16
中庭で、各所から来る情報を受け付ける役割を与えられていたマーヤは、城から待ち望んでいた人が姿を現し、歓喜の表情でそれを出迎えた。
「サーレス様!」
「マーヤ! 心配かけて、悪かった。部屋には鍵がかかっていたから、大丈夫だと思ってたんだが」
そう言われて、ようやく、自分が寝る前に鍵をかけていたことを思いだした。あまりに自然に団長が中にいたから、すっかり忘れていたのだ。
恐る恐るクラウスに向けた視線は、その隣にいたアンジュに見つけられた。
「城の鍵については、ノエルにとってはあっても意味を成しませんよ。普通に扉を開けるように、鍵も一緒に開けてしまいますから」
アンジュの言葉に、マーヤと共にサーレスも胡乱げな視線を、今まさに城から出てきたクラウスに向ける。
クラウスは、サーレスからの視線に、にっこり微笑んだ。
大変可愛らしい笑顔になったクラウスに、サーレスも微笑み返す。
「式までに、もう一回、鍵の交換を頼む」
サーレスは、くるりと振り返り、アンジュに小声で告げた。
「……変えて十日もしないうちに効果を成さなくなると思いますが、よろしいですか?」
「……十日ごとに変えるのは、さすがに無理だな」
思い悩むようなサーレスの様子に、さすがのアンジュも苦笑した。
「ノエル、アンジュ。これで全員のようだ」
キファにかけられた言葉に、その足元に転がされた黒装束の面々に視線を向ける。
グレースだけは、毛布でぐるぐる巻きにされていたが、それ以外は黒装束のまま、縄で拘束されている。
「……狼の巣に、たった四人で首を突っ込むとは、ずいぶん命知らずだ」
「こういう日だからこそ、余計に警戒は厳しいんだがねぇ。うちは特に、一番上がそういう事情を嫌と言うほど分かってるからな」
隊長達は全員、しっかり軍服を身につけている。騎士の中には、寝起きの姿のままで走り回っている者もいるが、少なくとも隊長達は全員、この事態を想定していたとしか思えない。
ベンも、昼に見た時と変わらない姿で、侵入者達の傍にしゃがみこみ、繁々と四人を見つめていた。
「……なんでこの嬢ちゃんだけ、馬用のハミなんか付けてんだ?」
「あ、それは私のだ。拘束用にシャツは持っていったんだが、猿ぐつわ用の布が手元になかったんだ」
「手際がいいねぇ」
「慣れてるからな」
あっさりとそう告げて微笑むサーレスを見て、隊長達はなるほどと頷いた。
カセルアに密偵は入れない。マージュにまでそう言わしめたその理由がこれかと、全員が妙に納得していた。
「今残ってる黒狼は、全員で侵入者の尋問に当たれ。ベン。お前も付き合ってくれ」
「了解」
「黒狼にも通達してきます」
素早く身を翻したアンジュを目で追いながら、クラウスはため息を吐いた。
「……これで、城の中は一掃できましたが、想像していたより、人数が増えました」
「グレースだけで済ませるつもりだったのか」
「街の方までは、さすがに全て探り当てるのは不可能ですから」
ノルドの街は、世界中から集まってきた黒騎士達が身内を呼ぶことで、他の国や街よりも、人種の多様な土地になっている。
その中から、どこから来ているのか分からない密偵を捜すのは、確かに難しい。
サーレスも、納得して頷いた。
「じゃあこれで、城外に出ても大丈夫か?」
「それは式後にしてください」
笑顔で即断され、サーレスはがっくりと肩を落とした。
「ユリアさん、お使いで、お酒をたくさん買ってきて下さい。全部、私につけておいて構いませんから」
「はい」
ユリアが、苦笑しながら頷いた。
「なんだ、お前さん、酒好きか。だったら今度、とっておきを飲ませてやるよ」
ニヤリと笑いながらのベンの言葉に、項垂れていたサーレスの頭が、勢いよく上げられる。
その背後にいたクラウスは、その上げられたサーレスの頭に手をかざし、そっと耳を塞いで抗議の意を表した。
侵入者騒ぎのあった数日後、報告のためにとクラウスの執務室に呼ばれたサーレスは、初めて入るその部屋の装飾を見つめながら、その報告を聞いていた。
壁には黒狼の漆黒の旗が飾られ、それを背負う位置にクラウスの執務机はある。
その部分だけ見ると、実用一辺倒の作りをしているのに、横にある控えの間から、扉の外された入り口の部分までを浸食するように、布とレースがあふれ出している。
