婚約者は妹のような幼馴染みを何より大切にしているので、お飾り妻予定な令嬢は幸せになることを諦めた……はずでした。
「まあ……あの方って、貴方の婚約者ではなくて……?」
お茶会の途中、扇で口を隠してこっそりと私に尋ねた彼女が、視線を向けた方向を見た。
その光景を見れば、私へと言いづらくなる気持ちは理解出来る。
私の婚約者の隣には、うら若き愛らしい女性がベッタリと張り付いて……いえ。右腕にしがみ付き、まるでこの男性は自分が所有していると言わんばかり。
……ああ。この方はあまり顔を見ない方だから、デイジーのことを知らなかったのね。
「ええ。確かに親同士がとり決めた、私の婚約者ですわね」
私は彼女の問いに対し、感情を見せずに頷いた。彼女が言いたいことは、私本人にも痛いくらいにわかっていることだ。
あんな……とんでもない光景を見れば、誰しも思ってしまうはずだ。
今は婚約者同士かもしれないけれど、いつ彼女の方が良いから婚約解消したいと言い出すはわからない……と。
私と彼女がヒソヒソと小声で何を話しているのか察したのか、円形テーブルに座る周囲は、なんだか気まずい空気になった。
私が悪いわけでもないけれど。
クレイヴン公爵家の長男セシル・クレイヴンには妹のような幼馴染みデイジー・ティアニーが居て、婚約者である私アイリーン・リンスコットのことなんて居ないものとして扱っている。
だから、誰しも思うだろう疑問はこれなのだ。
『自分の婚約者の隣にあのような親しげに振る舞う女性が居て、貴女はどうして平気そうにしているの?』
……大丈夫かと言われれば、もちろん大丈夫ではない。大丈夫ではない。婚約者に蔑ろにされて、傷ついているかと問われればその通り。
いっそ何もかも……私たちの関係のすべてを、なかったことにしてしまえれば楽なのに。
婚約者セシルとは何度も何度も、話し合ったことはある。私が貴方の婚約者なのだから、別の女性を近づけて欲しくはないのだと。
けれど、話は平行線のままで終わってしまう。
私の言い分としては、せめて公式な場所だけでもデイジーを伴うのは止めて欲しいとお願いした。
セシルにべったりと張り付いているデイジーを見た周囲が、どんな事を考えるか容易に想像出来るはずなのだから。
私の主張を聞いた、セシルの言い分としてはこうだ。
デイジーは身体が弱い妹のように可愛がっている幼馴染みで、自分には何か特別な感情があるわけではない。
ただ、体が弱く余命宣告を受けているから、あまり強いことも言えない。そのような状況で少々の我が儘であれば、許してやりたいと考えている。
……ふーん。それって、私の立場その他もろもろなど、何も考えていない……そう、名誉や心が傷ついたって、どうでも良いってそういうことよね?
何度も何度も思ったし、直接そう言ったことだってある。婚約者として不愉快な思いをするようなことは、私は極力止めて欲しいのだと。
けれど、セシルは自分に甘えるデイジーを、そのままにしている。デイジーは貴族ではないので、流石にクレイヴン公爵家の外には連れていけないけれど、クレイヴン公爵家で開催されるお茶会などではあの通り。
クレイヴン公爵家はこの王国の中でも一番に力を持つ貴族で、そんな彼の振る舞いを見て周囲は『妹のような幼馴染み』の存在を、暗黙の了解と心得る。
婚約者であるはずの私はそんな中で、なんだか、空気になったようにも思えるのだ。
当の本人セシルに認められ、隣で愛らしく振る舞うデイジーは、彼を取り巻く皆から支持されている。身体も弱く儚い雰囲気。彼女を批難すればこちらが悪者になってしまうだろう。
そんな二人を見ながら、私は心の中でまたひとつ諦める。セシルは何をどうしたって私のことを、少しも尊重しようともしない。
貴族として婚約者の家が主催するお茶会を欠席するわけにもいかずに、義務としてただここに居るだけだけれど、彼の振るまいはとても許せるようなことでもなかった。
セシルは背が高く姿が良い、少し長めの前髪も素敵な黒目黒髪の貴公子だ。その隣に居るデイジーはストロベリーブロンドの髪はふわふわで、綺麗な青色の瞳は海を映した宝石のよう。
まるで、物語の主人公のようにお似合いの二人。
対して私は茶色の髪に同色の瞳、この国では良く居る色合い……と言ってはなんなのだけど、幼い頃から容姿が良いと褒められたこともあまりない。
本来ならば、セシルの隣に居るのは私だ……そう心の中では思うのに、あたかも自分がセシルの恋人や婚約者のように振る舞うデイジーに強く言うことは出来なかった。
彼女はまるで小さな小動物のようでとても愛らしく、身体は虚弱な体質を持っているらしい。
そんなデイジーに貴女の場所はここではないのよという正当なことを訴えるだけで、私が何故か悪者になってしまう事は目に見えていた。
ええ。理不尽だわ。こんな三角関係は、私にとっては、とても理不尽に思える。
