真実の愛に目覚めたので婚約破棄……してあげました
(アンドレイside)
「ヘンリク様、こちらにいらしたのですね」
「あ……デ、デイフィーリア。な、なにか僕に用事?」
「ふふ、ええ。またあなた様に詩をしたためましたの。それを渡そうと思って……。それよりも、フィリアとは呼んでくれないのですか」
窓辺に並んだ二人の姿は、まるで古典の一節に登場するようだった。学園の庭を望むその場所で、侯爵令嬢デイフィーリア・サルディルバルと子爵ヘンリク・グリエゴは、柔らかな光の中に溶け合うように寄り添っていた。
恋する顔を隠すこともなく笑うデイフィーリアと、口下手ながらも彼女を気遣う眼差しを向けるヘンリク。その親密さは誰の目にも明らかで、生徒たちの噂の的となるには充分だった。
「……」
アンドレイ・ライネスは、婚約者であるデイフィーリア・サルディルバルが、自分以外の異性――ヘンリクと仲睦まじく過ごしている光景を、中庭が良く見える学園の窓から遠く見つめていた。
サルディルバル家とライネス家は、共に侯爵家だ。同じ爵位同士ゆえに、次男アンドレイと一人娘デイフィーリアの婚約は早くに結ばれた。
燃えるような恋とはおとぎ話の中のこと。貴族に生まれた自分達には縁がなかったが、それなりに年数をかけ信頼関係を築いて来たと思う。
――だと言うのに。
今この時、彼女の隣にいるのは、同級生のヘンリク・グリエゴ子爵だ。
口下手で社交が苦手という、貴族男性らしからぬ評価が有名だが、同時にその儚げな美貌も令嬢達の間では常に囁かれている。学生の身ながら既に子爵位を持っているが、それも彼が公爵家の親戚筋の身で、空位のまま残っていた子爵位を身内可愛さに与えたというものだ。
そんなヘンリクが、最近はデイフィーリアと行動を共にしている。アンドレイはその光景を何度も目撃していた。
以前まではデイフィーリアはアンドレイ宛によく婚約者として近況を尋ねる手紙やデートの誘いの手紙を寄越していた。しかし最近はそれもぱったりと途絶えている。彼女自身の気持ちが、アンドレイから離れているのは明白だった。
だがアンドレイは、ただ怒りや失望に沈んでいたわけではない。
(そろそろ備えておかなければならないか……)
悲しんでばかりもいられない。
侯爵家の次男であるアンドレイは、デイフィーリアと結婚することで、サルディルバル侯爵家に婿入りし当主となる予定だった。
しかしデイフィーリアのあの調子では、この話がまともに進むとは思えない。よくて婚約破棄を言い渡されるか……まさかとは思うが、真実の愛を語りヘンリクを愛人として扱うのか。考えただけでも頭が痛い。
どのみちどのような展開になろうとも、デイフィーリアが行っている不貞行為の証拠は必要だ。
アンドレイは二人の親密な接触時間、場所、行動を記録していった。
そんな中でも、デイフィーリア達を見かけては落ち込んだ様子を見せるアンドレイに、周囲の友人たちが協力を申し出てくれた。証言が必要であれば、自分達が見たままを話すと。
王家との繋がりを持つサルディルバル家と比べれば、家格では劣る者も多いというのに……アンドレイの友人達は「高位貴族であろうと間違いは正すべきだ」とあたたかい声をかけてくれたのだった。
――卒業パーティの日がやってきた。
アンドレイは、デイフィーリアに贈ったドレスに合わせた燕尾服で会場に向かった。
デイフィーリアへは事前に手紙でエスコートを申し出ていたが、予想していた通り返事はなかった。そしてそのまま、彼女は約束の場所に現れなかった。
「まあ、ライネス様は何故お一人なのかしら」
「パートナーの方の姿が見えませんわね……」
会場の一部から疑問の声があがる。覚悟していたとはいえ羞恥からつい俯いてしまいそうになる。しかし、今まで培ってきた侯爵家の人間としての誇りがそれを許さなかった。
しかし、次の瞬間――
「あら、〝ライネス〟様」
……ああ。婚約者として、もう名前すら呼んでくれないのか。
鈴の音のような声に振り返れば、そこにいたのは紛れもなく、彼の婚約者であるはずのデイフィーリア。そして、その隣には――ヘンリク。
