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屋上

 小学生の頃、図書室で『人間失格』と言う本の背表紙を見て、私は、人間になるには資格がいるのかと絶望的な気分になったことがあります。

 確か四年生の頃だったと記憶しております。衝撃的でした。タイトルを見ただけで、私はまるで世界の真理を知ってしまった哲学者の如く無気力になってしまい、学業も、遊戯も手に着かなくなってしまったのですから。

 何故あんな残酷なタイトルの本が小学校の図書室に置いてあるのでしょうか。小学生の身分で純文学を読む人間は稀ですし、置くならばもう少し無難なタイトルのものがあったはずです。私は母校と、司書教諭を恨みました。別に司書教諭が置いたという訳ではないのですからそれは、子供の無知故の逆恨みだったのですが、人の所為にしないことには、当時の私は正気を保っていられそうもなかったのです。


 私はその日から、図書室を避けるようになりました。『人間失格』の文字を見るのが怖くなったのです。きっと人間になる為の資格試験は必ず受けなければならないことで、試験と言うからには受かる者と落ちる者がいるはずです。私は、試験に落ちてしまい、人間失格の烙印を押された時、どんな責苦が待っているのだろうかと、それを考えるだけで恐ろしくなりました。

 きっとあの『人間失格』と言う本には敗者への惨い仕打ちが綴られているに違いないと、そう思いました。

 その時の私は、調度漢字検定に落ちたばかりだったので、資格試験の難しさを他の子供達よりも良く知っておりました。並の努力では駄目なのです。

 それが人間になる為の試験ともなれば、漢字検定よりも難しく、血を見る程に努力しなければ受かることが出来ないのは明白でした。


 夜も眠れず、何日か悶々とした日々を送りました。悩みに悩んだ末、私はようやく決心して、人間になる為の試験の勉強を始めたのです。


 試験内容は判りませんでしたが、人間としての試験ですから、教養と幅広い知識を求められるのだろうと言うことは想像出来ました。

 私は、正しく生きることと、基本四教科をしっかりと勉強することを心がけました。


 勉強の方は何の問題もありませんでした。机に向かうだけで良いのです。そうすれば私の体は自動的に勉強を始めます。

 しかし、正しく生きると言うことがよく判りませんでした。判らなかったので、私は出来得る限り、善良であることに努めました。

 その頃好きだった女の子に、今までちょっかいをかけたことを謝り、家事を手伝い、放課後の清掃は決してサボることなく、殺生を控え、喧嘩があれば仲裁に入る。そうして人間失格の恐怖に苛まれた私は、卒業までの二年間、善行の限りを尽くしたのです。


 小学校を卒業し、中学校に上がる頃には絵に描いたような優等生が出来上がっていました。その優等生は逃げるように必死に生きており、まるで晩年のような顔つきをして、赤い生命力を持った人間なのでした。

 中学生になっても私は何故か、人間失格の呪いから解放されませんでした。何時か必ず試験がある。そう信じ切っていたのです。

 中学生の私は文武両道に励みました。

 部活動では全国大会まで駒を進め、勉学では学年トップを守り切り、その上、生徒会で会計の仕事をこなすという真面目ぶりで、皆が私を慕い、時に嫉妬の目で見られながらも、奢ってはいけないと自分に言い聞かせ、人間試験を恐れながら生活していました。白状すれば、私は苦しくてたまりませんでした。これだけ成功を収めながらも、私には自信を感じる余裕さえなかったのです。

 終始笑顔を絶やさなかった中学生時代でしたが、私の青春の一ページは人間試験の受験勉強ノートと化していて、笑顔のえの字もないような味気ないものなのでした。


 高校は県内で高偏差値の高校へと入学しました。

 流石にこの頃には、幼少期の勘違いに気付き、幾らか肩の力を抜くことが出来たのですが、凡そ六年間続けた生活習慣を変えることは容易ではなく、私は何事にも手を抜くことをしませんでした。

 高校三年生の夏のことです。島村という本好きの友人が、太宰治の全集を勧めてきました。全集なんて高校生の身分で良く買えるものだと感心したのを覚えています。

『ヴィヨンの妻』『斜陽』。初めての文学だったこともあり、四苦八苦しながら読み進めました。

 そして全集の終盤、私は目を疑いました。そこにあったのは『人間失格』の文字。幼少の頃の恐怖が津波のように静かに、しかし脅威を確かにして私に襲いかかったのです。

 トイレに駆け込み胃の中空っぽにすると、私は正常な思考を取り戻し、焦ることはない、人間試験など私の勘違いにすぎないのだと心持ちを新たに、トラウマを克服するために、再び『人間失格』向き直りました。

 しかし読めません。最初の一行からどうしても体が拒否してしまうのです。結局私は『人間失格』を飛ばし、次の作品を読みました。

 全集を読み終えた翌日、島村に全集を返却すると、彼は、何が一番面白かったかを私に聞きました。

 私は『斜陽』が面白かったと答えました。島村は笑顔で賛同してくれましたが、彼は、自分が本当に推しているのは『人間失格』だと言います。私は苦笑いをするしかありませんでした。『人間失格』は読み飛ばしたのです。何だか島村に申し訳ないような気がして、読み飛ばしたことを正直に白状しました。そして自分のトラウマも打ち明けました。

