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羽舞う中の女

作者: 相模 真名
掲載日:2012/07/27


 今、俺の前には羽が舞っている。幾つも幾つもふわりふわりと舞い踊っている。

 天使の羽、という言葉があるけれども、一体何をもってそう表現するのだろう。天使が実際いたとして、舞い落ちてきたその羽が本当に天使の羽なのか、はたまた鶏の羽なのかという区別はどこでしているのだろう。俺が知らないだけで、区別をつけられる人はいるのだろうか。

 羽といえば、小学生だった頃、姉さんがたった一つの小さな羽を大事そうに小瓶に入れていた。小学生の小指よりもっとずっと小さくて、何故そんな大切そうにしているのか不思議に思った。聞いてみると、姉さんは宝物を見せびらかすようにして俺に言った。「これはケサランパサランよ」と。聞いたことのない名称だったから、それは何かとまた尋ねると、ケサランパサランをもっていると幸せになれるの、と教えてくれた。そんな小さな羽一つで幸せになれるわけないのにな、と子供心に不思議な気分だった。けれど、当時俺と同じく小学生だった姉さんは、俺には布団の羽毛にしか見えないものが入った小瓶を幸せそうに見ていた。姉さんにとっては幸運の羽なのかとぼんやり思った。

 言葉というのは、ぼやけたものをはっきりさせるための道具だと思う。不思議なもの、不安定なもの、揺らいでいるものを何とか形にして、はっきりさせ、正体がわからない不安を拭い去ろうとするために、言葉は使われるのだと俺は思う。まるで(まじな)のように。だから俺にとっての羽が、姉さんにとっての羽と同じにはならない。言葉は同じでも、中身が違う。そしてそれは、他者と完全に意識を共有することが決してできないことの裏付けであり、それは覆ることのない純然たる事実として世のあちこちに点在している。

 名称が同じでも、本質が違う。外見が同じでも、中身が違う。人もまた然り。

 目の前の舞い散る羽とその中に存在する彼女を黙って見つめたまま、俺は一人、物思いにふけった。



「お前の好みの女ってどんなの?」


 友人と学食を食べていると、ふいにそいつはそう聞いてきた。


「いきなり何だ?」


 回答は保留にしたまま、いきなり質問してきた意図を俺が問うとそいつは、へらりと笑った。


「いやさ、お前って女の影がないんだよな。興味なさそうっつーか、淡泊っつーか。ホラよ、この間飲み会あったじゃん? そん時、隣りに座った女、あれ、お前に気があるのかってくらい色々楽しそうに話しかけてたのに、お前、気のない返事ばっかだったじゃねーか。めんどくさそうにしてた……とまではいかないけどよ、少なくとも楽しそうには見えなかったぜ」

「そうか? 普通にしてたつもりだったけどな」


 というか、お前はなんでそんなの観察してんだよと思う。俺が見た限りでは、隣りに座るこの男はきっちり場を盛り上げていたような気がするのだが。騒々しい軍団の中央にいたというか。思いっきり飲み会を満喫していたというか。


「普通がダメなんだっつーの。飲み会だぞ? 酒の勢いもあるってのに、なんだってそんなテンションでいられんだと俺はすぐにでもお前の隣りに行って説教をしたい気分だった」


 それは勘弁してほしい。


「でもよ、お前の所には一応、女の子いたしな。熱心にお前に話しかけていたし、健気でかわいかったから、俺は心の中で無愛想なお前を罵りつつ、かつ、そんなお前にアタックをかける女の子にエールを送ったんだ」


 バカじゃないだろうか。そう思ったが、俺は無言で箸を進める。友人も話を進める。


「だからよ。そんな女に冷淡とも思われるであろう人生損してるバカなお前が好きになるのはどんなタイプの女なんだろうなとちょっと興味が湧いただけだ」


 ちょっとどころかかなり興味があるような目の輝きを無視して、俺は昼ご飯のシメの茶を喉に流し込んだ。っつーか。


「俺、彼女いるぜ?」

「――はぁ!?」


 大げさすぎるのではないかと思うほどに目を剥く友人。次の言葉が出ないらしい。ぱくぱくと金魚のごとく口を動かすのみである。彼が次の言葉を探し終える前に、軌道を変えるため、今度は俺が質問を投げかける。