デイフィーリアは翡翠色のドレスを纏っていた。アンドレイの碧眼からはほど遠い……ヘンリクの瞳の色だ。
ヘンリクの装いにも、彼女の瞳の色であるガーネットがあしらわれている。二人が互いの色を合わせてきたのは隠す気もないようだ。
「こんばんは……ライネス侯爵令息。ご健勝のご様子で、何よりです」
ヘンリクが淡々と挨拶をする。そのまるで害のなさそうな表情に、笑顔のままのアンドレイの眉がぴくりと動く。
彼はあまりに自然に、当然のように言葉をかけてきた。
デイフィーリアを伴った浮気者が、本来の婚約者に向かって平然と声をかける。その厚かましさにアンドレイは瞬間的に怒りが湧いた。
(……何故、ここまで侮られなければならない)
アンドレイの前で寄り添う二人の様子は、まるで正式な婚約者のようだ。何も知らぬ者が見れば、己こそが第三者に映ることだろう。
拳を握るアンドレイに、デイフィーリアが朗らかに言う。
「ああ、そうですわ! そういえば私、今日という日にライネス様にお伝えしたいことがあったのです」
――来たか。
婚約破棄の通告だ。
ざわ、とアンドレイの心が逆立つ。
卒業パーティが行われているこの会場は広いが、その分参加者の人数が多い。それ故に、今三人の周囲には何人もの生徒やその親たちがパーティを楽しんでいる。
そもそも、婚約者同士であるデイフィーリアとアンドレイが入場を共にせず、アンドレイが一人で入場したことで、今自分たちは注目を浴びている。
しかしそんなことは意にも介さず、デイフィーリアは言葉を続けるのだ。
「ライネス様、私はあなたとの……――」
「いいや、デイフィーリア。それ以上はいい」
アンドレイはデイフィーリアの言葉を遮った。
そして言い放つ。
「婚約破棄の件、光栄だよ。ぜひそうしよう」
その瞬間、会場が静まり返った。
デイフィーリアの表情が一瞬で固まり、驚きに染まる。
――婚約破棄を告げられるなら、先に告げてしまえばいい。
彼女の婚約者としての不適格な行動の証拠と証言は集めてある。いくらサルディルバル家が王宮と繋がりがあり、影響力が強い家だとしても、これだけ後ろ暗い証拠が揃えば、可愛がっている一人娘とはいえ侯爵も庇うこともないだろう。
「あ、アンドレイ・ライネス……! このような席で何を言い出すのですか!?」
そばに居た学園の教師が慌てた声を上げるが、アンドレイは構わず顔を上げ、堂々と語った。
「デイフィーリアとヘンリク、君達の交際の記録と証言は揃っている。僕に非があるとは言えないが、君にも言い分はあるだろう……だから、互いに自由になるのが最善だと思ったんだ」
「っそうです、先生! デイフィーリア様は、彼という婚約者がありながら、グリエゴ様と学園内で仲睦まじく過ごしております! 淑女たれと教えられる学び舎で、このような不貞は許されるべきではありません!」
「その通りだ! 俺の友であるアンドレイは、デイフィーリア嬢の行いに心を痛めていました! しかし無理に問いただすこともできず……ただ自分の行いが悪いのだと言っていました!」
「……みんな」
アンドレイの心がじんと温まる。
声があがった方を見れば、デイフィーリアの不貞を証言することを申し出てくれた友人たちがいた。日頃から落ち込むアンドレイを慰め、励ましてくれた存在だ。中にはデイフィーリアの家に睨まれれば家業すら危うい者もいるというのに。
勇気をもらったアンドレイは、改めて真正面からデイフィーリアを見据える。そして……
「デイフィーリア……僕は残念だ。君とは幼い頃から婚約者として信頼関係を築いてきたと思っていた。だがそれは僕だけの考えだったようだ。婚約破棄するならどうぞ勝手にしてくれ。僕からも、サルディルバル侯爵にことの子細は伝えよう。――僕は僕で、新しい未来に進む」
これまでの苦しい日々とは、これで決別だ。
「あの……ライネス様? それとそちらの皆様方は、いったい何をおっしゃっておりますの……?」
「……え?」
そのはずだった。
***
(デイフィーリアside)
デイフィーリアは、手紙を綴るのが好きだった。