けれど、セシルにはデイジーが大事に思えていて、私は単なる親に決められた婚約者という位置づけでしかない。
……おそらくは、結婚式を挙げたとしても私とは仮面夫婦で、貴族の血を持たないというデイジーと共に離れで暮らすのかもしれない。
きっと私はセシルとデイジーの子を、クレイヴン公爵家の血を繋ぐ跡取り……自分の子として育てることになるのだ。
それはそれで良いと思うくらいには、私も疲れてきた。
生まれ持った性格なのか、常に無言で無表情なセシル。その隣には、天使のような幼馴染デイジー。距離を取って離れている私婚約者アイリーン。
私だって貴族の娘、リンスコット伯爵で当主である父が決めた政略結婚に、逆らえるはずもない。
けれど、この状況には……もう本当に、うんざりだわ。
どうしても我慢ができなくて、私は大きくため息をついた。周囲の空気はより緊張感を増した。実際、ここに集まっているのはクレイヴン公爵家に縁強い令嬢ばかり。
将来的にはクレイヴン公爵夫人になる予定の私には、嫌われるわけにはいかないのだ。
皆、固唾を飲んで私の様子をうかがっている。
もし……私が国王陛下なら、婚約者の居る男性に近付く女性は、すべて国外追放にしてしまうところだけど、残念ながら一介の伯爵令嬢で、法律制定の権利は持ち合わせていない。
私とセシルの二人は両家のしがらみその他諸々で、政略結婚するしかない。けれど、私とセシルの間には愛らしい妹のような幼馴染みデイジーが居る。
私が父に『あんな男と結婚したくない』と訴えても『結婚すればわかりあえるから、今は堪えてくれ』と、困った顔で繰り返すだけで埒が明かない。
仕方ない……仕方ないと思いながらも、どうしても真に納得はまだ出来ていない。いえ。こんな状況にあって、真に納得なんて出来るのかしら。
私は自分のせいで微妙な空気になってしまった席を立ち上がり、クレイヴン公爵邸の中へと入ることにした。
しんとした沈黙の中で、気の利いたひと言が思いつかなかったとしても許して欲しいの。
……彼女たちは悪くないとわかりつつも、あまりにも居心地が悪すぎるわ。
はあっと大きくため息つつきつつ、ホール中央の螺旋階段を上がる。休憩室があるはずだから、そこで時間を置いて戻ろうと思ったのだ。
クレイヴン公爵家は、リンスコット伯爵家と親交が深く、良く縁づいている。セシルと年齢の会う私も、子どもの時からここへは良く遊びに来ていた。
そんな時にも、セシルの傍にはデイジーが居たけど……純粋な幼い頃には、それがどれだけ異常事態であるかを理解することは難しかった。
まずは、デイジーは貴族でもなければ親戚でもない。ただの平民だ。けれど、セシルにとっての『妹のような幼馴染み』だった。
彼女の身元は詳しくは知らないけれど、私はデイジーはおそらく乳母の娘ではないかと踏んでいる。裕福な貴族には乳母が居る。それならば、良くある話だからだ。
……その時、考え事をしていたせいで、私は階段を踏み外しかけた。
そして、パッと支えてくれた腕に驚いて振り向けば、意外な顔が見えた。
「……っ……!! セシル」
先ほど見掛けた時には、デイジーにべったりと纏わり付かれていた婚約者セシルが、階段から落ちかけた私の腰をがっしりと掴んでくれていたのだった。
「……大丈夫か」
短く問いかけた低い声に、私は慌てて頷いた。
ああ……驚いた。セシルがこんなにも距離が短かったことなんて、これまでになかったから。
セシルは私の手を引いて、階下にまでエスコートしてくれると、何も言わずに去ってしまう。
……そこで、私はやっと気が付いたのだ。彼は私の危ないところを助けてくれたというのに、感謝もしていない。
「……あ、あの! セシル……助けてくれて、ありがとう」
「ああ」
私が勇気を出してお礼を言っても、セシルは素っ気なく答え振り向きもせずに行ってしまった。
……何よもう。平民の愛人を囲うために、お飾りの貴族の妻が居るだけなのは……わかっているけれど。
それはわかっているけれど、私がまさか、そんな損な役回りをするだなんて、なんだか信じられなかったのだ。
「どう考えても、私はお飾り婚約者……よね。それはもう、わかっているんだけど……」
ドレスの生地の胸の辺りを、ぎゅっと強く掴んでしまった。
この感情を割り切るには、まだ若く、私はおそらく……婚約者セシルをデイジーに取られたくないと思っていることを、認めたくはないのだ。
こんな気持ちと向き合いたくない。死にたいくらいに辛い気持ちになることは、目に見えているから。
心を落ち着けた私がお茶会の場に戻れば、セシルはデイジーと何かの書類を書き合っていた。
そして、まるで祝福するかのような周囲の拍手と共に漏れ聞こえる鈴が鳴るような可愛らしい声。
何かしら……? セシルとデイジーは何をしているの?
