偶然の出会い、必然の・・・
新幹線は間もなく名古屋を通過しようとしている。相変わらず外は雨が降っていた。東京に帰るこの新幹線の中で、俺はゆかりの両親に何と言って会いに行くかを考えていた。いきなり訪ねて行っても歓迎されないかもしれない。不安もあるが、それでもゆかりの両親に会いに行くことを決心させてくれたのは、京都で偶然出会った佐緒里という女性だった。
俺はその日、3年ぶりに京都を訪れた。ここにはただ好きな街という以上に思い入れがある。京都駅を降りた時、思い出のせいなのか、それとも何か予感めいたものを感じているのか、胸がざわめくのを感じた。しかし改札を出て京都タワーを見ると、そんなことも気にならなくなり懐かしい気持ちで溢れた。
そもそも今回の旅行は、予定外なものであった。大阪での出張が思いの外早く片付き、成果も上々だったため、同行の課長から
「今回の仕事が上手くいったのはお世辞抜きで君のおかげだ。予定は明日までだったんだし、会社への報告は心配しなくて良いから、骨休めをして来なさい」
と、翌日の休みと金一封をもらったからなのである。俺も初めは断ったが、課長は仕事が予想以上の成果をあげたことに余程嬉しいのか
「まあいいから」
と言うので、言葉に甘えることにし京都に来ることを思いついた。課長とは祝杯を兼ねた夕食を一緒に取った後別れた。
京都に来るのは4回目となる。中学校の修学旅行で始めて来たときに、子供ながらに魅了されたのを憶えている。2回目は大学時代に一人で来た。アルバイトで貯めた少ない資金で民宿に泊まりながら、ゆっくりと一通り見てまわった。そして今から3年前、就職して2年目に、当時付き合っていた彼女のゆかりと来て以来となる。
京都タワーを見ながら、この思いがけない旅行に、何が必要かを考えた。着替えは明日までの出張の予定だったので問題ない。次に泊まるところだが、駅からも近く3年前に、ゆかりと泊まったシティホテルが良いかなと思い電話をしてみると、オンシ-ズン前の10月の平日のせいか、シングルの部屋が取れた。後はこの予定外の旅行を楽しむため、ガイドブックでも買おうと書店を探した。
閉店間際の書店は、閑散としていた。急いで買ってしまおうと、旅行のガイドブックのコーナーへ行くと、一人の若い女性がポケットサイズのガイドブック「京都」を2種類見比べていた。俺は辺りを見渡したが、他には大判の物しか見当たらない。交通の便がわかり、寺社の場所が把握できれば良い俺としては、持ち運びを考えても大判のものはいらない。閉店間際のこともあり、店員にポケットサイズの物が他にないか尋ねると、
「申し訳ありません。この時期は、元々それほど在庫を入れてないのですが、今日に限って売れまして、そこに並んでいるだけなんです」
店員からは、申し訳なさそうという感じは受けられず、事務的な感じで受けた。俺は仕方なく、まあ見比べているくらいだから、多分どちらかを買い、どちらかを棚に置くと予想し女性の決断を待つことにした。しかし数分後、その女性は予想に反し2冊を持ってレジに歩き出したのである。俺は別の書店を探すのが面倒な気がして、ダメで元々と思い、思い切ってその女性に話しかけた。
「すいません。勝手言って申し訳ありませんが、どちらか一冊私に譲っていただけませんか?」
「はい?」
女性は振り返り俺を見た。その時俺の中に衝撃が走った。その女性は、昔の彼女ゆかりにそっくりだったのである。いや正確には、持っている雰囲気がそっくりだったというべきか。よく見るとこの女性の方が、ゆかりより垢抜けていて美人な気もする。年の頃は23、4だろうか。ゆかりは俺と同い年だった。俺より3つか4つ下であろうその女性に、なるべく手短に状況を説明し、もう一度頼んだ。すると意外にも、愛想のよい笑顔で答えた。
「もう閉店なのに、どちらが良いか決められなくて、2冊買おうと思っただけですから、どちらでもどうぞ」
どうやら少し飲んでいるらしい。ほのかに上気した顔も色っぽいと言うよりは、子供っぽさをだしている。ゆかりはお酒を飲まなかった。俺はゆかりの面影を持つこの女性に、ほのかな一目ぼれの感覚と、些細な下心を抱かなかったと言えば嘘になるが、どちらかと言えばお礼の意味が強く、
「ありがとうございます。助かりました。もし良ければ俺が二冊共買い、一冊プレゼントさせて下さい」
と言ってみた。しかし彼女は警戒心からというより、素直な気持ちという感じで答えた。
「お気遣いなく。本当に何となく二冊買うつもりだったので。でも、もしそう言って頂けるなら、あなたのお奨めの方を私に譲ってください」
笑顔が自然な感じで、親近感をより抱かせた。しかし俺とて、今ここで二冊の内どちらが良いかはわからない。実際俺はどちらでも良いのである。俺は考えるより先に言葉を発していた。
「ではとりあえず、ここで俺が2冊買います。そして近くの喫茶店で、コーヒーでも飲みながら、あなたがじっくりどちらかを選び、それを俺から買えば良い」
多分仕事も上手くいき、その上少しアルコールが入り、気が大きくなっていたこともあるだろう。見知らぬ女性に話しかけることも初めてなのに、普段からは考えられないセリフである。ゆかりの面影を見たからかもしれないが、言葉は本当に自然と出た。何より言った自分が驚いた位なので間違いない。そして彼女もまた、驚くほど自然に答えた。
「それは、良い考えですね。二人とも助かるし」
本屋を出て、目に入った近くのスターバックスに入り、コーヒーを頼み席に座った。コーヒーぐらいご馳走させて欲しい言ったが、丁寧に断られた。しかしこうして改めて対峙すると、やはり似ているのか、頭の中でゆかりがオーバーラップした。といっても瓜二つという感じではないので、仕草とか醸し出す雰囲気が関係しているのだろう。そして彼女は、先ほども思ったが美人であった。更にスタイルもよく笑顔もキュートであり愛想もある。なぜこんな時間(といってもまだ9時だが)に一人でガイドブックを探していたのだろうか。普通、旅行ならある程度準備をして来るだろう。まあ京都の本を買っているからといって旅行客とは限らないのかもしれないが、地元の子という感じではない。
「どうかしました?」
俺がジロジロ見ていたのか、それとも単に間が気になったのか、彼女は少し訝しげに尋ねた。
「いえ、何でもないです」
とりあえず言ったものの、ぎこちない雰囲気を作ってしまったと思い焦った。しかし彼女は絶妙な間で会話を切り出してくれた。
「あのう、新手のナンパとかじゃないですよね?」
疑いをかけているというよりは、あくまでも場を和ますためと言う感じで彼女は笑顔で言った。美人なこともあり、きっと男の人に声を掛けられるのも慣れているのだろう。ナンパじゃないのはわかっていますよ、という余裕があるようにも見えた。俺はとにかく怪しい者ではないことだけは説明しようと、出張帰りであることを話した。
「そんなわけで、こんなスーツ姿で、明日少し観光をしようと思いまして。あっ、すいません。まだ自己紹介もしてなかったですね。宮下孝司といいます」
と言って名刺をテーブルの上に出してみた。俺は彼女の素性が少しでもわかることを期待し待った。しかし彼女は申し訳なさそうに言った。
「そうですか、ご丁寧にどうも。私はさおりと言います。後はごめんなさい」
彼女は名刺を目で確認した後、礼儀として仕方なくという感じでかばんにしまった。そりゃそうである。いくら愛想良く一緒にコーヒーを飲んでも、彼女がここにいる理由は、本を譲るためなのである。彼女の素性が何もわからず少し残念に思いながらも、俺は別にナンパしたわけではないことを思い出し、素性などどうでも良いことだと自分に言い聞かせた。たださおりという名前を聞いたとき、がっかりしたような気もして、俺は何を期待しているのかとも思った。そして、気まずくならないよう、明るくそれが当り前だという感じで言った。
「勿論、構いません。突然声をかけて、怪しいものではないとわかってもらうために、自己紹介をしただけですから。そうそう、どうぞ本を選んで下さい」
書店の袋から本を出して、2冊ともさおりに手渡した。しばらく本の中味を見比べていたが、やがて顔を上げ、
「こっちに決めました。私こそありがとうございました」
と言ってお金を出した。いらないと言う俺の言葉を無視するようにテーブルにお金を置いた。俺はテーブルに出しっ放しにしておく訳にもいかず、仕方なくお金をしまった。そしてその後は会話が盛り上がることはなく、明日の天気などでお茶を濁しただけで、彼女のことは何もわからなかった。唯一わかったことは佐緒里と書くということくらいだった。やがてコーヒーも飲み終わり、佐緒里は席を立ち言った。
「そろそろ帰ります。ありがとうございました」
メールアドレスぐらい、聞くか教えるかしようか悩んでいると、その間に佐緒里は一礼して出口に向かい歩き出した。俺はもう佐緒里に聞こえないと思いながら言った。
「こちらこそありがとう。おやすみなさい」
彼女にゆかりの思い出を重ねても、何も解決しないことはわかっているので、これで良かったのだと思うことにした。
ホテルにチェックインをし、部屋に入ると、とりあえずシャワーを浴びた。まだ10時過ぎである。冷蔵庫からビールを出して一口飲み、俺は3年前にゆかりと来た時のことを思い出していた。
