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ノルドの冬は厳しい。
半月ほど前に黒騎士達が出陣し、人がほとんどいなくなった城は、あの日から一気に冷え込んだようだった。
毎年、雪が降る前のこの時期、風のない日を選んで行われるという屋根の補修は、城のみならず、城下でも大部分の家庭で行われる。城でも、留守を預かる者達が、皆大急ぎでその支度に走り回っていた。
サーレスやユリアは、冬でもあまり気候が乱れないカセルアで生まれ育ったので、冬支度の大切さをいまだ実感はしていないが、皆が走り回る中を、ただ見ているだけというのも申し訳なく、ここ数日、厨房で頼み込み、働いている人々に昼食を届ける手伝いをしていた。
雪や雨で痛んだ城の屋根を直すカンナの部下達に昼食を届けながら、サーレスはこのノルドの景色や、あっという間に青が遠ざかり、冬になっていく空を見ていた。
「毎年、こうやって騎士が屋根を直すのか?」
「いつもは特殊工作隊がやるんですよ」
「マーカスの部隊か」
「まあ、いない時は、誰かがやらないといけませんからね。このノルド出身の者なら、冬支度は慣れたもんです」
「黒騎士は、やっぱりノルド出身の者が多いのか」
「半分はそうですね。元々、親兄弟が黒騎士だった縁でこの国に来た家も、世代を重ねればノルド出身ということになりますから」
「そうか」
「ノルドの子供達は、親たちが黒の隊服に身を包み、戦いに赴く姿を見て育ちます。そして、黒騎士が管理する学舎に入って、黒騎士の心を学びます。自然と、子供はあの黒狼の紋章に憧れを抱くようになります。だから学校を卒業する頃になると、子供達は皆、黒騎士団に入りたがるんですよ」
城下町でも、冬支度が進んでいるようだが、屋根に上っている人を見てみると、女性らしき姿もあちこち見える。
夫が、黒騎士の従者として戦場に行っている家も多いらしく、女性だけの家では、ああやって女性が家を守るために屋根に上ることも多いのだと、傍にいた黒騎士の一人が教えてくれた。
「逞しいですよ、ノルドの女は。うちの母も、おそらく家の屋根に登ってます」
「あなたがここに残っているのなら、家の屋根もあなたが登れば良いんじゃないのか?」
「登ろうとしたら怒られますよ。あんたの家はここじゃない、黒騎士の城だとね。ノルドの家庭では、家族が正騎士となったら、その身を全て黒狼に差し上げたのだと思うんです。だから、冬支度に、正騎士を駆り出すことはありません」
だから、正騎士が城の屋根に登ることになるのだと騎士は笑う。
ノルドに実家がある見習い達は、それぞれが順番に休暇をもらい、家に帰っている。
現在黒騎士の本隊が戦に出ている状態でも、変わらず冬はやってくる。戦はもちろんだが、それ以上に脅威なのが、毎年必ず降る冬の積雪なのだ。だから、その為の休暇は、一も二もなく許されるらしい。
今日は、マーヤも実家に帰っている。レシュベル家は牧場をしており人手もあるが、家族のうち父親と兄三人は騎士として出払っている。母親と、実家を継いだという次兄とマーヤで、冬支度をするらしい。
「そういえば、サーレス殿は、冬の間は街にある別邸で過ごされることになるんですか?」
「ん? なぜ?」
「騎士団の本隊は、冬の間、街にある訓練所で生活することになりますから。城はその間、少数の管理者が居るだけになります。城に続く道が、雪で覆われて使えなくなるんですよ。本隊を城に上げることも出来なくなりますから、ノエルも、冬の間は街の別邸にいるはずですよ」
「そうなのか……。じゃあ、やっと、グレイの隊の人達と飲みに行く約束が果たせるな」