「……ふふふ。なんだか、アイリーン様に悪いけど……」
「デイジー。良いではないか。これは、単なる遊びなのだから」
「そうそう。アイリーンは良く出来た婚約者だ。婚姻届を書くだけの遊びなど、大したことだと思わないだろう」
そして、私の耳に聞こえてくるのは、どっと楽しそうな笑い声。セシルはいつものように無表情のままで、何も言わなかった。
私は胸を押さえて、息が詰まりそうになった。
ああ……嘘でしょう。
あの二人……遊びとは言え、こんなにも多くの人が居る場で二人で婚姻届を書いている振りをしているのだわ……。
婚約者の私が近くに居るとわかっていて……なんて、最低な人たちなの。
◇◆◇
「ああ……アイリーン。ここに居たのか。どこに行っていたんだ」
「お兄様」
とんでもない場面を目撃し、もう一度離れてお茶会会場に戻りかけた私は、クレイヴン公爵家へと共にやって来ていた兄スティーブに呼び掛けられた。
兄は私と同じ茶色の髪と同色の瞳を持っているけれど、あまり似ていず、彼は美形で背が高く、やたらと異性に好まれる。
外見が良いって……本当に、良いわよね。私だって、お兄様に似て生まれたかった。
そうすれば……婚約者を愛らしい誰かに取られる事もなかったかもしれない。
「もう既に、お茶会はお開きの時間だ。アイリーンはセシルへ挨拶を済ませたのか?」
「……ええ」
別れの挨拶はしていないけれど、一応さっき会うことは会った。
もうそれで良いだろうと思う。セシルだって、わざわざ私に会いたいとも思っていないだろうし。
落ち着いた様子のお兄様は、あの二人がふざけて婚姻届を書いている場面を見て居ないようだ。
お茶会は年齢の近いグループなどで別れるから、お兄様は現クレイヴン公爵たちと、気の抜けない政治的な会話を楽しんでいたのだろう。
「では、帰ろうか。馬車も既に用意させている」
「ええ。そうしましょう」
使用人たちに軽く合図をした跡継ぎの兄に続き、私はリンスコット伯爵家の家紋が入った馬車へと乗った。
「……あの。お兄様。これまでに何度も話したことですけれど……私はセシルと結婚したくはありません。彼だってそう思って居るのでは? 婚約解消をして、お互いにもっと合う人が居ると思うのです」
私は偶然に見てしまった、あの悪夢のような光景を思い出した。
ふざけて婚姻届を書き、それをもてはやし面白がる周囲。あれをされて傷つくであろう私の気持ちなんて、誰も気にしていない。
そんな場所へお嫁になんて行きたくない。これを思うことは、自然なことだと思う。
これまでに、何度も何度も訴えていたけれど、兄スティーブはこの言葉に頷いてくれたことはない。理解はしてくれるけれど、私がセシルと結婚することは変えられないと繰り返すばかり。
兄スティーブは妹の私のことを、とても可愛がっていくれていると思っても……それでもだ。
「アイリーン。結婚するまで、もう少しだ。それまで、我慢すれば良い。わかってあげなさい。もし、結婚してもあの様子が続くようであれば、僕がなんとかしてあげるから」
私がいつもとは違うと気がついたのか、スティーブは宥めるように言った。けれど、私は納得はいかなかった。どうしても。
ついさっき階段から落ちようとする私を助けてくれた、セシルの逞しい腕、あれはデイジーのために存在するものであって、私のためにあるものではないのだ。
本来なら、婚約者である私のためにあるものなのに……その正当性を、私以外の皆は認めながらも、デイジーのことは仕方がないと放置している。
私の訴えだって、正当なものであるはずなのに。
「嫌よ……! お兄様。どうして、私は自分のことを好きでもなければ、大事にもしてくれない……あんなお茶会の場でも他の女性を優先するような人と、結婚しなければいけないのですか! ……あんな人と結婚したくありません!」
私は折良く交差点の行き交いで停まっていた馬車の扉を開き、ドレスの裾を持って衝動的に駆け出した。
兄が名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、どうしてもこの気持ちのぶつけどころがわからないのだ。
ドレスの裾を掴んだ私は一気に坂を駆け上がり、高台へと出た。そして、暮れゆく夕暮れの空を見つめていた。
普段ほとんど走ったことがないせいか、息が荒くなり身体もふらふらになってしまった。
……はああ。
どうすれば良いの。私はセシルと結婚したくはない。どうせなら、私と婚約解消して、愛人込みの条件で結婚してくれる人と婚約して欲しい。
セシルがいっそ、好感が持てないような……そんな男性であれば、良かったかもしれない。
私だって、立場というものがある。同じような貴族令嬢の中で、腫れ物を扱うような対応をされることにだって、嫌気がさしているのだ。
私は可哀想? ええ。可哀想。だって、婚約者には妹のような幼馴染が居て、彼女の方を全てにおいて優先してしている。
私は誰かに可哀想だと、思われたくない。
……出来れば、お互いに合う結婚相手を探すべきだと思う。
私は少なくとも、そうしたい。セシルは次期公爵なのだから、デイジー付きでも結婚したいという人だっているはずだ。
けれど、セシルとの婚約解消を家族は認めない。彼はデイジーのことを大事にして、婚約者の私を大事にしない。政略結婚には、恋愛感情は要らない。
出口が見えない。私はこの先、延々苦しみ続けるしかないの?
