悪役の描き方 ~文化相対主義、帰納的思考、誤謬による隠蔽、それらにまつわるエトセトラ~
「お前は本当に悪役書くのが下手だな」
と、歯に衣着せぬ発言をしてきたのは、友人のKだった。僕はそれを言われても特に傷つかなかった。Kはいかにもそんな事を言いそうな奴だったし、それに悪役を書くのが下手というのは半ば自覚していたからだ。いや、下手だと自覚しているというと語弊があるかもしれない。下手というよりは、僕はどう悪役を描くべきなのか迷っているのだ。それが結果に現れるのは当然のはなしで、だからそんな批判を聞いても素直に受け入れられたのだ。まぁ、そうかもしれないなって。
僕は小説を書くのを趣味にしている。ネット上でそれを公開しているのだけど、オフの友人には知らせていない。Kが知っているのは、ただ単に偶然に僕の小説を見つけられてしまったからだ。もちろん僕は本名なんて公開していないのだけど、僕の筆致からそう判断したと奴は言っていた。もっとも、恐らくこれは嘘だと思う。奴にばれたのは、僕がネタとして実生活で起こった事を書いたからだろう。どちらにしろ、僕は無理に隠すつもりがあった訳でもないから、別に気にしていない。
「まぁ、そうだろうな。そもそも、僕は今まで悪役をほとんど書いてこなかったから」
Kに批判された時、僕はこう返した。もっと色々と説明してやろうかとも思ったのだけど、面倒くさかったから止めておいたんだ。ところが、これのお陰で却って面倒くさくなってしまったのだった。Kの奴は、それから偉そうな口調でこう言って来たのだった。
「そりゃ、いけないな。物語を作る上で悪役は重要な位置を占める。その悪役を書かないなんて」
それを聞いて僕は、なんでこいつは上から目線で言ってるんだ?と思った訳だけど、その言葉は噛み殺してこう言った(悪役が重要だというのは本当だし)。
「ただ単に自分が趣味で書いているだけだから、そこまで真剣に考えちゃいないよ」
これは嘘だ。本当を言えば僕は真剣に考えている。真剣に考えた上で、僕は悪役をどう描くかで迷っているんだ。説明するのが面倒くさいからこう言ったに過ぎない。僕が面倒くさがっている事に気付いてくれ、と半ば願いを込めてもいた。しかし、Kはそんな微妙な空気を読めるような奴でもなかったのだった。
「人が折角助言してやっているんだから、素直に聞けよ」
やっぱり、上から目線でそう言う。
僕は溜息を漏らすと、もう仕方ないと腹を決め、こう返した。
「じゃあ聞くけどな、どこがどう駄目だって言うんだ? 僕の書く悪役は」
するとKは明らかに嬉しそうな顔をした。どうにも、やっぱり、語りたくて堪らなかったらしい。
「まず、焦点がぼやけている。悪役なのに、憎めないんだよ。もっと、こう、やられた時に読んでいる側が快感を感じるような、それくらいじゃなきゃ」
僕はそれを聞いて呆れた。やっぱり、こいつはどうして僕がそういう風に悪役を描いたのかに気付いていない。
「そりゃ当然だろう。僕はそういう風に悪役を書いたのだから」
僕の悪役の描き方に問題があるのは認める。でも、だからといってこいつの意見は参考にはならない。ただ単に自分の好みを押し付けているだけだからだ。
「嘘だね」
自分の指摘を否定されて気分を害したのか、それを聞くとKは抗議するようこう言って来た。
「お前は、物語がどうすれば面白くなるかを分かっていないんだ。物語に嫌な奴が出てくるだろう? 読んでいて憎しみが沸きあがってくるような嫌な奴だ。そいつが色々と悪い事をやって、最終的に正義の味方にやっつけられる。それで、皆はスカッとする訳だ。
時代劇から、戦隊ヒーローものまで通用する物語の王道のパターンだぞ!」
それを聞きながら僕は思い出していた。Kは自分が何かを美味しいと思ったら、それが世間の皆に通用すると思い込むタイプの男だったと。人それぞれとか、文化相対主義とか、そういう言葉はこいつの頭の中にはないんだ。決して悪い奴じゃないんだが、少々単純なところがある。
「面白いだけじゃ駄目なんだよ」
それに僕はそう返した。それを聞くと、Kは不思議そうな顔をした。
「何、言ってるんだ?」
「だから、面白いだけじゃ駄目だって言ってるんだよ」
「面白くなかったら、皆に読んでもらえないだろう?」
