17
黒髭は、現役時代から、歴代随一の長躯を誇る。
普通の民家だと額をいつもぶつけるので、団長に就任して、城の部屋に初めて入るときに、城の自室の入り口が自分の頭に当たらないと喜びを表したくらいに高い。
その長身と視線が合う人はごく稀で、ましてや女性は、顔を上げてもらわないとその表情は見えることはない。かろうじて、カンナは顔を上げなくても、表情を見ることができるくらいだった。
だが、目の前の人は、そう苦労しなくても、しっかり顔を見ることができる。
微笑む顔は、昔に見覚えた、小さな小さな少女と同じ。父親によく似た顔で、母親そっくりに微笑む隠された王女は、昔、のっぽの騎士の腰あたりの高さしかなかった。
明日執り行われる、最後の弟子の結婚式に、黒騎士以外でただ一人招待を受けた客人として城を訪れていた黒髭は、かつての故郷で、敬愛する人々に囲まれていた少女の顔を、目の前にいる人物の顔から見て取った。
「お久しぶりです、黒髭殿。私のことを、覚えていますか」
女性にしては少し低めの、落ち着く声。だが、話し方は母親によく似ている。ゆっくりと、一言一言、相手の心にまで響くように声を紡ぐ。
黒髭は、呆然とその声を聞いていた。そして、とっさに、膝を折ろうとして、踏みとどまった。たとえ退団したとしても、黒狼に身を捧げた黒髭にとって、黒狼以外に、折る膝はあってはならない。
「……姫様、お懐かしゅうございます」
かろうじて声を絞り出した。すでにその声は震えていた。
「大きくおなりあそばされました」
「おかげで、あなたの顔がよく見える。当時は、見上げても、顎の髭しか見えなかったのにな」
にっこりと微笑んだサーレスに、ついにこらえきれなくなったらしい黒髭が、滂沱の涙を流しはじめた。
「あなたが以前仰った通りに、こんな私にもちゃんとただ一人の相手が用意されていたようだ。ありがとう、黒髭殿。あなたがクラウスを育ててくれたから、あの人は私のところに来ることができたよ」
元々、涙もろいと聞いていた黒髭は、その話どおりの人だった。
もう、何も言うことができないのか、ひたすら頷いている。
横に控えていたアンジュとマーヤは、そんな二人を半ば呆然とみていたのだが、奥の窓辺から、金茶の頭が見えるに至り、身を引き締めた。
「黒髭、もう泣いてるんですか」
テラスから入ってきたクラウスに、その場の全員の視線が集まる。
黒髭は、そんなクラウスに、何かを言いたそうにしながらも、感激で喉に詰まって何も言えないようだった。
「の、のえる……」
「ああ、もう……」
懐から出した手ぬぐいを黒髭に渡したクラウスは、大きなため息と一緒に、愚痴をこぼした。
「あなたがちゃんと、姫のことを教えてくれていたら、もっと早くに連れてこられたんですよ」
「そ、そうは言ってもな、ノエル。私が会った当時は、こーんな小さかったんだぞ」
そう言って、自分のちょうどヘソのあたりを手で指し示す。
「こんなご立派な姿におなりだとは、さすがに想像できなかった」
「それでも、姫がゴディック将軍に鍛えられているということだけでも聞いていれば、かなり違いますよ。……小さかった当時は、もしかしてちゃんと女の子に見えてたんですか」
「もちろんだ。当時は確か御年九歳だったが、お髪も背中まであったし、手足も細く、誰がどう見ても、可愛らしい少女だった。まあ、背は少々高かったかな?」
その場にいた全員が、疑わしそうな視線をサーレスに向けた。クラウスですら、どうやら想像できなかったようで、まじまじとサーレスを上から下まで見つめている。
「でも、兄上について回ったり、ドレスを嫌がって逃げていたりして、体はけっこう擦り傷だらけだった」
「そうでしたな。王妃陛下が激しくお嘆きだったことを覚えております」
ようやく涙も止まったらしく、黒髭はにっこり微笑み頷いた。
「それにノエル。お前が私に尋ねたのは、王子にそっくりで、影武者になれそうな男ということだったろう。そう尋ねられて、姫の名など出るはずもない」
クラウスは、額を軽く抑えた。
「性別を問わなければ、出ましたか」
「それでも、出ないだろうな。なんといっても、いくら剣技を将軍がご指導したからと言って、あの王妃陛下がそう簡単に姫を騎士としてお育てすることを良しとするとは思えなかったんだよ」
師の言葉に、ますますクラウスは頭を抱えてしまう。