ゆかりとは当時付き合って半年で、旅行に来るのは京都が初めてであった。2泊3日の旅行ではあったが、そんなに長く二人きりで過ごしたことは今までなかったので、楽しくて仕方がなかった。まだ俺はゆかりの両親に挨拶にも行ってなかったし、恐らくゆかりも俺のことを話していなかったのだろう。旅行には俺と来ていることは内緒で、学生時代の友達と来ていることにしていると言っていた。俺たちは写真を撮るのは、ボロが出たとき証拠になるからとやめるはずだったが、やはり途中で思い出の品が欲しくなり、これならいつでも気が変わったら捨てられるからと、使い捨てカメラを買った。写真は人に頼みツーショットも撮ったりしたが、フィルムを全部は使い切らなかった。
ゆかりとは、大学時代の友人である森下優一の紹介で知り合った。女性に縁遠かった俺に、男女問わず友人の多い優一がバーベキューをセッティングしてくれ、優一が連れてきた女性3人の中の一人がゆかりだった。優一とゆかりもその時が初対面だったと記憶している。初めて会ったとき、年下だと思ったくらいゆかりの第一印象は幼く感じた。優一の運転するミニバンで男女6人ドライブをしながら、奥多摩のオートキャンプ場へ行ったのだが、行きの車の中でゆかりと話した記憶はほとんどない。しかしキャンプ場に着くと手際よく火をおこし鉄板をセットする俺に、ゆかりが感心し話しかけてきた。年下だと思っていた俺は、あれこれ少し偉そうに説明した。後日ゆかりに聞いたところ、そんな俺に頼もしさを感じたという。バーベキューは、アウトドアが得意な俺に対する優一の計らいだったとはいえ、それがまんまとはまったことになる。その後色々話をし、趣味が同じ映画鑑賞ということで盛り上がり、帰りの車に乗る前には、他の人に内緒でメールアドレスの交換をした。次の日から何度か他愛のないメールをして、二週間後に映画に誘うメールをすると、ゆかりはOKの返事をくれた。そのデートでお互いの波長が合うことが感じられ、翌週の二度目のデートで俺は告白した。
そしてそのゆかりは、京都旅行の一週間後に交通事故で死んでしまった。事故は、横断歩道を青信号で渡っているときに、居眠り運転のトラックが、突っ込むという信じられないものだった。俺が事故を知ったのは、優一からの電話だった。優一もゆかりとの共通の女友達から連絡を受けたらしく、俺が知ったときは時既に遅く、病院に行く時間もなかった。即死だったと言うことも、結局友人として参列した葬儀で知った。
そしてカメラは、フィルムを使い切って現像に出そうとしていた時に、ゆかりが死んだこともあり、そのまま今も部屋にある。最初は写真を見ても泣かない自信が出来るまでと思って置いていたのだが、その後はなんとなく出すタイミングを失った気がして、もう3年も経ってしまった。
それから彼女はいない。まあ、黙っていても女が寄って来るタイプではないので、不思議では無いともいえるが、2回ほどそれなりのチャンスはあった。ただ2回とも何度かデートするうちに俺の心が、その女性と向き合っていないことに、お互いが気づき終わってしまったのである。女性と二人で話をしていると、映画の話をしても音楽の話をしても何故かゆかりと比べ、ゆかりを思い出してしまうのであった。相手の女性には当然ゆかりの話はしていないのだが、
「誰か気になる人がいるのね」
と言われてしまうのである。その二人目からも、もう1年半経つ。優一も気にかけてくれ合コンでもやろうと言ってくれるのだが、断っている。この1年半は、恋愛に少し臆病になっているのか、女性を誘って二人でデートする勇気が持てないのであった。ただその反面、好きという気持ちが自然に発生すれば、ちゃんと行動できるだろうという気持ちもあるのである。今回京都に来たのも、彼女との思い出に浸る意味もあったのは事実だが、区切りをつけて何かを変えられればという意味が強かった気がする。その京都で、まさかゆかりの面影を持つ女性と会うとは。それとも俺が、勝手に面影を重ねているだけなのだろうか?しかし女性といて、ゆかりのこと思い出すことがあっても、こんなにはっきりオーバーラップしたことはなかった。京都という土地がそうさせているだけなのか。それとも本当に似ていたのだろうか。別にナンパをしたわけでもないのに、佐緒里のことが少し気になっていることに気がついたが、もう会うこともない女性のことを考えても仕方がないと思った。このことを優一に話したら、メールアドレスを聞くくらいは逆に礼儀だときっと言われるだろうなと思いながらも、一人で暇なこともあり優一に携帯電話からメールしてみた。
久しぶり。今は出張帰りに一人で京都に来ている。ここでゆかりに似た女性と偶然出会いお茶をした。でもそれ以上は何もなかったよ。連絡先も聞かなかったし。
土産でも買ってくので、帰ったら連絡するから、たまには飲もうな。
俺はメールを送信した後、ガイドブックを開き、明日は銀閣寺と清水寺に行こうと計画した。明日の午後帰るなら近場の方がいいだろう。それにどちらもゆかりが気に入っていた場所である。俺はゆかりが言っていたことを思い出していた。
「金閣寺より銀閣寺の方が素敵よね。貼る予定だった銀箔が、幕府の財政難で貼れなかったなんて、なんか侘び寂びを感じるじゃない」
説としては今も根強いが、そもそも貼る予定もなかった説とか、金閣、銀閣は後世に勝手につけただけという話をすると、ゆかりは、一層
「理由なんかどうでもいいの。私は金閣より銀閣が好きなの」
と言い出したのだった。
そういえば、銀閣寺をバックに二人で写真を撮ってもらったはずだ。あの時のゆかりはどんな顔をしていたのか。清水寺でも写真を撮った気がする。一人ずつだったか、一緒に撮ったかはもう思い出せない。帰ったら写真を現像に出してみるのも悪くないと思った。ただこんなことが思い出されるようでは、明日銀閣寺や清水寺に行っても、本当に自分のなかで、何か区切りがつけられるか自信がなくなっていた。そんなときメールの着信音が鳴った。優一からだった。
京都か良いな~ ゆかりちゃんみたいな美人の女性とお茶して何もなかったのか?もったいないな。俺なら連絡先絶対聞くけどな。お前まさかまだ吹っ切れないのか?もう3年も経つんだ。ゆかりちゃんだってお前が新しい恋人を作っても許してくれるよ。
帰ってきたら連絡くれ。たまには飲もうな!
無理にゆかりのことを忘れる必要はないが、俺はどこに向かっているのか自分でもわからなかった。
いつもより朝寝坊をしようと、昨晩は目覚ましをかけなかったのだが、起きると8時30分を過ぎていた。カーテンを開けると綺麗な秋晴れだった。普段なら電車に乗っている時間に起きるのは、少しだけ優越感に似た気分になる。ネクタイは後で良いかと、ワイシャツだけ着て、少し遅めの朝食を取りに、ビュッフェスタイルのレストランへ行った。
レストランは時間が遅いせいか空いていた。パンとサラダとスクランブルエッグを取り席に着こうとした時、2つテーブルを挟み一人でコーヒーを飲む佐緒里の姿が見えた。今朝はゆかりの姿とダブらないようだ。俺はなんだか少し安心し、昨日のお礼がてら挨拶をするくらいなら失礼にならないだろうと考えた。しかしその時、昨晩とは打って変って物悲しい、今にも泣き出しそうな横顔が目に入った。俺は声をかけるのをためらい、席に着き食事をすることにした。遠目に見ても昨晩の愛想のある笑顔の面影は全くなく(勿論一人テーブルで、ニヤついていれば気持ち悪いが)、別人かと思うほど暗い顔であった。食事をしながら、彼女を見て勝手に状況を想像してみることにした。やはり旅行客だったのだと考え、そこから連想を広げた。例えば、不倫旅行で昨晩待ち合わせをしたが、相手が来なかった。それならきっと悔しくて、淋しくて泣きたくなるだろう。さすがにそれは考えすぎか。あんなに若くてかわいければ、不倫なんかしなくても周りがほっとかないだろう。ならば単に初めて一人旅をしてみたが、思いの外淋しくなってしまっただけとか。でもそれなら、あんなに悲しそうにするだろうか?やっぱり、もっと深い悲しみがあるに違いない。俺は想像することに夢中になっていた。すると突然
「おはようございます」
と声がした。驚いて、声がした横を見上げると、そこには昨日と同じ笑顔で立っている佐緒里がいた。
「何ボーっとしているんですか?こっちを向いているから、私を見ているのかと思って手を振ったのに、反応がないから恥ずかしかったじゃないですか」
俺は狐につままれた感じを受けながら、佐緒里がまた、ゆかりと重なった。一瞬昨夜のように間が空きそうになったが、今朝はなんとか現実に留まることができた。そしてなるべく普通に聞こえるよう、俺は言った。
「おはようございます。すいません、ちょっと考え事をしていたもので。昨日はありがとうございました。それにしても偶然ですね」
佐緒里は、旧知の知り合いかのように、自然に同じテーブルの椅子に座り、話し続けた。
「本当に偶然ですね。偶然も三度続けば運命なんていいますけど、二度目でも十分運命を感じたりして」
俺に問いかけているのだろうか、佐緒里自身は別に運命を感じているようではなさそうだった。どう答えて良いかわからず、俺は黙ってパンを食べ続けた。
「それにしても、随分遅い朝ご飯ですね。まあ私も今終わったところですけど」
佐緒里は俺が答えないことを気にしている様子はなかった。ただ俺がまだ食べていることに暇になったようで、
「コ-ヒーを取って来ます」
と言い席を立った。戻ってきた時、佐緒里の両手にコーヒーがあった。特に何も言わず俺の前にコーヒーカップを一つ置いた。
「ありがとうございます」
俺はお礼を言いながら、最近の子にしては気がつくなと好感を持った。