貴族としてもし愛人をつくるとしても直系の子どもが出来てからにして欲しいと思う私は、ただ甘えているだけなのかもしれない。
それでも……嫌なものは嫌なのだ。自分よりも愛らしいデイジーにうつつを抜かす婚約者なんて、絶対に嫌。
セシルと結婚したくない。傷つき続ける人生が、容易に想像がつくというのに。
「はああ……なんだか、私一人で悩んでいて……馬鹿みたいだわ」
大きくため息をついた。
そう。私は一人だけ、嫌な思いをしている。こんなに悪い状況に居るのは私だけで、家族だって同情はしても助けてくれるために動くことはない。
可哀想な立場だと思われても、誰も味方をしてくれるわけでもない。家族も未来の婚約者も、私の気持ちなんてどうでも良いのだ。
貴族令嬢として生まれ育った私は、そうだとしても『家出してやる!』などという、そんな投げやりな気持ちにはなれなかった。
だって、私は産まれた時から貴族令嬢で、市井で生きられるという闘志もない。嫌だ嫌だと嘆きながらも、父や家族の望み通りに愛されない婚約者の元に嫁ぐしかない。
……それが、一番に自分でもわかっていた。どんなに嫌だと騒いだところで、我慢してセシルに嫁ぐことしか出来ない。
そろそろ夜の紫が混じり始めた茜色の空を見て、私は帰ろうと思った。
こんな場所に少しだけ逃げてきたって、帰るべき場所はリンスコット伯爵邸だ。
そうでなければいけない。
だって、私は何も持たぬ無力な貴族令嬢で、貴族として生きていく以外の道を知らないのだから。
落ち着いた私はとりあえず、兄が乗っていた馬車がある場所へ行こうと思った。
甘えていると言われようが、リンスコット伯爵家の面々が、逃げた私を探して居ないわけがない。
だから、あの衝動的に逃げ出した場所に戻れば、どうにかなるのではないかと考えたのだ。
そうして、日が暮れる手前の街を歩いていたら、私はいきなり乱暴に腕を掴まれた。
「……! 何を」
「……おい! 貴族令嬢がこんな場所で何をしている? なんだぁ? お付きの者も近くに居ないのか?」
荒々しい言葉を放つ男性は、顔に傷がありいかにも荒くれ者といった風情で、私のことをまるで品定めするように下から舐めるように見た。
背筋にはゾッとした寒気が走った。
「……離してください!! 離しなさい!」
私はなけなしの勇気を出して声を出したけど、彼はにやにやと下卑た笑いを顔に浮かべ、より強く腕を引っ張った。
そして、私の腕にあるドレスの手触りを確かめるように触った。嫌な手つきで不快さが増し肌が粟立った。
「ははは! 本当だ。これは、上質なドレス……本物の、貴族令嬢だ!」
「やめて。離して……! 誰か、誰か、助けてください!」
私は助けを求めて周囲を見渡したけれど、皆目を合わせないように視線を伏せて通り過ぎて行く。
そんな……ああ。誰かの揉め事に巻き込まれるなんて、それは嫌かもしれない。
どうしよう……そうよ。近くに治安維持のために見回りをしている兵士か誰か、そういう人が近くに居てくれれば……そうよ。悲鳴をあげればなんとかなるかもしれない。
「助けて……! 助けて! 誰か! 助けてください!!」
私が必死で悲鳴をあげれば、口を手で塞ごうとした目の前の男は呆気なく崩れ落ちた。
……なっ……何? え。何があったの?
私は助かったことをすぐには理解出来なかった。だって、こんな男性に連れて行かれれば、どうなってしまうかわからない。
「……アイリーン。一体、何をしている」
あ。セシル。
私は驚いた。そこに居たのは、私を蔑ろにする婚約者で……その筈なのに、私の声を聞き必死に走って来たのか息荒く肩が上下していた。
セシルは彼の姿を見付けて呆然とした私を睨み付け、地に伏した男の身体を一度踏みつけた。
おそらくは、何か打撃を与えてこの乱暴者を一撃で沈めたようだけど、私には何がどうなったのかわからなかった。
……セシルって、こんなに強いの? 驚いたわ。貴族の跡取りなのだし護身術程度は、一通り身に付けているだろうけれど……。
「別に……何でもないわ。一人になりたい時だって、あるでしょう」
今日だけで二度助けられたけれど、どうしても彼の隣に常に居るデイジーを思い出してしまい私はセシルを睨み付けた。
嫌な人。
貴方が愛らしいデイジーとふざけて婚姻届を書いていたから、むしゃくしゃしていたなんて、絶対に言いたくないわ。
「こんな、危険な目に遭って……いい加減にしろ」
苦しげな声でセシルは静かに言い、すぐ傍にまで来ていたらしい兄スティーブが、その場に駆けつけてきた。
「アイリーン! アイリーン。ああ良かった。無事だった……申し訳なかった。セシル。これからは、このようなことがないように、妹には良く言い聞かせる。悪かった」
「……よろしくお願いします」
スティーブの謝罪にセシルは素っ気なく答えて、希望的な勘違いでなければ私を一瞬切なげに見てから、くるりと背を向けた。
……何……? こんな時には、婚約者面なの……?
