01:赤く染まったデスクトップ
「遠野、ひとつ訊いていいか」
「どうぞ。ただし、コーヒーの淹れ直しを要求するなら却下ですよ。今日の豆は真壁さんが一か月前にスーパーの安売りで買ったやつなんですから」
真壁修平は、手にしたマグカップから立ち上る薄い湯気をじっと見つめた。一口含んだ途端、顔のパーツが中央に寄る。
「豆のせいじゃなくて、お前の淹れ方の問題だと思うんだがな。なんで毎回、抽出時間が三分と三秒で正確なのに、麦茶より酸っぱくて泥より苦いコーヒーができるんだ?」
「科学の限界ですね」
「そりゃ科学じゃなくて、お前の大雑把さの証明だろ」
遠野志麻はキーボードを叩く手を止めることなく、素っ気なく返した。
ふたりが拠点を置く「さくら調査事務所」は、地方都市の寂れた駅前通り沿いにある、築三十年の雑居ビル三階にあった。
一階にはシャッターの降りた古書店。二階は半年前に夜逃げしたダンス教室。そして三階のこの部屋には、歪んだパイプ椅子が三脚と、スチール製の古い書類棚、そして二人が向き合って使う使い込まれた事務机が置かれている。窓の外からは、ときおり通り過ぎる路線バスの低い排気音が届いていた。
志麻は三十二歳。元は大手の生活家電メーカーでカスタマーサポートや品質管理の仕事をしていた。クレームの電話の奥にある「客が困っていること」や「隠そうとしている事実」を拾い上げるのが得意だったが、組織の人間関係や仕組みに馴染めず退職し、回り回ってこの事務所に転がり込んだ。
対する修平は三十五歳。かつて地元のローカル紙で記者をしていた男だ。足で稼ぐ取材能力と人当たりの良さは確かだったが、社内の政治劇に巻き込まれ、記事の揉み消しに反対して辞めたという経歴を持つ。
お世辞にも儲かっているとは言えなかった。
今月の主な収入は、近所のスーパーの駐車場で起きた接触事故の目撃者探しと、ある資産家の飼い猫がどこで昼寝をしているかの特定だけだ。
「で、真壁さん。さっきの『ひとつ訊いていいか』はコーヒーのことじゃないでしょ」
「ああ、そうだった」
修平はマグカップをデスクの端に置くと、腕を組んで志麻のPCモニターの裏側を指さした。
「お前のその画面、さっきからずっと真っ赤なんだが……新しい壁紙か何かか?」
「壁紙?」
志麻は首をかしげ、自分のノングレア液晶画面に視線を戻した。
確かに、一秒前まで表示されていた表計算ソフトの画面は消えていた。代わりに画面一面を覆っていたのは、禍々しい真っ赤な背景色と、その中央に巨大な白い文字で刻まれた英文と日本語だった。
『あなたのファイルはすべて暗号化されました』
「……何ですか、これ」
志麻の指がキーボードの上で止まる。
「『解読キーを入手するには、以下の指定口座に48時間以内に0.5ビットコインを振り込んでください。期限が過ぎた場合、復元は不可能になり、取得した機密データをインターネット上に無差別公開します』……だってよ」
修平がパイプ椅子を引きずって志麻の横に並び、画面を覗き込んだ。
「これって、アレか。ニュースでよくやってる……ランサムウェアってやつか?」
「みたいですね」
「嘘だろ。うちみたいな細々とやってる弱小探偵事務所を狙って、どうするんだよ。世界規模のサイバー犯罪組織が、家賃滞納ギリギリの事務所からビットコインを巻き上げようとしてるのか?」
「……そんなわけないじゃないですか」
志麻は冷静を装いながらも、マウスを叩くようにクリックした。しかし、画面上のポインタはピクリとも動かない。タスクマネージャーを起動しようとキーを打ち込んでも、赤背景の脅迫文が無機質に居座り続けるだけだった。
「とりあえず電源切るか? 長押しで落ちるだろ」
修平がPCの本体ケースに手を伸ばそうとする。
「待って、触らないで!」
志麻が咄嗟にその手を引っ叩いた。
「いって……! なんだよ、電源を切るくらい普通だろ?」
「無理に強制終了したら、暗号化が不完全な状態で停止して、二度と復元できなくなる可能性があります。それにメモリ上のログも消えるかもしれません」
「じゃあ、どうするんだよ? 言う通りに暗号資産なんて買えないぞ。うちの銀行残高、今いくらあるか知ってるか? 0.5ビットコインなんて、うちの二か月分の売り上げより高いんだぞ」
「わかってます。大声を出さないでください」
志麻は眉間を押さえ、深く息を吐き出した。