そんな弟子を尻目に、黒髭は昔と変わらない、優しい眼差しでサーレスを見つめていた。
「本当に、ご立派になって……。姫が病に冒されたと聞いたときは、あのお元気だった方がと思いましたが……こうして見る限り、病ではなさそうですな」
「父上と兄上が、私が嫁に行かずにすむように、噂を流してくれたんだ。おかげで、こうしてノルドに来て、あなたにもお礼が言えた。お二人にも、改めて感謝しないといけないな」
「……この手と足では、なかなかあちらに行く事もできず、閣下には不肖の弟子がご心配をおかけしたことをお詫びせねばならぬのに、それもままなりません」
黒髭は、袖の中身のない左腕をぱたぱたと振って見せ、ふっと微笑んだ。
「それでも、こうして姫をノルドにお迎えできたこと、喜ばしく思います。どうぞ、我が弟子のこと、よろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ、よろしくお願いします。同郷であり、兄弟子であるあなたがいる地なら、爺もきっと、安心してあちらで腰を落ち着けていてくれることと思います」
そのサーレスの言葉に、黒髭の目元に再び光るものが見え始めた。
「……黒髭があなたの兄弟子と言うことは、私はもしかして、ゴディック将軍の孫弟子ということになるんですか?」
クラウスの疑問に、サーレスは首を傾げた。
黒髭は、見え始めた涙を、先程クラウスが渡した手拭で拭うと、弟子の頭にそっと手を乗せ、首を振った。
「お前の技は、お前流だ。他の何者でもない。私は基礎を教えはしたが、その基礎を全て飛び越えた場所に、お前の技はある」
「そうだな。あなたの技は、少なくとも爺から教えられたものとは大いに違う。もし、あなたの技が爺の系統ならば、爺はあなたの技の対策を、私に教える必要はなかったはずだからな」
「閣下から、対策とは……。ノエルはいったい、カセルアで何を?」
「いや、爺には気に入られていた。ただ、その……夫婦喧嘩の対策が必要だろうと」
「……」
その場にいた、サーレス以外の全員の顔に疑問が浮かぶ。目の前のクラウスも、不思議そうに首を傾げた。
「喧嘩の対策と言われても、私はあなたと啀み合う気は毛頭ありませんが」
そんな事になって、サーレスに顔をそむけられでもしたら、クラウスはその時点で足にすがりついて許しを請いそうな気がした。
それが想像できる時点で、喧嘩になった時の勝敗は明らかだ。
なんの対策が必要だったのか、さっぱり分からない。
「お前達の喧嘩は、おそらくぐだぐだ考えるよりさっぱり剣術か何かでつけた方が簡単に片が付くから、気に入らないことが起こったら、まず殴りかかれと指導された」
「……は?」
「夫婦仲は、良いに越したことはないので、私としては使いたくない手段なんだが」
「……手を出すよりも先に口を出した方がよろしいかと」
その場でただ一人、既婚のアンジュは、大きなため息と共にそう告げた。
「やっぱりそうだよな」
うんうんと頷く、規格外の花嫁に、周囲はただ困ったように顔をひきつらせていた。
今日の主役である花婿が、いつも以上に感情のない視線で見つめる先には、こちらはいつもと違って輝くばかりに幸福に満ち溢れた、純白の衣装に包まれた花嫁の姿があった。
最後の衣装直しと、式の間、ベールを持つ子供たちとの顔合わせで、ホールにソファを持ち出してきて寛いでいた。
アンジュに連れられて、子供達が姿を現すと、にっこりと微笑み、子供たちの前にかがみ込む。
双子らしい二人は、父親のホーフェンにそっくりな金色の髪を二つに結わえ、きらきらとした水色の瞳で、花嫁姿のサーレスを見つめていた。
「サーラ姫、お衣装が汚れます」
「これくらいなら、大丈夫だ。そうか、おまえ達は双子なのか。今日は、大変な役目だけど、よろしくな」
優しい茶色の瞳が、そっくりな双子に注がれる。優しい仕草の手は、側にあった、これから持つのだろうブーケに向けられた。
ブーケの、端の方の花を二本抜きとり、少女たちの髪にそれぞれを飾る。
にっこりと微笑む花嫁を前に、少女たちは頬を赤く染めた。
「……馬子にも衣装ってのは、こういうことなんですかねぇ」
「いつもの衣装からは想像できんなありゃ……とんでもない美女っぷりだぞ」
今日の警備担当の騎士たちは、まるでおとぎ話か何かの風景のようなその姿を見て、唖然としていた。
