10
「……来たか」
扉を開けてすぐに聞こえたのは、トレスの声だった。
兄二人が、向かい合って書類に目を通しているのを見て、クラウスは頭を下げた。
「お待たせして申し訳ありません」
「気にするな」
トレスがそう告げると、ランデルがニヤリと笑った。
「これでようやく、そちらの影武者殿の名前が聞けるのかな?」
その言葉を聞いて、サーレスはにっこりと微笑んだ。
「……王太子殿下にお尋ねください」
「なんだ、直接名乗るわけじゃないのか」
「それはサーレスだ」
トレスがランデルにそう紹介したのを受けて、サーレスは頭を下げた。
「昨夜は、失礼致しました」
「いや、おかげで助かった。あのあと、カセルアの密偵がわざわざ俺のところに来たのも、お前の指示だろう?」
「ええ。あのままあそこにいて、外部で見張りに立っていた者に見つかってはいけないと思いましたので、保護を指示しました」
ランデルは、その言葉に、うんうん頷くと、満面の笑顔を見せた。
「カセルアの梟の噂は、聞いたことはあったんだが、現物を見たのは初めてだ。おかげで得をした気分だ」
「楽しんでいただけたようで、なによりです」
楽しそうなランデルに、サーレスも笑顔で返す。
その様子を、サーレスの隣で見ながら、クラウスは首を傾げていた。
「そう言えば、聞いていませんでした。兄上は、何の用があって、トレス殿下に会いにいらしたんですか?」
クラウスが告げた言葉に、トレスは盛大なため息を吐いた。
「……また、何も言わずに国を出てたのか。お前は、いつも、思いついたら即行動なんだな」
「今回は、それも仕方ないだろう。トレスは調印を終わらせたら、とっととカセルアに帰るだろうしな。その調印について、ちょっとブレストアでも聞きたいことがあったんだし」
その理由に、サーレスもクラウスも、驚いて声を上げた。
「調印って、通商条約のですか?」
「正確には、割り込ませてもらおうと思ったからだ。カセルアが今回の条約で条件に入れていた、ドミゼア国内の道路整備に関して、うちからも金と資材を出そうと思ってな」
兄たち二人は、それぞれ、目の前にある書類を手に取り、それを検める。
「カセルアとの交易路として、アルバスタの港とそれに続く水路は確保したんだが、そこはホーセルと戦になれば、真っ先に狙われるだろう。あの水路は、元々ホーセルの国境に近いからな。だから、陸路も検討していたんだ。しかし、うちからカセルアだと、ホーセル経由かカフラか、ドミゼア経由しか、道がない。だが、ホーセルは論外で、馬車どころか馬も通さないカフラでは、交易路としては使えない。そうなると、ドミゼアしかない。今回、王太子が出ると言うことは、すでに交渉はほぼ終わって、調印の段階にあると判断した。だから、俺が来たんだ。この段階で、話に加わるなら、少なくとも、即調印できるだけの身分が必要だからな」
ランデルが、肩をすくめてそう告げるのを見て、トレスは吹き出した。
くすくす笑いながら、顔をそらしたトレスを、ランデルは忌々しげに睨み付け、サーレスとクラウスは、訳もわからないまま、そんな二人を交互に見つめた。
「お前が、これに関して素直じゃないのはよく分かるが……それは別に、急ぐ事でもなかっただろう?」
ふいっと顔をそらしたランデルは、そのまま口を噤んでしまった。
「それは、別に文書でもよかったはずだ。これはな、私に別の用があったから、ここまで来たんだ」
クラウスは、トレスが告げた別の用とやらに、なんとなく思い当たることが頭に浮かぶ。
だが、それは口に出すことなく、トレスに訊ねた。
「なんの用だったのですか?」
「サーラのことを、直接私に聞きに来たんだ」
トレスに聞かされたそれに、クラウスはそうじゃないかと思っていたと、頷いた。
「兄上は、気にしておられましたからね。かといって、他の手段では調べられない。近くに殿下がいらっしゃるなら、直接聞きに来るような暴挙をしても仕方ありませんね」
「サーラの病が命にかかわるものかどうか、環境の変化に耐えられるのかどうか、そういった事を知りたかったらしい」
「なるほど。私の言葉だけでは信用できませんでしたか」
弟に冷たい視線を向けられ、兄は開き直った。
「どう考えてもごまかしているような言葉で、納得できるか馬鹿者。具体的な病名が出るわけでもなく、様子も言わない。結婚の承諾をもらって婚約式も済ませてきたなら、顔を見ているはずなのにその容姿の具体的な説明もないでは、お前は人形か何かと結婚でもするのかと心配になるに決まってるだろうが!」
「いくら私自身が人形と言われていようと、人形相手に添い遂げる趣味はありません」
にらみ合いをはじめた兄弟は、お互い一歩も譲らない。
その二人を見て、トレスはますます笑った。
「そもそも、街道の整備も、弟の結婚祝い代わりなんだろう?」
「……え?」