「そういうお前は? 彼女いんだっけ? 好みのタイプは?」

「お前に彼女――って、え、俺?」


 衝撃は強かったらしい。脳内の混乱が表に漏れている。しかし、無視して軌道修正。


「そう、お前だよ。俺に好みのタイプ云々聞く前に、お前はどうなんだ? 何度か一緒に飲み会にはいったから、酒の席でどんな女とでも楽しそうに騒いでるのは知ってるし、それ以前に女が好きなのも知ってるが、特定の女はいるのか? どんなのがいいんだ?」


 衝撃から立ち上がる時間だったのか、少し沈黙してから、顔をあげ、ふふん、と自慢げに友人は言い放った。


「一人暮らしの女の家に行ったことはある」

「答えになってない」

「しかも夜にだ!」

「答えになってない」

「しかもしかも、帰ったのは朝だ!」

「答えになってない」

「だからつまり、女と一晩を共にしたわけで――」

「だから答えになってねぇっつってんだろ?」


 茶をお代わりしながら、冷静に繰り返し指摘をしてやれば、そいつは黙った。隣りの友人が女好きで色々あるのは、他の奴らから聞いて知っている。だからそんなことは聞いちゃいなかった。のだが、この話しぶりだと、聞いた噂話のほうの信憑性も薄くなった気がした。まあ、今は突っ込んで聞かない。あまり興味もないから。

 隣りの友人は黙って自分のコップにコポコポと茶を注いだ。ズズッと一口飲んで、ふぅと息をつき、一拍。ひたすらじっと返答を待つ俺にちらりと視線を寄越してから、ぼそりと呟いた。


「…………いねぇ」

「だろうな」


 友人はガックリと頭を落とした。悔しげなうめき声が聞こえる。屈辱的な敗北感を味わったようだ。何がそんなに悔しいのか。友人は恨めし気に俺を見る。


「なんでお前にいて、俺にいねぇんだ?」

「つくる気がないからだろう」

「……嫌味か。それとも本気で言ってんのか」

「本気だ」


 真顔で答えてやれば、クリティカルヒットをくらったかのように、友人はさらに沈んだ。次に俺を見る目は恨めし気というより情けなさの方が色濃く出ていた。


「お前が俺をモテ男だと認識してるのは分かった」

「モテ男とは認識してない。チャラ男だ」


 訂正は早めにしておいてやる。


「……まあ、つまりは女がいそうな男だと認識してくれているわけだろ?」

「そうだな」

「………………訂正させてくれ」


 人生の敗者のごとくいつにないほどローテンションな男に黙って訂正の許可とやらを出すと、男は茶を片手に、語った。


「いいか、俺はな、女が好きなんだ」

「知ってる」

「黙って聞いてろ」


 了承の意を込めて、黙って茶を飲んだ。男は俺の方は見ず、前だけを見て話しを続ける。


「女は分け隔てなく好きで、だからって男友達に感じるような友情を芽生えさせてるわけじゃねぇ。ちゃんと女として好きだ。どこが好きかって、女は男と違って粗野じゃねーし、かわいくて、きれいで、華奢で、柔らかくて、いい香りがして、清楚で……まあ、とにかく、男と違って愛でる気分になるんだな。花とか猫みたいに。でな、まあ、一緒にいると気分がいいわけだ。酒が入ってる時だけじゃないぞ。酒が入ってるときも確かにいいんだが、入ってない時でも傍にいたり話したりすんのはいいもんだ」


 ぐいっとまるで酒のごとく茶を飲む友人。俺はお前の年齢を問いたい。


「で、だ。まあ、俺がいかに女好きかはわかってくれてると思うがな、実は俺には衝撃の事実がある」


 ちょっと間を開け、俺に反応がないのを見るや否や、若干ガッカリしたような顔をしてから、言った。


「俺には彼女がいねえんだ」


 知ってる。聞いたばかりだ。そう言ってやりたかったが、生憎、発言の許されぬ身。黙って先を促す。


「なんでいないかといえば…………まあ、お前の言ったとおりかもな。つくる気がねえんだ。いや、彼女がいねえのを言い訳にしてるとかじゃなくてな、本当に。告白は昔から結構されるんだ。別に月に一回されるとかそういうんじゃなくて、まあ、一般の奴らよりはされるんだ。特に多いっつー認識はなかったんだけどよ、前にポロリと飲み会で人生のうちに何回告白されたことがあるかって話になったときだ、ああ、俺の告白回数って多いんだな、と他の奴らの告白された数聞いてて思ったわけだ。それはいいとして」