状況から見れば私が居なくなったからと聞いて、探してくれていたようだけど……。
「アイリーン! お前は……! セシルがどれだけ心配して探していたのか、わからないのか!」
スティーブは私の手を引き、怒りの声を挙げた。
心配をかけたと理解しつつも私はどうしても我慢出来ず、彼に反論した。
「……わかりませんわ! 私のことをいつも蔑ろにする婚約者なのですから、どうしてこんな時に心配など。いっそのこと、放って置いてくれれば良かったのです。セシルは私のことなんて、好きではないのですから」
むしろ、婚約している私が居なくなれば、愛人デイジーともっともっと楽しく日々を生きられるのに。
どうしてもイライラとしてしまいそう言えば、スティーブは悲しそうな表情になった。
「お前は……! なんという……ああ。わかっている。アイリーン。そうか。とりあえず、もう帰ろう。お前も……正常に判断出来る状況ではないのだから」
「……お兄様?」
正常に判断なんて……いつもしていたわ。
政略結婚をする貴族同士なのだから、彼の隣に誰が居ようが、私は何も言わない……言うべきではないって耐えていた。
ええ。耐えていたけれど、もうそろそろ限界なのよ。
「アイリーン。とにかく……もう気にするな。お前は何も悪くないのだから……」
スティーブは私を宥めるように背中を撫でてくれて、私を近くに待たせていた馬車の中へと導いた。
◇◆◇
悪いことというのは、続くものだ。
こんな偶然、神様を呪いたくなる。
色々とあった私が数日してから、気分転換に公園を散歩をしていたら、前方から歩いて来る女性は物凄く見覚えのある女性だった。
何人かのクレイヴン公爵家の使用人を引き連れて、まるで、私と同じような貴族令嬢のよう。
「まあ……アイリーン様! 偶然ですね。こんにちは」
そこには、にこにこと微笑むデイジー。ふわふわのストロベリーブロンドに、海色の瞳、愛くるしい人形のような顔立ち。
平民だというのに、可愛らしいドレスを身に纏っていた。
おそらくは、装飾品もドレスもセシルが買い与えているのだと思う。
「こんにちは。デイジー……良いお天気ですね」
私は出来るだけ感情をのせずに返した。
だって、デイジーに何を言えば良い? 少しでも責めた言葉を出せば、途端に私が悪者になってしまう。
それを理解しているから、穏便にこの場を済ませるしかなかった。
「ふふふ。本当に……セシルのお誕生日は、もうすぐですよね? アイリーン様は何かご用意されているのですか?」
「ああ……そうでしたわね」
婚約者セシルの二十歳の誕生日は、もうすぐだ。
私は現在十七歳なので、十八歳になった頃を目処に結婚式の準備などを進めることになっている。
それを、彼女だって知っているはずだ。
「私も何か贈ろうかと思うのですが、アイリーン様と同じ物ではいけないと思うのです。ええ……私たち、被らない方が良いかしらと」
不思議だわ。普通なら婚約者の誕生日のプレゼントを愛人候補の女性に相談されているなんて、私の貴族としての矜持が許さない。
……そんな激怒する瞬間であるはずなのに、もう心が段々と麻痺しているのか、私はすぐには心の痛みを感じなかった。
「……そうですね。セシルに何を贈るか決定したら、デイジー様にはお知らせしますわ」
私は微笑みを浮かべてそう言った。
何も感じてはいけない。今は何も。
「ふふふ……よろしくお願いします。それでは」
愛らしく微笑んだ彼女は軽やかな足取りで、私のすぐ横を通り過ぎて行った。
白い雲の浮かぶ青い空は美しく、私の後に続く使用人たちは、リンスコット伯爵邸へと帰り着くまで、何の言葉も発さなかった。
◇◆◇
私は数時間、セシルには何も言うべきではないと思った。
このような状況は、今に始まったことではないのだから、割り切るべきなのだと。
どんなに辛い気持ちになったとしても、何を言っても無駄なのだから。
けれど、どうしても我慢出来ず、気が付いたらクレイヴン公爵邸へ向かう馬車へ乗っていた。
……セシルは私の話を聞けば、激怒するかもしれない。けれど、それで良かった。
激怒してもらって、私との婚約を解消しようと思ってくれた方が、どれだけ気持ちが楽だろう。
何故、結婚をする前から、愛人候補の女性にここまでの侮辱を受けなければならないの?
心を決めた私がクレイヴン公爵邸へと辿り着くと執事が慌てて出て来た。私は彼の制止を聞く事なく、セシルの部屋へと向かった。
彼は机に座り書き仕事をしていたようだった。驚いた顔で立ち上がり、私へと近づいた。
あら。いつも無表情だと思っていたけれど、驚いた顔も出来るのですね
「……アイリーン? どうした」
「セシル。申し訳ないのですけど、私と婚約解消していただけます? 私からは言えないのです。父に訴えても無駄でした。だから、貴方から婚約解消をしてください」
私が彼に言いたいのは、これだった。
だって、セシルには愛する女性が居るのだ。私は愛されることはない。
もし、そうだとしたら、愛人込みで結婚してくれる条件をのむ人に変えて欲しい。
私にはとても無理だった。このままでは、心が壊れてしまう。
「それは、出来ない……」
いつも通り無表情のままでセシルはそう言い、私はイラッとして言った。
「……どうしてです! 私をこのまま軽く見続けると言うのなら、私だってそうするわ! あの子を愛人として許容するというのなら、私だって同じことをする。貴族同士には、良くあることでしょう!?」
「アイリーン……」
「何なの! どうして、この状況で私が怒ってはいけないの! 不満を言ってはいけないの! いけないことをしているのは、貴方と彼女ではないの!? 私のことを、軽く扱わないで。もし、そうするのなら、別の人にすれば良いわ。どんな思いをしても良いから公爵家に嫁ぎたい女性は、いくらでも居るはずよ。婚約を解消しましょう。セシル」
これまで言えなかった気持ちをぶつけるように、私は感情的に言い切った。
セシルをじっと見つめていると、彼の頬に何かが流れた。
え……涙?
