表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

茜色のひとりごと

作者: 浦田未話
掲載日:2026/01/24

止まった時計が動き出すとき

人は、あまりに深い悲しみに暮れると、世界から「色」が消えたように感じると言います。

本作の主人公、志摩健三もまた、最愛の妻・ハナを亡くしてからの三年間、セピア色の静寂の中で生きてきました。

部屋に響くのは、古びた柱時計の音と、自分自身の力ない「ひとりごと」だけ。

そんな彼の元に、一匹の三毛猫が迷い込みます。

猫が運んできたのは、小さな失くしものと、妻が遺した「未完成の風景画」でした。

これは、頑固な老紳士と不思議な猫が、失われた色彩を取り戻していく再生の物語です。

茜色の夕焼けが、これほどまでに温かく、そして明日への希望に満ちていることを、健三と共に感じていただければ幸いです。

第一話:茜色のひとりごと

線香の煙が、夕闇の迫る部屋で力なく揺れている。

志摩健三しま けんぞうは、仏壇の前で正座したまま、動かなくなった膝の節々をさすった。今日は妻・ハナの三回忌だった。

「……もう三年か。早いものだな、ハナ」

返ってくるのは、柱時計の規則正しいカチカチという音だけだ。元・公務員の健三にとって、静寂はかつて「平穏」の証だったが、今では冷たい粘土のように肌にまとわりつく。

「お前のいないこの家は、少し広すぎるな……」

誰に聞かせるでもない、乾いた独り言。これが健三の日常だった。

彼は重い腰を上げ、縁側の障子を開けた。西日が差し込み、部屋の隅々までが濃い茜色に染まる。その光の中に、見慣れぬ「影」があった。

「……なんだ、お前は」

そこには、一匹の三毛猫がいた。

よりにもよって、妻が日向ぼっこで愛用していた、色褪せた紫色の座布団の上に、当然のような顔をして丸まっている。

「こら。そこは、お前の場所じゃない。どきなさい」

健三が杖を突くような足取りで近づいても、猫は動じなかった。ただ、大きな琥珀色の瞳でじっと健三を見つめる。その瞳は、すべてを許容しているような、あるいは健三の心の奥底にある「後悔」を覗き込んでいるような、不思議な静謐さを湛えていた。

「ふん、図々しいやつだ。……腹でも減っているのか」

健三は鼻を鳴らし、台所から古い煮干しを一つまみ持ってきた。

「これを食ったら、さっさと出て行け」

庭先に放ってやると、猫は一度だけ小さく鳴き、煮干しを丁寧に咀嚼した。そして、食べ終えるなり、再び紫の座布団へ。あろうことか、今度は健三の足に体を擦り寄せてきたのだ。

「……っ、よせ。服が毛だらけになる」

口では疎ましがりながらも、健三の指先は、その温かい毛並みに触れていた。

三年間、忘れていた「自分以外の体温」。

その温もりが指先から伝わった瞬間、健三の心に小さな、けれど確かな波紋が広がった。

その夜、健三は閉め切るはずの雨戸を、少しだけ開けておいた。

「……名前がないのも、独り言の相手としては不便だからな」

暗闇に光る二つの瞳に向かって、彼は誰にも聞こえないような小声で呟いた。

「ハナ。……今日から、お前の名前はハナだ」

それは、もう二度と呼ぶことはないと思っていた、最愛の妻の名前。

三毛猫は、肯定するように「ニャア」と短く、優しく鳴いた。


第二話:埃を被った靴

翌朝、健三が目を覚ますと、枕元に「それ」は置かれていた。

ひどく色褪せた「押し花のしおり」。

それは生前、妻が「どこへ行ったのかしら」と悲しそうに探していたものだった。

ラミネート加工されたフィルムの中で、小さな青いネモフィラが、陽光を浴びて透き通っている。

「……これは、見晴らし公園の……」

健三は、しおりを指先でなぞった。生前、妻は春になると決まって、あの丘の上まで足を運んでいた。本棚をいくら探しても見つからなかったこのしおりは、彼女が最後に読んでいた文庫本に挟まっていたはずのものだ。

「お前、あそこまで行ったのか?」

問いかけると、ハナは誇らしげに喉を鳴らし、トボトボと玄関の方へ歩き出した。そして、重い引き戸の前で立ち止まり、琥珀色の瞳で健三を射抜く。

『ついてこい』。言葉以上に雄弁なその視線。

健三は逡巡した。昨日の三回忌、供え物を持ってきてくれた妻の友人だった節子に対しても、玄関のチェーン越しに短く礼を言っただけで追い返してしまった。外の世界は、今も自分にとって眩しすぎて、直視できない場所なのだ。