「気にしないでください。自分のついでですから、そういえば宮下さんは、京都は何回目ですか?」
佐緒里は笑顔を絶やさず言った。ようやく会話ができそうな質問だ。
「修学旅行を入れたら4回目かな」
「私、中学の修学旅行は東京だったんですよ。高校は沖縄だったし、だから京都は初めてなんです」
今日の佐緒里は、昨日とは変わり自分のことに冗舌である。俺はなるべく嫌味にならないよう気をつけながら、昨日の疑問をぶつけてみた。
「初めての割に、ガイドブックを持って来ないなんて、チャレンジャーですね」
すると佐緒里は照れ臭そうに答えた。
「ちゃんと持ってきたんですけど、昨日観光している時にどこかに忘れてきてしまったようなんです。昔からそそっかしくて。大判のタイプだったんですけど、同じのを買うのも、なんか悔しくて。それで小さいタイプの物を探していた時に宮下さんに会ったというわけです」
昨夜より人懐っこい感じで話すのは、やはり不倫(別に不倫である必要はないのだが)相手にすっぽかされて、淋しくて俺に話しかけてきているせいだろうか。とりあえずこのまま会話を続けることに特に問題はない。どうせこっちも一人で暇なのだ。俺は佐緒里が運んできたコーヒーを飲みながら会話を続けた。
「佐緒里さんは、今日はどちらに行かれるんですか?」
「佐緒里で良いですよ。多分、宮下さんより年下ですから。それで相談なんですけど、今日ご一緒させてもらう訳にはいきませんか?なんか勝手言って申し訳ないのですが、私地図見るのが凄く下手で、昨日も迷ってしまってあまり観光できなくて。かと言って一人でバスツアーに参加するのもなんかピンと来ないし。宮下さんみたいなベテランと一緒だと京都を堪能できるかなって。だめですかね?」
ゆかりの面影を持つこの女性と京都を回ることに戸惑いを感じながらも、旅先で知り合ったかわいい女の子と一緒に観光するのは、自分の心のリハビリにも悪くないと考え、俺は承諾することにした。
「ベテランではないですが、こうして出会ったのも何かの縁ですし、別に良いですよ」
佐緒里は今まで以上の笑顔で言った。
「ありがとうございます。あと敬語もやめてもらっていいですか?なんかくすぐったいですから」
やはり、ゆかりとは違う。ゆかりは一、二度会った人に、こんな無防備な笑顔を見せなかった。ゆかりと違うことを残念と思う気持ちが湧いたが、ゆかりとは違って当たり前だと、自分に言い聞かせた。
「ところで昨日はどこをまわったの?」
今日の予定が変更になるかもしれないと思いながら俺は聞いた。
「昨日は、金閣寺と二条城です。なんとか辿り着きました」
佐緒里は恥ずかしそうに、笑顔のまま言った。俺は自分の予定を変更しなくてよさそうなことに少し安心した。
「なら大丈夫かな。銀閣寺と清水寺に行こうと思っているんだけど、良いかな?どこか行きたい所はある?」
「お任せします。よろしくおねがいします」
佐緒里は立って深々と頭を下げた。俺は周りの目を気にして少し恥ずかしかったが、明るく礼儀を知っている佐緒里に更なる好感を覚えた。
こうして、二人で観光をすることが決まり、30分後10時にロビーで待ち合わせすることにして別れた。部屋に戻りネクタイを締めながら、佐緒里とのたかが半日の観光に期待と不安をもっていることが自分でも可笑しかった。でもこれで優一に土産話も出来たなと思った。
ロビーに行くと佐緒里の姿はまだなかった。俺はチェックアウトをし、ホテルに荷物を預け待っていると、5分遅れで佐緒里は姿を現した。旅行かばんを持って無く、キーを渡す様子からチェックアウトではないようだ。多分もう一泊するのだろう。佐緒里は俺のことを見つけると、
「お待たせしました」
と小走りで寄って来た。
時間に余裕がありそうなので、南禅寺にも行く事を説明しバスに乗った。バスは運良く座れた。バスに並んで座ると、なんだかゆかりと京都に来ている気がした。俺は違うと自分に言い聞かせ、なるべく体が触れないように気をつけたが、佐緒里はあまり気にして様子はなかった。そしてバスの中でも佐緒里は冗舌だった。
「私、一人旅って初めてなんですよ。昨日の昼頃着いたんですけど、右も左もわからないってこういうことなんだって思いました」
朝の想像は「不倫旅行すっぽかされた案」と「一人旅淋しくなった案」では後者が当たりだったのだと、一人で納得した。歳は予想より若く22であった。ただ時折ふっと見せる悲しい表情の原因を含め、何をしているのか、どこから来たのかなど、肝心なことはほとんどわからずじまいだった。
南禅寺に着き、境内を見学すると、紅葉前だがそれなりの趣があった。三門にも上がれると教えると、是非上りたいというので二人で上ることにした。階段を上がり視界が開けると、俺は景色を眺めながら
「絶景かな、絶景かな」
と言ってみた。佐緒里はキョトンとしながら尋ねた。
「なんですか、それ?」
俺は歌舞伎で石川五右衛門がここで大見栄を切る話をした。ゆかりは感心しながら、
「京都のお寺って、風情があって良いですね。こういうところに連れて来てくれるなんて宮下さんについて来て良かった」
などと、言ってくれる。ここは普通に有名所だし、誰でも来る場所なので、お世辞だとわかったが嬉しくなった。
そういえば、あの時のゆかりも似たようなことを言っていたのなと思い出した。ゆかりは俺のことをすぐ誉め、俺が照れると嬉しそうに、「単純ね」と言ってからかった。
南禅寺の境内を一通り見終えると、早めの昼食をとるため近くの有名な豆腐会席理屋に入ることにした。ここはゆかりと来たときにも入り、おいしかったのを憶えている。注文をするとき、佐緒里が昨日、少し酔っていたのを思い出し、
「ビールでも飲む?」
と提案すると、
「平日の昼間のビールは良いですよね」
と中年サラリーマンのような言葉で乗ってきた。ビールが運ばれて来ると2つのグラスに佐緒里が注いだ。俺が
「乾杯」
とグラスを持ち上げると、佐緒里は真面目な顔をして聞いた。
「何に乾杯するんですか?」
「二人の運命の出会いに」
俺は笑いながら、冗談で言った。すると佐緒里も笑いながら
「二人の運命の出会いに」
とグラスを持ち上げた。ビールをグラス半分ほど飲み干し、平日のビールはやはり良いなと感じてしまった。すっかり佐緒里と意気投合した気がするものの、依然として佐緒里の謎の部分は多い。俺は少し質問をして、探ってみようと考えた。料理が並べられ、しばらくして聞いてみた。
「佐緒里はいつ帰るの?」
すると佐緒里は、湯豆腐を頬張りながら言った。
「決めてないんですけど、まあ明日か明後日くらいまでですかね」
この歳でそんなに気ままに、旅行を出来るものだろうか?泊まっているホテルも決して安い方ではない。俺は興味が尽きなく、続けて質問をした。
「随分気ままな旅行だね。学生?それとも何か仕事をしているの?」
言った後、大きなお世話だと気がついたが遅かった。
「宮下さんってそういうこと、いちいち聞かない人かと思っていました。昨日もそうだったし。少し意外だな」
佐緒里の言い方は、思いの外怒っていないようにも見える。俺は、この少しミステリアスな娘に引き込まれているのだろうか。もうすぐお別れで素性なんてどうでも良い筈なのに、一所懸命に取り繕う自分がいた。
「ごめん。別に悪気はないんだ。流れで何となく聞いただけで、勿論言いたくなければ言わなくていいよ」
すると佐緒里は、怒ってないですよと言わんばかりの笑顔で言った。
「私に興味あります?」
その言い方にドキリとしたが、俺はどう答えていいか迷った。興味はあるが、それは女性としてより、人としての興味であり、京都が見せているゆかりの幻影のせいなのだ。答えずにいると、佐緒里が先に口を開いた。
「宮下さんって正直な人ですね。別にいいですよ、無理に気を使わなくて。私に興味があったらきっと昨日の時点で、電話番号とか聞きますよね。私こう見えても、人を見る目はあるって、昔から友達にも言われるんです。最もだから今日もこうしてお供させてもらう気になったんですけどね」
彼女は勘違いをしているに過ぎない。俺だってきっとゆかりのことがなければそうしていただろう。タイミング的な理由なのだ。そして「良かった、怒らせていない」と何故か安心している自分に気がつき、少し動揺した。俺はゆかりの面影ではなく、佐緒里自体に魅かれているのだろうか。俺は正直に言ってみた。
「佐緒里に興味あるよ」
「嘘でも嬉しいです」
佐緒里は本当に嬉しそうな顔をした。俺は慌てて付け足した。
「でも、それは恋とかとは、違うかもしれないけど」
「そんなのわかっていますよ。私だって宮下さんに興味あるけど、一目惚れとかそういうのとは違うと思うし」
佐緒里は自分の発言が、少し大胆だった事に気がついたらしく、ビールで少し赤くなった顔を更に赤くした。朝、佐緒里が言っていたように、運命を感じているのだろうか。俺は運命を感じていなくても、佐緒里と後2、3時間したら別れると思うと少し淋しい気がしてきた。
やがて食事を終えると、佐緒里はお腹をポンポンと叩き、
「もうお腹いっぱい」
とおどけて言った。この細い体のどこに入ったのか、全部平らげたようである。俺でさえやっと完食した量なのに。ゆかりは3分の1くらい残していたように思う。どこまでも気持ちの良い子だと思った。銀閣寺へ向かう途中、会計は各自でという佐緒里を無視し、俺が勝手に払ってしまったため、しばらく佐緒里は怒っていた。今度は佐緒里に払ってもらうからとなだめると、ようやく納得してくれた。頑なに割り勘を主張する佐緒里は、なんだかいじらしくもあり、しっかり者にもみえた。
