茜色のひとりごと
止まった時計が動き出すとき
人は、あまりに深い悲しみに暮れると、世界から「色」が消えたように感じると言います。
本作の主人公、志摩健三もまた、最愛の妻・ハナを亡くしてからの三年間、セピア色の静寂の中で生きてきました。
部屋に響くのは、古びた柱時計の音と、自分自身の力ない「ひとりごと」だけ。
そんな彼の元に、一匹の三毛猫が迷い込みます。
猫が運んできたのは、小さな失くしものと、妻が遺した「未完成の風景画」でした。
これは、頑固な老紳士と不思議な猫が、失われた色彩を取り戻していく再生の物語です。
茜色の夕焼けが、これほどまでに温かく、そして明日への希望に満ちていることを、健三と共に感じていただければ幸いです。
第一話:茜色のひとりごと
線香の煙が、夕闇の迫る部屋で力なく揺れている。
志摩健三は、仏壇の前で正座したまま、動かなくなった膝の節々をさすった。今日は妻・ハナの三回忌だった。
「……もう三年か。早いものだな、ハナ」
返ってくるのは、柱時計の規則正しいカチカチという音だけだ。元・公務員の健三にとって、静寂はかつて「平穏」の証だったが、今では冷たい粘土のように肌にまとわりつく。
「お前のいないこの家は、少し広すぎるな……」
誰に聞かせるでもない、乾いた独り言。これが健三の日常だった。
彼は重い腰を上げ、縁側の障子を開けた。西日が差し込み、部屋の隅々までが濃い茜色に染まる。その光の中に、見慣れぬ「影」があった。
「……なんだ、お前は」
そこには、一匹の三毛猫がいた。
よりにもよって、妻が日向ぼっこで愛用していた、色褪せた紫色の座布団の上に、当然のような顔をして丸まっている。
「こら。そこは、お前の場所じゃない。どきなさい」
健三が杖を突くような足取りで近づいても、猫は動じなかった。ただ、大きな琥珀色の瞳でじっと健三を見つめる。その瞳は、すべてを許容しているような、あるいは健三の心の奥底にある「後悔」を覗き込んでいるような、不思議な静謐さを湛えていた。
「ふん、図々しいやつだ。……腹でも減っているのか」
健三は鼻を鳴らし、台所から古い煮干しを一つまみ持ってきた。
「これを食ったら、さっさと出て行け」
庭先に放ってやると、猫は一度だけ小さく鳴き、煮干しを丁寧に咀嚼した。そして、食べ終えるなり、再び紫の座布団へ。あろうことか、今度は健三の足に体を擦り寄せてきたのだ。
「……っ、よせ。服が毛だらけになる」
口では疎ましがりながらも、健三の指先は、その温かい毛並みに触れていた。
三年間、忘れていた「自分以外の体温」。
その温もりが指先から伝わった瞬間、健三の心に小さな、けれど確かな波紋が広がった。
その夜、健三は閉め切るはずの雨戸を、少しだけ開けておいた。
「……名前がないのも、独り言の相手としては不便だからな」
暗闇に光る二つの瞳に向かって、彼は誰にも聞こえないような小声で呟いた。
「ハナ。……今日から、お前の名前はハナだ」
それは、もう二度と呼ぶことはないと思っていた、最愛の妻の名前。
三毛猫は、肯定するように「ニャア」と短く、優しく鳴いた。
第二話:埃を被った靴
翌朝、健三が目を覚ますと、枕元に「それ」は置かれていた。
ひどく色褪せた「押し花のしおり」。
それは生前、妻が「どこへ行ったのかしら」と悲しそうに探していたものだった。
ラミネート加工されたフィルムの中で、小さな青いネモフィラが、陽光を浴びて透き通っている。
「……これは、見晴らし公園の……」
健三は、しおりを指先でなぞった。生前、妻は春になると決まって、あの丘の上まで足を運んでいた。本棚をいくら探しても見つからなかったこのしおりは、彼女が最後に読んでいた文庫本に挟まっていたはずのものだ。
「お前、あそこまで行ったのか?」
問いかけると、ハナは誇らしげに喉を鳴らし、トボトボと玄関の方へ歩き出した。そして、重い引き戸の前で立ち止まり、琥珀色の瞳で健三を射抜く。
『ついてこい』。言葉以上に雄弁なその視線。
健三は逡巡した。昨日の三回忌、供え物を持ってきてくれた妻の友人だった節子に対しても、玄関のチェーン越しに短く礼を言っただけで追い返してしまった。外の世界は、今も自分にとって眩しすぎて、直視できない場所なのだ。
「……ふん、勝手にしろ。俺は行かんぞ」
そう呟いて背を向けても、ハナは一歩も動かない。それどころか、前足でカリカリと靴箱の扉を叩き始めた。
