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ほどよく手入れされた広い庭には赤や白など彩り豊かな花が咲き乱れている。かがみこんで、ふんだんにその香りを楽しみ、笑顔が零れた。
朝の爽やかな空気と、花の香り。フィラルタの一番好きな時間だ。
田舎の地方貴族であるフィラルタの家──ロズヴェルト男爵家は、貧しくはあったがそれなりに幸せに暮らしている。
たとえ国王陛下に拝謁が叶わないほどの最下層貴族でも、使用人が片手で数えれるくらいしかいなくても、毎日食べる食事が貴族とは思えないくらい質素でも。フィラルタはこの男爵家が大好きだ。
「お嬢様、旦那様がお呼びでございますよ!」
ぱたぱたと走ってきたこの家で最も古株のメイド──ハリエットは、女性にはふさわしくないくらい豪快な走りで駆けてきた。
「ハリエットったら、淑女は走るべからず、ではなかったの?」
そうやって厳しくしつけていたのは紛れもなくハリエットだ。
しかし、彼女は乱れた髪を直す事もなくフィラルタに詰め寄った。
「大至急です! お嬢様の一大事ですよっ!」
そう急かされても、フィラルタは訳もわからず戸惑うだけだ。
ハリエットは苛立ったようにフィラルタの手首を掴んでずんずんと引っ張っていく。いつも淑女たる者の為の教本を持って厳しくする彼女が、一体どうしたのだろう。
フィラルタは大人しく引っ張られながら疑問符を頭に浮かべた。
何も問題は起こしていないはず。怒られる事もしていない。
──何かやらかした……?
考えても心当たりはない。しかし、やがて唐突に思い出す。
今日はフィラルタの誕生日だった。
自分の十七歳の誕生日。それのどこが一大事なのかは、やはりよくわからなかった。
そうしてよくわからないまま連れられ、父親を目の前にしてさらに首を傾げた。いつもの情けないさまが更に質を増している。
男爵家当主である父は、執務室のテーブルに両肘をつき、どんよりした様子で俯いていた。
「あの、お父様?」
「……フィラルタ。私の可愛いフィー……」
じめじめした空気を放ちながら父は呼びかけてきた。
そんな様子に戸惑って、窓辺に立つ母にちらりと視線を向けてみる。いつもなら情けない父を母が一喝するはずなのに、なぜか今日はそれがない。
「まずは十七歳おめでとう。すっかり大人になって……パパは嬉しいよ」
「ありがとうございます」
まず、という言葉に引っかかりながらもフィラルタはにこやかに礼を言う。
「フィラルタ、この家がどれだけ貧しいか、わかるよね?」
「ええ、もちろん」
決して苦労ばかりではないが、貧しいのは確かだ。
「……君に、この家を救ってもらいたい」
「救う、とは?」
「君にはトランバリニア公爵へ嫁いでもらう」
しっかりとした声が聞こえ、父の顔をしっかりと見た。顔を上げた父は、いつもの情けないさまではなかった。
決意と、悲壮と、罪悪感。しかし覚悟を決めた顔。
「……お父様?」
トランバリニア公爵。地方貴族の娘であるフィラルタもその名はよく知っている。
王都近郊に屋敷を構えていて、おそらく国中が名前を知っているだろう。
今までに何人もの妻を娶り、しかしその妻は数日のうちに公爵に殺されるという恐ろしい噂持ちで──通称、惨殺公。
鋭い眼光を持ち、獣を瞬殺するとも言われているその公爵に、嫁ぐ?
「彼の噂はたくさんあるが、ただの噂にすぎない。君には彼の六人目の妻になってもらう」
「……ただの噂と仰いますが、実際に公爵様にお会いしたことが?」
強い反発心から父に食いかかる。すると父は眉尻を情けなく下げた。
「……一度もないよ。公爵はめったに外へ出ないから誰も知らないんだ」
それならどうしてただの噂だと断言できるのだろうか。
「公爵は美しい娘をお探しでね。地方貴族の四番目の末娘である君に白羽の矢が立った」
その白羽の矢を立てたのはトランバリニア公爵ではなく、ロヴェルト家の遠い親戚である王都住まいをしている伯爵だろう。
「……わかってくれるね?」
父が息を吐きながら諭すように尋ねた。──否、尋ねたという表現は正しくない。
フィラルタが頷くしかないのは確定しているのだ。
父は本気で言っているのか。たとえ噂だとしても今まで娶った妻を殺したと言われている男のもとへ自分の娘を生贄にするような事を、まさか本気で言っているのか。父は自分を溺愛していたはずだ。それなのに、自分が家族やこの家が好きなのを、まさか逆手に取られようとは。
家の為、家族の為と言われれば折れるのはこちらだ。自分に選ぶ選択肢はない。ふつふつと怒りがこみ上げて父を睨みつけていると、母がため息をついた。
「あなたも納得できないでしょうけど、私達だって大切な娘を失いたくないわ」
母の言葉に、沸騰寸前までいっていた自分のささくれた心が少し収まる。
「まあ、あなたが死んだらたんまり伯爵からお金がもらえるしね。家族の為に頑張って、フィラルタ」
そう言って微笑む母の顔を見た途端、フィラルタの落ち着き駆けた熱が沸点に達した。
──が、もちろん、暴言を吐きまくるような、婦女子らしくない言動はしなかった。
母は昔から自分に感心がない。わかっていたことだ。