銀閣寺に着く頃には、佐緒里はすっかり機嫌を直したようだった。銀閣寺を前にし、佐緒里は俺に嬉しそうに話しかけてきた。
「銀箔が無いのは知っていたけど、淋しいというより清楚という感じですね。私、金閣寺が金箔の張替え工事したと聞いたとき、銀閣寺にも貼ってあげれば良いのに、って思ったんです。でもこのお寺に銀箔は絶対似合わないですね」
俺は昔ゆかりに説明した時のことを思い出しながら言った。
「銀閣寺の銀箔には諸説あって、一番有名なのは応仁の乱と重なり幕府が財政難に陥り貼れなかったというものだけど、そもそも貼る予定すらなかったという説もあるんだ。金閣寺、銀閣寺という呼び名も後世の人が勝手につけたと言われているんだよ」
すると佐緒里は感心しながら言った。
「へえ、そうなんですか。宮下さんは色々知っているんですね」
俺はゆかりに誉められている錯覚に陥り照れていた。しかし佐緒里は自分が誉めたのに俺が照れていることに気がついた様子は無く、話し続けた。
「昨日、金閣寺に行ったとき、結構感動したんですけど、でもこの銀閣寺というのは、上手く言えないけど別の感動がありますよね」
俺はゆかりを思い浮かべながら、質問した。
「佐緒里は、金閣寺と銀閣寺どっちが好き?」
佐緒里は楽しそうに困った顔をし、
「どっちも好きです。どっちも違った趣があって比べられませんよ。京都という所はどこも良い所ですね」
と言った。俺はゆかりと同じ答えを期待していたのか、少しがっかりした。そして何を期待しているのだろうと自己嫌悪に落ちた。
しばらくして、我に返り佐緒里を見ると、銀閣寺に向かいこちらに背を向けていた。そして背中からは、朝と同じ哀愁が漂っていた。俺はそっと横に並び、佐緒里の顔を覗き込むと涙を浮かべていた。
「どうかした?」
俺は、涙を見ていないふりをして聞いた。
「ごめんなさい。なんでもないです。銀閣寺があまりにも淋しげだったから、感傷に浸ったみたい」
そういうと、涙はまだ残っていたが、笑顔を見せた。ただ今まで見せていた笑顔とは違い、作り笑顔なのがすぐにわかった。俺はどうしたものか悩んだが、思い切って聞いてみた。
「言いたくなければ言わなくていいけど、何かあったの?朝も悲しそうにしていたし」
佐緒里は、作り笑顔を消し答えた。
「ごめんなさい。余計な気を使わせて。でも、ありがとうございます。宮下さんは優しいですね」
「いや、別にそんなことないよ。普通一緒にいる人が悲しそうにしていたら、誰でも同じだと思うよ」
「でも宮下さんと一緒にいると安心します」
俺はこの子の為に何かをしてあげたい気持ちに駆られた。
「俺に出来ることがあれば言ってね」
俺の言葉に、佐緒里は一呼吸間を置き、恐る恐るという感じで言った。
「本当ですか?じゃあもし明日用事があって帰らなくちゃいけないとかでないなら、私と明日も付き合ってくれませんか?宿泊代は私が出しても良いですから」
俺は、このままほっといて帰るのは男としても、人間としても間違っている気がして、優しく言った。
「それは良いけど。そんなセリフ、男の前であんまり言うもんじゃないよ。佐緒里はかわいいし、男は勘違いしちゃうよ。それにお金の心配もしなくて大丈夫だよ」
すると佐緒里に笑顔が戻り、そして赤くなって言った。
「ごめんなさい。私そんなつもりじゃないですよ」
俺は、妹が出来たような不思議な気分だった。
「俺は大丈夫だよ。でも他の人には気をつけないと」
「他の人には言いませんよ」
と反論し、そして、また自分の言ったことに気付き、更に赤くなった。佐緒里は、俺がもう一泊すると言ったことが、原因かはわからないが元気を取り戻したようだった。結局、涙の理由は解らず仕舞いだが、一緒にいてあげることで、佐緒里が少しでも喜ぶなら、それがゆかりの供養にもなる気がして、それ以上は聞かなかった。
銀閣寺を見終え哲学の道を歩いた後、近くでタクシーを拾い清水寺に向かった。タクシー降りると、清水寺の参道に並ぶ土産物屋の多さに佐緒里は、はしゃいでいた。焼きたての八つ橋を食べたり、京組み紐の携帯ストラップを買ったりして、まさに観光客をしている。そんな佐緒里の今までと少し違う子供のような笑顔に、俺もなんだか楽しくなった。清水寺の境内に入ると、さすがに観光客がたくさんいた。俺ははぐれないよう佐緒里の手を掴むと、佐緒里は俺を見てはにかんだ。清水の舞台に着くと佐緒里は無言になったが、銀閣寺の時のような悲しい表情ではなく、素直に感動しているように見えた。そして俺はこの時、思い出の場所の一つである清水寺で、佐緒里にゆかりの面影が重ならなかったことに気づき、もしかして佐緒里とならきちんと向かい合える気がした。
ホテルに戻り、部屋の空きを確認すると、週末だがシングルは空いていた。佐緒里の部屋番号を聞くとかわいく言った。
「夜、襲いに来られたら困るから内緒です」
俺は襲わないと言おうと思ったが、佐緒里も本気で言っているとも思えず、それ以上何も言わなかった。荷物を部屋に入れるため、エレベーターで部屋に向かった。俺は3階のボタンを押し、佐緒里は6階を押した。夕食は何にしようかと話をしたが決まらず、エレベーターが3階に着いてしまったので、とりあえず一時間後にロビーで待ち合わせということにして別れた。
部屋に入り荷物を置くと、いい加減スーツで行動するのも疲れたと思い、近くに買い物に行くことにした。課長にもらった金一封はもうなくなっていたが、この3年間旅行はおろか、大きな買い物もしていなかったので、銀行にそれなりの預金はある。少し位無駄な買い物をして、後2、3日京都で遊んでも、今後の生活に支障はない。しかし佐緒里は大学に通っていれば4年の歳である。仮に高校や短大を卒業して働いていたとしても、こんなに気ままに旅行をするお金や時間が、あるものだろうか?改めて俺は佐緒里の素性を不思議に思った。まさか、ゆかりがあの世から遊びにきているのだろうかと思ったが、まあそれはありえないと、すぐに考え直した。
ホテルから歩いて5分くらいのデパートで、綿のパンツと長袖Tシャツを選び、カードで清算した。急ぎだと言うと、パンツの裾直しも30分で出来るというので、その間に着替えの無くなった下着と靴下も買った。部屋に戻り、革靴のままだと気がついたが、まあいいかと諦めた。スーツを脱ぎカジュアルな格好になると、本当にただ旅行に来た気分になるから不思議である。こんなことなら昨日のうちに買えばよかったと思い、時計を見ると約束の時間を5分過ぎていた。俺は急いでロビーに行くと、佐緒里はまだ来ていなかった。朝も遅れて来たが、女性は身支度に時間がかかるらしい。ゆかりもいつも待ち合わせに遅れて来ていた。そういえば3年前の旅行のときも(勿論、この時は部屋が一緒だったので、外で待ちぼうけをした訳ではないが)、何かの度に待たされたことを思い出した。
しかし15分経っても佐緒里は現れず、どうしたのかなと思い始めた頃、ホテルマンが近づいて来た。俺の名前を確認するとメモを渡し去っていった。メモには
今日はありがとうございました。おかげさまでとても楽しかったです。
申し訳ありませんが、夕食はキャンセルさせて下さい。
明日の観光、楽しみにしています。8時に今朝のレストランで待っています
と、書かれていた。俺は突然のキャンセルに納得がいかず、さっきのホテルマンに、佐緒里の部屋番号を尋ねた。
「申し訳ありませんが、宿泊者のお部屋は規則で教えられません」
ホテルマンは教育された通りの言葉を繰り返した。せめて苗字がわかれば、外から家族を装って電話をすることも出来るが、それもわからない。仕方なく一人で食事に出かけることにした。
一人で、近くの適当な店に入り、食事をしながら、またゆかりのことを思い出した。ゆかりと京都に来た時は夏だったので、せっかくだからと鴨川の川床で食事をした。ゆかりはアルコールがダメだと言っていたのに、
「こういうところで、飲まないのは損した気分」
などと言って、ビールを注文した。一口目は「美味しいかも」と言って飲んでいたが、ジョッキの半分を空けた頃には、酔いが廻りせっかくの料理もほとんど食べられなくなっていた。俺が食べ終わるまでは我慢して待っていたが、会計を済まし外に出ると気持ち悪いと言い出した。仕方なくタクシーでホテルに帰り寝かしつけたが、酔いが醒めたのか夜中に突然起き出して
「お腹が空いた」
と騒ぎ出したので、俺はコンビニにカップラーメンを買いに行き、夜中にホテルの部屋で二人してカップラーメンを食べたのだった。そういえば、ゆかりがアルコールを飲んだのを見たのは、この時だけだった気がする。
俺はゆかりの24年の人生の半年しか知らない。俺が知っているゆかりは一部に過ぎないのだろう。そしてもう知ることが出来ないと思うと、ゆかりの人生にとって俺の存在意義があったのか、ゆかりに聞きたい衝動に駆られた。そしてゆかりに聞けない代わりに俺にはゆかりの両親に会って、俺の知らないゆかりの話を聞き、俺しか知らないゆかりの話をする義務があるようにも思えた。