家族の誕生日には贈り物と共に日頃の感謝や気持ちをしたためるし、友人達には何もなくとも最近の出来事や様子を訊ねる手紙を出す。
親しい相手とは常に気持ちをやりとりしたい。元気がない時は励まし、嬉しいことがあったならば共に喜びたい。
そんなデイフィーリアには、幼い頃からの婚約者がいた。
ライネス侯爵家の次男、アンドレイだ。デイフィーリアは一人娘で、サルディルバル家は婿を迎える必要がある。両家はかねてより交流があり、同じ侯爵位を持つライネス家との縁談は早々に決まった。
「アンドレイ様に、お手紙を書きましょう!」
その頃には手紙を書くことが当たり前になっていたデイフィーリアは、アンドレイと仲良くなりたい気持ちで手紙を送り続けた。
「――お嬢様、最近お手紙を書かれていませんね」
「ルーナ」
長年勤めてくれている専属侍女が、デイフィーリアに紅茶を差し出しながら心配そうに問いかける。
彼女が言っているのは、婚約者アンドレイとの文通だ。婚約者となってから互いを知る度に幾度となく交わした文も、ここ数年ではすっかり回数が減っていた。
――いや、正しくは、アンドレイからの返事がこなくなったのだ。
「仕方ないわ。こうしたやりとりが苦手だったり、面倒に感じる方もいるもの。貴族であるならば使用人に代筆させることも多いし……。こればかりは私のわがままだもの」
「でも最近は、お茶会のお誘いにも応じてくださいません」
「ええ。けれど贈り物は頂いているし、婚約者としての交流はしてくださるわ」
本来ならば侍女がそこまで口を出すことは好ましくない。しかしここはデイフィーリアの私室で、二人きりだ。長年の付き合いがあることから、彼女が本気で心配していることは明白だった。
不満げに彼女のむくれた顔につい笑みを漏らしつつも、デイフィーリアは少しだけ目を伏せた。
「ルーナの言う通り……本当ならもっとお会いしたいし、叶わないならせめて手紙だけでもと思ってしまうわ。でもわがままを言うわけにもいかないから。また、手紙のことで親しい人をなくしたくないもの」
「お嬢様……」
デイフィーリアはかつて、手紙を送り過ぎたことで、ある友人との関係を絶たれたことがある。辟易した友人から「付き合っていられない」と交流を絶たれたのだ。
悲しみながらも、その一件はデイフィーリアにとって忘れ難い教訓となった。善意であっても、過ぎれば負担となる。両親にそう諭され、それからはきちんと送る頻度を考えるようになった。
その一部始終を知っているルーナは、思わず訴えるように言った。
「わ、私は、お嬢様がくださるお手紙、大好きですよ! バースデーの手紙も、記念日の手紙も、すべて大切に大切にとってあります。他の使用人たちもきっとそうです」
「まあ。ふふ、嬉しいわルーナ。私もあなたからのお手紙は大切にしているの……って、あなたが管理してくれているもの、知ってるわよね」
二人でふふと笑い合う。重苦しかった空気が、少しだけ和らいだ。
「また書いた時は、貰ってくれる?」
「はい! ……あっ、それと。また例のお手紙が届いていましたよ」
彼女が差し出したのは、二輪のダリアと、見覚えのある封筒だった。
これは定期的に届く、匿名の手紙だ。その中には、何気ない日常を綴った詩が書かれている。恋文ではないが、読めば心がふわりと温かくなる。デイフィーリアを想って綴られたのだと感じさせるやさしい言葉たちだった。
差出人は不明だった。だが、かつて自分が発表した詩のファンだという言葉と、その心のこもった内容に、デイフィーリアはむしろ送り主のファンになっていた。
本当は自分からも返したい。詩でも手紙でもいい。でも、相手が誰か分からなければ返すことはできない。ダメ元で仲介の花屋に尋ねたが、貴族御用達の店は顧客の名を決して明かさなかった。
だから、彼女はその手紙が届くのを、ひそかに心待ちにするようになっていた。
そんなある日――
「あら? その筆跡……」
「え……うわ!? サルディルバル嬢!?」
学園の図書館に、調べ物をしようと寄った時だ。普段は立ち寄ることはないのだが、気分転換にと訪れていた。