世界を救うために立ち上がるヒーローなら、ここで颯爽とハッキングを仕り返すのかもしれない。あるいは、闇の組織の陰謀に気づいて銃を取るのかもしれない。
だが、現実は違った。
ここにあるのは、期限の迫った家賃の請求書と、今週末までに納品しなければならない調査報告書のデータが入った、身動きの取れない一台のノートパソコンだけだ。
「……とりあえず専門家に相談するしかないですね」
「専門家って、警察か?」
「警察はもちろんですが……パソコンを物理的に直すなら、あの人を呼びましょう。ほら、半年前にうちのルーターが爆発しかけたときにお世話になった……」
「ああ、もみじネットレスキューの新城か。あいつならフットワーク軽いし、裏の事情も詮索しねえからちょうどいいな」
志麻はため息をつき、引き出しから個人のスマートフォンを取り出した。
「真壁さん、警察に電話してください。私は近所のITサポートの業者を調べますから」
そのとき、事務所の古いドアベルが、からんと間の抜けた音を立てて鳴った。
二人同時に振り返ると、磨りガラスのドアの向こうに、コートを着た女性のシルエットが立っていた。
「……依頼人か?」
修平が小声で囁く。
「このタイミングで?」
志麻も眉をひそめた。
真っ赤に染まったデスクトップ画面を隠すように、修平が咄嗟にノートPCの画面を半開きに倒す。
ドアが開くと、そこには少し疲れの見える三十代半ばの女性が立っていた。数日前に夫の素行調査を依頼してきた、地元の中小企業で経理をしている高橋美咲という女性だった。
「あの……すみません。先日の調査の件で、追加でお話したいことがあって……」
美咲は不安そうに事務所内を見回し、少しだけ伏し目がちに言った。
その視線が、一瞬だけ――修平が隠したノートパソコンの端末に走ったのを、志麻は見逃さなかった。
「どうぞ、お入りください。高橋さん」
修平がすぐに営業用の柔らかい笑顔を作り、丸椅子を引いた。美咲は軽く会釈をし、コートの裾を気にしながら腰を下ろした。手にした革のバッグを膝の上で強く握りしめている。
「お茶……は、あいにく切らしていまして。冷たいお水でよろしければ」
「あ、いえ、お構いなく。長居するつもりはありませんので」
美咲は控えめに断ると、ちらりと志麻のデスクに目をやった。志麻は倒したノートパソコンの脇に手帳を広げ、何事もなかったかのようにペンを走らせるフリをしている。
「先日の、夫の調査の件ですが……」
美咲が口を開いた。声音にはどこか躊躇いが混じっている。
美咲からの最初の依頼は三日前だった。地元の精密機械メーカーで営業職を務める夫が、最近帰宅が遅く、休日も出かけることが増えた。浮気を疑っているため、週末の行動を調査してほしいという、ごく一般的な内容だ。
「経過報告でしたら、現在データを整理しているところでして……」
修平が滑らかに言葉を繋ごうとした瞬間、美咲がそれを遮るように言った。
「あの、やっぱり……調査を取りやめていただくことはできますか?」
「キャンセル、ですか?」
修平が少しだけ目を丸くした。
「はい。私の勘違いだったみたいで。夫と話し合ったら、ただ仕事が込んでいるだけだったんです。疑って悪かったと思って……。着手金はお返しいただかなくて構いませんので、調査をここで終了にしていただきたいんです」
美咲の言葉は丁寧で、筋も通っていた。
浮気を疑って探偵事務所に駆け込んだものの、夫婦で話し合って誤解が解け、依頼を取り下げる――珍しい話ではない。着手金を返さなくていいというのなら、事務所としても損はないはずだった。
志麻はペンを置き、美咲の顔をじっと見つめた。美咲は視線を落とし、膝の上のバッグの持ち手を指先で繰り返し撫でている。
志麻が穏やかな声で呼びかけた。
「ご夫婦で話し合われたのですね。それは良かったです」
「ええ……お騒がせしてすみませんでした」
「念のため確認ですが、お使いになられた依頼申込書や、夫の行動パターンを書き留めたメモなど、こちらにお渡しいただいた資料のデータは、全て破棄あるいはご返却ということでよろしいですか?」
「あ……はい。データは、全部消去してください。できれば、今すぐに」
美咲の返答は即座だった。
「今すぐに、ですか?」
「ええ。個人的なことですし、残っているのも気持ちが悪いので……」
志麻は表情を変えずに頷いた。
「わかりました。ただ、申し訳ありません。ちょうど今、事務所のシステムメンテナンス中でして、ファイルの削除処理が明日以降になってしまうんです」
