第1話:赤い絵筆と笑う死体
雨が降っていた。
路地裏のアスファルトを濡らす雨粒は、赤く濁っていた。光のない月夜、警察車両の回転灯だけが、濡れた壁面を血のように染めている。
「確認するぞ。遺体は画廊オーナー・宇田川真由。絵筆を喉に突き刺され、即死」
刑事・一ノ瀬悠が資料を見ながら言った。が、現場の異様さに、眉をしかめる。
被害者は、ギャラリーの床に倒れていた。口を大きく開けたまま、まるで――笑っているような死に顔だった。
その口から、真っ赤に塗られた「絵筆」が、まるで舌のように突き出ていた。
血ではない。絵の具だ。
遺体の周囲には、まるでそれを囲うように、真紅の絵の具が撒かれていた。
犯人が描いた、猟奇的な“死のインスタレーション”。
まるで被害者自身が絵画の一部になったかのようだった。
「例の“絵画殺人”か……」
一ノ瀬が呟く。
これは今月に入って3件目。どの事件にも、“死者の視界を模したと思われる絵”が、近くに残されていた。
だが今回は違う。
遺体の目は見開かれたままで、すぐ近くの壁に――赤いペンキで一文が書かれていた。
「視えたかい?」
一ノ瀬は舌打ちした。
「……やっぱり呼ぶしかないな。あの女を」
タクシーの扉が開く。
降りてきたのは、長い黒髪を濡らすのも気にしない無精な女だった。
身にまとった黒のコートは、どこか古びていて、流行とは無縁。
「久しぶりね、刑事さん。まだそのクセ直らないの? 舌打ち」
「……神代、頼む」
「ふふ。お願いする態度にしてはそっけない」
彼女の名は神代 天音。
元犯罪心理学者であり、現在は「探偵」として、特殊な事件にのみ顔を出す――謎多き存在だ。
だが、彼女には、他の誰にもない能力があった。
「死視」――遺体に触れることで、“死者が最後に見た光景”をその目で視る力。
神代は黙って遺体に近づき、静かに手袋を外した。
冷たい死体の顔に指先を当てる。
――一瞬、空気が張り詰めた。
神代の瞳が揺らぐ。雨音が遠のいたように感じられた瞬間――
視界が、真っ赤に染まった。
赤い液体が、視界の端に垂れる。
キャンバスの向こう側に、人影。
誰かがこちらに歩み寄ってくる。
顔は見えない。だが、手に何かを持っていた。
それは――絵筆。
そして、ペンキ缶。
次の瞬間、その手が襲いかかる。視界が揺れる。倒れる。喉元に、鋭い痛み。
だが、死の直前、確かに聞こえた。
「視えたかい? 私の描いた“最後の絵”が」
神代は目を開いた。
「“赤”にこだわりがある犯人ね。けど……この犯人、かなりの知能犯よ」
「どういう意味だ」
「遺体の視界には、犯人の顔が映ってなかった。わざと、視界に入らない位置で襲ってる」
「だが、絵筆で殺すなんて……どうやって即死させた? 喉を刺すにはそれなりの力が……」
「普通の絵筆じゃない。これは、芯に鋼の針が通ってる“加工された武器”よ。芯は折れてて、内部に毒も仕込まれてた。血中に猛毒が流れた痕跡がある。鋭利で、そして致死性」
「――つまり、絵筆を“殺す道具”として改造してるってことか」
「ええ。芸術家気取りの連続殺人犯。“死体”を“作品”にしてる」
神代は壁に残された言葉を見る。
「視えたかい?」
それは、神代自身への挑発のようにも思えた。
「この犯人……“死視”の能力の存在を知ってるかもしれない」
一ノ瀬が言葉を失う。
神代は静かに答えた。
「いいじゃない。ちょっとは退屈が紛れるわ」