その際目に入ったのは、人気のない詩歌エリアで書き物をする生徒。それだけならばよくある光景なのだが、デイフィーリアの目に留まったのは男性が使うにしてはかわいらしいレターセットと、封筒に綴られていたデイフィーリア宛の名、そして見慣れた筆跡だ。
「あの……ヘンリク・グリエゴ公爵令息――いえ、今は子爵様でしたね。こうしてお話しするのは初めてかと存じます。デイフィーリア・サルディルバルと申します」
「……は、はい」
「驚かせて申し訳ありません。手紙の内容を勝手に見たことも謝罪いたします。ただ……その、お聞きしてもよろしいかしら」
書き物中に突然割り込むのは、初対面にしては不躾だ。そして問いかけるまでもなく、答えはすでに分かっていたけれど、それでも――どうしても確かめたかった。
――結論を言えば、長年の手紙の送り主はヘンリクだった。
そのことが知れてからは早かった。
学友としての交流が始まり、詩の話やお気に入りの作家について語り合う日々。今度は名前を添えた手紙を交わし、図書館で向かい合って過ごす時間も増えた。
その中で、デイフィーリアは彼が自分を知ったきっかけを聞く。
幼い頃、茶会に参加した礼状を手書きで送ったこと。それが、ヘンリクの心に残ったのだという。
家族や周りの貴族たちは単なるマナーとして手紙や贈り物のやりとりをするのみで、代理を立てることも当たり前とされている。そんな中、幼いながらに手書きの手紙を貰ったことで心が温かくなったというではないか。
その後、社交界内でたまに発表される彼女の詩を見聞きする内にファンになっていく。
しかしその頃には既にデイフィーリアには婚約者がいたため、軽率に接点を持つのはよくないと思い、花屋のサービスが始まってから時折匿名で送るのみにしていた。
――その言葉に、デイフィーリアは心から嬉しく思った。
ちょうどあの時期だった。手紙が重荷だと言われ、友人に去られた頃。自分の落ち度も反省できた出来事だったが、ヘンリクのように喜んでくれる人もいたのだと思うと、過去の傷が少し癒えたように感じた。
けれど――それだけでは済まない想いが、彼女の内に芽生えていく。
(……私、ヘンリク様のことが好きだわ)
この国において、恋愛と結婚は別物だ。
特に高位の貴族ともなれば、婚姻とは家と家をつなぐ「契約」であり、互いに家を守るためのビジネスパートナーとしての意味合いが強い。だから、愛する人を愛人に――という形も、珍しくはなかった。
でも、デイフィーリアには、それができそうになかった。
契約としての婚約だとしても、相手を愛したい。そして、同じように愛されたい。
例え愛人を持つことが許されていても、複数の相手に心を分けるような器用さは自分にはない。
そのことをはっきりと意識したのは、アンドレイに宛てて、最近話題となっているオペラへ誘う手紙をしたためていた時だ。
季節の話題を添え、文面の言い回しにも気を配っていたはずなのに、ふとした瞬間、筆が止まった。
――この手紙に返事は来ない。ずっと、来ていない。
そう思った瞬間、それまで悩んでいた言葉選びが、まるで霧が晴れるように消えていった。
もちろん、彼が侯爵家に婿入りする以上、相応の責務と学びに追われているのだろうとは思っていた。
だが近頃、学園内での彼の成績が目に見えて落ちてきていることや、友人たちと連れ立って賭け事や狩猟に興じている噂も耳に入っていた。
多忙のため返信が滞っている――そう信じていられた時期は、もう過去のものだった。
彼の中で自分が、もはや日常の雑事のひとつに埋もれる程度の存在となっているのだと。そう気づいたとき、胸の奥に冷たいものが差し込んだ。
また、デイフィーリアは知らなかったが――
アンドレイが手紙に返事を寄越さなくなった理由は、決して冷淡な拒絶でも、意図的な断絶でもなかった。
アンドレイは、幼い頃からデイフィーリアから送られてくる数多の手紙に囲まれて育った。
端正な筆致、丁寧な言葉遣い、封蝋に忍ばせた香。どれもが細やかな愛情の証であり、彼女の気遣いを映すものだった。
けれど、あまりに日常に溶け込んでしまえば、人はそれを特別とは感じなくなる。