「メンテナンス……ですか?」
美咲の目の奥が一瞬、鋭く光った。彼女の視線が再び、半開きのノートPCへと向かう。
「はい。定期的なセキュリティチェックを行っていまして。完了次第、責任を持ってデータを消去し、完了通知をお送りします」
「そうですか……。では、よろしくお願いします」
美咲はどこか納得のいかない面持ちを残したまま立ち上がり、深々と辞儀をして事務所を去った。
ドアベルが鳴り、静寂が戻る。
「……遠野」
修平が半開きだったパソコンの画面を完全に閉じながら小声で言った。
「システムメンテナンスなんて、気の利いた嘘をつくじゃないか」
「メンテナンスが必要なのは事実でしょう? 画面が真っ赤なんですから」
志麻は腕を組み、美咲が座っていた丸椅子を見つめた。
「どう思います、真壁さん」
「どうって……旦那と仲直りしたからキャンセルしたい、よくある話じゃないか? 着手金も丸儲けだし、こっちとしては痛くも痒くもない」
「そうでしょうか」
「何が気になるんだよ」
志麻は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩いた。薄いカーテンの隙間から階下を見ると、美咲がコートの襟を立てて駅の方へ歩いていくのが見えた。
「彼女、三日前に来たときは『夫の携帯に知らない女性からの着信があった』って、具体的な日付と時間を手帳に細かく控えて持ってきていましたよね」
「ああ、マメな奥さんだと思ったよ」
「でも今日、彼女が持っていたバッグ、見覚えありますか?」
「は? バッグ?」
「三日前に来たときと同じ、焦げ茶色の革のトートバッグです。でも今日は、側面のポケットに小さなUSBメモリが差し込まれていました」
修平は首をかしげた。
「それがどうした? 経理の仕事をしてるなら、仕事用のUSBくらい持ち歩くだろ」
「あのUSBメモリ、先端が出たままだったんです」
志麻は振り返り、修平を見た。
「そして、先端の金属部分に小さな傷がついていました。あれは、頻繁に抜き差しされているか、古い端末に無理やり突っ込まれた跡です。……それに、彼女の今日の言葉の選び方です」
「言葉の選び方?」
「彼女は『夫と話し合ったら誤解が解けた』と言いました。でも、三日前の彼女は『夫は問い詰めても絶対に白状しない、嘘をつくのがうまい人だ』と言っていました。そんな人が、たった数日で素直に話し合いに応じると思いますか?」
修平は顎を擦りながら、うーんと唸った。
「まあ……女心の変化ってやつじゃないのか? 問い詰めてみたら案外あっさり認めて謝られたとか」
「それと、もうひとつ」
志麻はデスクの自分のパソコンを指さした。
「彼女は、部屋に入ってきた瞬間から、一度も私の顔を直視しませんでした。視線はずっと私のパソコンに向いていました。普通、依頼をキャンセルしに来た客なら、申し訳なさそうにこちらの顔を見るものでしょう? なぜ彼女は、最初から私のデスクを気にしていたのでしょうか?」
修平の表情から冗談めかした色が消えた。
「……お前、高橋さんがうちのパソコンの『赤』を知っていたとでも言いたいのか?」
「確証はありません。でも、タイミングが良すぎます。私たちがランサムウェアの感染に気づいた直後に、彼女がやってきて『データを今すぐ消してくれ』と言いました。まるで、データが二度と開けない状態になっているか、あるいはネットに流出するのを恐れているかのようです」
そのとき、事務所の古いドアベルが、からんと間の抜けた音を立てて鳴った。
「お邪魔しまーす! いやぁ、警察のサイバー窓口から連絡もらったけど、また派手にやらかしたね、さくら調査事務所さん!」
軽快な足音とともに飛び込んできたのは、キャップを目深にかぶった二十代前半の青年――『もみじネットレスキュー』の作業員・新城だった。
「助かったぞ、新城。うちの命綱が赤信号点滅中でな」
修平がやれやれといった顔でコーヒーの空き缶を机の端に寄せた。
「毎度あり! ……って、うわ、ゴリゴリのランサムウェアじゃないですかー。最近増えてて困ってるんですよね。……あれ、んー、なんか変だな」
新城が首をかしげた。
「何が変なんですか?」
志麻が身を乗り出す。
「いや、この手のランサムウェアって、通常は不特定のメールの添付ファイルを開かせたり、セキュリティの脆弱性をついてネットワーク経由で自動拡散されるんです。でも、このPCのネットワーク接続ログ、今朝の8時まで切れてますよね? 有線LANも抜けてるし、Wi-FiもOFFになってる」