私はもちろんそれを見て、驚いた。
彼の反応として予想していたのは、激怒して婚約解消を言い渡されるだろうと思っていたのだ。
むしろ、私側の婚約者への感情的な直談判という不手際で婚約解消出来るのだから、喜び勇んで解消してくれるだろうと思っていたのだ。
けれど、セシルは静かに泣いていた。何も言わなかった。こんな時だって、無表情のままだ。
どうして泣くの? 私と婚約を解消して、デイジーと楽しく暮らせば良いのに。
何なの……? どうして。私がまるで、セシルを虐めているみたいじゃない。
何も言えずに立ち尽くす私へ執事が兄のスティーブが追い掛けてきた事を伝えて、セシルに何も言えないままでその場を去るしかなかった。
◇◆◇
「まあ……そんなことがあったのですか」
誰にでも言って良い出来事ではないとわかりつつ、どうしても我慢出来なかった私は、貴族としての作法を教えてくれる家庭教師のエリンに昨日あった出来事を話した。
エリンはとても聡明な女性だ。
元々は男爵令嬢で嫁いだ男性がすぐに戦死を遂げてしまい、未亡人になった。けれど、彼を愛しているのですぐに再婚には踏み切れず、こうして自ら働いて生計を立てているのだ。
彼女は私を尊重してくれつつも、教育には手を抜かなかった。家庭教師としての職務を全うしているとも言える。
私がもうそろそろ嫁ぐ年齢になり、彼女が求める『貴族女性』になれたせいか、エリンの中で自分が教育する存在から、対等に話せる存在へと変わっていたことを最近感じていた。
特徴的な大きな眼鏡をくいっと上げたエリンは、しばし考えた後で隣の椅子に座ったままの私へ言った。
「まずは……敵を知りましょう。アイリーン様。聞くところ、妹のような幼馴染みで貴族ではない平民女性ということしかわかりませんが、公爵家でそのような扱いをされている理由が私には理解しかねます」
「あら……エリン。それは、確かにそうね」
デイジーは跡取り息子であるセシルへべったりとはりつき、まるで恋人同士のように振る舞う。
けれど、セシルは無表情でデイジーへもあまり感情を出すこともない。勝手を許してはいるけれど、愛情を感じさせる振る舞いはない。
……そこは、私にも気になっているところだったのだ。
「セシル様の周囲もその女性を受け入れていて、クレイヴン公爵家でのお茶会でも、そのような不埒な振る舞いを? もちろん家長であるクレイヴン公爵や公爵夫人は預かり知らぬことだとは思いますが、私に言わせると周囲もおかしいと思います。何か……私たちには想像のつかぬような事情があって、その女性を持ち上げているように思えてならないのです」
エリンは顎に手を当てて、そう言った。私は彼女の言い分を聞いて、確かにそれはそうかもしれないと頷いた。
私はセシルの婚約者だ。
それなのに、あのデイジーが優先されていても、周囲から許される状況とは何なのかしら。
あくまで私は……他の誰かがそんな状況にあったなら、眉を顰めて軽蔑してしまうわね。一緒になって面白がるなど……とても考えられない。
「アイリーン様。私も家庭教師として働き数年。いろいろと伝手を持っておりますわ。ええ。だからこそ、このような良い環境で、素晴らしいお嬢様の家庭教師が、出来ているわけですけれども」
「まあ……ふふふ。エリン。ありがとう」
優しく言ったエリンが傷ついた私を気遣って持ち上げてくれたことに気が付いたけれど、その心遣いが嬉しかった。
「それに、アイリーン様が婚約解消を申し入れられた時に、セシル様が涙したというのも気になっております。愛人を囲う男性だというのに、どうして婚約者に詰め寄られたからと、涙を?」
「……そうよね。私もそれは、気になっているわ。だって……」
セシルが真にデイジーを愛しているとしたら、あんな反応をするかしら? 私は昨日から、それをずっと考えていた。
何かがおかしい。私が考えていたものとは、違うのかもしれない。
「ええ。アイリーン様。どうか、お任せください。私が色々と、調べてみせますわ」
エリンはそう言って私へ片目を瞑った。
そして、その次の日の家庭教師の時間、エリンはメイドたちが下がったのを見計らって私へと微笑んだ。
「ええ。調べましたわ。お嬢様」
「まあ! もう? すごいわ。エリン」
何の伝手もない私には到底出来ないことを、エリンは一日でやってのけてくれたらしい。