はじめのうちは、将来を見据え、彼女との関係を築こうと心を砕いていた。だが学園に上がる頃には、「もう互いのことは十分にわかっている」と、どこかで慢心が芽吹いていた。
多忙な日々に紛れ、返信を後回しにするうち、それが習慣になっていたのだ。
「そのうち返せばいい」
「彼女なら、きっと分かってくれる」
――そんな気安さからくる行動だった。
アンドレイの中では単なる「しばらく返事を溜めている」という感覚だったが、デイフィーリアにとっては違った。
手紙を出すたびに、返事を待つたびに、胸の奥に小さな棘が刺さるような違和感があった。そしてその棘は、積もることこそあれ、癒えることはなかった。
――私はもう、彼にとって手紙を返すに足る相手ではないのだろう。
そう結論づけた瞬間、胸のどこかで何かが静かに途切れる音がした。
それは激情ではなかった。涙も怒りもなく、ただひっそりと、すべてが終わったのだと理解するような感覚だった。
例えばもし、アンドレイが「今は忙しくて返せない」と一言でも伝えていれば。
あるいは、かつての友人のように「少し距離を置きたい」と、はっきり線を引いてくれたのなら。
彼女はそこまで深く傷つかずに済んだのかもしれない。
けれど何も言わず、何も示さず、ただ無言のまま時をやり過ごした彼の沈黙は、彼女にとって拒絶以上に冷たかった。
そんな己の状態を気付かせてくれたのは、ヘンリクの存在だ。
図書館で偶然目にした、手紙をしたためるヘンリクの横顔。その姿に、デイフィーリアは物語で語られる「誠実な愛し方」というものを見た気がした。
――自覚してしまえばもう戻れない。
だってデイフィーリアは、ヘンリクの自分への淡い恋心を、出会ってすぐに見抜いていた。
わからないはずがない。あくまで学友としての距離を保ちながらも、向けられる気遣いも視線も、酷くあたたかかった。春の陽気のよう熱がいつもあった。
自分の詩や言葉に真摯に返してくれる――そんなヘンリクの存在こそ、「通じ合う関係」の象徴に思えた。それこそ、真実の愛とでもいうかのように。
気持ちが止まらなくなったデイフィーリアは、ある日、最後の賭けとして、手紙にそっと恋心を忍ばせた。
それはある恋の詩歌の一節――もし彼に応える気持ちがなければ、きっと受け流されてしまうだろうという短い一文だった。
これで実らなければ、生涯、堅実に家を守る貴婦人として生きていこう。そう心に決めていた。
しかし、
「――僕がすべて、負います。あ、あなたの婚約解消における一切の影響も、慰謝料も、責任も!」
ヘンリクがそう言ってくれた時、デイフィーリアは思わず泣いてしまった。扇子で顔を隠す余裕もない、貴族令嬢にあるまじき涙だった。
それからデイフィーリアは、父であるサルディルバル侯爵に頭を下げ、アンドレイとの婚約解消、そしてヘンリクと結ばれたいと願い出た。
もちろん、表向きには「デイフィーリアの個人的なわがままによる申し出」であることを強調するように頼み込む。だが同時に、送った手紙の返事がこないことや、義務に関係ない誘いには一切応じられていないことも、父には包み隠さず説明した。
デイフィーリアは家族や親しい人々に、季節の贈り物を選び、感謝や祝意を言葉にして伝えてきた。そんな娘を、サルディルバル侯爵と夫人はたいそう可愛がっている。使用人たちも皆、彼女の人柄を心から慕っていた。だからこそ、娘が傷つく未来を見過ごすことはなかった。
侯爵は黙って娘の言葉を聞き、最後には「おまえがそこまで言うのなら」と大きく頷いた。
普段から、家の名に恥じぬよう努力を重ねていた娘がこうして願い出たこと、それがどれほどの覚悟をもってのことかを理解したからだ。
そして――「あの子の心を軽く見るような真似をされたのなら、こちらも婚約解消という手を打とう」とも。
話は思いのほか円滑に進んだ。
サルディルバル家からの丁重な申し出に、ライネス侯爵夫妻も深くは問わなかった。
むしろ、これまで幾度となくデイフィーリアから届いていた自分たちを気遣う手紙や贈り物を思い返し、「あのような心優しい娘と縁を結べなかったのは、我が家の損失だ」とさえ笑って口にした。