「皆に読んでもらっても、面白いだけじゃ意味がないんだよ。そういう、何かを迫害する為に都合良く利用されてきたストーリーじゃ、読ませても無意味だ」
Kは僕がそう言っても、まだ不思議そうな顔をしていた。
……僕が明確な悪役が登場する、勧善懲悪的なストーリーを嫌いになったのは、子供の頃だった。
いじめ。直に接したのは、それ。だけどそれだけじゃない。僕はそれに近い現象を人間社会の色々な場所に見つけていった。戦争とか虐待。集団心理。何かを正しいと思い込み、その思い込みの基に行われる残酷な行為。それは人間達がお互いに“正しい”という情報を交換をし続ける事で、強化されていく厄介な現象。
歴史的に、そんな現象を強化する道具として物語は用いられてきた。否、むしろ初期はその現象の副産物として物語が発生した嫌いすらもある。勧善懲悪。自分達は正しくて、相手は悪い。悪いから、殺されて当然。そんな事を思わせるような演出。面白ければ面白いほど、人々はそれを信じ込んでしまう。僕は自分の書いた物語をそんなものにはしたくなかったんだ。だから悪役を書いてこなかった。意図的に避けた。ただ、物語を書き続ける以上、それは避けられないとも分かっていた。
だからこそ僕は悩んでいるんだ。
どう悪役を描くべきなのか。
Kはしばらく不思議そうな顔していたけど、やがて僕の言葉の意図に気付いたようで。
「何、綺麗事を言っているんだ? そんな理想論じゃ人気なんか獲得できないぞ」
と、そんな事を言ってきた。
「だから人気なんかいらないんだって。別に生活がかかってる訳でも何でもないんだからさ。何度も言ってるけど、僕は趣味で小説を書いているだけだからな。
ただ、そうとばかりも限らないぜ。最近は単純な悪役は減ってきている。悪役として描いておいて、視点を相手側に移してから実はお互い様だった、みたいな話とか、そうなってしまった事の悲しみを書くとか。文化相対主義に則ったような」
文化相対主義。
子供の頃、漠然と認識していた思想に文化相対主義という名前があると知ったのはいつの頃だっただろうか?
文化相対主義というのは、文化には優劣がないという思想だ。西洋文化が優れている訳でも、東洋文化が優れている訳でもない。それは何を基準にするかで決まってくる、相対的なものに過ぎない。そう捉える。
「でも、そんな話は面白くないだろう?」
「面白いからこそ問題なんだよ。僕はむしろその面白さの熱を醒ましやるような、そんな小説を書きたいし読ませたいんだ。
それに、ま、文化相対主義を無意識的にしろ受け入れている人達には、きっとそういう物語は響くと思うぜ。面白さってのも何を基準にするかで決まってくるからな。世の中をちゃんと真面目に考えている人には、むしろ単純な物語は物足りないかもしれない」
僕の言葉を受けると、ちょっと考えてからKは「ふん」と言った。
「一応断っておくと、文化相対主義は今の標準的な考え方だ。国際社会のな」
多分、文化相対主義という言葉すらKは知らないと思って僕はそう続けた。ただ、意味合いは説明しなくても字面からなんとなく察してくれるだろう。漢字文化って素敵だ。表意文字の利点は、こんなところにもある。僕はこの時、少し優越感を感じていた。多分これは、醜い思考に位置すべきものなのだろう。ところが、Kはそれから反撃してきたのだった。
「じゃあ、お前は、そういう話を作る為に悪役をどう描いたんだよ?」
その質問に僕は困った。先も書いたように僕の悪役の描き方には問題がある。僕が言ったようなものにはなっていない。
「だから、単純な悪役じゃなくてさ。なんて言うか、良いエピソードとかも入れたんだよ」
「結果がこれか? この、なんか焦点がぼやけたみたいな」
「まぁ、そうだ」
渋々ながら僕はそれを認めた。それは同時に自分の悪役の描き方には問題があると認める発言でもあった。
本当を言えば、悪役がどうしてそんな行動を執らなくちゃならなかったのか、その原因を含めての悲しい運命みたいなのを書くつもりでいたのだけど、そうすると物語のリズムやメインテーマがおかしくなってしまいそうだったので、止めたのだ。結果、なんだか悪役に関しては消化不良のようになってしまったのだった。
「お前の意図は分かったけどな。これじゃ、中途半端だ。読者にお前の意図は通じないぞ。少なくとも俺は分からなかった」