「ええ。昨日の夜、退社するときにWi-Fiルーターの電源を切っていきました」
志麻が答える。
新城はPCの側面を覗き込み、SDカードスロットやUSBポートを凝視した。
「じゃあ、ネット経由の感染じゃないです。今朝、誰かがこのPCに『直接』感染源となるUSBか何かを挿し込んだか、昨日のうちに仕込まれてタイマーで発動したか……物理的なアクセスによる感染ですよ、これ」
事務所内に、冷たい静けさが広がった。志麻と修平は目を見合わせた。
施錠されていたはずの探偵事務所。外部からの物理的な侵入。そして、つい先ほど「データを今すぐ消してほしい」と訪れた依頼人。
「……真壁さん」
志麻が静かに言った。
「あの奥さんの周辺を洗ったほうがよさそうですね」
◇
「物理侵入ねえ……」
もみじネットレスキューの新城が手際よく外付けHDDを接続し、ログデータの抽出作業を開始する横で、修平はドアの鍵穴をまじまじと観察していた。
「サムターン回しやピッキングの痕跡はないな。ドアの枠にもバールをこじ入れたような傷はない。……遠野、昨日の夜、鍵閉めたよな?」
「失礼な。鍵の締め忘れなんて一度もないですよ。最後にオフィスを出たのは私で、間違いなく二重ロックを掛けました」
志麻はデスクの袖引き出しから、事務所の予備鍵を保管している小箱を取り出した。中のキーリングには、予備の鍵が二本、変わらず収まっている。
「鍵を持っているのは、私と真壁さん。あとはビルのオーナーのビル管理会社だけです」
「オーナーの爺さんは先週から腰を痛めて入院中だ。管理会社の担当者も、わざわざ深夜に忍び込んで探偵事務所のパソコンにランサムウェアを仕込む理由がない」
新城が作業の手を止めずに言った。
「あのー、鍵がなくても入れる方法ってありますよ? たとえば、昨日のお昼とか夕方、お二人がちょっと席を外した隙に……とか」
「昨日の午後は……」
志麻は記憶をたどった。
「私が14時から16時まで近所の法務局に行っていて、その間、修平さんが留守番をしていたはずですけど」
「俺か?」
修平は首を捻った。
「いや、俺も15時前後に一階のコンビニへタバコと缶コーヒーを買いに行ったぞ。……でも、5分か10分程度だ。鍵も閉めて出たはずだし」
「『はず』?」
志麻の目が鋭くなる。
「いや、閉めたと思うが……まあ、目と鼻の先のコンビニだし、すぐ戻るつもりだったからな。もしかしたらオートロックじゃないから、うっかり掛け忘れた可能性もゼロとは言えない……」
「真壁さん!」
「悪かった! 誰もこんな場末の雑居ビルに侵入者が来るなんて思わないだろ!」
「とにかく」
志麻は深く息を吐き出し、冷静さを取り戻そうとした。
「仮説を整理しましょう。侵入者がいつ入ったにせよ、目的は『このパソコンにランサムウェアを仕込むこと』だった。そして、その直後に高橋美咲がやってきて、調査のキャンセルと『データの即時消去』を要求しました」
「でも、矛盾がないか?」
修平が腕を組んだ。
「高橋さんが真犯人だとして、なんでわざわざ自分でパソコンを壊すんだ? データを消してほしいなら、普通にキャンセルして『消してください』って言えば済む話だろ。身代金目的のサイバー攻撃を装う意味がわからない」
新城がキーボードをカタカタと叩きながら、助け舟を出した。
「あの、技術的な観点から言うと……ランサムウェアにかかると、ファイルは『暗号化』されます。でも、暗号化されるってことは、元データは消滅したわけじゃなくて、適切な鍵(復号キー)さえあれば元に戻せる状態なんです。本当にデータを痕跡ごと消したいなら、物理的にHDDを破壊するか、専用の消去ソフトを使うはずですよ」
志麻と修平は顔を見合わせた。
「なるほど……」
志麻の頭の中で、パズルのピースが組み合わさり始める。
「美咲の目的は、データの『消去』ではなく『封印』だったのかもしれません」
「封印?」
「もし彼女が、うちの事務所に保存されている『夫の調査データ』を第三者に読まれたくない、あるいは警察や他の誰かに渡されたくない状況になったとしたら? でも、自分でデータを盗み出したり消去したりする技術も時間もありません。だから、パソコンごと使えない状態にして、アクセス不可能にしたのかもしれません……」
「ちょっと待て」
修平が制した。
