図書館
————あのマンションの三階の左から二番目の窓を見たまえ。
彼女の言う通りの場所に目を移すと、女性が窓から校庭を見下ろしているのが見えた。顔は確認出来ないが、やせ細った体つきから幸の薄い印象を受ける。
「首を吊っているように見えなくもない」
物騒なことを言う女だ。
見ように依ってはそう見えるかもしれないが、それはあの窓辺の女性に対してあまりに失礼ではないだろうか。まあ幸が薄いと思ってしまった僕も同罪と言えば同罪なのだろうが。
「君はこんな話を聞いた事はあるかな? ある夜、男が夜空を見上げながら帰宅していると、マンションの一室の窓から、同じく夜空を見上げる女がいることに気付く。その後、男は何度か同じように窓際から夜空を見上げる女を目撃する。そして何時しか男はその女に恋をしてしまう。気持ちを抑えられなくなった男は女の部屋を尋ねることにした。ドアの前に立ち、インターフォンを鳴らすが応答がない。不審に思ってドアを開けると、そこには愛しの彼女の首を吊っている姿があった」
「ああ、聞いた事あるよ。何処で聞いたかは覚えてないけど」
それが何だというのだろう。
僕らの見ているあの女性が本当に首を吊っているとでも言いたいのだろうか。
「出来過ぎだよねえ」
「は?」
「いくら好きだと言っても、話したことのない相手の家を突然訪問するなんて真似は、常識のある人間なら子供だってしない。それに上を向いていたなら首からロープが見えただろうし、実際に首吊りの自殺体を見た事がないから憶測になるけれど、首吊り死体ってのは下を向いているものじゃないかい?」
確かに言われるまでもなくそうなのだが、単なる怪奇譚に対してその突っ込みはあまりに無粋ではないだろうか。
「この話の怖い所は、恋心の高じた男が我慢出来ずに女の家を尋ねる、という所にあると私は思う」
そういう解釈もあるのか。それとも皮肉だろうか。
まあ、彼女の言うことも判らないではない。しかしやはり無粋だ。
「で? それが何?」
「まあ最後まで聞きたまえよ。ボロクソに批判したけれど、私はこういう作り物染みた話が大好きだ。だってリアリティがあるじゃないか。運命とか因縁とかそういう胡散臭いものが混ざって現実が成り立っているというのなら、こういう出来すぎた話こそリアリズムだよ。そうは思わないかい?」
同意を求められても返答に困ってしまう。そんなことは考えたこともない。
とりあえずお茶を濁しておくか。
「よく判らないよ」
「いろいろな要素が現実には存在して、それが偶然を引き起こし、必然をたぐり寄せ、忽然と現れて、当然の帰結を迎え、渾然に終わる。私たちの世界とはそういうものだよ。そんな世界に存在する人間が物語を創作しているならば、どんな荒唐無稽な物語にも現実性はある、ということさ」
無理がある。僕はあまり小説を嗜まないけれど、漫画なら読む。
少年漫画にありがちな、成人に満たない人間が世界を救うなどという大それた出来事は現実には起こり得ないし、訳の判らない化物が攻めて来るなんてこともあり得ない。
僕がそれを口にすると彼女は、少年は世界を救うよと言って底の知れない笑みを浮かべた。
「世界って言葉には色々な意味がある。地球上の全ての地域のこと、自分が認識している人間社会のこと、精神の内側を世界と呼ぶこともあるね。『自分の世界に閉じこもる』って言うだろう?」
ここで彼女は一息置く。
「地球上の全ての地域が危機に晒された場合。これは少年には救出不可能だ。軍事や政治を取り仕切るのは大人だからね。しかしどうだろう。自分が認識し、所属している人間社会や、自分や他人の精神の内側。これらはかなり理不尽で不条理な理由や事象によって度々危機に晒される。それは少年にとっても他人事ではないよ。自分にもいつかは降り掛かってくるものなのだからね。だとするならば少年はそれを乗り越えなければならない。自分を成長させ、強くなり、危機的状況に追い込まれた世界を救わなくてはならないはずだ」