それは僕の書き方にだけ問題がある訳じゃない、とそう言おうと思ったけど、その言葉は飲み込んで僕はKの言葉をやっぱり認めた。すると、それから奴はこんな助言をし始めたのだった。
「そうだ。どうせなら、徹底的に読者を裏切るってのはどうだ?」
「読者を裏切る?」
「そうだよ。俺が分からなかったのは、中途半端だったからだ。でも、徹底的に読者を裏切るのだったら、流石に俺でも分かる」
それを聞いて僕は“なるほど”と思った。相変わらず、自分基準で考えるのは変わらないが一理はある。
「それは例えば、こんな感じのストーリーか? 主人公は相手の悪い情報ばかり知る。それで相手に悪役の役を担わせるのだけど、途中から違う情報も入る。結果、決して、相手が悪い点ばかりじゃないと知っていく…」
……帰納的思考というものがある。
これは集めた情報から、結論を導く思考だ。科学的思考の基本の一つでもあるのだけど、この思考には人間の特性を踏まえた場合、厄介な点がある。隠れた情報の存在を、人間は中々に疑えない。その所為で、今ある情報のみから物事を判断してしまい、結論を見誤る事がある。そして更に、この特性があるが為に、人々は情報操作によって容易に煽動されてしまうのだ。
例えば、どこかの民俗の悪い点ばかりを伝える。すると、それを知らされた人間達は、その民俗を悪い民族だと思い込むだろう。結果、それが虐待や戦争に繋がる。似たような方法は、もちろん歴史上、様々な場面で利用されてきた。この方法を利用して、悪役を演出する物語もたくさん存在する。
これを防ぐ為には、帰納的思考を行う場合に隠れた情報の可能性を考える習慣を身に付けさせる事だろう。本当にそれで情報が全て出されたのか、あるいは、その情報は都合よく脚色されていないか。相手が何を演出したがっているかを考え、疑ってかかる。
初めに提示した情報の足らない部分を後で知らせ、何かの認識を180度変えてやるような話を書けば、そのいい訓練になるかもしれない。
「……で、最終的には、相手を攻めていた自分達がそれを反省するような」
そう言い終えると、Kはそれを認めた。
「そうだな。それくらいやってくれれば、流石に俺だってこの物語で作者が何をやりたかったのかに気付く。
まぁ、面白いと評価するかどうかは分からないけどな。ただ、それだと既にもう悪役じゃないな。物語によっては、そんなのじゃ無理な場合もあるのじゃないか?」
「そうかもしれない」
僕はそう返してから考えた。
理想的なのは、悪役をやはり悪役のまま描いて、にも拘らず、読者に単純な認識を作らせないような方法だ。悪役だけど“悪”にしてはいけない、そんな。そして、そう考えながら僕はこんな独り言を言った。つい漏らしてしまったのだけど。
「それに、人間ってのは保守的なものだ。一度、作り上げた認識を護ろうと必死になる。情報を提示されていても、都合良くそれを無視してしまう」
その僕の独り言を聞くと、Kの奴はこう言った。
「ああ、認知的不協和か」
「え?」
その言葉に僕は驚く。
認知的不協和というのは、今までの自分の認識とは違った事実に直面した際に、人間が陥る葛藤状態を指す。大抵の人間は、これを乗り越えられずに、今までの自分の認識を護ってしまう。
まさか、Kがそんな言葉を知っているとは思っていなかった。なんだか、僕自身が軽い認知的不協和を起こしている感じだ。
「で、認知的不協和がどうかしたのか?」
それからKはそう質問をして来た。僕はこう返してみた。
「いやな、読んでいる人が、認知的不協和を乗り越えられるような、そんな話は作れないかな、と思ってさ」
「ほぅ」
それを聞くと、Kはそう声を上げて、それから続けて、
「なんだか悪役の描き方ってテーマからは反れて来た感じだな。文化相対主義に、認知的不協和か」
と、そう言った。
「そうでもないさ。悪役をどう描くのかってのは、物語の目的に大きく関係してくるのだから」
そう言ってから、僕はいつまで経っても変わらないだとか、人は愚かだとか言われながらも、それでも人間社会は少しずつ進歩しているのじゃないかとそう思った。今までここで語ってきた事を考えながら、気を付けて色々な作品を読んでみるといい(戦後から、既にそうした物語はある。手塚治虫とか)。実に多くの作者が、悪役の描き方に気を使っている事が分かるはずだ。もちろん、単純な話もまだまだたくさんあるのだけど。