にっこり笑ったサーレスを見て、その場にいた騎士たちは、何とも言えない表情をして、小さな声で「気の毒に」とだけ呟いた。
彼らにも、その時サーレスの背後に誰かがいる姿が見えた気がしたのだ。
サーレスは、持ってきた自分用の昼食をバスケットから取り出すと、屋根の上で腰を下ろし、街を見ながらゆっくりと食事をはじめる。
その姿を、隣にいた騎士が笑いながら見ていた。
「今時のお姫様ってのは、屋根の上に登るんですか」
「あいにく、今時のお姫様に関して詳しくは知らないが、少なくとも王子様は登らないな。そんな教育は受けたことがない」
「じゃああなたは?」
「私は一応、騎士として躾けられたから。この国では、騎士が城の屋根に登るんだろう?」
「確かに」
それを聞いていた騎士達は吹き出し、腹を抱えて笑いはじめた。
昼食を終え、一階の食堂に戻ったサーレスは、自分を探していたというカンナに呼び止められた。
そしてもたらされた知らせに、サーレスは我が耳を疑った。
「城下にラズー教の司祭が来ている?」
「姫に面会をしたいと申し入れてきてるんだけど、どうする」
「どうするもなにも……。ずいぶん真正面から来たもんだな」
「武力行使で来たなら、こちらもそれで対抗できるんだけどね。その司祭は本人と二人のお付きのみで来ている。もちろん監視は置いたが、大人しくしている上に、布教活動もしないとなると、ただ街にいるだけという理由では、さすがに排除することも出来ないんだよ」
そのカンナの言葉に、サーレスは思い悩むようにうつむいた。
「……ユリア」
「はい」
「鬘はあるか?」
「鬘、ですか。どのような物でしょう。髪を結えるほどの長さにするための物はご用意してありますが」
「頭全体を覆い、私の印象を変えられる鬘だ。色も、茶色じゃない方が良い。出来るなら濃い色で、そちらの印象が強い物がいい」
「どうなさるんですか。まさか、ラズー教の司祭に直接お会いになるんですか?」
「会話はしない。申し訳ないがユリア、直接会話するのはお前に任せる。姫は病が重く、誰からの見舞いも面会も受け付けていないということで、クラウスは通している。面会の申し入れも断っても構わないはずだが、それだとおそらく素直に帰らない」
「なぜです?」
「その司祭は、もしかしたら、マルクスのように、色や星とやらが見えるのかもしれないと思ってな。密偵として送り込んでいたグレースと連絡が取れなくなったので、攻める方向を変え、直接見に来たのだとも考えられる。姫の姿をひと目見るだけでも構わないとごねて居座られると、ますます面倒だ」
「でしたら、どうして鬘など……」
サーレスは、問われて口の端を上げて笑った。
「色が見えるのならば、見せてやればいい。姫の星のことなど、吹っ飛ぶほどの衝撃的な星をな」
自信に満ちあふれたサーレスを見ながら、カンナとユリアは顔を見合わせて首を傾げた。
翌日、朝から、騎士たちが目を光らせる中、その客人は城の中に招かれた。
「本日は、入城の許可を頂きありがとうございます。ラズー教の司祭を務めます、ダールマンと申します」
頭を下げたダールマンは、穏やかな容貌に、柔らかそうな茶色の巻き毛の男性だった。
人当たりの良さそうな容姿だが、その瞳の威圧感は司祭となるに相応しいものに感じる。
全てを見透かしているような強い視線を受けながらも、ユリアは平然とした表情を崩すことなく、丁寧に頭を下げた。
「私は、サーラ=ルサリス王女殿下専任女官としてこちらに遣わされております、ユリア=カレイドと申します。殿下より、病でご面会が叶わぬ旨お伝えし、そのご用件を代わりにお聞きしてくるようにと申し付けられました」
ユリアはそう告げると、司祭をソファに招き、自分も許しをもらってから、正面に腰を下ろした。
