21
クラウスは、自分に身を寄せるようにして眠っているサーレスの表情を、じっと見つめていた。
驚くほどに穏やかなその寝顔は、クラウスが初めて見る表情だった。
そして、その表情を目にした瞬間、間違いなくこの人が自分の妻になったのだという自覚がわき起こる。
そして、物心ついてから初めて得られた安らぎの感情に、心は満たされていた。
今日一日、肉体的にも精神的にも疲れ切っているらしいサーレスは、クラウスが少し髪を掻き上げた程度では目覚めることもない。
カセルア王家の人間は、勘の鋭い人物が多く、侍女ですら、睡眠中の寝室には待機できない。一人でもそこにいると、その気配に気を取られ、王族は眠る事がない。だから、カセルアの王族に直接仕える者は、自然と気配を消す術を覚えるのだという。それが出来ない限り、王族の傍にはいられないのだ。
カセルアにいる間、王妃と共に刺繍をしていた時に、王族のその体質を聞かせてくれたのは、彼女に仕える侍女だった。
今の国王も、王妃と結婚した当初、どうしても夜、王妃と共に寝付く事が出来ずに、結果、昼に倒れ、大騒動に発展したらしい。
サーレスは、特に父親に似ており、その勘は恐ろしく鋭い。
姫を別の意味で睡眠不足にしたくないなら、しばらく寝室は別にした方が良いと忠告されていたので、その覚悟もしていたのだが、今日はその必要はないらしい。
クラウスは、城のざわめく気配を、すでに感じ取っていた。
サーレスも、おそらく意識があれば、すぐに分かっただろう。
祝宴の雰囲気ではなく、張り詰めた緊張が支配する空気を感じる。今、この時間にこの気配なら、早馬が到着したのだろう。
今から用意すれば、明朝には出陣できる。騒ぎはおそらく、その用意だろう。
今、一番離れたくない所から、否応なしに離れる事になる。不愉快ではあるが、なぜか目の前の寝顔を見ていると、不安はまったく感じなくなっていた。
その時、寝室の扉の外から、控えめに入室を願う声が外から聞こえた。
クラウスの許可が出てから、そっと入ってきたのは、今日この部屋の隣で控えていたユリアだった。
「申し訳ございません。黒騎士団の皆様方から、現在の状況について至急お伝えしたい事があるため、直接お話ししたいとのお言付けを預かってまいりました」
「早馬、来ましたか」
「そのようです」
「わがままも言ってられませんね。すみませんが、食事の用意を隣の部屋にお願いできますか。そこで食べながら聞きます」
「わかりました。黒騎士団の皆様方にも、そうお伝えいたします。サーレス様の物もご用意した方がよろしいでしょうか」
「……そうですね。彼女も、ほぼ一日、何も食べてませんね。冷めても食べられる物をお願いします」
クラウスは、ため息を吐きながら、ベッドから抜け出した。
サーレスの、予想外に白く細く見える肩が、静かに上下する姿を見て、ふっと微笑み、上掛けでその肩を覆うと、静かにそこを後にした。
この部屋に入り、クラウスに事情を説明する者を決めるため、さんざんお互い押しつけ合ったあげく、隊長達は結局クジでその犠牲者を決めた。
誰だって、邪魔を警戒しているだろう狼の巣に、飛び込みたくはないのだ。さらに、そこから引っ張り出すとなれば、抵抗されるのは目に見えていた。
結局、ホーフェンは、事情説明のため強制参加。もう一人は、クジの犠牲者ロックの二人で、城主夫妻の応接間へ赴く事になった。
目の前のテーブルには、二人分の食事が並んでいるが、いるのは機嫌の悪そうなクラウス一人だった。
姫は寝ているために、面会を許してくれたらしい。
ホーフェンの説明に、表情を変えることなく、憮然としたままでわかっていたという返事がなされた。
「今日明日中に動く事はわかってた。それで規模は」
クラウスの言葉に、やっぱりかとつぶやき、ホーフェンは早馬でもたらされた知らせをクラウスに告げた。
「ホーセルは、騎兵団が二千ほど。クゼールから南下中。アルバスタは、国軍の赤銅が駐留中の砦に、五百で夜襲をかけ、現在駐留中だ」
「……ホーセルが少ない。隠し部隊がいる可能性がある。探らせろ」
「なに」
「用意していたと思われる武器、それから食料からして、あと五百はいないとおかしい。用意していた期間から考えて、アルバスタの分だとは思えない」
「わかった。……それで、できるなら、出てきてもらいたいわけなんだが」
恐る恐る、ホーフェンが伝えると、これ以上ないほどに不機嫌な表情で睨み付けてくる。
「出なきゃならないのはわかってる。後で出る」
睨まれただけで、心臓が止まりそうだった。
「ああ、それと、ここに残す部隊だが、レイリア個人とカンナの第七が残ると言ってる」
ロックの言葉に、クラウスは頷いた。
「それで、ホーセルの進軍方向の事なんだが……」
ホーフェンがそう口に出した瞬間、クラウスが勢いよく立ち上がった。ホーフェンとロックは、その一瞬硬直したが、その直後聞こえた音に、慌てて立ち上がる。