「……ふん、勝手にしろ。俺は行かんぞ」

そう呟いて背を向けても、ハナは一歩も動かない。それどころか、前足でカリカリと靴箱の扉を叩き始めた。

健三はため息をつき、数年ぶりにその扉を開けた。

奥の方で、あるじを失ったかのように埃を被っていたのは、かつて妻と揃いで買ったウォーキングシューズだった。

「……ったく。世話の焼けるやつだ」

独り言を漏らしながら、健三は屈んで紐を結んだ。指先に残る埃の感触が、止まっていた時間を少しずつ動かしていく。

外に出ると、春の風は思いのほか冷たく、そして驚くほど花の香りがした。

ハナは、健三の数歩先を、絶妙な距離感で歩いていく。

丘の頂上、大きな桜の木の下まで辿り着いた時、健三の肩を叩く者がいた。

「……あら! 志摩さん!? 志摩さんじゃないですか!」

そこにいたのは、双眼鏡を首から下げた節子だった。

「昨日、お宅にお邪魔した時はあんなに元気がなさそうでしたのに……まさか、こんなところまで歩いていらっしゃるなんて! 驚きましたわ」

健三は、咄嗟に返す言葉が見つからず、ただ小さく会釈した。

「……少し、散歩に。猫に連れてこられただけだ」

「あらあら、その猫ちゃん……。そういえばハナさんが最後に言っていたんですよ。ここで描いている『夕暮れの絵』、どうしても完成させて、健三さんに見せたいんだって」

健三の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

「……絵……?」

「ええ。未完成のままだけど、どこかにあるはずですよ。あの方の、最後の『ひとりごと』みたいな絵がね。まさかそれを探しに、ここへいらしたの?」

足元で、ハナが満足げに一度だけ「ニャア」と鳴いた。

その声は、丘の上を渡る風に溶けて、健三の胸の奥深くに眠っていた何かを、静かに揺さぶった。


第三話:未完成の色彩

丘からの帰り道、健三の心は千々に乱れていた。

節子が放った「最後の一筆を入れたがっていた」という言葉が、頭の中で何度も反芻される。自分は、妻の最も身近にいて、最も彼女のことを見ていなかったのではないか。

「……ハナ、お前は知っていたのか」

問いかけると、三毛猫は「ナァ」と短く鳴き、一直線に二階へと続く階段を駆け上がった。

辿り着いたのは、廊下の突き当たりにある物置部屋の扉だ。

健三が、妻の死後一度も開けなかった場所。そこには、遺品を整理する勇気がなくて押し込めた、三年前の「時間」が封印されている。

「……ふう」

健三は震える手で鍵を開け、扉を引いた。

埃が舞い、カビと古い紙の匂いが鼻をつく。ハナは迷うことなく部屋の隅へ向かい、古いトランクの蓋を前足で叩いた。

「これか……」

トランクの中には、数冊のスケッチブックと、使い込まれた水彩絵の具のセットがあった。

そして一番上に置かれていたのが、あの絵だった。

丘の上から見た街並みが、繊細な筆致で描かれている。だが、キャンバスの中央から上にかけて、空の部分だけが不自然なほど白く塗り残されていた。

そこには、妻が最後まで掴み取ろうとした「色」が欠けていた。

「ハナ……お前、こんなものを描いていたのか」

健三は、埃を被ったパレットに新しい水を一滴垂らした。

芸術など、役所勤め一筋だった自分には無縁のものだ。何をどう描けばいいのか、見当もつかない。

だが、彼が困惑して筆を止めた時、足元の三毛猫が不思議な行動に出た。

ハナが、絵の具のチューブの一つを、ちょいちょいと前足で転がしたのだ。

それは「茜色」のチューブだった。

驚いて猫の顔を見ると、その琥珀色の瞳が、夕陽を反射したかのように微かに赤く輝いている。

「……これを塗れと言うのか?」

健三は、震える手で筆を握った。

ハナが運んできた「しおり」の青や、ハナが生前よく着ていたカーディガンの温かな色。

ハナと過ごした日々の中にあった色彩が、健三の脳裏に鮮やかに蘇る。

彼は、人生で初めて、誰かに見せるためではない「祈り」としての色を、白い空白へと落とした。


最終話:茜色の秘密

数日後、健三は描き上げたばかりの絵を風呂敷に包み、脇に抱えた。

「……よし。行くか、ハナ」

声をかけると、三毛猫は「ナァ」と短く応え、慣れた足取りで玄関へ向かった。

丘へと続く坂道は、今の健三にとってはもう、それほど険しいものではなくなっていた。前を行くハナの、リズミカルに揺れる尻尾と、時折振り返る琥珀色の瞳。その姿を追いながら、健三はこの数週間の出来事を、静かに反芻していた。