もとより結婚する本人達の意向よりも、家同士で結んだ婚約だ。当主同士の合意さえあれば話は早い。当事者たちには各家から通達がいくのみ。慰謝料についても婚約期間に応じた規定額が支払われることとなり、至極穏便に話はまとまった。
とはいえ、婚約解消後すぐに別の相手との噂が立つようでは、三家すべての顔に泥を塗ることになる。
半年間の猶予期間を待って、デイフィーリアとヘンリクの婚約を公表することになる。
ちょうど、学園の卒業パーティーが初めて公の場で互いを伴う夜会となった。
***
(アンドレイside) 卒業パーティ
「という話でまとまったのが、ちょうど一年ほど前だったと記憶しております」
「……は、あ?」
驚きでアンドレイの声が裏返っているのも構わず、会場が今までにないほどざわめく。
「どういうことだ」
「婚約が解消されていたことを、令息は一年も知らなかったと……?」
「そんな馬鹿なことがあるのですか?」
貴族たちの疑問はそのままアンドレイに突き刺さる断罪の言葉のようだ。
そんなこと、こちらが知りたい。
デイフィーリアは何を言っている……!?
「婚約についての子細は各家から当人に通達がなされました。私もライネス侯爵様からそうお聞きしています。通達とは別に、私からライネス様宛てに、謝罪の手紙を何通かお送りいたしました。私の……いえ、私たちの我儘で長年の婚約を解消するのだから謝罪の言葉は自らと思いましたが……そのご様子だと、開封はされておりませんのね」
「父上が……!? そんなわけはない! 僕は何も聞いていない!」
どこの家に息子に直接話を通さず、婚約の解消を決める親がいる!
そうアンドレイが思わず声を荒げて反論する。
「――貴族の婚約など、そんなものでしょうに」
しかし、背後から聞こえてきた野次に体が硬直した。
「それにご覧になって、令息のご友人方。確か下級貴族の出ばかりではありませんか」
「ああなるほど。彼らは知らなかったのだろうな。侯爵以上であれば、サルディルバル家の新たな婚約については当然耳に入ってきたはずだ」
「しかし令息自身が侯爵家の身……。家からの通達も、婚約者からの手紙も見ていないとは、いやはやどんな学園生活を送っておられたのやら」
誰かが言った言葉に、アンドレイはカッと顔が熱くなる。咄嗟に狩りや賭博に遊びまわっていたことを思い出した。
手紙……手紙だと?
そんなもので婚約の話が流れるのか? 家からの通達だけで済まされるのか?
それに、それに……
「あ…………」
デイフィーリアからの手紙?
そんなものは受け取っていない。正しくは……多分、届いてはいたが、自分はそんなもの目にしていない。
ここ数年、彼女からの手紙を気にしたことがない。
「じ、じゃあ……」
今まで自分が嘆き悲しみ、その中でも奮闘していたのは、なんだったのか。
忌々しい気持ちで、仲睦まじい二人を窓から見下ろしながら思ったことも。
『……まさかとは思うが、ヘンリクを愛人として扱うのか?』
――愛人どころか、正式に夫婦となる婚約者同士だ。不貞でも何でもない。
今日この会場で、どこかの夫人に囁かれたのも。
『まあ、ライネス様は何故お一人なのかしら』
――あれは「共にパーティに参加してくれるパートナーすらいないのか」と言われていたのだ。
つい先ほど教師が声を上げたのも。
『あ、アンドレイ・ライネス……! このような席で何を言い出すのですか!?』
一年も前に既に済んだ話を、何故この祝いの場で持ち出すのかと咎められていた。
デイフィーリアが不思議そうに言ったのも。
『ライネス様、それとそちらの皆様方は、いったい何をおっしゃっておりますの?』
何故、デイフィーリアが己の婚約者だと、まだ、思っているのかと――
「……はあぁ?」
額をかきむしりながら、アンドレイはわけが分からないといったように声が裏返る。わかりたくないだけかもしれない。
自分の婚約はとっくに解消されていた。
そうなれば、今まで見てきたものが全てひっくり返る。アンドレイの憤りは無意味だった。『婚約者の不貞に心傷つくアンドレイ・ライネス』など、この世界のどこにもいなかったのだ。