「彼女が依頼してきたのは『夫の素行調査』だぞ? なんで彼女自分が頼んだ調査データを、自分から封印しなきゃならないんだ? 辻褄が合わないだろ」
「そこです」
志麻はペンを指先で回した。
「最初の前提が間違っていたんです。彼女が調査を依頼してきた『本当の理由』は何だったのでしょうか」
「……よし、俺が洗ってくる」
修平はパイプ椅子から立ち上がり、上着を羽織った。
「高橋さんの旦那が勤めている会社――『ミナト精密工業』だったな。元記者の伝手を辿って、旦那の周辺で何かトラブルが起きていないか探ってみる。それと、高橋さん自身のここ数日の動向もな」
「頼みますね。私は新城さんと一緒に、このパソコンから救出できるログがないか探ってみます」
修平が事務所を飛び出していった。
窓の外が茜色から濃い群青色へと変わり始める頃、修平が缶コーヒーを二つ買って戻ってきた。
「遠野、ビンゴだ」
修平はコーヒーを志麻のデスクに置くと、興奮気味に身を乗り出した。
「ミナト精密工業で、今朝から大騒ぎが起きてる。経理部で『社内データの流出疑惑』が持ち上がってるんだ」
「データ流出?」
「ああ。半年前からの帳簿データの一部と、新規事業の顧客リストが外部に持ち出された可能性があるらしくてな。で、その内部調査の責任者が……高橋美咲の旦那、高橋和彦営業課長だ」
志麻の目が細められた。
「待ってください。夫の和彦氏が『流出を調べる側』なんですか?」
「そうだ。で、ここからが面白いところなんだが……流出の容疑がかけられているのは、先週突如として無断欠勤の末に退職した、経理部の元社員――若手男性の『佐藤』って奴だ」
「佐藤……」
「そして、高橋さんが三日前にうちに持ってきて『夫の浮気相手の連絡先かもしれない』と言って差し出したメモにあった電話番号。あれ、俺が裏を取ったら……その退職した佐藤の携帯番号だったんだよ」
志麻は息をのんだ。
「高橋美咲は、夫の浮気調査を依頼したのではありません……。夫ではなく、経理部の元同僚である『佐藤』を追っていたのです」
「そういうことだ。彼女は探偵事務所の『人探し』や『素行調査』のノウハウを利用して、姿を消した佐藤の居場所や、彼が持っていったデータの行方を探らせようとしたんだ。……だが、途中で事態が変わった」
「どう変わったんですか?」
「佐藤が持ち出したとされるデータの中に、実は『会社にとって決定的な不正の証拠』が含まれていたとしたら?」
修平は声をひそめた。
「そして、その不正に関わっていたのが……佐藤ではなく、調査責任者である高橋さんの夫、和彦の方だとしたらどうだ?」
志麻は腕を組み、深く思考の海に沈み込んだ。
(ミナト精密工業の不正。姿を消した元社員・佐藤。調査を仕掛けた妻・美咲。そして、突如として赤く染まった事務所のパソコン……)
「新城さん」
志麻が振り返った。
「パソコンのログ解析、何か分かりました?」
作業を続けていた新城が、疲れた顔を上げた。
「遠野さん、面白いことが分かりましたよ。このランサムウェア『DarkCrypt』、感染を実行するためのバッチファイルが作成されたタイムスタンプが残ってました。……昨日の午後3時15分です」
「午後3時15分……!」
志麻と修平の視線が交差した。
修平がコンビニへタバコを買いに行き、事務所をほんの10分間ほど留守にした、まさにその時間帯だった。
「やっぱり、鍵が掛かっていなかった隙に入られたんだ……」
修平が悔しそうに顔を歪める。
「いいえ」
志麻は静かに首を振った。
「犯人は、鍵を開けて入ったのではありません」
「あ?」
「新城さん、そのバッチファイルが実行されたとき、USBメモリ等の外部デバイスが接続された記録はありますか?」
「それが……ないんです」
新城は不思議そうに首をひねった。
「USBの接続ログがない。代わりに、リモートデスクトップのローカル接続ログが、一瞬だけ残ってるんです。つまり――」
「同じネットワーク内(LAN内)にある、別の端末から遠隔操作で実行された」
志麻が言葉を継ぎ、修平が目を見開く。
「同じネットワークって……うちの事務所のWi-Fiに接続した奴がいたってことか!?」
「はい。昨日の午後3時15分。事務所のすぐ近く――たとえば、このビルの階段踊り場や、一階の古書店の前あたりから、うちの暗号化されていない古いWi-Fiルーターに接続し、パソコンを遠隔操作してランサムウェアを実行した」