次に佐緒里のことが頭に浮かんだ。しかし不思議な子である。天使のような笑顔を俺に向けながら、考えていることはほとんどわからない。俺は彼女にからかわれているのだろうか。でも別にたかられている訳でもないし、実害はない。もしかしたら天使の顔をした小悪魔的なのかもしれないとも考えた。今夜の食事をキャンセルしてきた理由がわからないので、なおさらこう思わせるのだろう。気まぐれで行動しているのか、もし具合が悪いなら、そう言えば良い筈である。それとも朝や銀閣寺で見せた、あの悲しげな表情と関係があるのだろうか。俺は自分がもう一泊することを決めたことが、何のためなのか自信がなくなっていた。ただ謎が多いということ以上に興味を持ち始めているのも確かである。これほど一人の女性に興味を覚えたのは、ここ3年ではなかったことである。俺は改めて考えてみた。ゆかりの幻影を追っているだけなのか、それとも佐緒里に恋をし始めているのか。しかし考えても結論は出なかった。会計を終え、旅先での一人の食事は予想以上に味気なく、大学時代に来た時のようにファーストフード店にしておけば良かったと、少し後悔をして店を出た。
部屋に戻りシャワーを浴び、明日はどうしようとガイドブックを見ていると、電話が鳴った。ホテルの内線のようだった。受話器を取ると
「佐緒里です。今夜はすいませんでした」
俺は予期せぬ電話の相手に驚きながら答えた。
「よくルームナンバーがわかったね。ホテルの人が教えてくれた?」
「エレベーターでルームキーを覗いたから」
佐緒里の方が俺より数段上手な気がした。ルームキーを見るなんて思いも付かなかった。しかし何で電話を掛けてきたのかはわからない。単に謝りたいだけなのか。佐緒里の話し方が明るくはないが、具合が悪い感じではないことを耳で確認して、核心に迫ってみた。
「急にキャンセルしてどうしたの?具合でも悪くなった?」
佐緒里は、しばらく間を置いてから言った。
「私の話を聞いてもらえますか?」
俺は純粋に心配する気持ちと、興味とが半々ながら、断る理由はなく
「いいよ。俺で良ければ」
と答えた。ホテルのバーで待ち合わせをしようと俺は言ったが
「迷惑でなければ、宮下さんのお部屋に伺っても良いですか?もしかしたら途中で泣いてしまうかもしれないから。お店で泣き出したら宮下さんも困るでしょ?」
佐緒里は冗談を言っている感じではなく、真面目な感じだった。俺はどんな話なのか想像もつかないまま部屋に来ることを了承した。
慌ててホテルの部屋着から着替えると、間もなくドアをノックする音が聞こえ、開けると佐緒里がいた。洋服をきちんと着ているが、風呂上りなのだろう、ほのかに石鹸の香りがした気がした。
「突然すいません」
佐緒里は、本当に申し訳なさそうに深々と頭を下げた。俺は
「まあそんなに、気にしなくていいよ。それより大丈夫?」
と優しく言って部屋に入れ、椅子に座らせた。俺は自分で言っておいて何が大丈夫なのかがわからなかった。佐緒里は黙ったままだった。
「ビールで良い?」
聞いても、返事がないので冷蔵庫に入っているビールを出し、グラス2つと一緒に、丸テーブルに置いた。俺もベッドに座り、ビールを二つのグラスに注いだ。佐緒里はグラスには興味を示さず、俯いていたまま相変わらず喋らなかった。俺は乾杯などという雰囲気ではないと感じ、勝手にビールを口に含んだ。俺が空いた分だけビールをつぎ足し終えると、佐緒里は何かを決心したのか顔を上げ話し始めた。
「少し長い話になりますけど、聞いていただけますか?出会って間もない宮下さんに勝手に甘えているのは、十分わかっているつもりです。でもわがままついでに、もう少し付き合って話を聞いてもらえたら、少しは楽になれる気がして。勝手ばっかり言って本当に申し訳ないと思っていますが。そして出来たら聞いた話は今晩限りで忘れて下さい。それでも聞いてもらえますか?」
今まで見せたことない神妙な顔つきだった。その顔は、時折見せた悲しげな顔とも違い、何かを決意してのことと感じ、黙って頷いた。
「ありがとうございます。私自身整理がついていないところもあるので、上手く話せないかもしれませんが、途中であまり質問をしないで聞いて頂けると助かります」
佐緒里は一呼吸間を取って続けた。
「もしかしたら宮下さんは気がついていたかもしれませんが、今回の旅行は一人で来る予定ではありませんでした」
俺は、やはり不倫旅行だったのかと思った。昨夜すっぽかされて淋しくて、俺に寄ってきて、男の部屋に来るくらいだから今度は迫るのだろうか。どう対応すべきか考えた。しかし佐緒里の次の言葉に、すぐにそれは取り越し苦労とわかった。
「一緒に来る予定だったのは夫でした。夫のことも少し話さないといけませんね。夫は私の短大時代の恩師で、卒業後、色々相談に乗ってもらっているうちに恋に落ち、昨年の秋に結婚することを決めました。あまりお付き合いらしいことはしませんでしたが、お互いが必要と感じたのです。夫は右足に少し不自由があったことに加え、歳が50近いこともあったので、周りも戸惑いが強かったように思います」
俺はあまりに意外な話にびっくりしながら、邪なことを考えた自分を恥じた。そしてまあ普通は反対されるだろうと思ったが、口には出すかわりに、小さく頷いてみせた。佐緒里は続けた。
「夫は初婚で、親族も疎遠になっている弟さんがいるだけということでしたので、何も問題はなかったのですが、家は両親と歳の近い人と結婚するというので猛反対されました。結局、両親の同意を得られないのに無理に籍を入れるわけにはいかないと、夫が言い出したので籍は入れませんでしたが、私は家を飛び出し同棲という感じで一緒に住み始めました」
俺は相槌も打って良いものかわからず、ただ聞いていると、
「こういう話は苦手ですか?」
と、聞いてきた。俺はただ
「大丈夫です。続けてください」
とだけ答えた。佐緒里は続けた。
「籍が入っていなくても、親が反対しても、私は夫を愛していましたので一緒にいるだけで幸せでした。当事者が幸せなのだからと、正直親が反対している理由も、その時の私には全く理解できませんでした。しかし二ヶ月程前、父の事業が失敗したらしく、あれだけ反対していた両親が急に『結婚を認める』と言ってきたのです。結婚反対は私のことが心配だからと言っていたのに、結局自分の老後が心配だったのではないかと、親を情けなく、悲しく思ったのです。ただ親が許可してくれた理由はともかく、これでやっと正式な夫婦になれることに正直嬉しかったのは間違いありません。そして私は自分の好きな人への思いを貫きとしたことを誇らしく思いました。すぐに入籍をして、形だけでしたが小さな結婚式を教会で挙げました。そしてその後すぐ夫が京都へ出張に行くことが決まったのです。私は京都に行った事がないから、付いて行くから新婚旅行にしようと話すと、新婚旅行は海外の方が良いだろうと夫も気を使ってくれました。結局、新婚旅行とは別に、小旅行ということで京都旅行が決まりました。夫は京都には何度も来ているから案内してやると豪語していました。とにかく初めての二人きりの旅行だったので、私はすごく楽しみにしていました」
「それでご主人は今回どうして一緒じゃないのですか?」
言った後、さっきから敬語を使っていることに気がついたが、佐緒里はそのことには気がつかないのか、または俺に話の腰を折られたと思っているのか黙っていた。長い沈黙だった。実際には数十秒だったのかもしれないが、俺には数分に思えた。そして佐緒里は口を開いた。
「夫は、その数日後に死んでしまったのです。心筋梗塞でした」
ゆかりが頭に浮かんだ。そしてゆかりの死を知らせる優一の電話が頭の中で響いた。
「宮下、落ち着いて聞け。ゆかりちゃんが死んだ」
「お前そういうのは冗談でもやめてくれ。昨日の夜も電話で話したし、そんなつまらない嘘をつくため会社に電話してきたのか?」
「嘘じゃない。今朝交通事故にあったらしい。バーベキューでゆかりちゃんを連れてきた同僚の俺の友達からさっきメールが来た。昼のニュースでもやっていたらしい」
佐緒里の悲しみが俺とシンクロした。この子も似たような悲しみを抱え、ここにいるのだ。俺は何かを言わなくてはいけないと頭を回転させたが、何も口に出せなかった。佐緒里は話の核心を言ったことで、また話続ける勢いがついたのか、話し続けた。
「そして四十九日法要が終わると、両親は遺産や保険金はいくらだと聞いてきました。周りの友人も似たようなもので、慰めの言葉も『まだ若いんだから返って良かったじゃない』とその場を繕うものばかりでした。誰も私の悲しみなどわかっていないと感じ、所詮、みんな他人事なんだと思ったら、無性に淋しく、悲しくて・・・。そしてこれからどうしたらいいのだろうって考えていた時、ホテルから『明日からの予約の確認です』と電話があったのです。私はこの旅行は夫の最後のプレゼントだと思い、京都に来ることを決めました。そしてこの旅行を精一杯楽しんだら、夫の後を追おうって決めたのです。でも実際、京都も一人での旅行も初めてで、どう楽しんでいいかもわからず、たまに夫のことを考えボーっとしてしまうから、上着やガイドブックをどこかに忘れてしまうし。なんかこのままじゃ、夫の最後のプレゼントを台無しにしてしまうって思い始めて。そんな時、宮下さんに出会ったのです。私昼間も言いましたが、人を見る目には結構自信があるので、宮下さんが良い人なのはすぐわかりました。利用するなんて大げさなつもりはなかったけど、この人なら面倒をみてくれる気がしました。そしてもう一つ・・・」
佐緒里は一瞬だけ躊躇して続けた。