寝室の方から、微かに扉が開けられようとしている音がしたのだ。
「退室!」
クラウスの声に、ビシッと敬礼し、慌ただしく部屋を飛び出した。
おそらく、今ひと目でも姫の姿を目にしたら、間違いなくクラウスに目を潰される。
戦場でもありえないほどの勢いで扉を飛び出してきた二人を見て、隊長達は部屋を遠巻きにしながら、肩をすくめていた。
サーレスは、微かに聞こえる人の声に、目を覚ましていた。
体が常になく重く感じて、ゆっくりと起き上がる。起き上がった瞬間、腰のあたりに鈍痛を感じ、その理由まで思い至り、顔が火照った。
しかし、隣で寝ているはずの、原因を作った人物がおらず、まだ目覚めきったとは言えない頭で、先程聞こえた声の主を探しに、ベッドを抜け出した。
きちんと夜着が着せられていたが、それは今日、本来なら行為の前に着るはずだった、薄手の生地のものだったため、外の冷気が直接肌に感じられ、思わず自らの肩を抱く。
ガウンは近くになかったため、仕方なくベッドにかけられていた薄手のカバーを体に纏い、扉に手をかけた。
その瞬間、夫の声で退室を求める声が響き、ようやく、隣で夫が仕事をしていた事に思い至った。
慌てて扉から手を離したが、そのとたんに、応接室側から扉は開けられていた。
「……お目覚めですか、姫」
にっこりと微笑む夫に、どんな表情をしていいのかわからず、思わずそっぽを向いた。
「ご、ごめん、仕事中だと、思わなくて」
「違いますよ。仕事じゃなくて、食事です。お腹空いてませんか? ほぼ丸一日、何も口にしていないでしょう」
そう言うと、クラウスはひょいとサーレスを横抱きに抱え、応接室に連れ出した。
テーブルの上には、今日、宴会で出るはずだった料理が、そのまま全て並べられてあった。
そっと降ろされたサーレスは、その料理をみて、苦笑した。
「全然手を付けなかったから、そのままここに持ってきたのか」
「少し冷めましたけど、スープならもう一度暖めさせますよ」
「いや、そのままでいい」
用意されていたスプーンで、スープを口にする。
「うん、うまい」
微笑むサーレスを、クラウスも優しい顔で見守っていた。
「……結局、戦なのか?」
サーレスの言葉に、クラウスは頷いた。
「すでに動いているそうなので、どちらにせよ明朝には出発です」
「そうか」
「式も済みましたし、ノルドの街では、自由に過ごしてください。マーヤは自由に使ってくださって構いません。あと駐留部隊としてカンナの隊が残ります。何かありましたら、部隊も自由に使って構いません。その旨、アンジュに指令書を用意させます」
「……黒騎士の部隊を、私が使うのは、おかしいだろ?」
「姫の名の元に動かすのは構いません。姫は私の妻です。すでに黒騎士の身内ですし、残る者達の中で、一番身分が高いのは、姫になりますから」
そこまで言われて、ふと、サーレスは気が付いた。
「あ、あの、どうして私を、姫って呼ぶんだ?」
普通、妻を、姫と呼ぶ事はない。名前で呼ぶのが当然だと思っていたので、突然変わった事に少し驚いていたのだ。
「無事に結婚できたので、せっかくだし自分だけの呼び方をしてみたかったんです」
意味がわからず、首を傾げた。
「外では、あなたはサーレスでしょう。他の者達には、あなたはサーレスで統一させますし。だから本当は、サーラと呼んでもいいんですけど、あなたはサーラと呼ばれるより、姫と呼ばれる方が慣れてなかったようですから」
「慣れ……」
「さきほど、最中に、サーラと呼ぶより、姫と呼んだ方が反応がよかったので」
ビクンと身体が竦み、思わず匙を取り落とした。
クラウスが音もなく動き、その匙を取り上げ、変わりの匙をワゴンから取り、サーレスに手渡した。
サーレスは、顔から手まで、すでに真っ赤に染まっていた。
「日中に呼んでしまうと、すぐに慣れてしまいそうですね。せっかくだし、夜限定にしましょうか」
「昼も夜も姫と呼ぶのはぜひ禁じたい。というか呼ばないでくれ」
そう告げたとたんに、若干寂しそうに顔をのぞき込んでくる夫の目を自分の手で隠し、火照った顔を冷ませるために、傍に用意されていた水の入っていた杯を頬に当てた。
クラウスは、自分に当てられていた手を苦笑しながらそっと外した。
「しょうがないですね。ではサーラ?」
「……サーレスがいい」
「ではサーレス。……今回の戦、カセルアも軍を動かします」
クラウスの言葉に、サーレスはただ頷く事で答えた。
「……やはり、予想はしていましたか」
「動くのは、兄上の直属部隊だろう。兄上としては、私がいなくなったら、次の手を打たなければならないから」
苦笑したサーレスは、クラウスの表情を見て、首を傾げた。何かを考えていたクラウスが、顔を上げた時には、先程まで見せていた穏やかさではなく、カセルアでゴディックと戦っていた、あの時の表情だった。