ほとんど一息で一気に喋るとは。何だか講義でも受けているような気分だ。
先ほど彼女は、自分は人見知りだから甘やかしてくれ、とかなんとか自己紹介をした。
初対面の相手にこれだけ話せるというのだからきっと人見知りなんて言葉は嘘だろう。
それはともかく、彼女の言うことはよく判らない。話の全体像が見えない。
説明下手。彼女が人見知りを自称する所以はこれにあるのだろうか。
「まだ判らないかい? 少年漫画って言うのはつまり男の子の成長物語にエンターテイメント性を持たせたコンテンツなんだよ。いくら荒唐無稽な話に見えても、成長物語は成長物語の法則に則って話が進んでいくのさ。それは現実の世界でもあまり変わらない」
「どういうこと?」
「子供の成長にも法則があるのさ。私も君も幾つかの法則に沿って成長しているはずだ。まあその中でも個のあり方は様々だけれど、大枠には入っているだろう。現実と物語の成長ってのはあまり差がないんだ。だから荒唐無稽に見えても、それが道理に叶っていないことはない」
何となく判った気がする。
飽くまで気がするだけだが。
彼女は成長物語を例に出して話したが、どのような物語にも何かしらの法則があり、それは現実にも当てはまると言いたいのだろう。
だから全ての物語はリアリズムなのだと。
少年は世界を救うのだと。
回りくどい……
「まあ一応理解したってことにしておくよ」
少し疲れた。
息抜きに視線を窓の外へ動かす。
向かいのマンションの窓辺にはまだあの女性が佇んでいる。学校のグラウンドを見下ろしているように見えるが、そろそろ部活動も終了する時刻だ。何時まで見下ろしているつもりなのだろう。
僕の視線の先に気が付いた彼女が口を開いた。
「きっとあの女性は引き蘢りだね」
「君は本当に失礼なヤツだな」
「本当にそう見えるんだから仕方ない。歳は二十代後半から三十と言った所か」
顔が見えるのか。僕も視力はいい方だが、顔までは確認出来ない。
「髪は乱れていて手入れが行き届いていない。顔には全く生気がない。もう決まりじゃないか」
何が決まりなものか。病気で体を壊しているという可能性だってあるじゃないか。僕はそう反論した。
「確かにそれも考えられるね。しかしこの場合、引き蘢りと考えた方がロマンがあるだろう。恨めしそうに学校のグラウンドを見下ろしているのは学校という場所に何かしら未練や怨念があるからだ。彼女は昔いじめられていて学校に行けなかった。そのままズルズルと引き蘢っていたら取り返しのつかない年齢に……」
彼女は目を燦々と光らせながら言う。
想像力の豊かなことだ。窓辺の女性は赤の他人だが、流石に不憫になってきた。
「ヒキコさんじゃあるまいし、もうちょっと希望があってもいいと思うけど。これから前に進む為に学校を見下ろして自分と向き合おうとしてるとか」
「ふむ。そういうのもありだ。けど少し無理があるかな」
確かに自分でも無理があるとは思うが、荒唐無稽でもいいと言ったのは彼女の方ではなかったか。
「少女漫画に於ける少女の成長がどんなものであるか判るかい?」
「さあ」
「ちょっとは考えたまえ」
彼女は口を尖らせる。
少し可愛い。
「うーん。少女漫画ねえ。素敵な彼氏を作るとか?」
かなり適当だ。
流石に怒られるだろうか。
「正解」
ええ……そんなまさか。
