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濃霧

作者: 羽島 裕二

この作品は、「街」シリーズの中の『自殺』という話の続きです。

 その日の市街地の天候も、また雨であった。ここ二週間にわたり降り続いている雨は、まるで煌びやかな市街地の呼吸を乱すかのように、新しく舗装された灰色のコンクリートの地に降り注いでは、パラパラと小さな衝突音を鳴らしている。その小さな水滴は地に落ちると、くすんだ色の水たまりを次々に形成し、市街地の道路をじわじわと占拠していった。

 このように天候の悪い日の市街地には、人がほとんど現れない。稀に人の姿を見る事はあるものの、透明のビニール傘を差した女がハイヒールの靴音をうるさく響かせながら、足早に通りを横断するのを、たまに見かける程度である。そのため、市街地には重たく湿った空気だけが停滞していた。

 こうした悪天候がもたらす影響は大きい。商売を生業とする者にとっての「雨」は来客数を減らす忌々しい一要素でしかない。もちろん、「歓楽通り」に面したあの喫茶店にとっても同様である。

 この喫茶店は、市街地が再開発を始める以前から営業していて、街の人々との関わりも強い、いわば「地元志向」の店舗である。しかし、最近になって近所に大型飲食施設が建設された事もあり、今では店に来る客もすっかり減ってしまった。さらに、先週から降り続いている雨のせいで、客足はいつも以上に遠のいていた。

 その喫茶店では、一人の女が働いていた。ほっそりとした体格で、きれいに整った顔をしている女である。食事時を過ぎているせいでもあるが、全くと言って良いほどにお客が来ないため、女はカウンター席の一番右端の席にちょこんと座って、結露して曇った窓ガラスからぼんやりと外の風景を眺め続けていた。

 女は最近、夫を事故で亡くしたばかりであった。夫は女に優しく接していたが、酒癖だけはとにかく悪かった。そんな夫の酒癖の悪さだけが、女が自分の夫に対する不満であった。結婚してすぐの頃は「これくらいなら、何とか我慢できるだろう」と思っていたが、長年の結婚生活を経て、子供も生まれた頃には夫に対する不満は数えきれない程に増殖していた。

 そんな夫への我慢の日々を散々送り続けた結果が、あの事故である。夫は事故に遭う前に、酒に酔った勢いで颯太をぶったため、女は夫の行動に激怒して「あんたと結婚してから、何一つ良い事なんて無かった」と言い放ち、一人颯太を探しに出たのである。そして、市街地の空き地で座り込んでいた颯太を見つけて自宅へ帰った時には、既に夫の姿は無かった。その時、女は夫との距離を痛感し、数日後に離婚届を残し、颯太を連れて現在の女の自宅であるアパートに移り住んだのである。

 それから数日後、夫が事故に遭ったと聞かされた時、女は驚く事は無かった。何故かは分からないが、以前からそうなるような気がしていたのである。夫の葬儀を一通り終えるまではあっという間であった。それからというもの、颯太は父親を失ったショックで無口になってしまった。それが何より、女にとってつらい事であった。

 しばらくして、二人の子供を連れた男女が来店した。見たところ家族のようである。小学生くらいの子供たちは、外界の寒さに身体を小刻みに震わせながら店に入った。女は見通しの悪い店内を一通り見まわしてから、その一団を窓際の席に案内した。客たちはしばらく団欒にも似た会話を楽しんだ後、女にサンドイッチ、ハヤシライス、そして子供用のランチを二つ注文した。しばらくしてオレンジジュースの追加注文も入った。

 女は出来上がった料理を一通り配膳し終えると、遠くから客たちの様子を見つめていた。女の子は爪楊枝の旗で遊んでいる。男の子はコップの中の氷をつついて遊んでいる。両親は子供との会話を楽しみながら、料理を堪能している……

 そこまで確認し終えた女は戦慄した。もしかして、颯太が望んでいたものは私と違っていたのだろうか? 颯太にとっての「生活」とは、このことだったんだろうか? すっかり動揺してしまった女は店の奥に引っ込んで、人知れず泣いた。

 女が再び店内に戻って来た時には既に客たちの姿は無く、代わりに食べ終わった食器と少しの残飯が残されていた。

 その後は常連の客が何人か来たものの、それ以降はほとんど客が来ないまま、その日の営業は終了した。身支度を終えた女が帰宅しようとしていた時、店の奥から店主に呼び止められた。

「おい、まかない作ってみたんだけど、食べていかないか?」

 普段、店主がまかないを振る舞うことなど滅多に無いため、女は驚いた。実際のところ、女も空腹であったため、店主の提案にのる事にして、再び店内へと戻ったのである。

 店主の用意したまかないはミートスパゲティであった。普段、通常のメニューとして客に提供している料理を、わざわざ「まかない」として出しているのである。女は「何か、ただ事ではないことを言い出すに違いない」と確信した。

 それから店主と女は、昼間あの家族が座っていた席に座り、食事を開始した。しばらくの間、二人とも無言で食べ続けていたが、唐突に店主が女に話しかけた。

「もう…… 亡くなってからどのくらい経ったっけ?」

「二週間です。」

「あぁ、そう……」

 再び重い沈黙が流れたが、しばらくして店主はフォークを皿の端に置いて、こう続けた。

「実は、俺も一時期どうしようもないくらいの自暴自棄になった事があってさ、とにかく…… 誰かに必要とされるような人間でいたい、そうあるべきだってずっと思いこんでてさ。」

「はい。」

「でもさ、やっぱりその時いろいろあって、結局のところ自分は何も持たない、役立たずな人間だってことを痛感しちゃって、結構疲れてたんだよね。」

「それでも、色々やってみてアレも駄目、コレも駄目ってなって最後に残ったのが『料理』だった。」

 店主は、まだ湯気の出ている食べかけのミートスパゲティをフォークで指した。

「これしかない、やるしかないんだって本気で思ったね。まぁ、こういった経験もあったお蔭で、今は料理でまともに生活できてるし、何より自分にも他人にも正直になれたって事が一番大きいかな。」

「……はい。」

 女は店主と同様に食べる手を止めて、店主の話を聞いている。

「つまり、俺には料理を作る事でしか人を幸せにすることが出来ないんだ。才能のある奴は、俺なんかよりもっと大きな事をして、もっと沢山の人を幸せにできる。でも、俺にはこれが精いっぱいだ。」

 女は少し俯いた。

「何の励ましにもなってねぇかもしれないが、これだけは話しときたかったんだ。ただ、無理をしようとはするな。目の前が曇って見えなくなる。」

 そう言うと、店主は窓の外を眺めた。外では自動車がひっきりなしに往来している。地面に出来た水たまりは、信号や店の電燈の光を受けて輝いていた。

 女はつかの間の食事の後、店主に見送られて勤務先の喫茶店を後にした。先週から降り続いている雨は止みかけているように思われた。女は帰り道で、店主の話をぼんやりと思い出していた。今からでも変われるだろうか? 「手遅れだった」なんてことは無いだろうか? そんな考えが次々と浮かんだが、どれも女の決意を固めるには至らなかった。

 女は、霧でそのほとんどが隠れてしまった市街地を眺めながら、一人、家路を急いだのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 一~三話読ませて頂きました。 町をゆく人達の無機質さが、この『町』の代弁者のように感じられました。それは重苦しく色のない世界にも感じられて。そんな中での店主の言葉は、胸に響くものがありました…
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