「歳も全然違うし、似ているところもどこもないのに、宮下さんとコーヒーを飲んだ時、夫と一緒にいるような錯覚に陥ったのです。多分、私がまだ夫の死を受け入れられていないからなんでしょうけど。昨夜そのままお別れしたことに、残念な気持ちとこれで良かったという気持ちで少し混乱しました。だから今朝見かけたとき、夫が私に会いに、あの世から来ている気がして・・・。実際、宮下さんと一緒だと、夫と一緒に旅行している感じで、とても安心でした。でも今日一日一緒にいて、夫のことを抜きにして、宮下さんに魅かれている自分がいることにも、気がついてしまったのです。部屋に戻ると、だんだん夫を裏切っている気持ちが強くなり、夕食を断ることにしました。そして明日の朝も会わずに出かけるつもりでした。でも断った後、夫は礼節を重んじる人でしたから、それも夫に対する裏切りだと思い、全てをお話しようと決めたのです。全て私の自己満足ですが、おかげで少し楽になりました。ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
話を聞き終え、佐緒里の言っていることと自分のこととが、ごちゃ混ぜになっている気がした。愛する人の死は、残されたものにしかわからない。だがその死は乗り越えなければいけないのだ。死んではいけない。俺はやっとの思いで言葉を口にした。
「まだ、死のうと思っているの?」
いつからか気がつかなかったが、佐緒里は泣いていた。多分話し終わりホッとしたのだろう。そして首を左右に2、3度振って言った。
「わからないんです」
俺はゆかりの話をするべきか悩んだ。あまりにも似すぎた話になるので、話しても信じてもらえないかもしれない。迷っている間に佐緒里は立ち上がり、
「失礼します」
と言ってそのままドアに向かい2、3歩進んだ。昨日の別れの時はただ見送ったが今日は違った。俺は腕を掴み、そして引き寄せ抱きしめた。佐緒里は俺の胸で、声を出してはいなかったが、さっきよりもはっきりとわかるように泣いていた。抱きしめられて戸惑っているのもわかったが、俺はそのまま抱きしめ続けた。しばらくして佐緒里が口を開いた。
「宮下さんスーツじゃないんですね」
俺は我に返り、あわてて手をほどき、佐緒里を元の場所に座らせると、
「さっき買って来たんだ。明日もあることだし。どう?似合わないかな?」
俺は立ったまま、おどけてモデルのようにその場で一周した。
「さっきまで、自分のことに夢中で全然気がつかなかったです。今更言うと嘘っぽいですけど素敵ですよ」
佐緒里は昼間見せた笑顔には程遠いが少しだけ笑った。俺は信じないかもしれないと思いながらも、ゆかりの話をすることにした。
「佐緒里、俺の話も聞いてもらって良いかな?」
佐緒里は真面目な顔になり頷いた。
「俺が京都に来るのは4回目だと話したけど、前回は当時付き合っていた彼女のゆかりと来たんだ」
俺が話し始めると、佐緒里は真剣に聞き入っていた。そして話し終わると、佐緒里は信じられないと言う顔をしていた。俺は言った。
「信じられないのは無理ないけど、俺だってまだ佐緒里の話が半信半疑なくらいだし。でも本当の話だ」
俺が言うと、信じたのかは、わからないが佐緒里は頷いた。
「ゆかりさんと私、そんなに似ていましたか?」
「もしかしたら全然似ていないのかもしれないけど、初めて会ったとき俺にはだぶって見えた。京都という土地がそう見せただけかもしれない。今は重ならないし」
佐緒里は黙っていた。俺は佐緒里が、今も死ぬつもりなのか、わからないと言っていたのを思い出した。
「ゆかりや佐緒里の旦那さんが、俺と佐緒里が会わせたのかどうかは俺にはわからない。お互いが面影を無理に重ねているだけかもしれない。でも運命にしろ、偶然にしろ、二人が出会ったことは事実だし、こうして話したことは無駄じゃないと思う。少なくても、ゆかりや佐緒里のご主人は、死にたくて死んだんじゃないって再認識できたはずだ。二人が俺たちに望むのは、綺麗ごとじゃなく俺たちの幸せだと思う。俺達がもし逆に死んでいたら、天国で相手の死を望むかい?」
俺は自分に向かって言っていたのかもしれない。俺はゆかりが死んでからは、仕事だけを夢中でやってきて、幸せなんて考えたこともなかった。佐緒里は黙って首を横に振った。
「死んだ者のために死ぬのではなく、死んだ者のため生きるべきじゃないかな」
佐緒里は今までと違い、もう涙を隠さず泣いていた。そして泣きながら言った。
「明日はどこに連れて行ってくれますか?」
俺はすっかりぬるくなったビールを口に含み、
「明日は嵐山に行こう。直指庵という小さいけど静かで良いお寺があるんだ。そしてそこには辛い事や、悩み事を書き綴るためのノートが置いてあって、佐緒里も何か書いてみたらいい」
俺はゆかりと行ったことを思い出しながら言った。佐緒里は頷き、明日の待ち合わせの時間を決め、自分の部屋に帰った。今度はちゃんと自分の部屋番号を教えて。
今朝は目覚ましで7時半に起きた。部屋のカーテンを開けると、今日も外は良く晴れていた。
俺は朝食会場に佐緒里が来るか少し心配しながら行ったが、待ち合わせの時間にきちんと現れた。
「おはようございます」
俺の姿を見つけると、佐緒里は笑顔で駆け寄ってきた。ゆかりの姿はもうダブらず、俺も笑顔で挨拶をした。そして約束どおり昨夜の話に触れないように俺は気を使ったが、佐緒里は俺の心配を他所に昨夜のことが夢だったのかと思うほど普通だった。
朝食を軽く済ませ、昨日と同じくロビーで待ち合わせることにした。
時間通りにロビーに行くと、今日は佐緒里が先に来ていた。俺はチェックアウトをし、荷物を預け、佐緒里に向かって歩き出した。佐緒里は俺を見つけ嬉しそうに手を振った。
嵐山へはバスで向かった。バスは少し混雑していたが、早めに並んだ甲斐があり何とか座れた。二人で並んで座ったが、昨日のような感覚にはならず、自然でいられた自分が不思議に思えた。少し長い時間に乗っていることが予想されたので、俺は大学時代に一人で京都に来た時の話をした。今の佐緒里と同い年の時である。
「とにかくお金が無くてね。夜行バスで来て、一泊6000円の民宿を素泊まり3500円にしてもらったんだ。飯代も乏しくてほとんど京都らしい食事はした記憶がないし、実は一人旅の女の子とのロマンスなんかも期待していたけど、そういうのも全然無かったけど楽しかったな。あっ、本屋で声を掛けたのは、本当にナンパ目的じゃないからね」
俺は言った後に、また余計なことを言ってしまったと思ったが、佐緒里は気にしていないようだった。
「男の人は良いですね。女の子にはそういうのがなかなか出来ないから、羨ましいです。私なんて方向音痴だからなおさらですけどね」
佐緒里は自分も一人で京都に旅行に来ているのに、本当に羨ましそうな顔をして言った。俺の学生時代の一人旅と佐緒里の今回の旅行は違うのもわかっていたので、それを指摘するのも大人気ない気がして、何も言わなかった。
バスは40分ほどかけて嵐山に到着した。
バスを降りると、目の前に渡月橋が見えた。渡月橋を見入っている佐緒里を見て、ふとした思い付きだったが、佐緒里の写真が欲しくなり、斜め後ろからこっそり携帯電話で写真に撮った。しかし上手く撮れない上に音でばれてしまい、佐緒里は膨れて言った。
「ダメですよ。恥ずかしいから消してください」
「どうせ顔はほとんどわからないから、大丈夫だよ」
撮った画像を見せながら言うと、
「じゃあ私も宮下さんを撮らせてくれたら良いですよ」
佐緒里は携帯電話を取り出し構えた。昨日買ったストラップが揺れている。俺は思い出に、誰かに頼んで一緒に撮ってもらおうと提案したが、
「恥ずかしいから嫌です」
と笑顔で断られてしまった。結局俺は一人で写ることになり、不公平だと訴えたのだが、隠し撮りをしようとした罰だと受け入れられなかった。
10月だと言うのに今日は日射しが強い。木陰に入り、直指庵は渡月橋から少し歩くことになるので、俺は自転車でも借りようかと提案した。
「ゆっくり歩きたい気分かな。だめですか?」
「佐緒里がそれで良ければ。天気は良いからね」
俺は昨日やっぱり靴も買っておけば良かったと少し後悔したが、歩いて行くことに同意した。俺たちはどちらからということなく、自然と手を繋いだ。25分ほど歩くと直指庵に着いた。嵐山のメインからは離れているせいか、来る途中何人かとすれ違いはしたが、境内に入ると俺たち以外人影は無いようだった。
靴を脱いで庵に上がると、より静寂が感じられた。
「ここには3年前にゆかりとも来たんだ。ゆかりは俺と付き合う前にもここに来たことがあってノートに、『次は好きな人と来ます』って書いたらしく、有言実行って威張っていたよ」
俺と付き合う前に、ゆかりは片思いが届かず失恋の痛手を癒すため、友達と二人でここに来たという話を、思い出しながら佐緒里にした。佐緒里はノートに興味を持ったようで
「私も書いてみようかな」
と言った。机に向かうと3冊のノートが置いてあり表紙には、<想い出草>と書かれていた。俺は見ていると書きづらいと考え、少し離れてしばらく様子を覗った。佐緒里は他の人が書いたものを読んでいるようだったが、やがてペンを持ち書き始めた。俺は縁側に座り庭を見ながら、ゆかりと来たときもこうして時間をつぶしたことを思い出した。20分ほどして佐緒里が背後から声をかけた。
「お待たせしました。宮下さんは書かないんですか?」
俺は少し考えて言った。
「俺も書こうかな」
佐緒里は俺の横に座り庭の竹林を見つめ、俺に話しかけると言うよりは、自分に話しかけるように言った。
「ここは静かで良い所ですね」
横を見ると涙が一筋流れていた。俺は何かを言おうとしたが、佐緒里が先に話した。
「他の人の書いてあるのを読んで、みんなもがんばっているんだ、と思ったら少しもらい泣きしちゃいました。宮下さんも早く書いてきて下さい」