最初は、ただの図々しい迷い猫だと思っていた。妻の座布団を占領し、勝手な振る舞いばかりする闖入者ちにゅうしゃ。だが、あの時触れた指先への温もりが、凍りついていた健三の心に最初に熱を灯してくれたのだ。

ネモフィラのしおりを枕元に置いた朝のこと。

あの時、ハナ(猫)は言葉の代わりに、健三を「今」へと繋ぎ止めようとしていた。

『ついてこい』。

そう言わんばかりに靴箱を叩いた、あの力強い前足の音。

そして物置部屋で、迷わず「茜色」のチューブを選び取った、あの神秘的な瞳。

(お前は、あいつに頼まれて来たのか。それとも……)

そんな考えを振り払うように、健三は一歩、強く踏み出した。この数週間、ハナが自分にくれたのは「思い出」だけではない。もう一度自分の足で立ち、自分の手で色を選ぶという「生きる意志」そのものだったのだ。

「待たせたな。もうすぐだ」

丘の頂上、大きな桜の木の下に辿り着いた時、世界は燃えるような茜色に染まっていた。健三は震える手で風呂敷を解き、描き上げた絵を木に立てかけた。

そこには、健三が人生で初めて絞り出した、魂のような茜色の空が広がっている。

「ハナ、見てくれ。……お前が愛した空だ」

隣に座ったハナが、じっと絵を見つめる。そして、本物の夕焼けと、絵の中の夕焼けが溶け合う。

健三はハナの頭をそっと撫でた。柔らかく温かい、確かな生命の感触。

「……ありがとうよ。お前が来てくれなきゃ、俺はまだあの暗い家の中で、時計の音ばかり数えていたはずだ」

ハナは健三の手に鼻を寄せ、甘えるように一度だけ喉を鳴らした。そして、おもむろに立ち上がると、まだ乾ききっていないキャンバスの隅に、自身の前足をそっと乗せた。

そこには、小さな泥の肉球マークが、まるで落款らっかんのように刻まれた。

「……ふふ、お前のサインか。共同制作だな」

健三が目を細めた、わずかな間。不意に風が強く吹き抜け、桜の葉が舞った。

気がつくと、隣にいたはずの温もりが消えていた。

「ハナ……?」

あたりを見渡しても、三毛猫の姿はどこにもない。ただ、夕陽の中に一筋の白い毛がキラリと光り、風に乗って空へ消えていくのが見えた。

健三は寂しさに胸を締め付けられたが、不思議と涙は出なかった。

代わりに、絵の中の茜色が、以前よりもずっと明るく、未来を照らす色に輝いて見えた。


エピローグ:色づく日々

一ヶ月後。志摩家の縁側には、今や新しいスケッチブックが置かれている。

健三は毎日、外に出かけるようになった。

坂の下の喫茶店、川沿いの散歩道、二人で歩いたバス停。

「ハナ、今日の分だ。見てくれ」

仏壇の前で、健三は今日のスケッチを広げる。描かれているのは、商店街の隅に咲く名もなきパンジーだ。形はいびつで色もはみ出しているが、そこには「今の健三」が見つけた輝きがあった。

「魚屋の親父さんと話したぞ。また少し、街が賑やかになった気がする」

誰に見せるでもない、二人だけの秘密の会話。

だが、その「ひとりごと」は、もう寂しい音ではなかった。

健三が立ち上がると、日当たりの良い紫の座布団の上に、一瞬だけ猫の形の陽だまりが揺れた気がした。

「ああ。明日もまた、描きに行くからな」

玄関で靴を履く健三の背筋は、もう丸まってはいなかった。

彼の歩む先には、妻が愛し、猫が教えてくれた、色鮮やかな世界がどこまでも広がっている。


秘密の落款らっかんに寄せて

『茜色のひとりごと』を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

この物語を紡ぐ中で、最後までどうするか悩んだのは「完成した絵を誰にも見せず、二人だけの秘密にする」という決断でした。

現代は、誰もが「誰かに見せるため」「評価されるため」に表現をしがちな時代です。しかし、健三さんが不器用に描いた茜色の空は、ただ一人の愛する人へ届けるための「祈り」でした。

猫のハナが残した小さな肉球のサイン。それは、言葉にできない愛の証です。

物語はここで終わりますが、健三さんの日常はこれからも続いていきます。彼が描くスケッチブックの一ページ一ページには、これからも新しい思い出が、色鮮やかに刻まれていくことでしょう。

もし、皆様の隣に大切な誰かや、温かい体温を持つ存在がいるのなら。

明日、その人と一緒に眺める夕焼けが、いつもより少しだけ美しく見えることを願ってやみません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