志麻はデスクの立ち上げっぱなしのメモ帳に、ペンで大きく丸を描いた。
「侵入者は、部屋の中には入っていない。だから鍵の傷も痕跡もなかった。……そして、うちの事務所のWi-Fiパスワードを知り得る人物は、ごく限られています」
「誰だ……?」
「三日前、初回の相談に来たとき、『スマホの電波が悪いのでWi-Fiのパスワードを教えてほしい』と言って、壁の貼り紙を写真に撮っていった人物――高橋美咲です」
「高橋美咲が、Wi-Fi経由で……?」
修平は唖然として、壁に貼られた手書きのWi-Fiパスワード(sakura_guest_2020 という無防備極まりない初期設定のままのもの)を見上げた。
「待てよ、遠野。高橋さんは普通の主婦で、中小企業の経理だぞ? そんな遠隔操作でランサムウェアを実行するようなクラッキング技術なんてあるのか?」
「彼女自身に技術がなかったとしても、ツールや知識を提供する人間が他にいたとしたら?」
志麻は顎に手を当てて考え込んだ。
「さっき新城さんが言いましたよね。『DarkCrypt』はネット上に流通しているランサムウェアの亜種だって。知識さえあれば、ダークウェブや掲示板で入手したスクリプトを使って、ローカルネットワーク経由で実行することは素人でも不可能じゃない」
「でも、なんでそこまでして……」
「新城さん」
志麻はパソコンに向き直った。
「このランサムウェア、暗号化されたターゲットのフォルダの中に、ひとつだけ『暗号化を免れているファイル』か、あるいは『後から追加されたファイル』はありませんか?」
新城は手元でキーボードを高速で叩き、ログとディレクトリ構造を照合した。
「……あります! 脅迫文が置かれているCドライブのルートディレクトリに、ひとつだけ暗号化されていない小さなテキストファイルがあります。『read_me_first.txt』じゃなくて……『to_sakura.txt』というファイル名です!」
「開いてみてください」
新城がテキストエディタでファイルを開くと、黒い画面に短い一文だけが表示された。
『これ以上、佐藤を追うな。データを警察に渡せば、高橋和彦もタダでは済まない。』
事務所の中に沈黙が落とされた。修平が深くため息をつき、頭を抱えた。
「やっぱりそうか……。美咲は、夫の不正を隠したかったんじゃない。夫を守ろうとしていたんだ」
「どういうことですか、真壁さん」
「今日、ミナト精密工業の近くで聞き込んだとき、妙な噂を聞いたんだよ。消えた若手社員の佐藤は、経理部で高橋さんの後輩にあたる男だった。佐藤は真面目だが押しが弱く、上層部の不正経理に気づいて悩んでいたらしい」
修平は煙草の箱をポケットから取り出し、思い直したようにデスクに置いた。
「一方、高橋さんの夫・和彦は、営業課長として会社のために無茶な売り上げ目標を背負わされていた。……で、会社を倒産させないために、一時的に粉飾決済に手を染めてしまったらしい。佐藤はその証拠となる裏帳簿データをUSBメモリにコピーして持ち出し、会社を告発しようと逃亡した」
「……なるほど」
志麻の目が鋭さを増す。
「美咲はそれに気づいたんです。夫が破滅するのを防ぐために、佐藤が逃げ込む前に先回りして裏帳簿を取り戻そうとした。あるいは、佐藤の居場所を特定して話し合おうとした。だから探偵である私たちに『夫の浮気調査』と偽って、佐藤の追跡を依頼したんですね」
「だが、調査を進めるうちに、美咲は気づいてしまった」
修平が言葉を継ぐ。
「佐藤が持っているデータが公になれば、夫は確実に逮捕される。そして、探偵事務所のパソコンにそのデータがバックアップされたり、報告書として警察や第三者の目に触れるリスクが出てきた」
「だから、彼女は慌てて行動に移した」
志麻は椅子から立ち上がり、窓の外の街灯を見つめた。
「彼女は専門知識のある何者か――おそらく、姿を消した佐藤本人か、あるいはネットの悪質な相談相手にそそのかされた。『探偵事務所のPCを暗号化して使えなくすれば、調査データも封印できる』と。彼女の目的は身代金ではありません。時間を稼ぎ、私たちが警察や会社に情報を渡せないようにすることだったんです」
「善意……いや、夫を守りたいという一心でやったことが、とんでもないサイバー犯罪への加害になっちまったわけだ」
修平は苦い顔をした。
「美咲のついた嘘は、悪意から生まれたものではありません。保身と、家族を守りたいという愛情です。……でも、だからといって、私たちの事務所のパソコンを壊していい理由にはなりません」