 問題はその後だと友人は言う。


「告白されるだろ? 俺は舞い上がるわけだ。嬉しいからな。日頃大好きだと公言して憚らない女の子に好きといわれりゃ、そりゃ気分はいいわな。で、だ。そうなると当然OKだろうと思うだろ? 告白してきた子もそう思ってる。俺も女の子がずっと俺の傍にいてくれるんならウハウハだ。答えはYESしかないだろう。そうだろうとも」


 なのに、だ! と若干声色を強め、次の瞬間、しゅんと萎れたように言った。


「俺は何故か断るんだ。なんでだ? いい子だろうに。かわいい子、きれいな子、優しい子、面白い子、色んな女の子が俺に告白してきてくれて、俺はそん時彼女いねえし、誰かに片思いしてるってわけでもなかった。なのに! 何でいつの間にか俺は断ってるんだ? 傷ついたような寂しげな顔で去っていく女の子たちを何故俺が見送らねばならないのだ! 何故彼女にしてくれないの、と聞いてきた女の子もいたが、俺の方こそ問いたい。なんで俺は毎度毎度断ってしまうんだ!?」


 意味が分からねぇ、と嘆く友人に、そろそろ口を開いてもいいのだろうかと俺は別のところで頭を悩ませた。友人は十字架の前で懺悔しつくした罪人のごとく、項垂れたまま動かない。仕方ないので、俺は口を開いた。そもそもというかなんというか。


「で? 彼女がいないのは分かったが、お前の好みはどんな女なんだ?」


 は? という言葉が、空気が抜けるくらいの声で聞こえた。友人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔を俺に向ける。


「…………お前俺の話聞いてたか?」

「お前こそ俺の話聞いてたのか」


 随分遠回りをして回答する奴だなと思っていたが、肝心の答えが返ってきてないだろうにと俺は思う。本人の懇願もあり、認識の訂正はさせてやった。では次は本題だろうに。


「あのな、俺はどんな女が好きなのかって聞いたんだ。確かに彼女がいるかどうかは聞いたが、なんで彼女つくんねえのかは聞いてないし興味もない。言い訳が終わったんなら俺の質問に答えてくれ」


 友人は黙した。何やら考えてるようだ。


「好みのタイプか。……考えたことなかったな」


 ポツリと呟いた言葉に、俺の方が呆れた。何だそれは。最初に俺に女の好み云々を聞いてきたのはお前だろうと言いたい。

 そんな俺の心境に気づくことなく、友人は何か感心したように頷いている。


「なんだ?」

「ああ、いやな、ソレが原因だったのかと思ってな」


 いつの間にやら晴れやかな顔になっている彼女ナシ男。


「何のことだ?」

「だからよ」


 俺が告白されるたびに嫌いでもないのに断ってることだよ、と言った。

 俺は首をかしげる。今の会話で何がわかったというのか。


「つまりアレだ。今まで俺に告白してきた女の子たちは確かにかわいかったり美人だったり面白かったりはしたんだが……」


 俺の好みじゃなかったんだなぁ、とため息を漏らすようにそいつは言った。

 まるで悟りの境地に至った禅僧のようである。朗らかな顔が俺に向けられる。


「お前……すげーな」


 確かにすげー。お前がすげー。どんだけバカなんだ。呆れ果ててもはや言葉が出ない。


「そっかそっか。好みじゃなかったんだなぁ」


 うんうん未だ頷く男に、もう何度したかわからない問いを、俺は仕方なくしてやった。


「それで? 結局のところお前の女のタイプってのは何なんだ?」


 友人は真剣な顔で答えてくれた。


「暗い女」


 沈黙した。脳が取り敢えず沈黙した。少し時間差があってから、ああなるほどね、と納得もした。大学生のうちに気づけてよかったなと心の中で拍手し、現実空間で俺は茶を啜る。いやぁ、そっかそっか、なるほどなぁ、と感心しきりの友人を俺はある意味で尊敬する。まぁ、何はともあれ、人の趣味は千差万別。隣りの無駄に明るく騒がしい男の好みが周囲から見ればいかに合っていなくとも、本人が好きというのなら何も言うまい。外側と内側は違うものだからな。見つかるといいな、お前好みの暗い女。

