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クラウスに抱き上げられたまま、これから長い時間を過ごすだろう城館に入ったサーレスは、石造りの堅牢な城の風景を不思議そうに見つめていた。
ベール越しだと、暗い城の中ではあまりものが見えず、そっと扇でベールを上げて、見回していた。
「姫は、ブレストアの建築を見るのは初めてですか」
「途中、宿に泊まったときには見た。だけど、カセルアとは、建築様式も違うな」
「ブレストアでも、平地に近い場所は、カセルアと似たような様式の建物もありますよ。ノルドは、ブレストアの中でも高地に位置していますし、雪深い地域ですから、特殊な様式ではありますね」
興味深そうなサーレスの表情を間近に見て、クラウスはくすくすと笑う。
「とりあえず、顔を隠してください。使用人が通りますよ?」
ぴくっと反応したサーレスは、あわててベールをおろす。
そんな姿を、クラウスは微笑み、見守っていた。
「まさか、お化粧もしてくださるとは、感激です」
わざわざ、耳元でささやくように言われ、サーレスは赤面してうつむいた。
「わ、わざとだろう、クラウス」
「さあ、どうでしょう?」
「……変わってないな」
「あなたのお顔を最後に見て、まだ四ヶ月です。それくらいでは、性格は変わりません」
穏やかな表情は、その四ヶ月ほど前に見せていた苦悩は影も形もない。元々、クラウスは表情を作る事が常なので、その胸の内は測りかねるが、それでも、サーレスは安堵していた。
「さて、ここでひとまず休憩しましょうか」
たどり着いた部屋は、色ガラスのはめられた窓がある、明るい部屋だった。
建物自体は無骨だが、室内の装飾は凝るのが、ブレストア風らしい。
おそらく年中使っているのだろう、使い込んだ暖炉は、贅をこらし、色石がモザイク状に張り巡らされている。石造りの枠には彫刻も施され、随所に凝った作りになっている。
床に敷かれた、色とりどりの羊毛の絨毯は、ブレストアの特産品なだけあって、文様の細かさも、鮮やかな色合いも、カセルアとはまた違う華やかなものだった。
家具も、一見実用的な作りなのだが、細かい金具や側面などに華麗な装飾を施し、実用と装飾を兼ねた見事な作りになっている。
サーレスは、クラウスの腕に抱かれたまま、その部屋を繁々と見つめていた。
クラウスは、そんなサーレスを、毛皮が敷かれたソファの上に降ろし、そっと抱きしめる。
「……会いたかった」
ようやく二人きりになれる場所に来て、サーレスはベールを取り去った。ようやく、素顔で顔を合わせたサーレスの頬に、クラウスはそっと口付ける。
「……まだ、誓いとやらは、有効なのか?」
「式の時まで有効です。私が時をさかのぼれるなら、あの時の自分に、もうちょっと食い下がるように喝を入れに行きたいです」
「……大げさだな」
「久しぶりに会えたあなたに、口付けすることすら叶わない。しかも、すぐ側にあなたがいるのに、さらにひと月耐えなければいけないんですよ? どれだけ苦痛だと思いますか。あなたの兄上は、これをわかってて、あの誓いを私に立てさせたに違いありません」
「そ、そうなのかな……」
そう告げる間も、顔にはキスの雨を降らせるクラウスは、ため息をつきながら抱きついた。
カセルアならまだしも、ノルドにいても律儀にその誓いを守ろうとするクラウスに、サーレスは思わず訊ねた。
「……ここまで、兄上の目は届いていないと思うぞ?」
「いいえ。トレス殿下が、どんな手段で情報を得ているのか、私にはわかりません。うちの兄など、あの人の事を猛禽に喩えました。あらゆる些事から情報を読み取るというのなら、喩えばユリアさんの普通の手紙で、こちらを見通す事もあるでしょう。ユリアさんは、いざとなったら、私より、長年仕えているトレス殿下への忠誠を取るはずです」
「……まあ、その通りなんだが」
「その状況では、たとえ臆病者と言われても、素直にひと月、耐える事を選びます」
大まじめにそう宣言したクラウスの表情を見て、サーレスは思わず吹き出した。こんな時なのに、年相応に見えたその表情に、大きな安堵を覚えたのだ。
クラウスは、気まずそうにしながらも、改めてサーレスを繁々と眺めた。
「ドレス、よくお似合いですね。確かに、あの時のドレスと、同じ形です」
「でも、大きいから、変に目立つんだ……。黒騎士たちも驚いてただろ?」
「それは、存在感に驚いたのでしょう、きっと」
「そうなのか?」
そんな睦言の合間にも、暇があれば口付ける。
「……よかった」
「なにがですか?」
「すっかり、元に戻ってるな……あの後、どうなったのかと心配してたから」
表情を曇らせたサーレスに、クラウスは微笑んで見せた。
「もう、大丈夫です」
その表情を見たサーレスは、それでも気遣わしげに、クラウスの顔に手を添えて、青の瞳をのぞき込む。
あの日、初めて見た時よりも遠い目をしていたクラウスに、心が凍り付くような印象を受けた。
その事が、サーレス自身が思っていたよりも、衝撃を受けていたのが分かったのは、カセルアに帰り着いた後だった。
「……ちゃんと、黒髭殿と、話はしたのか?」
「……はい」
