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第15話 再起

『入ってはいけない森』――陽だまりの村の大人たちが、昔から子供たちにそう言い含めてきた禁忌の領域。

 その名の通り、森に一歩足を踏み入れた瞬間から、外の穏やかな空気は嘘のように途絶えた。見上げるほどに高く太い古樹が幾重にも重なり合い、枝葉が天蓋のように空を覆い隠している。まだ昼下がりだというのに、森の中は夕闇をさらに深く飲み込んだような薄暗さに包まれており、足を踏み出すたびに腐葉土と湿った苔の匂いが鼻腔を突いた。

 普段は静寂に包まれているはずのその森は、今や、大気をビリビリと震わせるほどの禍々しい殺気と、むせ返るような獣の臭いで満たされていた。

「……いたっ! レン!」

 息を切らして森を駆け抜けてきたセラの声が、薄暗い空間に響き渡る。

 視線の先、苔むした巨大な倒木が形作るわずかな空洞の下で、五、六人の子供たちが身を寄せ合うようにして震えていた。その中心で、一番年上のレンが、小さな弟分たちを庇うように両手を広げて立っている。

「セラお兄ちゃん……! マリーお姉ちゃん……っ!」

 セラの声に弾かれたように顔を上げたレンの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。必死に強がっていた小さな心が、安心感から一気に決壊したのだ。

 だが、駆け寄ろうとしたセラの足が、ピタリと止まる。

 子供たちを囲い込むようにして、暗闇の中に無数の『赤い目』が、ゆらり、ゆらりと浮かび上がっていたのだ。

 一つ、二つではない。十、二十……いや、三十は優に超えている。

 暗がりから姿を現したのは、大人の背丈ほどもある巨大な漆黒の獣たち――凶暴な魔物として知られる『フォレストウルフ』の群れだった。

 本来、王都周辺の森にこれほどの規模の群れが現れることなどあり得ない。飢えに血走った赤い眼球が、ギラギラと獲物を品定めするように子供たちとセラたちを睨み据えている。顎から滴る粘着質なよだれが、ジュウ、と嫌な音を立てて枯れ葉を焦がしていた。

 一匹の巨大な個体が、喉の奥でゴロロロ……と低い音を鳴らす。それが合図だったかのように、呼応した無数の唸り声が四方八方から木霊し、森全体が揺れるような錯覚に陥る。

「……ッ、なんて数なの……」

 セラの後ろに追いついたマリーが、緊迫した光景を前に鋭く息を呑んだ。歴戦の冒険者である彼女でさえ、この数のフォレストウルフを一度に相手にするのは骨が折れる。彼女は咄嗟に腰のレイピアに手を伸ばした。

「マリー、子供たちをお願い。ここは、僕が食い止める」

 だが、マリーが前に出るよりも早く、静かな、けれど有無を言わせない力強さを持った声が響いた。

 ハッとして振り返ったマリーの瞳に映ったのは、真っ直ぐに前を見据えるセラの背中だった。

「セラ……」

 マリーの声には、深い憂いと心配が滲んでいた。

 彼女はSランクパーティーの元サブリーダーとして、セラの規格外の剣技を誰よりもよく知っている。彼の実力をもってすれば、この程度の群れを散らすことは不可能ではない。

 だが、彼はこの半年間、一度として武器に触れようとしなかった。心に深い傷を負い、剣を握ることすら避けてきたのだ。そのブランクと、何より彼の精神状態が気がかりだった。

 セラは急いで背負ってきた古びた麻の布袋をゆっくりと肩から下ろした。

 カチャリ、と硬い金属音が鳴る。

 結び目を解き、中から取り出したのは、一本の剣だった。

 有名な工房のブランド刻印があるわけでも、魔術の力を宿した華美な装飾が施されているわけでもない、ごくありふれた無銘の長剣。

 柄の革はすり減り、使い込まれた痕跡がそこかしこに残っている。

 けれど、鞘から抜かれた瞬間に放たれた冷徹な銀色の輝きは、それがただの鈍らなどではないことを静かに証明していた。

(……結局、これだけは捨てられなかったな)