 午後の授業開始の予冷が鳴った。


「お、戻るか」


 隣りの友人が促すので、俺も立ち上がる。後片付けをして、食堂を出たとき、ふと思い出したように友人が聞いてきた。


「そういやよ、お前の彼女はどんな子なんだ?」


 上階へ向かうエレベーターを待ちながら俺は、何でもないことのように答えてやった。


「鬼みたいな女」


 チン、とエレベーターが開く。俺は乗り込む。目的の階を押してふと前を見えれば、まだ友人はエレベーターの前で棒立ちになっていた。俺は首をかしげる。


「乗らないのか?」


 不思議そうに聞く。


「お前…………」


 何か言おうとして、ガックリと友人はため息をついた。いや、なんでもないといって乗り込んできた彼は、俺を宇宙人でも見るような目つきで見てきた。俺はそれを無視して、エレベーターを閉じた。フォローはめんどくさいので、やめにした。



 そんな会話をしたのが、三日前の金曜日。今日は学生の休日、日曜日。俺は世間一般の彼女もちの男がするような休日の過ごし方をするつもりでいた。つまり、彼女とお出かけ。待ち合わせは午前十時に駅前だった。定番だろう。きっちり十分前には着いていて、俺は休日を謳歌する家族連れやカップルの人混みを眺めたり、文庫本を開いたりして暇をつぶしながら待っていた。俺は本を開くと周囲の喧騒から一瞬で解放されるタイプ、つまり本の世界に没頭してしまうタイプだったから、時間の流れはまるで感じられなかった。そんな俺が、ふともう頃合いだろうかと思い、腕時計に目をやれば、約束の時間から三十分も過ぎていた。文庫本を閉じた。

 さて、どうするか、と考えた。携帯を取り出し、少し眺めてから、また仕舞った。視線を少し先に移せばドトールが見えた。店に入って待とう、と思った。あそこからなら待ち合わせ場所も見える。

 店に入り、ラテを注文して、窓際の席を確保した。一口だけ飲んで、頬杖をつきながら駅の改札口を見る。人の塊が出てきて、その後、空いた。しばらくしてから、また人が大量に改札口を通過し、そして、減る。幾度か繰り返すそれを別段飽きることもなく見続けるも、待ち人の姿は一向に現れなかった。普通の彼氏だったら、否、それ以前に普通の人だったら、待ち合わせ相手が時間になっても来なければ、憤るか、心配するか、すぐに連絡を取るくらいのことはするだろう。けれど、俺はそのどれもしてはいなかった。もう約束の時間から一時間くらいは経つ。一向に現れず、また、連絡さえない彼女を俺はひたすら待っていた。別に健気だとか、一途だとか、そんな言葉を当てはめようなどと思ってない。ただ、俺はこういうのが好きだった。来るか来ないかも分からない相手を時間を気にせず、心行くまで待ち続けるのが好きだった。昨今は携帯があるから、小学生の時に感じたような、待ち合わせ相手が来ないよどうしよう、などといった感情にはなかなか陥らないし、今の状況もまた、そんな不安な気分には当てはまらない。ただ、連絡が取れる手段を持ち、いつでも掛けられるにも拘らず、その手段を使わずに、ひたすら時間を垂れ流しながら待ち続けるという行為が、俺は気に入っていた。それは彼女が来るのを不安と期待を入り混じらせて待つ時間が好き、というわけではなくて、時は金なりとも言われるほど大切であるはずの時間を、端から見れば無駄としか思われない使い方をしていることにある種、心の充足感を感じていたのだ。

 一時間半経った。待ち人は現れない。携帯もチェックするが、メールもなければ着信履歴もない。そこでようやく俺は、彼女の家を直に訪れようと思った。

 店を出て、改札を潜り抜け、電車に乗る。五つ駅を通過し、六つ目の駅で降りた。そこからさらに歩いて十分。彼女が一人暮らしをするアパートへと着いた。エレベーターに乗って目当ての階で降り、一番突き当りのドアの前まで進む。呼び鈴を押し、待つこと五分。応答なし。そっとドアノブを回してみれば、開いた。俺は静かにドアを開け、おじゃましますと一応声をかけてから、するりといつものように中に入る。