微笑んだクラウスは、顔に当てられていたサーレスの手をそっと外し、その手を両手で包み込んだ。
「ちゃんと、墓参りもしました。黒髭と一緒に」
「そうか」
サーレスは、クラウスの体をそっと抱きしめ、慰めるように頭を優しく何度も撫でた。
まだ全てが終わったわけではなさそうだが、少なくとも、クラウスがあの時の闇にとらわれる事はもうないのだと思えた。
顔をほころばせたサーレスに、クラウスも微笑み、見つめ合う。
「失礼します。ユリアさんの紹介状を預かりましたので、お持ちしました」
扉の外から聞こえた声で、二人は慌てて体を離し、サーレスは素早くベールを身につけた。
それとほぼ同時に、クラウスは外に向かって声をかけ、入室の許可を出す。
執事が扉を開け、そっと道を譲ると、そこからユリアが姿を見せた。
「ああ、ここに連れて来てくれたのか」
クラウスが声をかけると、ユリアは苦笑しながら頭を下げた。
「ご挨拶をと思いまして。おじゃまして申し訳ありません。今日から、よろしくお願いします」
「いえ。ちょうどよかったです。このままでは、姫を黒騎士たちに紹介できません。普段着に着替えさせてもらいたいと思っていたところでした」
「このままだと、だめなのか?」
不安そうに、自らの体を見下ろすサーレスに、クラウスは首を振って答えた。
「サーラとして紹介するわけではありませんので、普段の姿に着替えてほしいんです。ドレス姿は、また今度、二人きりの時にでも、見せてください」
「……旦那様?」
執事が、クラウスの言葉に、疑問を投げかける。
「姫の紹介を黒騎士たちにと言うのはわかりますが、そのままではいけない理由がおありですか。姫は、お体が弱いとお聞きしていますし、このまま、黒騎士たちに集まってもらって、少しお顔を出していただく方がよろしいのでは?」
「……お前には説明しておかないととは思っていたが、とりあえず、ホーフェンとグレイを呼んできてくれないか。それと、アンジュを。その三人が来たら、まとめて説明する」
「……了解しました」
静かに頭を下げ、執事が部屋を辞したのを見届けてから、クラウスはユリアに視線を向けた。
ユリアは、真っ直ぐにクラウスを見つめたまま、微動だにしていなかった。凛とした立ち姿のまま、クラウスを見極めようとしているようにも見える。
その様子に、サーレスもさすがに首を傾げたのだが、女官としての仕事をしている時のユリアは、常にこの様な態度でもあったので、トレスに命を受けているのかどうか、さすがに判断はできなかった。
「ユリアさん、着替えの人手は必要ですか。必要なら、口の堅いものを今からつけますが」
「いえ、普段着へのお着替えなら、私一人で十分です」
「では、お願いします。姫の部屋は、あちらの扉から行けますから。外からも行けますが、ここが姫の部屋と私の私室をつなぐ部屋になります。荷解きは、執事を使っても構いません。おまかせしますので、いいように取りはからってください」
「はい」
ユリアは礼をして、サーレスと共に、サーラの部屋に向かった。
それを見送り、クラウスは、自らの袖についたサーレスの残り香を嗅いだ。
あまり甘すぎない、爽やかな夏の花の香りがする。
ブレストアでは嗅いだ事のない、上品な香りだった。おそらくは、カセルア王妃の調香した物なのだろう。夏の短いブレストアに嫁ぐ娘に、夏の花を餞としたのかもしれない。
名前でもあるルサリスは、香料としては有名だが、姫の従者となるサーレスは使えない。だが、この香りなら、サーレスがつけていても、サーラがつけていても、違和感はなさそうだった。
他では嗅いだことのないその香りは、きっとこの国でも印象的に香るだろう。
しばらく、その残り香を堪能していたのだが、ふと、執事が届けたカセルアからの紹介状が目に止まる。
とりあえず、レターフォルダーを開き、そこに挟まれている一枚の証書を取り出した。
上等な紙に、金箔でカセルア王家の紋章が型押しされたその紹介状には、ユリアの身分が、カセルア王宮女官長補佐である旨を、王宮女官長直々に保証する文章と共に、彼女がサーラの懐妊及び出産までの間、ノルドに出向する事が書かれている。
トレスに聞いていた通りの紹介状を、ため息を吐きながら眺める。
ユリアが何かの特殊な訓練を受けていない事は、所作からわかる。だが、クラウスの事は知らせるように言われている事も、容易に察せられる。
つまり、彼女の目は、トレスの目でもある。
彼女に、トレスとの間に交わされたあの約定が知らされているのかどうかはわからないが、こちらの行動は筒抜けになる事は間違いない。その目の前で、堂々とサーレスに手を出す事はさすがにできなかった。
がっくり肩を落としたクラウスは、ふと視線の端に白い物を見つけた。
紹介状の下に、二つ折りにされた紙が一枚と、その間に封書が一通挟まっている。
それを手に取り、首を傾げる。そして、開いてみて、苦笑した。
確かに、あの人は、兄の告げたとおり、敵に回すよりも、目だけを借りるかその庇護下に入った方がいい気がしてくる。何もかもを知られているようで落ち着かないが、味方にしてあれほど心強く思う相手は居ないだろう。
そうやっているうちに、部屋の外には呼んだ三人がヴォルフェに連れられ、勢揃いしていた。