「あなたの兄上は、いったいなにをしようとしていますか」
「私がいなくなったら、兄上は、直接戦場で象徴となる事は出来ない。兄上も武芸はそれなりに出来るが、それなりでは意味が無いんだ。だから、代わりに、誰かをそう仕立てたい。爺はもう高齢だ。カセルアの守護者としてその名を借り続けるわけにはいかない。今のままだと、爺をいつまでも隠居させてやれないし、いざ亡くなった時、どうしようもなくなるからな」
「確かに、今のカセルアの平和は、ゴディック将軍の名声による所も大きい。ですが、そう簡単に、あの方の常勝将軍の名を継げる者が、作れますか」
「元々、私の存在こそが爺と兄上にとっては想定外だったんだ。だから、私が兄上の影武者にならなかった場合の筋書きに、戻しただけだ」
「……」
「あなたは本当に、私の事ばかり調べてたんだな。爺にあこがれていたのに、その事はまったく調べなかったらしい」
興味があったのは、サーレスに関してのみだ。王宮に入ったのもその為だけだったし、他の情報には目もくれなかった。
その事が予想できていたサーレスは、くすくす笑っていた。
「城の中にも入れるあなたなら、少し調べればわかる事だったのに。爺には、孫がいる。爺の実の息子、ゴディック家の前伯爵ノーティスは、父上を暗殺者から守るために命を落とした。次の伯爵となったノーティスと正妻との間に出来た子供は、残念ながら、武官よりも文官に向いている、将軍の血を継いでいるとは思えないほど大人しい子供だった。だが、彼にはその子とは別に、他の女に産ませた子供がいる。若い頃の爺そっくりの赤い目と赤い髪を持ち、才能もしっかりと受け継いだ、分身のような子供だ」
その容姿を聞き、頭の中に浮かぶのは、ただ一人。王子と王女の傍に、ずっと付き従っていた、忠実な従者だ。剣を交えた時、その腕は確かに、将軍とまったく同じ剣筋だった。
「ガレウスさんは……将軍の血を継いでいたんですか。じゃあ、まさか、ユリアさんも」
「ああ。最もガレウスは、ゴディック家に正式に認められているわけじゃない。身ごもった時、ティナは、その事を告げずに姿を消してしまったために、届けが成されていない。そして今に至るまで、ティナ自身がガレウスの父親の事を何も言わないから、貴族院も認める事が出来ない状況なんだ。ただ、あの容姿で、あの腕だ。爺は、間違いなく自分の血筋だと確信している。ユリアの方は、ティナが身ごもった時に、貴族院にノーティス自身が届けていたから、ゴディック家の正式な後継者として、登録もされている」
用意されていたワインに口をつけ、喉を潤したサーレスは、複雑な表情をしたクラウスに、淡々とした表情で断言した。
「爺は、ゴディック家に婿養子として入った。元々は、下級貴族の五男坊で、騎兵ではなく一兵士として初陣を迎えた人だ。爺が将軍として認められたのに、非公認とはいえ孫のガレウスが認められないはずはない。兄上がしようとしているのは、ガレウスをまず、騎士として認めさせる事だ。今のガレウスは、その出生の謎がある限り、そしてゴディック家との確執がある限り、他家の養子にする事ができない。だから、本人に手柄を立てさせて、新しい家を持たせるつもりだ。……ティナは、息子を、貴族の確執に巻き込ませたくなかったんだろうが、なまじガレウス自身が才能の塊だけに、ただ従者としておくには惜しすぎた。私があちらにいれば、従者のままでいさせてもよかったが、そういうわけにもいかなくなったからな」
クラウスは、その話を聞き、しばらく押し黙った。そして、意を決したように、サーレスに訊ねる。
「カセルアは……いえ、ガレウスさんは、勝てますか?」
「あれは、私の兄弟子だぞ? しかも、単体の戦闘ではなく、元々将として兵を動かす戦いを徹底的に仕込まれていたんだ。それに、戦場に送られるのは、兄上に預けられていた、この時のために爺が育てていた、爺の実家に仕えていた人々からなる部隊だ。……彼らは、自分達の正当な主に地位を戻すために、あえて戦場に立つ事を選ぶような猛者達だ。うちの国で、一番実戦慣れもしている部隊だよ。他の国の、王族の近衛隊とは、毛色が違うぞ」
クラウスは、それを聞き、苦笑した。
「つまりカセルアは、前々から、どこかと事を起こす事を想定して、軍を強化していた。そういう事ですね?」
「当たり前だ。カセルアだって、今の平和が恒久的に続くとは思っていない。いつかは必ず、戦に巻き込まれる。好戦的なホーセルが隣国である限り、それは予想できた未来だ。それならば、まだ爺の威光が残っている間に、その用意はしていてしかるべきだろう?」
「確かに、そのとおりです」
クラウスは、力強く頷き、肯定した。
そして、心の中で、カセルアの戦力に関しての計算を大幅に修正していた。