 パタンと後ろ手でドアを閉めた時には、彼女が最奥のベッドルームいるのを認識していた。靴を脱いで、上り込む。朝食の残骸が残るダイニングを抜け、彼女の一番のプライベートルームへと繋がる扉を開けると、果たして、彼女はそこに居た。

 羽が舞っていた。小さな羽がたくさん舞っていた。雨とは違う。例えて言うなら、桜の花が散る光景に似ていた。そしてその中心、真っ白な羽が舞い散る真ん中に、彼女は居た。いつも通りだった。いつものように、俺には気づいていない。今日は真っ白な服を着ていた。否、着替えている途中のような姿だった。真っ白な服の袖から、青白い血管が見えそうなほどの真っ白な彼女の腕が出ていた。足も同じようにすらりと白く伸びている。剥き出しの肌は忙しなく、力強く動いていた。足が蹴とばした目覚まし時計が部屋の角にぶつかり、こと切れる。腕がベッドのシーツを叩けば、地に辿り着いていた羽が再び空中へと舞い上がった。既に化粧を終えた、紅のさしてある唇からは、獣のうなり声のような、赤子の奇声のようなものが大音声で漏れ出している。低く唸ったかと思えば、高く絶叫し、腰まで伸びた長く真っ直ぐな髪が上下左右に振り乱れる。床には服が散乱していた。無機物がぶつかり合う音も絶えず聞こえ、空中には常に布団からはみ出ていった羽毛が舞っている。窓はもとから閉まっていた。開いていたのは俺が入ってきた入口のみで、俺は室内に入ると同時に、そっとドアを閉めていた。

 力強く、野生の本能剥き出しで暴れ続ける彼女を、俺は害のない少し離れた場所からじっと見つめる。皺ができたよれよれの服装、支離滅裂な奇声、振り乱れた髪、鬼のような形相。一体いつからこの状態なのか。もう午前は終わる。

 俺の存在に気付くことなくひたすら暴れ続けた彼女の動きが、ふと止まった。唐突な静止だった。終わっただろうか、と彼女の方を見れば、放心したようにへたり込んでいた。こちらを見てはいない。ぽっかりと口を軽く開けて、空中を舞い散る羽をぼうっと見上げている。少しずつ理性を取り戻していく瞳の色を見とめ、俺はゆっくりと彼女に近づいた。


「りつ」


 名を呼べば、彼女がのろのろと顔をこちらへ向ける。少し間をおいてから、あ、蓮くんだ、と小さく声を漏らした。彼女自身が発した声を認識しているのかどうか疑わしい。

 静かに片膝をついて、彼女の瞳を覗き込めば、きょとんとした無垢な眼差しとかち合った。俺は用件を言う。


「あのな、お前、約束の時間過ぎてるぞ」


 え、と彼女は数回瞬きをして、時計を探すが、生憎、この部屋の目覚まし時計は彼女の足により蹴とばされ、既に天へと召されている。俺はひょいと自分の腕時計を見せてやった。彼女はまだ幾分呆けたまま、驚いた。


「あれ……どうして? どうして、もう十二時なの……? 私……ちゃんと十時に駅に着くように支度してたのに……」


 彼女独特の遅くて小さな声が言葉を紡ぐ。


「へぇ、そうなんだ」


 俺は軽く相槌を打つ。馬鹿にしてるわけでも怒ってるわけでもない。彼女の言い分に対する、純粋な肯定の意を込めての反応である。彼女も俺の、一見すれば淡泊とも捉えられかねない反応に、気分を害した様子もなく、ゆっくりと驚きの言葉を続ける。


「朝ごはん食べて……お洋服に着替えて……まだ、十時まで一時間もあって、余裕だと思ってたのに…………」

「そっか」


 頷く俺を不思議そうに眺めて、部屋をぐるりと見渡し、再び俺に視線を戻してから、まだ夢から覚めない幼子のように、小さな声で尋ねた。


「それに…………どうしてこんなに部屋が散らかってるの?」


 心底不思議そうにあたりを見渡す彼女。本もCDも小物も四方へ散らばり、雑然としているにも関わらず、別段、得体のしれないものや出来事に対するような恐怖は感じられない。ただ、深淵の水底のようにどこまでも静かに問いかける。