 島村は真剣に聞いてくれました。善き友人を持ったことをここに感謝致します。

 事情を察した島村は提案をしました。

「俺がお前に『人間失格』のあらすじを口頭で説明すりゃあいいんじゃないか?」

 私はその提案に乗りました。あらすじくらいなら受け入れることが出来ると思ったからです。

 島村は『人間失格』について説明をしてくれました。彼は滔々と語ります。私は一度も発作を起こすことなく、聞くことが出来ました。

 なるほど聞いてみればそれは、心中話のようでした。主人公が心中を繰り返す話。

 なんと言うか、あらすじを聞いた限りでは、読みたいと思うような話ではありませんでした。しかし、島村は頑として『人間失格』を推していました。

 まああらすじですから、ざっとしたもので、作品の内容や文章の美しさが判るようなものではありません。私はいつか読んでみるよと島村に言いました。

 しかし『人間失格』の感想を島村に伝えることは叶いませんでした。私が大学に入学して直ぐ、六月の十三日に島村は自殺でもってこの世を去ったのですから。

 彼の死を知ったのは、私が大学構内に設置されている喫煙所で、タバコを吸っている時でした。共通の友人から、突然電話がかかってきたのです。

 遺書はなく、彼が何を想って死んで行ったのか、それを知るものは誰もいなかったそうです。島村はいつも笑顔の絶えない人間で、クラスの誰からも好かれる存在でした。恋人も居ました。一体彼はその人生の何が不満だったのでしょう。彼の笑顔は爛れることなく、私の脳裏に今でも焼き付いています。

 私はその時思い立ちました。今こそ『人間失格』の呪いから解放されなければならないと。文学部の友人に片端から連絡を取り、『人間失格』をもっているかと問いつめ、四件目で遂に華子はなこという友人から借り受けることが出来ました。


 彼女から本を受け取ると、直ぐに喫茶店に入り込み、どぎまぎしながらページを開きました。喫茶店と言う場所を選んだ理由は、逃げ場を塞ぎたかったからです。

 私の席の周辺は、私の放つ瘴気で空気が重くなっていたことでしょう。歯を食いしばり、本を読み進めます。何度か嘔吐えずきましたが、物語の中盤に差し掛かった所で随分楽に読んでいる自分に気が付きました。同時に、恐怖が怒りに変わったのにも気が付きました。私はこんな胸くその悪い小説に今まで縛られていたのかと腑の煮えくり返る思いでした。島村が何故この小説を絶賛していたのかも理解出来ません。

 数時間かけて読み終えると、私はタバコに火をつけました。落ち着こうと思ったのです。

 主人公、大庭葉蔵は中毒者です。モルヒネのことではありません。彼はきっと人生中毒だったのです。そして人間中毒でもあったはずです。なんて無責任な人間なのでしょう。

 文学などかじったことすらないのですから、作品批評をする気はありませんが、私はこの大庭葉蔵という人物を軽蔑すると同時に羨ましくも思います。これほど人間関係に恵まれた者は存在し得ないでしょう。人間中毒にもなるはずです。他者からの介入をほとんど受けずに育った私は彼に反感を覚えます。他者に深く構われることは煩わしくもありますが、生きて行く為の養分を得ることにも繋がります。

 島村がこの作品を絶賛した理由は主人公に対する羨望にあるのでしょうか。

 判りません。島村はもうこの世に居ないのですから。

 そんなこんなで、私は『人間失格』を恐れることはなくなりました。読んでみれば普通の小説で、何だか悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなってしまいました。

 トラウマを克服した私はとても健やかな気分になりました。親友が死んだと言うのに不謹慎と思われるかもしれませんが、私はそれほどまでに『人間失格』を重荷に感じていたのです。

 その数日後、島村の葬儀が執り行われました。私は大学を休み、山形の実家へと帰省しました。私の大学は東京にありましたので、足には新幹線を利用しました。

 葬儀は問題なく進行しました。仲の良かった友人達、島村の両親、兄弟、皆が彼との別れを惜しんでいました。彼は愛されていたのです。

 葬儀が終わると私は実家へと戻り、自室にて考え事をしていました。何故島村は自殺などしたのか。彼は決して劣等な人間では無かったし、家庭環境にも何も問題はなかったのです。特に彼は、二つ上の兄を慕っており、兄の方も彼を大層可愛がっていました。それは島村本人から聞いただけでなく、実際に私も仲の良さそうにしている所を目撃しているのですから確かなことです。

 何時も笑顔を絶やさなかった島村。彼も大庭葉蔵のように道化を演じていただけなのでしょうか。その仮面の下はお化けだったのでしょうか。私はもしかしたら島村から何一つ本当のことを打ち明けられたことがないのかもしれません。

