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喫煙所

————お前のタクシーの後部座席、濡れてるけど拭かなくていいのか?


 タクシーの後部座席に視線を移すと、確かに黒金くろがねの言う通り濡れている。


 濡れているのはこいつのせいだ。駅前で待機していた所を訪ねてきたかと思えば、この雨の中、傘もささずに、タバコ吸いに行こうぜなどと職務中の俺に声をかけてきた。

 梅雨の時期は稼ぎ時なのだから邪魔しないでほしい。

 とは言え、金は払うから、と言われてしまっては職業柄断るわけにはいかない。

 少し離れた所にあるコンビニの前の路肩に駐車すると、俺たちはタバコを買い、申し訳程度に設置されている喫煙所でタバコを吸い始めた。軒下というには少し狭い気もするが贅沢は言えない。


 俺は今自己嫌悪に駆られている。こうも易々と流されてしまうとは思わなかったからだ。

 いや、思っていた。思っていたからこそ自分への甘さを嘆いているのだ。

 俺は妻子があるから悠々とサボタージュできる身分ではない。それにも関わらず流されてしまうのは俺の意志の弱さ故だ。反省しなくては。

 しかし煙を吐くと、そんな反省もニコチンによって何処かへ消え去ってしまう。


「お前さ、変な客乗せたことある?」

 黒金が口を開く。

「あるけど、それが?」

 珍しい話ではない。珍妙な客など一定数いるものだ。

「お、本当か!? その客の話、聞かせてくれ」

 黒金は子供のように目を光らせている。

「二ヶ月くらい前なんだけど、ホームレスらしいおっさんを乗せたんだよ。ちゃんと金払えんのかなとか思ったんだが、まあ客を疑ってちゃあ商売が出来ねえ。とりあえず目的地まで向かったんだが、会計の時におっさんは俺に一万円渡して、釣りはいらんっつって降りちまったんだよ。流石に釣りを渡さないのは不味いから、俺も車からでて追いかけようとしたんだけどな、おっさんは超スピードでダッシュして、俺が車を降りた時には追いつかない所まで行っちまってた。一体なにモンだったんだろうな」

 その後、俺は仲間にもいろいろ聞いてみたのだが、一万円のおっさんのことを知っているものは誰もいなかった。

「うーん。そういうんじゃないんだよ。惜しいんだけどな。超スピードでダッシュする、とかすごく面白いと思うんだけど、俺の聞きたいのはそういう話じゃあないんだよ」

 黒金は難しい顔をしている。

 なんだ、折角人が話してやったと言うのに。

「じゃあ、どんな話なんだよ」

「ほら、よくあるだろ。人気のない道で女性を乗せる。目的地に着いて、後ろを振り返ると誰もいないって話」

「幽霊話かよ」

 そうだ。こいつはそう言うヤツだった。

 大学で伝承文学について教鞭を揮う黒金は幽霊話が大好きだ。

 今日俺を誘ったのも論文のネタ探しのためだろう。

「それにしても、図々しい話だよなあ。幽霊だろうとなんだろうと、ちゃんと金は払えよ。ホームレスのおっさんでも払うんだから、幽霊が払わなくてもいいって道理はねえよなあ」

 すごくどうでもいい。曲がりなりにも学者なのだからそれらしいことを分析しろと思う。

「幽霊なんだから金は持ってねえだろ」

「地獄の沙汰も金次第って言うだろう」

 微妙な使いどころだ。

「じゃあ目的地が天国だったんだ」

「なるほど!」

 なにがなるほどだ。適当に返しやがって。

「そういう経験談も聞くけどな。正直眉唾だ」

 そう。よく聞く話だ。仕事仲間からそういった話があがることは珍客の乗車よりもよくある。

「ほう、やっぱりかあ。全く人間ってのは古今東西、胡散臭いもんが好きなんだなあ」

「お前が言うな」

 黒金は、そうだなあと受け流す。

 こいつの耳は都合の悪いことは入って行かない仕組みになっているらしい。


「俺はさ、流されて学者になったわけだよ」

 なんだ突然。流されて学者になれるわけがないだろう。

「なんかいつの間にか教鞭が手の内にあったよ。ほら、一時期さっちゃんのことを見つけるんだとかなんとか息巻いてた時期があっただろう?」

 さっちゃんか。懐かしい。彼女が失踪したのは確か中学三年の夏頃だったか。

 なるほど。タクシーの怪。

 さっちゃんは幽霊タクシーに連れ去られたのだった。もう昔のことだと思って忘れていた。

 タクシー運転手の俺がそのことを忘れるなんて薄情にも程がある。

「さっちゃんが居なくなった後は、皆口を揃えて、猪狩幸子なんて生徒はいなかったとか言いやがってさ。そうやってさっちゃんがいなかったことにされるのが嫌だから、大学入って民俗学専攻したんだ。で、日々勉強に励んでいたらいつの間にか准教授になってって感じで」