健三はため息をつき、数年ぶりにその扉を開けた。
奥の方で、主を失ったかのように埃を被っていたのは、かつて妻と揃いで買ったウォーキングシューズだった。
「……ったく。世話の焼けるやつだ」
独り言を漏らしながら、健三は屈んで紐を結んだ。指先に残る埃の感触が、止まっていた時間を少しずつ動かしていく。
外に出ると、春の風は思いのほか冷たく、そして驚くほど花の香りがした。
ハナは、健三の数歩先を、絶妙な距離感で歩いていく。
丘の頂上、大きな桜の木の下まで辿り着いた時、健三の肩を叩く者がいた。
「……あら! 志摩さん!? 志摩さんじゃないですか!」
そこにいたのは、双眼鏡を首から下げた節子だった。
「昨日、お宅にお邪魔した時はあんなに元気がなさそうでしたのに……まさか、こんなところまで歩いていらっしゃるなんて! 驚きましたわ」
健三は、咄嗟に返す言葉が見つからず、ただ小さく会釈した。
「……少し、散歩に。猫に連れてこられただけだ」
「あらあら、その猫ちゃん……。そういえばハナさんが最後に言っていたんですよ。ここで描いている『夕暮れの絵』、どうしても完成させて、健三さんに見せたいんだって」
健三の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「……絵……?」
「ええ。未完成のままだけど、どこかにあるはずですよ。あの方の、最後の『ひとりごと』みたいな絵がね。まさかそれを探しに、ここへいらしたの?」
足元で、ハナが満足げに一度だけ「ニャア」と鳴いた。
その声は、丘の上を渡る風に溶けて、健三の胸の奥深くに眠っていた何かを、静かに揺さぶった。
第三話:未完成の色彩
丘からの帰り道、健三の心は千々に乱れていた。
節子が放った「最後の一筆を入れたがっていた」という言葉が、頭の中で何度も反芻される。自分は、妻の最も身近にいて、最も彼女のことを見ていなかったのではないか。
「……ハナ、お前は知っていたのか」
問いかけると、三毛猫は「ナァ」と短く鳴き、一直線に二階へと続く階段を駆け上がった。
辿り着いたのは、廊下の突き当たりにある物置部屋の扉だ。
健三が、妻の死後一度も開けなかった場所。そこには、遺品を整理する勇気がなくて押し込めた、三年前の「時間」が封印されている。
「……ふう」
健三は震える手で鍵を開け、扉を引いた。
埃が舞い、カビと古い紙の匂いが鼻をつく。ハナは迷うことなく部屋の隅へ向かい、古いトランクの蓋を前足で叩いた。
「これか……」
トランクの中には、数冊のスケッチブックと、使い込まれた水彩絵の具のセットがあった。
そして一番上に置かれていたのが、あの絵だった。
丘の上から見た街並みが、繊細な筆致で描かれている。だが、キャンバスの中央から上にかけて、空の部分だけが不自然なほど白く塗り残されていた。
そこには、妻が最後まで掴み取ろうとした「色」が欠けていた。
「ハナ……お前、こんなものを描いていたのか」
健三は、埃を被ったパレットに新しい水を一滴垂らした。
芸術など、役所勤め一筋だった自分には無縁のものだ。何をどう描けばいいのか、見当もつかない。
だが、彼が困惑して筆を止めた時、足元の三毛猫が不思議な行動に出た。
ハナが、絵の具のチューブの一つを、ちょいちょいと前足で転がしたのだ。
それは「茜色」のチューブだった。
驚いて猫の顔を見ると、その琥珀色の瞳が、夕陽を反射したかのように微かに赤く輝いている。
「……これを塗れと言うのか?」
健三は、震える手で筆を握った。
ハナが運んできた「しおり」の青や、ハナが生前よく着ていたカーディガンの温かな色。
ハナと過ごした日々の中にあった色彩が、健三の脳裏に鮮やかに蘇る。
彼は、人生で初めて、誰かに見せるためではない「祈り」としての色を、白い空白へと落とした。
最終話:茜色の秘密
数日後、健三は描き上げたばかりの絵を風呂敷に包み、脇に抱えた。
「……よし。行くか、ハナ」
声をかけると、三毛猫は「ナァ」と短く応え、慣れた足取りで玄関へ向かった。
丘へと続く坂道は、今の健三にとってはもう、それほど険しいものではなくなっていた。前を行くハナの、リズミカルに揺れる尻尾と、時折振り返る琥珀色の瞳。その姿を追いながら、健三はこの数週間の出来事を、静かに反芻していた。