志麻は新城を振り返った。
「新城さん。この『to_sakura.txt』の作成日時と、Wi-Fiの接続IPから、彼女がどこからこの操作を行ったか特定できますか?」
「できますよ。Wi-Fiの電波強度(RSSI)のログが残っています。非常に強い電波でしたから……このビルのすぐ下、1階の古書店横の路地裏か、あるいは2階の階段踊り場ですね。そして……」
新城は画面を指さした。
「このテキストファイル、作成時のユーザーアカウント名が残ってます。『MISAKI-LAPTOP』……彼女、自分のノートPCからうちのWi-Fiに繋いで操作してますよ。証拠は丸見えです」
「素人仕事だな……」
修平が呟いた。
「ええ。完全な犯罪者になりきれない、追い詰められた人間の足跡ですね」
志麻は上着を手にとった。
「どこへ行くんだ、遠野?」
「高橋さんのところに行きます。彼女はまだ近くにいるはずです。今日、うちの事務所に来て『キャンセル』を申し出たのは、ランサムウェアを実行したものの、罪悪感と恐怖に耐え切れなくなったからでしょう。彼女自身、どうしていいか分からなくなっているんじゃないでしょうか」
「……よし、俺も行く」
修平が立ち上がる。
「新城さん、パソコンの復旧作業はこのまま続けられます?」
「任せてください! 感染経路がローカルの単純なスクリプト実行なら、バックアップ領域から復元できる可能性が高いです。数時間もあれば、赤画面を消してみせますよ!」
「頼りにしてます」
志麻と修平は、夜の帳が下りた駅前の雑居ビルを後にした。駅前の商店街は、街灯の薄明るい光と、閉店作業を進める店のシャッター音に包まれていた。
志麻と修平は、事務所から徒歩十五分ほどの場所にある小さなファミリーレストランに向かった。窓際の席に、手つかずのコーヒーを前にして所在なげに座っている美咲の姿があった。
「高橋さん」
志麻が声をかけると、美咲は肩を跳ねさせ、顔を上げた。その目は赤く腫れ、疲弊しきっていた。
「遠野さん……真壁さん……」
「お隣、よろしいですか」
修平が対面のソファ席に腰掛け、志麻もその隣に座った。
「探しましたよ。事務所を出たあと、駅の方へ戻るでもなく、このあたりを歩いていらっしゃったので」
修平が努めて静かなトーンで話しかける。美咲は唇を噛みしめ、深くうなだれた。
「……パソコンのこと、気づかれたんですね」
「ええ」
志麻は穏やかな声で答えた。
「あなたがうちのWi-Fiを使って、事務所のノートパソコンにランサムウェアを実行したこと。そして、『これ以上佐藤さんを追うな』というメッセージを残したことも」
美咲の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。彼女はテーブルの上に置いた自分の両手を固く組み合わせて、指先を強く握りしめた。
「すみません……本当に、すみません……。私、どうしたらいいか分からなくなって……。夫を守らなきゃって、そればかり考えていて……」
「旦那さんの和彦さんが、会社の粉飾決済に関わっていたんですね」
修平が訊ねた。美咲は小さく頷いた。
「和彦は……真面目な人なんです。でも、上の人に押しつけられて、会社を倒産させないために仕方なく手を染めてしまった。佐藤君は経理の後輩で、私の教え子みたいな子でした。彼が裏帳簿を持ち出して会社から消えたとき、私は佐藤君が警察に行くのを止めようとしたんです。和彦が逮捕されたら、私たちの生活も、家族も全部壊れてしまうから……」
美咲は言葉を詰まらせながら続けた。
「でも、佐藤君と連絡がつかなくなって、焦って探偵事務所に頼みました。でも……探偵さんに佐藤君の居場所を突き止めさせたら、それが引き金になって警察に知られるんじゃないかと、後から怖くなって……。ネットで調べたら、パソコンを暗号化すればデータが見られなくなるって書いてあって……」
「知人のIT知識のある誰かに相談したんじゃないのね?」
志麻が確認する。
「違います……ネットの掲示板で教えてもらった暗号化プログラムを、言われた通りに実行しただけです。でも、いざやったら恐ろしくなって……今日、事務所に行ってキャンセルしようとしたんです。でも、もう遅くて……」
志麻は静かに胸の内で息を吐いた。