 そう考えると絶望的な気分になりました。私は涙を流して床に就きました。

 その日、私は夢を見ました。途方もない草原に裸で放り出され、ひたすらに下着を求めて草原を歩き回ると言う夢です。草原には誰もいないにも関わらず、私は何故か羞恥心で一杯で、下着を探すのに必死なのでした。


 目を覚ますと七時を回ったところでした。嫌な夢を見てしまったと汗を拭き、洗面所へ向かい顔を洗いました。

 大学があるので私はその日に東京へと戻りました。私は薄情者でしょうか。無二の親友が死んだのですから、もう少し留まっても良いと思ったのですが、どうでしょう。果たして私は残酷な人間なのでしょうか。

 しかし、単位を取らねば卒業出来ません。

 私は生きているのですから、死んだ者にうつつを抜かしていては、死んだ者にも申し訳が立たないでしょう。

 私はぐっとこらえて、東京へ戻りました。

 東京に戻り、日常が返ってきた頃、私は失恋をしました。悪いことは立て続けに起こるものです。

 恋人の名は早苗さなえと言います。彼女は食堂に私を呼び出すと、深刻な面持ちで、あなたには着いて行けないと言いました。


「あなたは特別な人間を作らない人だから。だから終わりにするの」


 最後にそう言うと彼女は席を立ち、食堂を出て行きました。

 早苗の言うことは尤もでした。私は幼少より、誰にでも分け隔てなく接して来た人間です。他者を犠牲にしてでも守りたいと思う者など誰一人居ないのでした。それは人間試験に合格する為に必要なことであると信じていたが故でした。

 その時私は既に呪いから放たれていたのですから、それに固執する理由はありませんでした。しかし培ってきた自分の努力を否定する勇気もまた、私にはないのでした。

 だから早苗を引き止めることもしませんでした。

 私は大学を卒業するまでの四年間、誰とも交際しませんでした。ただ自由に、何にも縛られることなく、単位を取り、就職まで漕ぎ着けたのです。

 就職先は区役所でした。社会人として新しい生活が始まりました。しかし、職場の人間関係はお世辞にも良いとは言えませんでした。


 職場は正にゴミ捨て場のような場所だったのです。陰口が横行し、怒声が響き渡る。人間の負の感情を詰め込んだゴミ捨て場なのでした。私は、培ってきた正義感でもって、職場の環境改善に努めました。もちろん堂々と陰口を注意したり、上司を窘めることはしません。密かに、私が動いていることを悟られないように、人間関係を取りまとめるのです。これには骨が折れました。一つの場所に上下関係があるので、学生時代のようにはいかないのです。

 一年と半年程で、私はゴミ掃除を終えました。職場はとても和やかになり、皆に余裕が出てきました。

 さっぱりしました。私は骨を埋める職場を何とか自分の良いように改善出来たのです。

 そうして私は完璧な自由を手に入れました。これで私は一生何にも縛られずに生きて行けると確信しました。障害など何もありません。私は全てを完了したのです。何時死んでも良い。そう本心から思うことが出来ました。友人も、恋人も、家族もいらない。全てを解決したのですから。


 何時死んでも良い。そう、だから私は今これを書いているのです。

 今日は何だか、死ぬには良い日だと思ったのです。夕焼けの綺麗なビルの屋上で、私はこれを書いています。

 しかしここまで書いて気付いてしまいました。私は結局最後まで『人間失格』の呪いから解放されることはなかったのです。

 早苗に振られた時、彼女を止めなかったのは、人間試験の為に培った努力を無駄にしたくなかったからで、職場の環境改善に乗り出したのも、優等生を捨て切れなかったからで、私は全く人間合格なのです。『人間失格』を読み終えたときの爽快感は、恐らく、試験に合格した喜びだったのでしょう。あの瞬間、私は全てがどうでも良くなったのです。


 恥のない生涯を送って来ました。

 全ては私の本心です。誰の所為でもない。私が死ぬのは『人間失格』の所為でもないし、島村の所為でもないし、華子の所為でもないし、早苗の所為でもないし、家族の所為でもありません。ましてや私の所為でもありません。

 誰にも責任はない。私はここにそう明言しなければなりません。

 羽毛のように軽い、スカスカな私の愛すべき人生。

 他者と繋がらず、誰にも責任を押し付けず、人間として生き切った私。

 きっと私の死体を見つけた方はショックを受けるでしょう。それについては悪いと思います。しかし私も一度くらいは我が侭を通してみたいのです。何処かの誰かさん、どうかお許しください。


 私は嘘を言いました。全てが解決したというのは嘘です。島村の自殺の原因が幾ら考えてもとんと判りません。彼が『人間失格』を絶賛する理由も未だ判然としません。

 それも死んでみれば判るでしょう。あの世というものが存在するのであれば、そこで聞いてみることにします。太宰先生にもお話を伺いたいです。


 それでは世界の全ての皆さん、さようなら。

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