最初は、ただの図々しい迷い猫だと思っていた。妻の座布団を占領し、勝手な振る舞いばかりする闖入者。だが、あの時触れた指先への温もりが、凍りついていた健三の心に最初に熱を灯してくれたのだ。
ネモフィラのしおりを枕元に置いた朝のこと。
あの時、ハナ(猫)は言葉の代わりに、健三を「今」へと繋ぎ止めようとしていた。
『ついてこい』。
そう言わんばかりに靴箱を叩いた、あの力強い前足の音。
そして物置部屋で、迷わず「茜色」のチューブを選び取った、あの神秘的な瞳。
(お前は、あいつに頼まれて来たのか。それとも……)
そんな考えを振り払うように、健三は一歩、強く踏み出した。この数週間、ハナが自分にくれたのは「思い出」だけではない。もう一度自分の足で立ち、自分の手で色を選ぶという「生きる意志」そのものだったのだ。
「待たせたな。もうすぐだ」
丘の頂上、大きな桜の木の下に辿り着いた時、世界は燃えるような茜色に染まっていた。健三は震える手で風呂敷を解き、描き上げた絵を木に立てかけた。
そこには、健三が人生で初めて絞り出した、魂のような茜色の空が広がっている。
「ハナ、見てくれ。……お前が愛した空だ」
隣に座ったハナが、じっと絵を見つめる。そして、本物の夕焼けと、絵の中の夕焼けが溶け合う。
健三はハナの頭をそっと撫でた。柔らかく温かい、確かな生命の感触。
「……ありがとうよ。お前が来てくれなきゃ、俺はまだあの暗い家の中で、時計の音ばかり数えていたはずだ」
ハナは健三の手に鼻を寄せ、甘えるように一度だけ喉を鳴らした。そして、おもむろに立ち上がると、まだ乾ききっていないキャンバスの隅に、自身の前足をそっと乗せた。
そこには、小さな泥の肉球マークが、まるで落款のように刻まれた。
「……ふふ、お前のサインか。共同制作だな」
健三が目を細めた、わずかな間。不意に風が強く吹き抜け、桜の葉が舞った。
気がつくと、隣にいたはずの温もりが消えていた。
「ハナ……?」
あたりを見渡しても、三毛猫の姿はどこにもない。ただ、夕陽の中に一筋の白い毛がキラリと光り、風に乗って空へ消えていくのが見えた。
健三は寂しさに胸を締め付けられたが、不思議と涙は出なかった。
代わりに、絵の中の茜色が、以前よりもずっと明るく、未来を照らす色に輝いて見えた。
エピローグ:色づく日々
一ヶ月後。志摩家の縁側には、今や新しいスケッチブックが置かれている。
健三は毎日、外に出かけるようになった。
坂の下の喫茶店、川沿いの散歩道、二人で歩いたバス停。
「ハナ、今日の分だ。見てくれ」
仏壇の前で、健三は今日のスケッチを広げる。描かれているのは、商店街の隅に咲く名もなきパンジーだ。形はいびつで色もはみ出しているが、そこには「今の健三」が見つけた輝きがあった。
「魚屋の親父さんと話したぞ。また少し、街が賑やかになった気がする」
誰に見せるでもない、二人だけの秘密の会話。
だが、その「ひとりごと」は、もう寂しい音ではなかった。
健三が立ち上がると、日当たりの良い紫の座布団の上に、一瞬だけ猫の形の陽だまりが揺れた気がした。
「ああ。明日もまた、描きに行くからな」
玄関で靴を履く健三の背筋は、もう丸まってはいなかった。
彼の歩む先には、妻が愛し、猫が教えてくれた、色鮮やかな世界がどこまでも広がっている。
秘密の落款に寄せて
『茜色のひとりごと』を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この物語を紡ぐ中で、最後までどうするか悩んだのは「完成した絵を誰にも見せず、二人だけの秘密にする」という決断でした。
現代は、誰もが「誰かに見せるため」「評価されるため」に表現をしがちな時代です。しかし、健三さんが不器用に描いた茜色の空は、ただ一人の愛する人へ届けるための「祈り」でした。
猫のハナが残した小さな肉球のサイン。それは、言葉にできない愛の証です。
物語はここで終わりますが、健三さんの日常はこれからも続いていきます。彼が描くスケッチブックの一ページ一ページには、これからも新しい思い出が、色鮮やかに刻まれていくことでしょう。
もし、皆様の隣に大切な誰かや、温かい体温を持つ存在がいるのなら。
明日、その人と一緒に眺める夕焼けが、いつもより少しだけ美しく見えることを願ってやみません。