世界を滅ぼすような悪党の陰謀でもなければ、複雑な国際サイバー組織の犯罪でもない。そこにあったのは、追い詰められた一人の人間が、家族を守りたい一心でついた嘘と、行動だった。
「高橋さん」
志麻はまっすぐ美咲を見つめた。
「あなたが和彦さんを想う気持ちは理解できます。でも、他人のパソコンを壊し、嘘を重ねて問題を先送りしても、何も解決しません。和彦さんの罪も、佐藤さんの告発も、消えてなくなるわけではないんです」
「はい……わかっています……」
「佐藤さんは、和彦さんを破滅させたいわけではないと思いますよ」
修平が口挟んだ。
「俺が今日集めた情報だと、佐藤さんは会社の上層部に自首を促すために動いている節がある。和彦さんが自ら罪を認め、捜査に協力すれば、執行猶予がつく可能性もある。だが、このまま隠蔽を続ければ、手遅れになります」
美咲は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
「どうすれば……どうすればいいんですか……」
「明日、和彦さんと一緒に警察か、自首に付き添ってくれる弁護士のところへ行ってください」
志麻ははっきりと言った。
「そして、うちの事務所のパソコンを破壊した件については、警察の調査が終わったあと、正式に損害賠償と修理代を請求させていただきます」
「……本当に、申し訳ありませんでした……」
美咲はテーブルに頭を低く下げ、何度も謝罪を繰り返した。
翌日の午後。さくら調査事務所の入り口のドアを開けると、新城が笑顔でVサインを作っていた。
「遠野さん、真壁さん! 復旧完了しましたよ!」
ノートパソコンの画面には、いつもの見慣れたデスクトップ壁紙と、整然と並んだ業務用フォルダが表示されていた。あの忌々しい真っ赤な警告文は綺麗に消え去っている。
「おお、すげえ! 直ったのか!」
修平が歓声をあげた。
「ええ、ローカルで書き換えられたレジストリと一時実行ファイルを隔離して、バックアップ領域から復元しました。データも破損していません!」
新城が得意気に胸を張る。
「ただし、セキュリティ対策はガタガタですから、Wi-Fiのパスワード変更とセキュリティソフトの導入は必須ですよ」
「助かりました、新城さん。ありがとう」
志麻は心から胸をなでおろした。
「で、作業代金なんですけど……特別値引きで、出張費込み三万八千円になります」
新城が笑顔で差し出した見積書を見て、修平の顔が再び引きつった。
「さ、三万八千円……! 遠野、今月の事務所の残高、いくらだった?」
「確か……四万二千円くらい」
「支払ったら残りが四千円じゃねえか! 今週末の家賃はどうするんだよ!」
「高橋さんへの損害賠償請求が通るまでは、自腹で立て替えるしかないでしょう」
志麻は冷静に真壁の財布を取り出した。
「それに、まずはパソコンが直ったんだから良しとしましょう」
新城に代金を支払って見送ったあと、事務所には再び、いつもの静けさが戻ってきた。修平はパイプ椅子に深く沈み込み、天を見上げた。
「はあ……一時はどうなることかと思ったぜ。サイバー攻撃だの不正経理だの、柄にもない事件に巻き込まれて、残ったのは四千円か」
「でも、真相はわかりました」
志麻は自分のデスクに座り、コーヒーカップに手を伸ばした。
「まあな。高橋の旦那も、今日の午前中に弁護士を連れて自首したらしい。佐藤って奴も警察に証拠を提出したそうだ。……これで少しは、マシな方向に向かうといいんだがな」
志麻が「そうですね」と返し、二人はマグカップに口をつけた。案の定、相変わらず麦茶より酸っぱくて泥より苦い味が広がる。
修平が苦い顔のままカップをソーサーに置いた。
「……遠野」
「何ですか?」
「やっぱりお前の淹れるコーヒー、激マズだわ」
「文句があるなら、自分で淹れればいいでしょう」
ふたりは顔を見合わせ、どちらからともなく小さく吹き出した。
事件がひとつ解決しても、劇的に生活が裕福になるわけではない。家賃の支払いは迫っているし、冷めたコーヒーはまずいまま。明日になればまた、猫探しや浮気調査のような泥臭い依頼が舞い込んでくるだろう。
それでも、世界を救うほどの力を持たない二人の探偵は、壊れたパソコンを直し、今日を生き、明日もまたこの小さな事務所で仕事を続けていくのだ。
おのれ、ランサムウェアと思いながら書きました。最初は架空の警察VSランサムウェアだったのですが、どんどん私の趣味の国家陰謀論に寄って行ってしまい、探偵ものになりました。