「そうだな。もし、そういう話を作るのなら、手始めに、誤謬による隠蔽。それを引っ剥がすみたいな話が良いかもしれない」
僕が続けてそう言うと、Kはこんな質問をしてきた。
「なんだよ、“誤謬による隠蔽”って?」
流石に知らなかったらしい。というか、これは一般的な言葉じゃないから、知らなくても当然だろう。
「“分からない”としておけば、人はそれを調べようとするものだ。まぁ、好奇心がある生き物だからな。ところが、間違った事実が普及してしまったら、敢えてそれを調べようとはしなくなってしまう。そういうのを、“誤謬による隠蔽”って呼んでいる人がいるんだよ。
例えば、アリストテレスが、“重いものほど速く落ちる”とした事で、その事実を確かめる人が減ってしまった。結果、ガリレオの説が認められるまでは、誤った考えを人々は信じ込んでしまっていた訳だ。まぁ、いた事はいたらしいのだけどな、定説を覆すまでには至らなかった。最近では、長年信じられてきた傷の治療方法が、実は間違っていたなんてのがあるぞ」
僕が話し終えると、Kは少し呆れた口調でこんな事を言って来た。
「なんだか、お前は色々と厄介な事を考えながら話を書いているんだな。物語なんて面白ければ、それで良いじゃないか。そんな物語を書く事に、どんな意味があるんだよ?」
「意味ならあるさ。自分の認識を変える能力を多くの人が身に付けられれば、悲劇や不効率な点をなくせるんだ。今までの間違った治療方法を否定し、正しい傷の治療方法を多くの人が受け入れられるようになれば、それだけ苦しむ人が減るんだぜ。それに、それは医療コスト削減にも繋がる。今は医療財政がピンチだから、一般の人達の負担もそれで減るな」
僕はそう返しながら、Kの性格からしてこんな事を言われれば、悔しくて何か反論してくるだろうと思っていた。ところが、Kは反論はせず、代わりにこんな事を言って来たのだった。
「お前は、そんな感じで、社会の認識に影響を与えることこそが、物語の役割だと考えているのか?」
「そうさ。それこそが、本来の物語の役割。娯楽でも、芸術でも本質は変わらない。悪役の描き方の問題は、特にそれが色濃く現れる部分なのじゃないかと僕は思っている」
「でも、ただ面白いだけの物語も世の中にはたくさんあるぞ? しかも、そういう物語の方が人気があるんだ」
「そうかもしれないな。ただ、僕はそういう物語を敢えて否定したりはしないけど」
「どうしてだよ?」
「そういう物語が、世の中に悪影響を与えているという証拠なんて、少なくとも僕の立場じゃ集められないから。証拠がない事を、証明できたみたいに喧伝するような馬鹿は僕はしないよ。
それに、規制なんかしちゃったらしちゃったで、別の問題が発生するだろう」
その僕の言葉を聞くと、Kは少し面白そうな顔になった。
「ほーん。つまり、お前にとって、その認識はただの“信念”な訳だ。逆を言えば、お前の考えた話が世の中に良い影響を与えているかどうかも証明できないのだから」
「その通り。証明する事ができない、ただの信念さ。馬鹿にしてくれて構わないよ」
僕は本当にKは僕を馬鹿にすると思ってそう言った。“まるで、宗教だな。分からないのなら、ただ単に面白い話で良いじゃないか”くらい言われるのじゃないかと、そういう覚悟で。しかし、Kはそんな事は言わなかった。
「そうか。まぁ、がんばれよ。俺はそんな認識で物語を読む事なんかできないが、少なくともお前のそれを否定する気にはなれない」
僕はそれを聞いて少し驚いてしまった。話し始めた頃の態度とは、随分違っている。これは、今回の僕の話で、Kの認識が変わったって事だろうか?
そう思うと僕はなんだか少しだけ、嬉しくなってしまった。
こういうのも、一つの悪役の描き方かもしれない。
そんな訳で、僕は小説の中で悪役をあまり書かなかったり、重要な役割を担わせなかったりしています。が、悪役を積極的に利用すれば、帰納的思考(と固定概念)の問題点をより強調できるのになぁ とかは思ってたりして。
それは、あまりやっていません。
今後の課題の一つですねぇ…
そういうのを書くかどうかは分かりませんが、こういうメタ小説的なものとしては、これからも最低1回は取り上げるつもりでいます(実は一つ書きたかった事を書き忘れたので、それを書くためにまた触れるつもりなので)。