一人で生きていける女性は、このような行動力のある人でしかあり得ないと、私は理解したのだ。
「クレイヴン公爵家に住むデイジー・ティアニーというあの女性ですが……乳母の子でもなく、両親もたどれませんでした。貴族の遠縁でもなさそうです。一番にそれらしいと思うのは、公爵夫妻が捨て子だった子を過去に拾って……ということですけれど、そういう訳でもなさそうです」
「え? そうなの? 私はてっきり……」
エリンの話を聞き戸惑った私は、デイジーがセシルの乳母の子かと思っていた。貴族には乳母というと、その後も身も周りの世話をしてくれたりと、身分を超えた特別な関係になりやすいのだ。
だから、貴族の身分を持たないデイジーが、妹のような幼馴染みで公爵家で特別待遇されているというのなら、これしかないと思っていたのに……それは違ったらしい。
「まあ……それならば、あの子は一体何者なの?」
私は素直にそう思った。
これまで私は、セシルには特別な幼馴染みが居て、婚約者の私のことなんて好きではないと考えていた。
平民の彼女とは公的に結婚することは叶わないから、私をお飾りの妻にするつもりなのだと。
けれど、身分制度はとても厳しく本来平民であるデイジーがクレイヴン公爵家で厚遇を受けているのなら、それは何か『特別な理由』があるということではないのだろうか。
「……もしかしたら、アイリーン様には想像もつかないような……そんな、面白い正体なのかもしれませんわね」
「え……?」
エリンはどこか楽しそうに言ったので、私は目を見開いた。まるで、彼女はデイジーの正体を知っているような口振りだったのだ。
「知りたいですか? アイリーン様。知ったらもう、戻れないかもしれませんよ……」
「知りたいわ! だって、私はセシルとの関係を既に終わらせようとしたのよ。怖いものなんて、もうないわ……」
エリンの問いかけに私は被せるように頷いた。知りたい。これまでに自分を苦しめてきた、そんな正体を。
「ええ。それでは……面白いものを、お見せしましょう……」
エリンが差し出した本は、とても古い本だった。表紙はボロボロで、今にも老化した紙の繊維がこぼれ落ちそう。
「これは……?」
不思議に思いエリンを見れば、彼女は慎重に栞を挟んだ頁を開いていた。
「……私もこれを手に入れたのは、偶然だったのです。知り合いの情報屋と連絡を取り、酒場でクレイヴン公爵家のことを探っていたら、とある老人に渡されました。彼は煙のように、すぐに居なくなってしまったのですが……」
「まあ。そうなのね……これには、何が書いてあったの?」
「ええ。もちろん、創作かもしれないという前提でお聞きください……そして、私だからこそ、アイリーン様にお伝え出来るということも……」
「良いから、早く教えて!」
エリンの勿体ぶった言葉に耐えられなくて、私は先を促した。
一体、何なの……? 怖い気もする。今まで前提にあった何もかもが全て、ひっくり返ってしまいそうで……。
「クレイヴン公爵家は、とある魔物に呪われているというお話です」
おごそかにそう告げたエリンに、私はポカンとしてしまった。
「呪い……? どういうことなの?」
エリンが教えてくれた、クレイヴン公爵家にまつわる伝説はこうだ。
クレイヴン公爵家には、建国の際に暴れ回った魔物を封じる役目のある家系で、それは血縁者にならなければ、詳細は教えてはならない……そんな、呪いが掛けられている。
私はそこで、ハッと気が付いた。父母や兄から、何度も何度も言われた言葉だ。
「……そうだわ。お父様やお母様、それにお兄様からは、セシルと結婚するまでは、待てと……そう言われていたわ。ずっと」
「それも、おかしいですよね。結婚前から、愛人が居るから嫌だと言って居るのに、結婚まで待てと……? それは、おかしな話です。アイリーン様……ここを見てください。その魔物は、人の悲しみや苦しみを好物にしていると書かれているのです」
……私はここで、気が付いてしまった。
セシルはあの時、泣いていた。
私には何も言えないからだ。
もし、デイジーがその魔物であったとする。デイジーはセシルを苦しめたり悲しませたりしたかったとする……婚約者の前で……自分は何も言えないのに、愛人然として振る舞われたら……?