俺は何も言えず、立ち上り<想い出草>がある机に向かった。振り返ると佐緒里は庭の方を見ている。俺はノートを開くと、白紙のページの左側に、佐緒里の書いた文と思われるものが目に入った。最初は読むつもりは無かったが、気になって読むことにした。ノートには今日の日付と共にこう書いてあった。
愛する人を亡くし、まだ2ヶ月足らずです。正直これからどうやって生きていけば良いのかわかりません。誰かと一緒にいれば少しは気が紛れるのですが、一人になると淋しくて仕方がありません。本当は死を決意してこの京都に来たのですが、ここに連れてきてもらった人に出会い、励まされ、今日またこのノートの中の人たちに、生きていく勇気をもらった気がします。今日ここに来て良かったみたいです。
これから「こう生きていきます」とノートのみなさんのようには、今はまだ書けないけど、何年か後にまたここを訪れ、このノートにきちんと報告できるよう生きていきたいと思います。
俺は佐緒里の文を読み、少し目頭が熱くなるのを感じた。
前のページをめくっていくと、大勢の人が失恋や人間関係の悩みなどを書き綴っていた。そして大体は、これからも負けないでがんばりますと言う感じで締めくくられていた。俺も佐緒里の横に書くことにした。
恋人が死んで3年が経ちました。その恋人だったゆかりと3年前、京都に来たときの写真を、帰ったら現像してみようと思います。そしてその写真を持って、ゆかりの両親に会いに行ってみようと考えています。ゆかりの両親と、たくさんゆかりの話をして、きちんと思い出にしてこようと思います。勿論、彼女のことは一生絶対に忘れないけど、それで前に進めるそんな気がします。
そして、それとは別に3年ぶりに、また人を好きになれそうです。その人と今日は一緒に来ました。この人を心から好きになれたらいいと思います。
書き終えて、もう一度振り返ると、佐緒里はこちらを見ていた。そして俺と目が合うと言った。
「書き終わりましたか?」
俺は返事をした後、佐緒里のメッセージを読んだことを正直に言うか迷っていると、佐緒里は立ち上がり言った。
「行きましょうか?」
俺は少し罪悪感を覚えながら、二人で庵を後にした。歩きながら佐緒里は意外なことを言ってきた。
「1時間だけ自由行動にしません?お昼に渡月橋で待ち合わせしましょう」
時間は11時前である。俺は佐緒里が、このままいなくなってしまう気がして
「佐緒里が迷子になるといけないから携帯電話の番号教えてよ」
と聞いたが、絶対大丈夫と言うのでそれ以上聞けずに別れた。
天龍寺を見学して渡月橋に戻ると、俺の心配をよそに佐緒里は先に来ており、外国人観光客と英語で話をしていた。あまりに毅然と話す姿に、俺は佐緒里のことをまだまだ知らないのだと感じた。そしてしばらく見ていると外国人が離れたので、近づき声をかけた。
「お待たせ。どこをまわったの?」
「少し一人で散歩をしたくなったので、特にどこにも入りませんでした」
佐緒里は笑顔で答えた。死に場所を探していたのか不安になったが、さっきのノートの言葉と今の笑顔を信用することにした。そして昼食を摂るために近くの店に入った。すっかり佐緒里のペースなのか、先に口を開いたのはまたも佐緒里だった。
「宮下さん、今日はさすがに帰りますか?」
俺はそのつもりだったが、とりあえず
「佐緒里はどうするの?」
と聞いてみた。佐緒里は少し迷っている感じで答えた。
「私は、夫が明日まで予約していたので、予定どおりもう一泊します」
俺はまだ佐緒里をこのまま残して帰っては、いけない気がして言った。
「俺ももう一泊しようかな」
「私はもう大丈夫ですよ。でも宮下さんとは、今夜はちゃんと夕食をご一緒したかったから嬉しいですけどね」
佐緒里は笑顔で答えた。俺は、今夜は大丈夫だろうなとからかってみた。
そして食事を終え、会計をする時に佐緒里は笑顔で伝票を取り
「今日は私が払うんですよね」
と言った。俺は彼女が奢らせ上手ならぬ、奢らせぬ上手だと思った。俺に払わせないのはガードが固いとかではなく、精神的に世話になっている認識があるので、他では少しでも対等でありたいのだろう。それでいて嫌味が無く、かわいくないと思わせないのだから、大したものである。ただそれとは別に、死ぬ前に極力人に借りを作らないようにもしているようにも取れた。
午後は、トロッコ電車に乗ることにした。食事の時にビールを飲まなかったので、電車の中で飲もうと思い売店でビールを買った。佐緒里は買う時はいらないと言ったのに、俺が飲み始めると、横から取って半分以上飲んでしまった。ただあまりに美味しそうに飲むので何も言えなかった。やがて電車が走り出すと、俺も初めて乗ったこともあるが、トロッコ電車の中で二人とも子供のようにはしゃいだ。佐緒里とこうして一緒にいることが、自分の中で自然に受け入れられるようになっていた。
電車を降り時計を見ると、ホテルに戻るには少し早いと思い、祇園を散策して帰ることにした。祇園に着くと白粉を塗った着物姿の女性とすれ違った。
「舞妓さんだ」
佐緒里は嬉しそうに言った。俺はこの感動を壊すのに罪悪感を覚えながら、
「今のは、芸妓さんだよ。舞妓さんというのは芸妓になるための修行中の少女のことなんだ。戦前は15歳までが舞妓と言われていたらしいが、今はさすがに中学生の頃から芸妓を目指す人はほとんどいなくなったから、20歳前くらいを舞妓と言うらしいよ、まあ京都では舞妓さんという表現の方が芸妓さんより有名だけどね」
と教えた。思った通り、佐緒里は舞妓さんと会えたという感動を壊されたのが気に障ったらしく、つまらなそうに
「そうなんですか、ちょっと残念」
と言った。それでも祇園を抜け、河原町辺りに来ると繁華街の華やかさに機嫌を直したのか、今時の女の子らしく、有名なあぶらとり紙屋を見つけ騒いでいた。鴨川沿いにはカップルが語り合っていた。
夕方5時ごろホテルに戻り、空き状況を尋ねると土曜日のせいか、さすがに満室だった。俺はどうしたものかと、預けていた荷物を受け取り、佐緒里に報告すると、佐緒里は少し考えた後、恥ずかしそうに言った。
「私の部屋、ツインですから一緒で良かったら、どうぞ」
俺は断るべきか考えた。佐緒里はきっと単なる善意で言っているのだろう。しかし俺は、確実に佐緒里を好きになってきており、理性が保てるか不安だった。結局、
「宮下さんのこと、信用していますから、私は大丈夫ですよ」
の言葉に、俺も自分の理性を信じ、同じ部屋に泊まることにした。部屋にとりあえず荷物を置き、俺は昨日と同じく下着と靴下、そしてシャツだけ買おうと思い、買い物に行くと告げた。佐緒里は
「その間に、今日はたくさん歩いて汗をかいたから、シャワーを浴びています」
と少し恥ずかしそうに言った。俺は1時間くらいで帰ると言って出かけた。
買い物をしながら、今日は一日ゆかりの幻影を見ることも無く、またゆかりと佐緒里を比べなかったことに気づき、俺は一歩進めた気がして嬉しかった。ゆかりを思い出にすることと、忘れていくことは違うのだ。ホテルに戻り部屋をノックすると、佐緒里は風呂上りでシャンプーの香りこそすれ、洋服をきちんと着て出迎えてくれた。夕食はホテル内にある京会席料理にした。今夜は旅行最後の夕食だと思い、食事をしながらビールに続いて俺は日本酒を、佐緒里は店の人に聞いて飲みやすい焼酎をロックで飲んだ。会計は俺が払うと言っても、佐緒里は
「後で清算しましょう」
と言うので部屋に付けることにした。その後ホテルのバーに行きカクテルを一杯ずつ飲んだ。部屋に戻ると佐緒里は
「お風呂どうぞ。私は少し飲みすぎたみたいだから、少し休みます。こんなに飲んだのは久しぶり」
と言って、ベッドに寝転んだ。俺はとりあえず、シャワーだけでも浴びてしまおうと、バスルームに入った。そして裸になりシャワーを浴びようとした時、バスルームのドアが開いた。俺は佐緒里がトイレを使うのかと思い、あわててバスタオルを腰に巻き、
「大丈夫?気持ちでも悪い?」
と聞いた。すると佐緒里は酔った顔をさらに真っ赤にして言った。
「違います。私、宮下さんにお世話になりっぱなしで、何も返せないから、せめてお背中でも流させてもらおうかと。夫の背中をよく流していたから、結構上手いと思いますよ」
佐緒里のそんな甲斐甲斐しいところに、ご主人は惚れたのだろうなと思いながら、俺は言った。
「そんなの気にしなくていいよ。それに佐緒里も恥ずかしいだろうけど、俺も恥ずかしいから」
俺の言葉を無視するかのように、佐緒里は
「私も服が濡れないように下着になるので、向こうを向いてください」
と言い、服に手をかけた。俺はあわてて佐緒里に背をむけた。佐緒里は下着姿になったのか、背後に気配を感じた。
「すいません。念のため目も瞑っていてください」
俺はバスタオルを巻いたまま、言う通りに目を瞑った。すると佐緒里は手際よく、タオルにボディシャンプーをつけ、泡立てているようだった。そしてやがて背中をこすり始めた。こんなことを女性にしてもらうのが初めてのせいもあったと思うが、俺は佐緒里を心から愛おしいと思うのがわかった。佐緒里はどんな気持ちで俺の背中を洗っているのだろうか?ご主人を思い出しているのか、それとも世話になったことへの義務感で特に何も考えていないのだろうか。
「どうですか?かゆいところがあったら、言って下さいね」
佐緒里が背中越しに言った。ときたま当たる佐緒里の手が妙に艶かしく感じ、俺は理性が飛びそうだった。
「気持ちいいよ。ありがとう、でももういいよ」