「どうして……蓮くん、ここにいるの……?」


 まだ頭はすっきりしてないだろう。乱れた髪を優しく撫でながら、俺はそっと微笑した。


「鬼を見に来たんだよ」

「オニ……?」


 首を傾げる彼女に、そうだよ、と頷けば、そうなんだ、と彼女はある種の納得をした反応を示す。蓮くんは鬼が好きなんだね、と。


「オニ……見れたの?」


 その質問をする意味はなんなのだろう、と思いながらも、見れたよ、と応える。すると彼女は、よかったね、と言った。うん、よかったよ、と応じて、俺は彼女に手を差し伸べ、ゆっくりと、その細い腕を引っ張って、立たせた。


「俺は鬼が好きなんだ」


 もう一度だけ、愛でるような声色で呟いた。



 鬼は、感情が剥き出しな存在だと思う。理性のない、本能だけの存在。それは理性を持つとされている人間からすれば、野蛮で、忌むべきもので、近寄りたくない異星人のようなものだろう。醜い欲望を理性という衣に包むことなく、剥き出しにしている存在。それが、俺の中の鬼のイメージ。そういえば、鬼という概念は古来、唐より渡ってきたものらしいが、向こうでは、鬼とは霊魂をさすものだったらしい。どちらにせよ、体や理性といった外壁の衣だとか鎧といったものをとっぱらった、人の本質というか、中核というか、そういったものの曝け出される様を、俺に思い浮かばせた。剥き出しの魂、とでも云うのだろうか。

 彼女は、鬼だった。理性で固めて出来上がった人間という存在の中に眠っている野生的本能を、心の底から呼び覚まし、剥き出しにする稀有な女性(ヒト)だった。鬼の彼女に、言葉は通じない。理性がないから。彼女はただ、自分の内側から叫びあがる声に従って、暴れ尽くすのみ。ほっそりとしたその華奢な体つきからは考えつかないほどの力をもって、体力の限界まで突き抜ける。俺は、それを見ているのが好きだった。黙って、じっと、彼女が自然に動かなくなるまで眺めている。ともすればそれは、彼女の魂を眺めているようで、上面の笑顔とか、表面上だけの人付き合いとか、そういったものより、もっとずっと尊いもののように思えた。

 急遽中止になった屋外デートに代わって、彼女の作った昼食のチャーハンを食べながらぼんやりと彼女を眺める。彼女は今、俺の目の前で楽しそうに何かを話している。俺はそれに対して笑って応えている。窓から入る光は昼の太陽のせいで幾分強く、澄み渡る青空の相手には相応しいように感じた。今日、外出している人たちは晴れやかな快い気分で休日を満喫していることだろう。


「それでね、お母さん変なんだよ。病院に行きましょうって。あ、あと、蓮くんとも別れた方がいいって。蓮くんに申し訳ないからって」


 どういう意味だろうね、と普通の女の子みたいにおしゃべりする愛しいオニを見つめながら、さあね、と応えて温かいチャーハンを口へ運ぶ。


「世の中にはいろんな人がいるからね。日常の中に理解できない言葉が転がってたって、気にしなくていいんだよ。例えその言葉を発したのが、肉親だとしてもね」


 今はヒトである彼女の、楽しげな声が響いた。


「蓮くんって変わってるよね。……そんなところが好きなんだけど」


 はい、と麦茶の入ったコップを渡されたので、ん、と言って受け取る。ごくり、とおいしく冷えた飲み物でのどを潤してから、そんなことないよ、とありきたりな返答をした。

 何気ない恋人との時間を過ごしながら、俺は先ほどの光景を思い出す。小さな白い羽が無数に舞い散る中、魂を剥き出しにして、力の限り暴れ尽くす華奢な女。鬼のような女。その女が今、俺の目の前で、別人のように笑っている。そう思った瞬間、嬉しいような、切ないような、叫びたくなるような甘美な疼きを、心の奥底で感じた。






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