私はもちろん怒り悲しみ、セシルのことを嫌いになる。けれど、セシルは私に弁明は出来ないのだ。
魔物はセシルの悲しみや苦しみを望んでいる……もし、そうだとしたら。
「ああ……エリン。私はとんでもないことに、気が付いてしまったわ」
私は思わず涙をこぼしてしまった。
あんなにも辛かった出来事の中、まさか、私よりもセシルが辛い思いをしていたなんて、まさか信じられなくて。
こんなことが、まさか、今ここで知れてしまうなんて。
「ええ。おそらくは、私たちが気が付いたことで、合っているようですね……そして、ここを見てください。アイリーン様」
「魔物を撃退する方法……ですって?! まあ、どうして今までこれを使わなかったの?」
「良くお読みになってください。おそらくは、この条件に合うのは……アイリーン様だけです」
冷静な口調で言ったエリンが指さした場所を何度か読み、私は両手をぐっと握りしめた。
◇◆◇
「……あら。アイリーン様。どうなさったの?」
クレイヴン公爵邸の庭園に居たデイジーは私を見て微笑みかけ、彼女を睨み付けていることに驚いたようだった。
……そうでしょうね。私は貴女のことを、ただの人だと思っていたから、とっても怖かったの。
大好きな婚約者を愛する人を取られてしまう……そう思って、目の前の女性のことを、とてもおそろしい存在に思えていた。
けれど、今は違うわ……私には、自分にならどうにか出来る魔物でしかない。
「今すぐこの場から去れ、魔物ティアニー。今から百年の眠りにつけ」
私は定められた言葉を言った。
これは、次期クレイヴン公爵となるセシルが、婚約者である私を『愛しているから』効果のある言葉なのだ。
愛らしい顔はどんどん歪み、彼女の中から肌を破り出て来たのは、どす黒い獅子だった。けれど、魔物は私には手を出せないそういう『契約』だからだ。
「どうして……どうして、わかったんだ。誰も話していないはずだ。それなのに」
魔物ティアニーは私が彼女が魔物であることを知ったことを、未だに信じられないようだった。
おそらくは、クレイヴン公爵家もリンスコット伯爵家の面々も、これを誰も私に明かすことは禁じられていた。
セシルが愛する私と結婚する前に明かせば、私を殺すという契約だったから。
こんな契約内容に何故したかというと、セシルの苦しみと悲しみを、私の身体を傷つけたりせずに味わい尽くすには、これが一番に良い方法だったからだ。
魔物ティアニーの好物は、苦しみや悲しみ。クレイヴン公爵家の跡取りは、成年するまでにこれを与える義務がある。
魔物ティアニーがこの方法を選んだことからわかるとおり、セシルは婚約者である私を愛している。
愛しているがゆえに選ばれて、私も傷つき彼が一番に傷つく方法を取らされていたのだ。
「……魔物ティアニー、貴女の様子は、あまりにもおかしかったわよ。セシルは私に何も言っていないし、家族たちだってそうよ。私が調べ物をするという自由を与えてくれて、ありがとう……」
私はセシルと魔物ティアニーの契約の『鍵』だ。
魔物ティアニーはあまりに力が強く、建国の際に犠牲になることを選んだクレイヴン公爵家の当主に取り憑いていた。
二十歳になれば彼らは契約通りに大人しくなるけれど、それまでは当主となる人物の苦しみや悲しみを餌にすることが許されている。
けれど、特殊な契約条件で『鍵』となる人物にそれを知られて、あの言葉を使われれば、魔物ティアニーはこれから眠るしかないのだ。
今から、百年ほど。
「ぐぐぐぐぐ……なんということだ。もう少し……もう少し、楽しむ時間はあったというのに……」
魔物ティアニーの身体は地中へと落ち、私はその様子をじっと見て居た。
妹のように愛らしい幼馴染みデイジーの正体は、クレイヴン公爵家に取り付く魔物ティアニー。
何も知らされるはずもない私だけが、この魔物を封じる権利を持っていた。
◇◆◇
「……セシル!」
私はノックをすることなく扉を開けてセシルの部屋へと入り、ベッドの中に居た彼は慌てて身体を起こした。
いつもとは違う。
もしかしたら、昨日のことが辛くて泣いていたのかもしれない。先ほど見たデイジーが、あんなにも上機嫌にしていたわけだわ。
けれど、もうセシルが苦しんだり悲しんだりする必要はない。
「アイリーン?」
「セシル! もう大丈夫。魔物ティアニーは、私が眠らせておいたわ。百年間ね。契約通り、私が自分で気がついたから」
私は呆然としているセシルへと抱きついた。
彼がどれだけ辛かったか、それでも何も言えずに苦しんでいたことを思えば、なんだか胸がいっぱいになった。
「え? な、何があったんだ?」
「……クレイヴン公爵家にある呪いだったのね。私知らなくて、今まで苦しい思いをさせてしまって、ごめんなさい」
私は涙が溢れてしまった。婚約者を苦しめれば、セシルが苦しむ。だから、そうしていた。彼は何も言えなかった。
……私のことを、守るために。
「アイリーン……本当に、本当に、あのデイジーは居ないのか?」
セシルの声は信じられないのか、震えていた。
彼だって、私に言いたいけれど、言えなかった。殺されてしまうから。魔物のことも言えず、私は彼に婚約を解消しろとで言った。
どれだけ辛かったことか……。
「そうよ! 私がセシルを守ったのよ。守れたの。全部わかったわ。今まで、ごめんなさい。家庭教師に協力してもらって、調べたのよ。何も言えなかったのね。ずっと一緒に居るわ……これからは、ずっと、ずっと一緒よ。セシル」
「ああ。アイリーン」
セシルは私の身体をギュッと強く抱きしめた。彼も私と同じように、泣いていた。
そして、落ち着いたセシルはこれまでの無表情で無口な彼ではなかったことも、それはそれでより大好きになったので、私たち二人の今後に何の問題はなかった。
Fin
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。もし良かったら評価をお願いします。
また、違う作品でもお会い出来たら嬉しいです。
待鳥




