「闇(やみ)に浮(う)かぶ人影(ひとかげ)」
魔王――
それは**神話と伝説に満ちた言葉。
人々(ひとびと)に恐怖**を与え、**悪夢を見せ、心を締めつける不安**を呼び起こす。
それは人類の敵、**絶対的**な悪、そして神への挑戦そのもの。
ゆえに――その王の名が語られるとき、我々(われわれ)の中で何かが目を覚ます。
それは震えか? 恐怖か? 痛みか?
いや、何一つとして、この闇を言い表すには足りない。
降り積もる暗黒、心を凍りつかせる眩暈、生命を吸い上げる圧迫感――。
この者こそが魔王。
石よりも確かに存在し、夢よりも儚い幻。
玉座の闇に身を潜め、我らを見つめる。
そして、口元に妖しい笑みを浮かべ、囁くのだ。
「人間よ――我を召喚した者よ。
その座を奪うために……お前は何を捧げる?」
6時27分――西暦2122年12月13日:
一人の少年が、汗に濡れた身体を起こした。
涙で滲む視界。
ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか――何一つ分からない。
混乱したまま、彼は深い夜の闇を見渡す。
何か手がかりを探していた、そのとき――
――「ん……和人? 何してるの? 起床まで、まだ三十分あるよ。今のうちに……眠っておきなよ……」
現れたのと同じくらい唐突に、その声は消えた。
再び訪れる静寂。
深く、そして柔らかい夜の静けさが戻ってくる。
安堵した和人はベッドに腰を下ろし――ようやく思い出す。
自分が誰で、なぜここにいるのかを。
和人・シンイチ、17歳。
王国ピュクシスの王立海軍士官学校――通称ARMの**戦闘航空科パイロット専攻**に所属する、まだ一年生の候補生。
卑しい身分と呼ばれる家の生まれでありながらも、彼は王国でも屈指の名門へと辿り着いたのだ。
ARMは、軍事の精鋭だけを育てる場所ではない。
科学、文学、政治、経済――といった民間の教育も行っている。
その広大なキャンパスは、木星‐太陽系のラグランジュ点L4に位置する、ガルガンチュア級軌道ステーション三基にまたがっている。
和人が今いるのは、軍事と科学分野を担当するA・R・M 3だ。
意識を取り戻した彼は、制服に袖を通し、制帽をかぶる。
そして、7時40分の集合までの時間、頭をすっきりさせるために朝の散歩へと出かけた。
軌道上の反射ミラーが、昇り始めた太陽の光を送り返す。
その中を歩きながら、彼は夢の残像を振り払おうとする。
――影に潜み、こちらを見つめる、あの妖しい眼差し。
恐怖を覚えるほどに、なぜか懐かしいその視線。
それは誰のものなのか?
なぜ、自分はあれを知っていると感じるのか――。
突然、誰かの手が和人の肩に置かれた。
彼は反射的に振り返り――同じ年頃の女子を見つける。
身長は自分より二つも低く、黒髪を前下がりのボブに切りそろえた少女。
顔には焦りがにじんでいる。
――「五分間も探してたのよ、和人!」
――「悪い、カミーユ。考え事してた。で、こんな朝早くにどうした?」
「忘れたの? 私、今週は旗当番なのよ。6時半に国旗を掲げなきゃいけないの。クリスチャンが手伝うはずだったけど……どこにもいないの。あんた、同室でしょ? まだ寝てる?」
和人は黙ったままだった。
「まったく、あのクリスチャン……ほんと頼りにならないんだから!」
カミーユはため息をつき、続ける。
「仕方ない、一人でやるわ。それで、あんたは何してたの? 当番じゃないでしょ?」
少し考えてから、和人は答えた。
「日の出を見たくて。」
カミーユは怪訝そうに眉をひそめる。
「反射鏡が回転するのを眺める? ……まあ、いいけど。」
和人が歩き出そうとすると、カミーユもすぐ後を追う。
「集合の前に朝食食べに行かない? ちょうど私も行くところなの。」
和人が口を開き、断ろうとしたその瞬間、視線がある光景に引き寄せられた。
――五十メートルほど下、科学キャンパスの地下にあるバンカーの入口へ向かうトラックの車列。
それを囲むのは、紫色の制服を着た兵士たち――シリウス。
情報活動と電撃戦を専門とする精鋭部隊だ。
だが、ARMは海軍の管轄であって……シリウスの所属ではないはずだった。
「もう三日間も続いてるのよ」
カミーユが小さくつぶやく。
「朝の五時から七時まで……あのトラックを護衛してるの。ある日は、学校の幹部たちがシリウスの将校と話しているのも見たわ。」
和人は視線をそらす。
「俺の意見だが……関わらない方がいい。」
「気にならないの?」
「気になるさ。だからこそ、距離を置くんだ。」
カミーユは、どこか失望したようにうなずく。
しかし――その直後、背後から低い声が響いた。
「賢い言葉だ、若き者よ……だが、本当に真実から逃れられると思うか?」
驚いた和人は振り返り、カミーユを腕で庇う。
「あんたは誰だ? どうやってここに入った?」
「質問が多いな……だが、答えは少ない。」
「答えろ!」
和人が苛立ちをあらわにする。
「お前の夢に潜む、あの妖しい眼差しは誰のものだ?
なぜ、その言葉が心を離れぬ?
『私の座を奪え』とは、どういう意味だ?」
「やめろ!」
和人が声を荒げる。
「一体何が目的なんだ?」
その男は、みすぼらしい格好の老人だった。
彼はゆっくりと笑う。
「問題は、私が何を望むかではない……お前が何を望むかだ。
もし、この世の流れを変える力を与えられたら……その魂を悪魔に売るか? それとも、どんな結果になろうと拒むか?」
「そんな力があってもいらない。特に、あんたみたいな怪しい爺さんからの贈り物なんてな。」
老人はわずかに頭を下げる。
「いずれ……いや、思ったより早く、その選択を悔いる日が来るだろう。」
瞬く間に、その姿は掻き消えた。
「……行った?」
カミーユが息を潜めて問う。
和人はまだ動揺しながらも、彼女をそっと押し離す。
「ああ、行った。」
カミーユは髪の毛先を指で弄りながら笑う。
「ふふ……そんなに私のこと守ってくれるなんて、知らなかったわ。」
「くだらないこと言ってないで急げ。朝食に遅れるぞ。」
和人はそっけなく言う。
二人は再び歩き出し、沈黙と考えに包まれる。
和人は、あの老人がなぜ自分の夢の内容を知っていたのか、そしてあの謎めいた言葉が何を意味するのかを思い巡らせる。
その疑問を抱えたまま――和人とカミーユは、ようやく食堂へと到着した。