 冷たい柄の感触が右手に馴染んだ瞬間、セラの脳裏に、あの日――【正義の剣】を結成した日の記憶が鮮烈に蘇った。

 孤児院『木漏れ日の家』を出て、冒険者として生きていくと決めた日。

 まだ何者でもなく、ギルドの最底辺だった自分とクリスが、なけなしの貯金を叩いてお揃いで買った唯一の贅沢品。

『いいかセラ。今はこんな鉄くずみたいな無銘の剣だ。だけど俺は、絶対にこいつで魔王を討つ。この剣で、すべての悲劇を終わらせるんだ』

 夕陽に照らされた路地裏で、自分とお揃いの剣を握り締め、真っ直ぐな瞳で決意を語っていた親友の横顔。

 彼には、揺るぎない覚悟と圧倒的な才能があった。異例のスピードでSランクへと上り詰めていくクリスと【正義の剣】の仲間たち。

 その中で、ただ一人魔術も使えない自分だけが、確実に置いていかれた気がしていた。

 親友に裏切られたなんて、一度だって思ったことはない。クリスは何も悪くないのだ。

 ただ純粋に、自分の力が足りなかっただけ。

 魔王を倒すという彼の悲痛なまでの悲願の前に、ただ剣を振ることしかできない自分は、いずれ足手まといになる。その事実が、たまらなく惨めで、申し訳なくて、セラの胸の奥を抉り続けていた。

 クリスの隣に立つ資格はない。だから、剣を置いた。

 けれど――。

 目の前で震える子供たちの姿を見た瞬間、セラの胸を満たしていたのは、己の無力さへの嘆きでも、過去への未練でもなかった。

「……お待たせ、レン。もう、大丈夫だよ」

 振り返り、怯える子供たちに向けて、セラは優しく微笑んだ。

 それは、かつて『優しき刃』と呼ばれた少年が、自分以外の誰かを守るためにだけ見せる、絶対的な安心感を与える笑顔だった。

 クリスの悲願を支えることはできなかった。でも、目の前の小さな命を守ることなら、今の自分にもできる。

 セラが再びウルフの群れへと向き直った瞬間。

 その纏う空気が、劇的に変貌した。

「グルルルルッ……!!」

 セラの変化を本能で察知したのか、群れの先頭にいた三匹のフォレストウルフが、一斉に地面を蹴って飛びかかってきた。鋭い爪と牙が、容赦なくセラの喉元へと迫る。

「セラッ! 気を付けて!」

 マリーの鋭い声が飛ぶ。ブランクのある彼が、かつてのような動きを取り戻せているのか。

 だが。

 セラは剣を真っ直ぐに、自然体で構えたまま、まるで散歩でもするかのように、スッと一歩だけ前に踏み出した。

 半年間のブランクなど、本当に微塵も感じさせない。

 鍬を握って培った足腰のバネ。薪割りで鍛え直された体幹のブレのなさ。

 ただ剣を置いていたわけではない。この村での素朴な生活すべてが、彼の基礎をさらに強固なものにしていたのだ。

「――シッ」

 鋭い呼気とともに、セラの姿がブレた。

 襲いかかってきた先頭のウルフが、セラの身体を捉えるよりも早く。

 下段からすくい上げるように放たれた銀の閃光が、夕闇の森を文字通り「切り裂いた」。

 ドサリ、ドサリ、ドサリ。

 時間差で、三つの重い音が腐葉土の地面に響く。

 先頭を飛んでいた三匹のフォレストウルフの首が、全く同じ瞬間に、綺麗に胴体から切断されて転がっていた。

 血しぶきが舞う中、セラはすでに残心を取り、血の一滴すらついていない白銀の刃を静かに下段へと戻していた。

「……ふふっ」

 その後ろ姿を見て、マリーは小さく、安堵の吐息をこぼして微笑んだ。

 驚きはない。かつて共に死線を潜り抜けた大切な弟分の、全く錆びついていない背中への、確かな信頼だけがそこにあった。

 一瞬の静寂。

 仲間が瞬きする間に首を落とされた事実を理解し、あれほど狂暴に唸り声を上げていた群れ全体が、本能的な恐怖に支配されてジリッと後ずさる。

 一撃。

 たった一撃の剣閃が、森を支配していた禍々しい殺気を完全に塗り替えてしまった。

「……来ないなら、こちらから行くよ」

 感情の読めない低い声とともに、セラが地を蹴る。

 己の無力さを呪い、一度はすべてを諦めた『優しき刃』が、大切な者たちの明日を護るため、再び剣を手にした完全なる『再起』の瞬間だった。


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