「判ってるじゃないか。まあ私もそう言った研究資料を集めて調べたわけじゃないから、私と君の意見が一致したと言うだけのことなのだけど、スタンダードな少女漫画を読む限りでは、ほとんどがそういった形で女の子の成長を描いている。女の子は恋人を作ることで成長をする。女の子の成長には男の子が必要不可欠なんだよ。そしてさっきの話のように、それは現実にも当てはまる。ここであの女性の話に戻ろう。あの女性はもう成長は見込めない。彼女は最早少女という年齢ではない。彼女の成長物語は失敗に終わったんだ。ならば彼女に残されているのは復讐劇とか怪奇譚とか陰惨なものばかりだろう」
ネガティブな意見だ。
あの女性の人生を勝手にバッドエンドと予想するのは忍びない。ちょっと反撃してみようか。
「そんなことは無いんじゃないかな。あの人はまだ少女だよ。確かに年齢的には大人の女性かもしれないけれど、それは世間が勝手に決めた基準だ。心が若ければ云々とは言わない。彼女にはまだ精神的に未完了なことがあると言う意味で少女なんだ。だからこれから恋人を作ればまだ間に合う。二十代後半から三十代ならなんとかなる年齢だよ。そう悲観するものでもないと思うな。一歩外に出ればあの人にだって出会いはあるさ」
彼女は少し驚いた顔をした。
そしてなんだか満足そうに笑う。
「なるほど。君は前向きな人間だね。それはとっても素敵な物語だと思うよ」
少し居心地が悪い。何だか気恥ずかしくなってしまった。
別にあの女性が引き蘢りだということも、世界を恨んでいるということもただの想像なのに、何をムキになって反論しているんだ僕は。
「時に少年。世界を救ってみたいとは思わないかね」
また突拍子もないことを言い始めたぞこの娘は。
「何の話をしているのでしょうか」
「君さえよければ私の世界を救ってくれてもいいんだぞ」
「もうちょっと具体的に」
「私と友達になってくれないか」
最初からそう言えばいいのに。彼女が人見知りを自称する理由が判ってきた。
常に笑顔なのも、持論をべらべら話し始めるのも、彼女なりの防衛術なのだろう。
「いや、いいけどさ。君って友達少ないの?」
「いない。産まれてこの方できたことが無い」
彼女は胸を張る。
最早どう切り返したものか判らない。
「私はこれでもいじめられっ子なのだよ。流石に高校ともなればいじめはなくなったけれど、クラスでは完全に孤立している。ウラでは孤高の人なんて呼ばれているようだけれどね。全然そんなことはないよ。孤独だよ」
やたら笑顔が眩しい人だと思っていたが、この笑顔は人と打ち解ける為に練習した、涙ぐましい笑顔なのだと気付いた。
気付いたら泣けてきた。
「私を救えば、君は一つ大人になれるぞ。悪い話ではあるまい」
「いや、はい。なりますよ。友達に。僕でよければ」
「おお! なってくれるか。君は私の記念すべき友人第一号だ。よろしく! いやあ、やはり偶然というのは面白いよ。まさかこんな時間に図書館を訪れる人間がいるとは思わなかったからね。私も通い詰めた甲斐があった」
まあ確かに僕は気まぐれで図書館に立ち寄ったのだからこれは偶然以外の何でもないが、通い詰めてたって……
「おっと、そうだ。まだ名前を聞いていなかった。君の名前は?」
「明井史五郎」
「どこぞの名探偵みたいな名前だね」
それはよく言われる。
「君の名前は?」
僕は尋ねる。
「私は井上円よろしく!」
「どこぞの学者先生みたいな名前だね」
「そうだろう。ただ哲学はよく知らないけど」
井上さんは目を輝かせている。よほど嬉しいようだ。
「よし。では行こうか」
「え? どこに?」
「夕飯だ。今日は両親が遅くまで帰ってこない。外で食べていこう」
僕には母の手料理が待っているのだが、まあいいだろう。連絡すれば問題はない。
夕闇が迫ってきている。
もうあの女性もいないだろう。
僕達はほとんど灯りのない図書館を出た。
はしゃいでいる井上さんの影がとても綺麗にみえた。




