぶか、または振り返ることで今の自分に足りないことを再発見するために「過程」は重要になってくる。いろいろな人からどんどん学ぶべきだ。ただし、それはきちんと自分の過去に対して責任を感じ向き合ってからでも遅くはない。そうしないと自分を大事にできないし、他人を真に尊ぶような生き方は出来ない。

この小説ではいじめを一つのキーワードに挙げている。

いじめられている児童は自分の考える責任、伝える責任を放棄し怖いからという理由でいじめっ子に従ってしまう。そのため、ひどくなると分かっていても放棄した責任に向き合わず逃げてしまい。耐え続けた限界を超えた結果として自殺、または社会問題としてニュースにあげられる。

僕はいじめられっ子である為正確ないじめっ子の気持ちはわからない。そのうえでいじめっ子の精神パターンを分析する。いじめっ子の場合は、初めはいじめるつもりで話しかけてなかったかもしれない。好奇心だけで話しかけたのかもしれない。しかし、自分がしてほしい反応と違う事でイライラし、いじめのような行動を起こしてしまったのかもしれない。自分のイライラを相手にぶつける、それも悪い形で。いじめっ子の責任としては自分がしていることの責任を相手に転嫁させること、自分の行為を正当化させるという責任放棄があげられる。

また、いじめに関わる周りの大人にも責任がある。双方の親同士がきちんと話し合い、納得した場合はいじめという物は起きなかったかもしれない。むしろ、子どもに何かしらの変化が起こった時、子どもの反応を無視してでも心に入っていこうとしなかった親の責任放棄。きちんと生んで育てるという事は自分の子どもが間違いを起こしたときに子供が嫌がってもきちんと叱れる親。子どもが困っている時に「公」の時間を捨てでも「子」を守り通すのが本当の意味での親だと思っている。それが出来ないのならきちんとできている親に教えてもらえばいいし、間違いを修正してもらえばいい。そう考える。

いじめを突き詰めていくとさらにたくさんの責任放棄があるが、ここで大事なのはそのような事を突き詰めることではない。いじめという物は大人になった人間は誰でも必ずぶつかる問題だ。大人社会でもあるのだから子供社会でもあるに決まっている。僕が言いたいのはそこにぶつかった時に「過去」のせいにせずに「現在」の責任で生きることが大事であることそのためには「過去」から何を学び続けるかが重要だ。

その人を変えるためにヒントは全て「過去」にあると信じている。自分を変えるのは「他人」ではない。自分の力を信じること、自分のできることを精いっぱいすることだ。自分を過大も過小もせずに等身大のまま評価する。そして、自分に足りないものを突き詰める。必要なものが他人にあったら迷わず助けを求める。それを、突き詰めていけば社会は良い方向に変わっていくと思う。

何よりも筆者がそのようにして変わったのだ。いじめられっ子で、何も力がなくても気持ちさえあれば人並みの文章や意見を世界に発信できるのだ。誰でもきっかけさえあれば変わる。筆者はその手助けをするためなら苦労もいとわない。死ぬほどの努力もする。この本を読んでくれた人が筆者のように変わってくれることを切に願っている。


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