 こいつの中ではまださっちゃんのことが風化していないらしい。

 俺など妻と交際していた頃にはもう忘れかけていたというのに。

 少し居心地が悪い。

「忘れてたよ」

 正直に白状してみる。

「だろうな。お前は奥さんも娘もいるしな。でもいなかったことにはできないだろう」

 それはそうだ。俺と黒金を引き合わせたのは他でもないさっちゃんなのだから。

 さっちゃんは何の痕跡も残さず、俺たちの前から姿を消した。

 俺たちに残されているさっちゃんに関する最後の記憶は、夜遅く、タクシーに乗り込んだ姿だった。

 塾の帰り道だった。俺と黒金は不真面目にも勉強とは何の関係もない話をしていて、そして黒金がタクシーに乗り込むさっちゃんを見つけて、俺の肩を叩いたのだった。

 あの時はさっちゃんも帰宅途中なのだとばかり思っていた。

 しかしその翌日からさっちゃんはいなくなった。学校に来なくなった。

 俺たちはさっちゃんの家も知らなかったし、ご両親と会ったこともなかったのだ。そうして俺たちはさっちゃんを失った。

 俺たちはさっちゃんが消える瞬間を目撃しているし、三人で遊んだ記憶だってある。この事実は無視出来ない。

 それにも関わらず、失踪以来、さっちゃんはまるで最初からいなかったかのように扱われた。

 翌日まで彼女と親し気に話していた友人も、進路の相談をした担任も、誰もが猪狩幸子などという生徒は知らないと言ったのだ。

 その時の俺たちの取り乱し様と言えば、それは無様なものだった。

 さっちゃんが幽霊タクシーに攫われたのだと結論を出したのもその時だ。思い出すだけで顔から火がでそうになる。しかしこいつは、黒金は未だにその考えを信じているらしかった。

「お前、まだ幽霊タクシーのこと信じてんのか?」

「まあそれはあまりにも飛躍しているとは思うけど、さっちゃんのことは噂にもならなかった。年頃の少年少女が一堂に会する学校で何の噂にもならないのは変だ。変だからわからない。今でも。折角学者になったのに、頭の持ち腐れだよ」

 黒金はタバコの煙を一杯に吸い込んでから吐き出した。

 溜め息だったのかもしれない。

「俺もそろそろ忘れた方がいいのかなあ。お前みたいに恋人でも作って、結婚してさ。変わっちまえばいいのかなあ」

「お前は無理だろ。一番大事な失せ物が見つからないことにはどうしようもないぜ。取り戻すか断ち切るかだ。学者辞められんのか? 辞めたらそれこそ結婚どころじゃねえだろ。それにお前主人公気質だもん。結果が出る前に死ぬことはできない。夢の途中ってやつだな」

 俺が言えた義理ではないし、黒金も判っていることだろうが、こいつはこの言葉を望んでいる気がした。

「そうだよなあ。この歳まで執着しちまったんだから後には引けねえよなあ」


 夢は覚めるものでも、諦めるものでもない。失くなるものだ。

 さっちゃんのことなど一向に忘れていた俺は、彼女に関する夢を悉く失くしてしまったのだろう。

 こんな形で失くした夢と遭遇するとは、人生は判らないものだ。

 もう何本目かも判らないタバコを灰皿に押し付ける。

 雨は小降りになっている。

 そろそろ戻ろう。

 俺はそう黒金に提案した。

「おう。悪かったな。暇つぶしに付き合わせて」

 暇つぶしだったのか。こいつだって忙しい身だろうに。

「送ってくよ。お前んとこの大学まででいいか?」

「ありがとう。友よ」

「半額でいいぞ。奢ってやる」

 差額は自分の財布から出そう。

「えー、金取んのかよ」

「当たり前だこの野郎」

 車に近づいたとき、車体が所々錆びているタクシーが信号待ちをしているのに気付いた。

 なんであんな車が走っていられるんだ。今にも大破しそうじゃないか。警察仕事しろ。

 黒金も呆けた顔でそのタクシーを見つめている。


 タクシーのメーターは賃走を示している。気になって後部座席を見ると人が乗っていた。

 よくあんなタクシーを利用しようと思ったものだ。

 変わったタクシーを利用する変わった客。どんなヤツなのだろう。

 顔を見てやろうと目を凝らす。


 後部座席に座っていたのは————

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