サーレスは、可愛らしいクッションが飾られたソファに座ってあんぐり口を開けたまま、左右であまりにも落差の激しい部屋を見渡していた。
「わざわざ、裁縫用に部屋を設えるより、隣りを使う方が、時間もかからず楽なもので、こうなってます。やはり気になりますか?」
「……そうだな。気になる。ここに来た客人は、この部屋を見て、何も言わないのか?」
「客人は、客間に通しますから。ここには、機密書類もありますから、黒騎士しか入りません」
そして黒騎士は、クラウスが執務室でせっせとドレスを作っていても何も言わないし、慣れているので不思議にも思わない。仕事さえしていれば、執務室でレースを編んでいようが刺繍をしていようがまったく構わないらしい。
横に控えたアンジュがそう告げるのを聞いて、唖然としていたサーレスは、つくづく思った。
「……この騎士団は、本当に、自由だなぁ」
「そうですね。ですから、居心地はいいですよ」
あっさりそう返したクラウスは、改めて手元にあるものをサーレスに差し出した。
それは、一枚の銅貨だった。
中には、この近隣で見た事のない、星を手にした女神の像が意匠されている。その星の部分には、薄い緑色をした宝石がはめ込まれている。
「やはり、ラズー教団でした。これは、彼らの間では鍵として使われる銅貨です」
「鍵?」
「教団施設には、これをぴったり填められるレリーフがあり、これが鍵になっています。そのレリーフは扉になっていて、教団施設の奥に入れる入信者には、全てこれが配られています。教団内で地位が上がると、この銅貨が銀貨になり、最終的に金貨になります」
「金貨となると、どれくらいの地位になるんだ?」
「ラズー教が定めた地域の、最高司祭くらいですね。教主は、この金貨の星の部分に、とても珍しい宝石がはめ込まれているそうですよ」
「……つまり、この銅貨は、下っ端の下っ端か?」
「そうなります。この宝石だと、入信者ですね」
「……それは、ほとんど何も知らされてなさそうだなぁ」
「目的は、姫の誘拐だったようです」
「誘拐? 髪を盗みに来たわけではなく?」
「ええ。グレースは、ここに、一年ほど前から勤めていました。当初の目的は、黒騎士の隊長達の髪や体液の採取だったそうなんですが、五ヶ月ほど前に、私の結婚が決まってからは、結婚相手であるあなたの誘拐に目的を切り替えるように伝えられたんだそうです」
「目的が分からないな。それに誘拐なら、移動中も機会はあっただろうに、どうしてわざわざここに到着してから浚おうとしたんだ」
真剣に首を傾げたサーレスに、クラウスも同意を示した。
「どうやら、道中も機会を窺っていたようなんですが、姫を視認できなかったために、囮だと思ったようなんです」
「……なるほど」
「姫を確保する目的に関しては、彼らも知らされていなかったそうです。ただ、私の傍に、力のある大国の姫を置いておくことを危惧しているとだけ告げられていたそうです。こちらに来る道中は、ユリアさんを姫に仕立てて移動したんですよね」
「ああ。一応、姫が入国したと印象付けなければいけないからな。関所では、ユリアを姫に仕立てていた。それ以外は、馬車でずっと過ごしている風に、ユリアが動いていた」
「カセルアからの人数が、姫の輿入れにしては少なかったために、疑心暗鬼に陥ったようです。姫は重病というのが一般の説でしたから、ラズー教もそれを前提にして動いていたようですね」
「……よくわかった。ラズー教はつまり、あまり密偵の質がよくないんだな」
その言い方に、クラウスは吹き出した。
「確かに、そうですね。あっさりそれを信じて確認もしないあたり、訓練が足りませんね」
「まあ、グレースも、姫の顔も何も分からないままだったみたいだしな」
「そうなんですか?」
「ああ。部屋で、姫は安全なところにいるからここには居ないと言ったら、あっさり信じていた」
まさかそれを告げたのが姫本人だとは、グレースは思いもしなかったのだ。
さらにその後、ベッドからユリアが出てきたことで、その言葉を真実だと思い込んだ。
「相手の顔も分からないのに、よく浚わせる気になったもんだ。別人を浚っていったら、どうするんだ?」