俺は止めて欲しい訳ではなかったが、そう言わざるを得なかった。
「目を瞑っていてくれれば、もう少し洗いますよ。こっちを向いてください」
佐緒里がそう言ったその時、俺は理性が飛んだと言うよりは、佐緒里を愛し始めていることを確信したため、振り返り佐緒里を抱きしめた。
「ダメです。私そんなつもりじゃ・・・」
佐緒里は消え入りそうな声で言ったが、体は抵抗していないように感じた。俺は佐緒里を見た。佐緒里もまたしっかりと俺を見ていた。佐緒里からは、この状況に流されているような感じは受けなかった。俺が顔を近づけると佐緒里は目を閉じた。俺は口づけをした。佐緒里は何も言わず、俺のキスを受け入れていた。そして一度口を離し
「佐緒里、好きだ」
と言い、再度唇を重ねた。長いキスだった。やがて佐緒里は自然に唇を離し、服を手に取りバスルームから出ていった。
シャワーを浴び部屋着を着てバスルームを出ると、しばらくして佐緒里が尋ねた。
「私はゆかりさんの代わり?」
ゆかりの面影を見たことなど言わなければ良かったと後悔しながら、今の気持ちを俺は正直に言った。
「違うよ。ゆかりは関係ない。純粋に佐緒里を好きになったんだ」
俺の言葉に、佐緒里は少し躊躇して言った。
「とても嬉しいです。でも私は、今の自分の気持ちがわからないのです」
佐緒里は困惑しているのだろう。俺のことを好きになりかけている気持ちと、ご主人に対する罪悪感が交錯しているように感じた。俺は謝るのも変だと思い、代わりに抱きしめた。しかし佐緒里はすぐに両手で俺を遠ざけた。
「もう少し時間をください」
佐緒里はそう言うと、俺に背を向けて黙ってしまった。俺は本当に佐緒里を好きになれたことを確信した。そしてあせる必要はない、佐緒里にはもう十分すぎるほどのものをもらったのだと、自分に言い聞かせた。
「佐緒里が生きていてくれるなら、いつまでも待つよ」
俺が言うと、佐緒里は振り返り、俺を真っ直ぐに見つめ答えた。
「ありがとうございます」
佐緒里の言葉の真意はわからなかったが、佐緒里がきちんと俺に向き合うにはまだ時間が必要なことは理解できる。俺は本当にいつまでも待つと思ったが、そのことは言葉には出さなかった。
「飲み直そうか?」
俺が言うと、佐緒里は冷蔵庫を開け聞いた。
「そうですね。何にします?」
「任せるよ」
俺の言葉に、佐緒里は日本酒の小瓶と湯飲みを持ってきた。俺は少し気まずくなった雰囲気を和ますため、仕事の失敗談を面白く話したりした。やがてそれが功を奏したのか、少しずつ昼間の雰囲気に戻り、佐緒里は徐々に笑顔になってきた。そして佐緒里も好きな映画の話をし始めた。
「宮下さんのベスト1の映画は何ですか?私はベタですけどタイタニックかな」
この時、驚いたことにゆかりの好きだった映画が浮かばなかった。考えたらすぐに「プリティウーマン」だと思い出したが、俺はこのことが喜ぶべきか、悲しむべきかわからなかった。そして、
「人が死ぬ映画は嫌い。ハッピーエンドが好きなの」
と言っていたのも思い出した。俺の人生のハッピーエンドも天国で望んでいるのだろうか。俺が答えない事に佐緒里は考えていると思ったらしく、
「難しいですか?」
と聞いてきた。
「アクション系が好きなせいもあるけど、フェイス・オフかな」
俺は我に返りようやく答えた。佐緒里は見たことがないので今度見てみますと言った。
お酒も飲み終わり12時過ぎに、別々のベッドに入り眠りに着いた。夜中に目を覚ますと、佐緒里は隣のベッドで寝ていたが、こちらに背を向けて泣いているようにも見えた。俺は声をかけるか悩んでいるうちに、また眠ってしまった。
目を覚ますと、佐緒里はベッドにはいなかった。薄暗いせいか、一瞬佐緒里がいなくなっているのかと思ったが、部屋を見渡すと窓際のソファーに座っていた。俺が目を覚ましたことを確認すると、佐緒里は立ち上がりカーテンを開けながら言った。
「おはようございます。今日は一日雨みたいですね」
雨とはいえ、外の明るさを眩しく思いながら俺は言った。
「おはよう。そうか今日は雨か・・・」
そして佐緒里が、きちんと着替えが済んでいることに気がつき
「ところで今何時?」
と尋ねると、佐緒里は旅行かばんを持ち上げながら言った。
「8時ちょっと前です。下で荷物を宅配便で家に送ってきます。戻ってきたら朝ごはんに行きましょうね」
俺は寝ぼけ眼で答えた。
「いってらっしゃい」
少しずつ頭の中も起きてきたが、佐緒里はまだ帰って来ない。俺はとりあえず着替えて、待つことにした。時計を見ると8時20分を指している。窓の外を見るとさっきより雨足は強くなっているようだ。テレビを付けて見ると、佐緒里が言っていたように今日は一日雨らしい。8時30分になり、いくらなんでも遅いと思い始め、部屋を見渡すと佐緒里の物が何一つないように感じた。俺はあわててロビーに下りてみることにした。エレベーターを待つ間も昇りのエレベーターに目を配ったが佐緒里が戻ってくる気配はなかった。
1階に行き、宅配便サービスのカウンターに近づいたが佐緒里の姿は無かった。俺は佐緒里がまた死ぬことを考えているのでは、という不安に襲われた。昨夜の行動はいくらか軽率だったかもしれない。だが今はあれこれ考えても仕方がないと思い、フロント係に話しかけた。
「連れとはぐれてしまったようなので、連れがもしフロントにきたら、キーをわたしてもらえますか?俺はしばらく近くを探して、また戻りますので」
するとフロントの係は事務的に答えた。
「お連れ様は、先ほど清算を全て済ませ、チェックアウトされました。お客様がまだ寝ているので先に行くとおっしゃっていました。フロントに寄ったとき、これを渡すようにと預かっております」
そして封筒を俺に手渡した。近くのソファーに座り、急いで封筒を開けると、中には手紙が入っていた。
孝司さんへ
ずっと宮下さんと呼んでいたけど、最後ぐらいは孝司さんと呼ばせてもらいますね。
きちんとお別れをしないで行くことを許してください。実は昨日の昼間、別行動のとき直指庵に戻りました。理由はもう少しあのお寺に一人で居たかったのと、他の人が書いたのをもう少し読みたかったから。そして、孝司さんが何を書いたのかが気になったからです。盗み見みたいなことをしてごめんなさい。でも、孝司さんも私が書いたのを読んでいるはずだから、おあいこですよね。そして孝司さんが書いたのを読んだ後、孝司さんの気持ちを知って私は嬉しい気持ちと、孝司さんの気持ちには応えられないという気持ちとが複雑に絡み合いました。そして応えられないと思いつつも、私の中でも急激に孝司さんへの思いが膨らんでいったのです。ホテルで私の部屋に誘ったのは、孝司さんの気持ちを知った上でのことですので、孝司さんは昨夜のことは気にしないでください。
孝司さんは、私のことを「好きだ」と言ってくれ、とても嬉しかったです。キスをされたとき孝司さんを受け入れられる気がしたのですが、抱きしめられているうちに夫の姿が浮かんでしまったのです。私の中ではまだ夫は生きているのです。
一時は死ぬことすら考えていた私に、生きていくきっかけをくれたのは間違いなく孝司さんです。その孝司さんに、好意が無いといえば嘘になると思います。実際昨晩のことは私自身良い思い出として受け止めています。ただ今はまだ孝司さんの気持ちを受け入れることは出来ません。孝司さんが、ゆかりさんを思い出と出来たように、私が夫を思い出と割り切るにはもう少し時間がかかりそうなのです。
孝司さん、3日間本当にありがとうございました。いつか、夫をきちんと思い出にできるようになったら、頂いた名刺を控えたのでこちらから連絡します。もう死のうと考えたりしないので心配しないでください。
最後に出会えて本当に良かったです。さようなら
P.S 一人で直指庵に行った時、<想い出草>に少し書き足しました。不公平にならないように教えておきます。
「今日は次のページに書いた人と一緒に来ました。私も彼のことを好きになりかけています。いつか彼と今度は恋人として来られたらと思います」
佐緒里
手紙を読み終え封筒の中を見ると、中には俺の名刺と小さな袋が入っていた。袋の中には、佐緒里が清水寺で買って付けていた京組み紐の携帯ストラップと同じものが入っていた。
まだそう遠くへは行っていないかもしれないが、何故か探す気にはなれなかった。
手紙の中の言葉に嘘は無いだろう。だがもう佐緒里とは会うことがないように感じた。少し劇的な出会いに、お互いが恋人や夫の面影を重ね、惑わされていたに過ぎなかった気がしていた。佐緒里も恐らく気が付いたか、もし今気が付いていなくても近い内に気が付くだろう。そう出会いは決して運命などではなく、偶然に過ぎなかったのだ。そして別れは必然と言わざるを得ない。ただこの出会いは、一昨日の夜佐緒里に言ったように無駄ではなかったはずだ。少なくとも二人とも愛する者の死と向かい合うことが出来、少しかもしれないが前に進めたのだから。
佐緒里との別れは、ゆかりの時と同じく突然やってきたが、ゆかりの時とは明らかに違うのだ。同じようにもう会えないとしても違うのだ。
佐緒里はもう大丈夫だと、根拠のない確信がこみ上げて来た。そして、ご主人の分まで生きて幸せになることを心から祈った。俺もゆかりの分まできちんと生きなくては。それがゆかりの人生に関わった責任のようにも思えた。携帯電話にストラップを付けながら、この中に残っている佐緒里の後姿の写真を思い浮かべ、思った。
急いで東京に帰ろう。ゆかりとの写真を現像に出し、それをゆかりの両親に届けるために。