「本日は、どのようなご用件でしょうか?」
微笑みながら、臆することなく話を促すユリアを、司祭は興味深そうに見つめていた。
「本日は、こちらにお輿入れになった王女殿下に、我らの教えをお伝えしたくまいりました。おそらく、こちらでは、私どもの教えを、まったく別の物のように伝えられているかと思います。私は、真実の教えをお伝えし、その誤解を解きたく思い、やってきた次第です」
ユリアは、あくまで自分は聞くだけだという姿勢を貫いた。
相槌を打つこともなく、ただ話を促し、それを聞く。
司祭は、ユリアの態度に不審なものは感じたようだが、それでも熱が籠った調子で、雄弁に星神の教えを説いた。
一通り説明し、司祭はユリアに、一段声を落として語りかけた。
「なぜ、クラウス殿下の星を我々が忌むべきものとして扱うのかと申しますと、あの方の星は、生まれつき、他者の星を呑込むのです。その強すぎる星を、王家の血を引く方が持つのは、その国の運命すらも呑込むことを示します。恐れながら、サーラ姫の星も、こちらに身を寄せておられては、その病は癒えるどころか、力は失われてゆくばかりでございます。姫の御身を思えば、こちらではなく、せめて首都のランデル陛下のお側に行かれるべきかと存じます」
ユリアは、何を聞いても、平然とした表情や態度を崩しはしなかった。
「それでお話しは終わりでしょうか?」
「は? え、ええ」
初めと変わらぬ笑顔のまま、そう訪ねられた司祭は、幾分か面食らったような表情をみせる。
「では……星神はかつて、人々に道を知らせる役割を担うために光神により産み出され、その定めを担うために、人々の定めを星図として示され、空に写し取られ……」
ユリアは、笑顔のまま、司祭の説法をそのまま繰り返す。
司祭はそれを、驚きの表情で見つめ、慌ててユリアを止めようとしたが、ユリアはそれにも構わず、今まで司祭が一時間ほど掛けて語った内容を、幾分か早口で、言い聞かせるように沈黙した時間や、ユリアへの確認の言葉を省略し、約半分の時間で復唱した。
「……姫の御身を思えば、こちらではなく、せめて首都のランデル陛下のお側に行かれるべきかと存じます。ご伝言は以上で間違いございませんか?」
ほぼ一言一句間違えることなく言い切ったユリアは、改めてにっこりと微笑んだ。
司祭は、愕然としてしばらく何も言えずにいたが、慌てたように頷くと、苦笑して見せた。
「驚きました。素晴らしい才能ですね。その記憶力があれば、あなたは女官ではなく、もっと上の、国を動かす役職にも就けそうです」
「私は、王家を支える女官というお役目に、誇りを持っています。私にとっては、他のどんな役職よりも、魅力とやりがいを感じております」
「あなたが覚えた星神の教えを、是非ともカセルアの方々にもお聞かせ願いたい。殿下だけではなく、広くお伝え願えれば、カセルアでも星神のお力が届きましょう」
「あいにくですが、カセルアは、大地母神を崇めるリスター教と、その眷属であられるルサリスの女神を信奉しています。もちろん、私もです。他の神を信奉している者の口から語られる教えは、風のさえずりにもならず、人々の耳にも届かないと存じます。カセルアで教えを説きたいと仰るなら、ご自身で赴かれ、その地に根付いて教えを説かれた方が、心にも響くと思いますわ」
ユリアは微笑んでいた。だが、あきらかに、その態度には、拒絶が見える。
司祭は、それ以上何も言うことなく、ユリアが促すまま、その部屋を後にすることになった。
司祭は、部屋の外で待たせていた二人の従者を伴い、玄関ホールへ足を向ける。
玄関ホールに近づくにつれ、なにやら凄まじい威圧感を感じていたが、その正体がわからず、司祭も訝しげに首を傾げていた。