彼らの記憶にある限り、この花嫁がドレスを着ていたのは、初めてこの城に足を踏み入れた当日だけだ。それ以外をずっと騎士服で過ごしてきた花嫁は、今日はベールも着けずにおとなしくしていた。
「やはり、あの王妃様の御子だけはあられる。いや、美しい」
杖をつきながら、ゆっくりとこの場に現われた黒髭が、花嫁の姿にうんうんとうなずいた。
「それにしても、ノエルが先ほどから仏頂面だな。大丈夫か」
黒髭がそう言うと、そばにいた二人は顔を見合わせた。
「あいつが仏頂面なのは、今日に限ったことじゃないでしょう」
「さすがに今日は、いつものにやけ顔を押さえるために仏頂面になってんじゃないすか?」
その二人の意見を、黒髭は首を振って答えた。
「いや……あいつ、今まで見たことないくらい、緊張してるみたいなんだが?」
「……へ?」
彼らにとって、最もあり得ない言葉を聞き、ポカンと口を開ける。
おそるおそる再びクラウスに視線を向けると、やはり微動だにせずに花嫁を見ている。
花嫁が身につけている衣装は、花婿であるクラウスが、やれ刺繍だレース編みだと、会議の最中まで利用して作っていた物だった。
花嫁から外されることのない視線に、少々不気味な物を感じつつも、それを緊張のせいかと聞かれるとどうもわからない。
黒髭の言葉に半信半疑になりながら、様子を見ていたのだが、そのうちに、花嫁の支度が終わり、そろそろ、式場に移動する時間となった。
子供たちがベールを持つのは、礼拝堂の中だけのことなので、今は、姫付きの侍女が皺にならないようにまとめて持ち上げている。引きずる長さだというそれは、男である黒騎士達の目から見ても、極上の出来だった。
クラウスが、無表情のまま、花嫁の手を取ろうと一歩踏み出す。しかし、そのとき、異常は起こった。
あのクラウスが、カーペットの端に、微かにだが躓いたのだ。絶対あり得ないことが起こり、本人よりも周囲が驚愕で固まった。
無様に倒れたりするようなことはなかったし、とっさに体勢を立て直したのはさすがだが、黒髭のいうとおり、どうやらこれは緊張しているということらしいとわかり、黒騎士達が吹き出しそうになる。
かつて、この仏頂面の団長が、緊張するようなことはなかった。
初陣も、隊長に就任したときも、団長に就任したときも、ふてぶてしいまでにあっさりと乗り切ってきた団長の、年相応の緊張する姿に、周囲も、どうしても笑いがこみ上げる。
その場の、えも言われぬ緊張を破ったのは、花嫁の言葉だった。
「あなたでも緊張するんだな」
この場の全員を代弁するかのような言葉に、思わず周囲もうなずいた。
「当たり前じゃないですか。私だって人間です。そもそも、私はあなたの前ではいつも緊張しているんですよ」
「それは申し訳ないな」
「……あなたはぜんぜん緊張している風じゃありませんね」
花婿の、若干恨みがましく思っている風の視線も、花嫁はあっさり受け流した。
「そうだな。あんまり緊張はしてないな」
「今日は、花婿より、花嫁こそ緊張していてしかるべき日ではないですか?」
「なにを言う。国の重要な儀式で、兄が行方不明の状態で身代わりをしていたときの方が、よっぽど緊張したぞ。それに比べれば、今日は、ドレスの裾さえ踏まなければ何とでもなるじゃないか」
「そんな緊急事態と比べられても……」
花婿が、がっくり肩を落とすのを見て、花嫁は艶やかにほほえんだ。
「すべて、夫の意のままに。結婚の心得で教えられたのなんか、これだけだった。式も同じだろう。それだけ、私があなたを信頼しているだけのことだよ」
その言葉に、さすがにクラウスも微笑んだ。
「……私の緊張を倍増しないでください」
そんな二人の様子を、むずがゆく見守る黒騎士二人と、今から涙が止まらない黒髭が見守っていた。
「そうだ。式の前に、顔を出したい場所があるんだけど」
花嫁が、小首を傾げながら、自分よりもかなり下の位置にある花婿の顔をのぞき込んだ。花婿は、そんな花嫁が耳元でささやいた言葉に、頷いて、彼女を抱き上げた。
「落とさないでくれよ?」
「大丈夫です。たとえ自分が倒れても、あなたは落としません」
「あなたに倒れられても困る。私は男に触れられないんだから、あなたの代理もいないんだぞ」
「あなたの隣に立つ権利を、他の誰にも渡す気はありません。たとえ代理といえどです」
にっこり微笑んだ花婿は、花嫁を抱き上げたまま、先程躓いたことを感じさせない足取りで、奥の使用人しかいない棟に歩き始めた。




