人を殺す女
赤黒い血と、むせるような鉄の匂い。変色していく皮膚の色。
死体が横たわる部屋の真ん中で、私は立ち尽くしていた。右手に持っているナイフから、血が滴り落ちる。それは畳にしみこんで、赤くて丸い染みを作った。
この風景に、匂いに、温度に、いまだに慣れない。
仕事の後は皮膚が赤くなるくらい何度も手を洗って、たばこを吸って、甘いものを食べる。
そうやって、忘れようとする。
15年前。あのとき私は9歳で、4つ年の離れた弟と家の中でかくれんぼをして遊んでいた。弟が鬼で、私は隠れる役だった。祖母の和室に忍び込むと、私は押入れの中にそっと隠れた。
外から聞こえる蝉の鳴き声と、蒸し暑い空気。押入れの中はひどく暑くて、私は弟が早く見つけてくれることを祈りながら、身体を小さくしていた。
インターホンが鳴る音が、かすかに響いた。
しばらくしてからほんの一瞬だけ、弟の叫ぶような声が聞こえた。私は暑さに負けたのと、弟の声が気になって襖を開けた。押入れの中よりも涼しい、けれども生ぬるい空気が全身に当たる。
和室から廊下に出た瞬間、私は尻もちをついた。
弟が倒れていた。赤黒い液体を、首からどくどくと流しながら。
私が叫びそうになるのと、2階から父の声が聞こえたのは同時だった。父の怒鳴るような声と、物が倒れる音。私は天井を見上げた。
隠れなくちゃ。隠れなくちゃ。隠れなくちゃ。
何故か直感的にそう思った。私は血を流しながら痙攣している弟を引きずって、さっきまで自分が隠れていた押入れに戻った。頬を伝ったものが、汗なのか涙なのか自分でも分からなかった。
私は暗い押入れの中で手探りで、弟の首に自分の手を当てて血を止めようとした。生ぬるい液体が、自分の手にまとわりつく感触。鉄のような、だけど生臭いような血液の匂い。
少しずつ血が止まってきたのは傷口がふさがったからではなくて、弟の命が終わろうとしてるからなのだと、気付いているけど知らないふりをした。
「さむい」。蝉の鳴き声が聞こえるなかで、弟が言った最期の言葉だった。
しばらくすると、2階から物音が消えた。それから、階段を下りてくる音。その音は父のものではなかった。
階段を降りたところで、足音が止まった。
「…。」
一瞬の静寂の後、足音がこちらに向かってくるのが分かった。私は息を殺した。だけどそんなのは無意味だった。
少しずつ明るくなっていく視界。襖を開けたのが母だったら、父だったら、祖母だったら、…弟だったら、どれだけ幸せだっただろう。
そこに立っているのは見知らぬ男だった。帽子を目深にかぶっていて、顔はよく見えない。服は血まみれで、右手には大きなナイフを持っていた。そのナイフもまた、血まみれだった。
私は眼を見開いた。もう、何も言えなかった。
「…死にたくないか?」
男に聞かれて、私は無言でうなずいた。男の身体の向こう側に、廊下からこちらまで続いている赤い道が見えた。私が弟を引きずったせいでできた、赤い道が。
それから私は、人を殺すための道具として育てられた。人を殺す方法を、そうやって生き延びる方法を、その男がすべて教えてくれた。
何人もの人を殺した。刺して、切って、絞めて、殴って。だけどいまだにそれに慣れない。いくら手を洗っても、自分の手には血がこびりついている気がする。たばこを吸っても血のにおいは消えない。甘いものを食べても、口の中は苦いままだ。
悲しかった。人を殺すことでしか生かすことのできない、自分自身が。
「…死にたくないか?」
あの時首を横に振っていたら、きっと私は殺されていただろう。だけどその方が良かったのかもしれない。人を殺して生きるくらいなら、あの時死んだ方が、幸せだったのかもしれない。
ターゲットとその妻を殺して、私は見知らぬ部屋の真ん中で立ち尽くしてでいた。そして思い出す。今回のターゲットには子供が一人いたはずだ。まだその子を殺していない。私は子供部屋へ向かった。
漫画やゲームが散乱し、酷く散らかっている子供部屋にその子の姿はなかった。私は部屋を見渡して、
「…。」
何かを思い出しながら、ゆっくりとクローゼットを開けた。
クローゼットの奥で、身体を小さくして震えている男の子がいた。
彼は泣いていた。口に手をあてて声を出さないようにしながら、泣きじゃくっていた。
おそらく、すべて見ていたんだろう。そしてここに、隠れた。
…あの時の私は、泣いていたんだろうか。思い出せない。
彼は泣きながら、けれどもこちらをまっすぐに見返してきた。泣いているのに、力強い目だった。私はその眼を見て、笑った。多分あの時の私も、こんな眼をしていたんだと思う。
「きみ、死にたくない?」
彼はどちらを、選ぶだろうか。
私が復讐を果たしたとき、あの男は腹から血を流しながら、笑っていた。
「いつかこうなると思っていたよ」と。
「…あなたが私に教えたのよ。人の殺し方を。…あなたの殺し方を」
「ああ」
彼は笑った。笑った口元から、血が垂れた。
「きっと俺は、将来お前に殺されるだろうと思ってた。押入れの中にいる、お前の眼を見た瞬間から」
「だったらなんで、あのとき私を殺さなかったの」
「…さあな」
男はそう言ったきり、動かなくなった。
その顔はとても、穏やかだった。