「その場合はまあ、ラズー教に無理矢理入信させて、自分の手駒にするんじゃないでしょうか? 少なくともその間違えた相手は、私の懐にいた人物と言うことになるでしょうから。もっとも、そう簡単に浚われるような者も、ここには居ないわけですが」
クラウスはそう言うと、手元にあった紙をめくりながら、サーレスにひとつひとつ聞き出したことを説明していく。
髪などの体の一部は、まだラズー教の手に入っていないこと。
身体の特徴も知られておらず、カセルアに向かった他の信者達も、その情報を手に入れられなかったこと。
そして、カセルアに向かった者達は、残らず帰ってきていないこと。
「……全員捕まってるな、それは」
「愚かですね。各国の精鋭が破れないカセルアの壁を、本職でもない密偵で越えようとするとは。他の国の密偵達も、これを聞いたら腹を抱えて笑いますよきっと」
「たぶん、カセルアの見習い梟たちは、遊び相手ができて喜んでいることだろう」
「……そういえば、ここに来ていた梟は、兄の元へ知らせてくれましたかね」
「まだ、エルモ夫人は街に残っている。帰りも護衛をして帰るはずだから、またここに帰ってくるはずだ。話を聞きたいなら、夫人が帰りの挨拶をしに来た時にでも、梟を呼び出せばいい」
何か用なのか、と問いかけようとしたサーレスの言葉を遮るように、部屋に風が流れた。
「もういますよ。まったく。あんた達兄弟、揃ってなんで他国の密偵を簡単に使うんですか」
突然響いた声に、慌てて扉を見ると、確かにその扉の前に、梟が立っていた。
扉が開いた気配もなく、その場にいた面々には、梟がどうやってその場に現われたのかも分からない。
戸惑うクラウスとアンジュとは違い、長年にわたりこの変わった男と付き合いがあるサーレスは、特に驚くこともなく、梟を見つめていた。
「梟。どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも。ここで聞いた話を伝えに行ったら、ついでだから弟に手紙を渡してくれって、無理矢理持たされたんですよ。あの人、全然人の話を聞かないし」
クラウスは、その時の兄の様子が目に見えるようだった。
なんだか申し訳ない気分になり、思わず頭を下げた。
「……兄が申し訳ない」
「まあ、いいですけどね」
すっと、白く細長い指で挟まれた手紙を渡され、その場で封を開く。その紙面に目を通したクラウスは、顔をしかめ、視線を梟に向けた。
「……王宮の黒狼は、どうしていた?」
「もうホーセルに出発していたよ。目から情報を集めてくるって」
二人の会話に首を傾げながら、サーレスは視線でクラウスに問いかけていた。
「……ホーセルが、動き始めているそうです。食料だけではなく、武具と騎馬にも動きがあるそうなので、この分だと仕掛けられるのは間違いないだろうと」
「なんだと?」
「……あと十日ほど、大人しくしていてくれれば文句はないんですが」
「そうだな……」
あと十日ほどで、式の本番。それまでに仕掛けられれば、式などと言っていられないのは確実である。
「兄上に頑張って抑えてもらうしかないですね。おそらく、もう手は打っていると思いますが」
クラウスの、珍しいほどに力のない声に、サーレスは心配そうに顔を上げた。
「大丈夫だ、きっと。あなたの兄上は、私とあなたの結婚を、祝福して下さっているんだから」
あの大粒の宝石達に込められたその思いを、サーレスは感じていた。
あの時兄王が浮かべていた照れ笑いも見ていた。だからこそ、信じられた。
「ラズー教の言うところの、青の覇王というその星の強さを、見せてもらうとしよう」
「……サーレス」
「青の覇王は、困難が傍にあればあるほど、その力を強める星なのだとマルクス殿は私に教えてくれた。ならばそれは、今もきっと発揮されているはずだ。ラズー教の信者になるつもりはないが、その星は、ラズー教ではなく、ファーライズの占術で表された結果でもあるんだ。それなら、その強さを信じてみるのも、また一興だろう?」
まるでクラウスを安心させるように、にっこりと微笑んで見せたサーレスを、クラウスはまぶしそうに見つめて、小さく頷いた。