「クラウスは、もう公爵として封じられてしまったから、臣下としてしか遇することができない。それだと、王のお前は臣下であるクラウスの結婚式にも出られないし、祝いも満足に与えられない。だからせめて、結婚が正式に公表される前に、できる事をしに来たんだろう、ランデル?」
そうトレスが告げると、ランデルは頭を抱えた。
「お前は相変らずすぎるだろ……。なんで今までの話し合いから、そこまで何もかも推測できるんだよ」
「お前も変わらないな。身の内に取り込んだ者には、とことん甘くなる……。弟を可愛がっているようでなによりだ。おかげで、相変らずわかりやすい」
そんな二人の様子を、唖然とした表情で見つめていたクラウスは、ふと視線を感じ、サーレスに目を向ける。
サーレスは、微笑みを浮かべて、クラウスを見つめていた。
「……あなたの兄君は、あなたに甘えてもらいたいようだ。せっかくお祝いをくださるのだし、お礼代わりに甘えて差し上げればいかがかな?」
「……え?」
顔をしかめたクラウスを、ランデルは目敏く見つけ、ため息を吐いた。
「サーレス。これでも、弟は俺が大好きなのか?」
「もちろん」
自信を持って頷くサーレスを、兄弟はよく似た唖然とした表情で見つめていた。
ランデルは、不審そうに眉を寄せたが、結局は追求を諦めたように顔をそらす。
「……まあ、その事は置いておくとして……」
ランデルは、突然、腰につけていた皮のポーチから、小袋を取り出した。
それを、無造作に、正面にいたトレスに投げ渡した。
トレスは、慌てながら受け止め、胸に抱く。そのとたん、小袋から、小さな固形物がぶつかりあう音が響いた。
「……なんだ?」
「姫にやる」
そう告げられ、トレスは首を傾げながらその中身を慎重に机の上に広げ、息を飲んだ。
部屋中の光を集め、キラキラと反射したそれは、青と緑の、大粒の宝石だった。それも、一つ二つではなく、片手にあまるほどの数である。
トレスだけではなく、サーレスもクラウスも、驚きで目を見開いた。
「……これは、やると言われて簡単に持って帰れる代物じゃないだろう」
「うちの青か、カセルアの緑かで悩んだんだけど、どうにも決められなくてな」
「そういう事じゃなく」
「……宝冠でも作ってやれればいいんだがな。生憎、ブレストアより、カセルアの方が、細工職人の腕はいいんだ」
「いや、だから。これだけ大粒のものが、いったいいくらすると思ってるんだ」
「値段なら、気にするな。それは全部、俺の所有する鉱山で取れたものだ」
「……え?」
「俺が個人で所有する鉱山は五つあるんだが、そのうち父上から受け継いだ一つが、主に宝石が取れる鉱山でな。特に、青はよく出るんだが、緑もまあ、比較的出るんだな」
ランデルは、机の上に無造作に転がる青い宝石を一つ手に取り、光に透かしてみせる。その色は、それを見つめるランデルや、唖然として兄の言葉を待つクラウスの瞳と同じ色合いだった。
「うちの国では、青い宝石が出る鉱山は、基本的に王家の所有物になると法律で決められている。現在、国内で三カ所あるんだが、そのうち王家所有が二つ。そして、代々、国王個人に受け継がれることになる鉱山が一つ。その、個人所有の方から出た宝石が、これだ。だから、この宝石は、俺のもの」
ニヤリと笑ったランデルは、クラウスに視線を向ける。
「あれが持っている、ノルド領の個人の鉱山で、銀は出るはずだ。合わせれば、宝冠が作れる」
「……どうして知ってるんですか。まだ銀鉱脈は届けを出していなかったはずですよ」
「俺は、自慢じゃないが、国内の鉱脈はほぼ把握している。伊達にラトリック子爵にずっとくっついてたわけじゃないんだぞ。ノルドはあと、稀少金属も出る可能性がある。しっかり掘れよ」
「……言われなくても」
「そんなわけで、これで姫に、宝冠を作ってやってくれ」
笑顔で差し出された青の宝石を、トレスは慎重に受け取った。
「……言っておくが、サーラは、ブレストアに嫁ぐわけではないぞ」
「さっき聞いた。ちゃんとわかってる」
苦笑したランデルは、サーレスに顔を向けた。
「……クラウスが、カセルアから帰ってきた時、嬉しそうに見えたんだ。だから、それを贈る気になった。いいから持っていけ」
ランデルは、満面の笑みをサーレスに向けていた。
トレス王太子が、ブレストア国王と共にドミゼア王宮に入ったのは、その日の夕刻だった。
貴族の屋敷で起こった騒動の説明と、協力への感謝を述べに来たはずの王太子が、いきなり隣国の王を伴ってきたため、ドミゼア王宮は一時、混乱に陥った。
しかし、二人の客人は、端的に用件を述べ、その翌々日には、ブレストアから供給された資材で、カセルア、ドミゼア、ブレストアを繋ぐ街道の整備が行われることが決定していた。
そして、カセルアとドミゼア、そしてブレストアの、三国間の貿易に関する話し合いも持たれ、その後ひと月も経たないうちに調印が行われることになった。
結婚式まで、あと少し。
街道は、花嫁のために着々と整えられ、その日を迎えていた。