ホールに入る前から、そこが重々しい黒で包まれているのは見て取れる。姫が居るだろう上の階への階段を塞ぐように、黒騎士達がずらりと整列して、司祭とその従者達を監視しているようだった。
だが、威圧感の正体は、それではなかった。
足を竦ませた従者達を促し、ホールに一歩足を踏み入れた司祭は、その瞬間硬直した。
まるで立て付けの悪い扉のように、ゆっくりと角度を変えた首が、階段の踊り場部分にいた人物に向けられる。
そこには、部隊を預かる隊長達と、もう一人が居た。
留守を預かるカンナとレイリアは、黒騎士の隊長服を着て、その人物の後ろに控えるように立っていた。
二人を後ろに従え、堂々と腕を組み、階下を見下ろす人物を目にして、司祭の体は傾いでいた。
黒の長髪をまとめもせずに後ろに流し、黒騎士の隊長服で身を包んだ女は、司祭と目が合うと微笑んだ。
司祭は、気圧されたように、一歩、また一歩と後ろに下がり、最後には、従者に支えられないと立っていられないほど足元が覚束なくなる。
戦慄き、体を竦ませた司祭は、恐る恐るユリアに視線を向けた。
「あの……あの、方は、いったい……」
「あの方は、姫のお側付兼護衛です」
「た、隊長、服を、着ておられるようですが……あの方は、まさか、黒騎士、なのですか」
「あの服は、特別に身につける事を許されたものですが、何か」
それ以上、司祭の口は、何かを語ることは出来なかった。
ただ怯えたように、城の使用人が開けた正面玄関の扉を転げるように潜り、その場から慌てたように逃げ出したのだった。
「……凄まじい威力だねえ」
「ほんとね。まさか、こんなに効果があるなんて思わなかったわ」
カンナとレイリアは、自分達の前に立つサーレスの姿を見て、眼を細める。
「……黒狼の紋章も、よく似合うじゃないか、サーレス」
「そうか? 今まではリーデの紋章しか身につけたことがないからな。別の紋章を身に纏うのは、初めてだ」
先程までの威圧感が嘘のように、嬉しそうな笑顔を浮かべたサーレスは、初めて身に纏う隊長服に触れながら、隣りに立つカンナに視線を向けた。
「それにしても、カンナの隊長服を、私が着てしまってよかったのか? 黒狼の紋章は、黒騎士にとっては誇りだ。隊長服も、そうなんだろう?」
サーレスは、はじめ、自分の持っている騎士の礼服を着て出るつもりだった。だが、それを止め、隊長服をその場で脱いで渡したのは、カンナだった。
カンナの隊長服は、黒狼の紋章を彼女の利き腕である左につけ、右には、赤の糸で、彼女の出身地の文字を使って七隊と記されている。
カンナは、サーレスの姿を嬉しそうに眺めると、にやりと笑った。
「かまやしないよ。ノエルが帰ってきたら、あんた用に数着仕立てよう。また似たような事があったら、あんたに着てもらわなきゃいけないからね」
「カンナの服が、サーレスの体に合ってよかったわ」
カンナの肉感的な体を包む隊長服に合わせ、サーレスも今日は、胸を押えていない。女性的な線を描く体に、その黒の隊長服は、誰が見てもよく似合っていた。
「……サーレスの、黒騎士の隊長服姿を、最初に見たのがあたしらだってわかったら、ノエルはどんな顔をするかね」
「笑顔のまま、サーレスを引っ張っていって、自分だけで改めて鑑賞するんじゃないの?」
隊全体の健康管理と精神的な支えを務める医師のレイリアは、的確にクラウスの行動を予測した。
玄関のホールに、隊長達とサーレスの行動を見守り、笑顔が広がる。
その中に飛び込んできたのは、事態の急変を告げる使者だった。
「アルバスタが降伏しました!」
その知らせを受け、玄関ホールは、一瞬で静寂に包まれたのだった。