その証拠に、アンドレイと共にデイフィーリアを糾弾してくれた友人たちは、すっかり縮こまっている。
瑕疵のないことであれだけ声高々にデイフィーリアとヘンリクを責め立てたのだ。中には青い顔をして震えている者もいれば、アンドレイに「どういうことなんだ!」と顔を赤くし憤慨する者もいた。
みな気の置けない友人同士であったのに、アンドレイは彼らの善意も友情も踏みにじったことになる。
「混乱されているところ失礼ですが」
これまでずっと黙っていたヘンリクが口を開く。口下手で、どもることも多かった彼は、この場だけはまっすぐにアンドレイを見据えている。
「急な婚約の解消で、サルディルバル家にもライネス家にもご迷惑をかけたのは事実。ライネス侯爵令息にとっては、幼少期よりの婚約を白紙にされ驚いたことでしょう」
白紙。それは互いに何の瑕疵もなかったことを証明する形式である。アンドレイはその単語にほんの少しの間、思考を取られた。
「しかし……こうして今日この場まであなたが思い違いをしていたのは、デイフィーリアからの手紙を無下にしていたからだ。彼女からの手紙を読んでいれば、せめて開封していれば、婚約解消については知ることができていたはず」
「……それは!」
アンドレイはここ数年もの間、彼女から届いていた手紙を開封したことがなかった。
婚約者としての贈り物はやりとりしていたし、誕生日にはきちんと会っていた。しかし逆を言えばそれ以外にある大事な用の時は、使用人づてで伝言を受け取るのみだ。
学園に入ってからは時折届く家からの手紙も同じようにしていたので、まさか婚約解消なんて重要な話を手紙一つで済まされるなんて思ってもみなかったのだ。
「婚約者からの手紙だけでなく、まさかご実家からの知らせもろくに見ていないとは思いませんでしたけどね」
「ヘンリク様……」
デイフィーリアが不安げにヘンリクを見上げる。そんな彼女に頷き、手をとって、ヘンリクはアンドレイに向き直った。
「フィリアと僕が不貞? 婚約解消後、慰謝料はもちろんのこと、こちらはあなたの評判のためきちんと半年の期間を空けました。婚約解消にあたり全ての義務を果たしています。それなのに、このような場で〝勘違い〟によって貶められるとは」
「あ……。す、すまな…………かった……」
ヘンリクが言っている内容は至極正当だ。
どんな事情があれ、貴族が情報に精通していないことはすなわち社交界において死を意味する。よりにもよって学園の卒業パーティで自らの能力を示してしまったアンドレイは、友人たちと共に顔を青くするばかりだ。
それに……恋と結婚が別物とはいえ、だからこそ体裁が重要視される貴族社会の中で、婚約者であったデイフィーリアをどう扱っていたのかが、こうも悪く知れ渡ってしまった。
「ライネス様……」
そんな彼に、今までただ佇んでいたデイフィーリアが一歩歩み寄る。
「改めまして、今まで婚約者としての義務を果たして下さり、ありがとうございました。それと先ほどお伝えしようと思ったのですが、先日迎えたお父上であるライネス侯爵様のお誕生日、おめでとうございます」
「デイ……サルディルバル嬢。いや、こちらこそ……。ッ祝いの言葉も、父に伝えよう」
「はい。ライネス様にも良きご縁があること、お祈りしておりますわ」
それは、ただ単にこの場を収めるための言葉だった。これ以上アンドレイが責められることを望んではいないようだ。
しかし、それが彼女の本心かどうかは、アンドレイにはわからない。
婚約者として、そしてこれから共に侯爵家とその領地を治めていくのだと思っていた女性が、いつの間にかこんなに遠い。
「フィリア」
「はい、ヘンリク様」
そっと腕を差し出し、愛おしげにデイフィーリアと見つめるヘンリクがエスコートを促す。その様子に嬉しそうに目を細めた美しい令嬢は、今度こそアンドレイには目もくれず、会場を後にした。
――真実の愛。
なるほど、二人はそれで固く結ばれているだろう。
アンドレイは巷で流行している物語でよく使われているセリフを思い出し、別の入り口から会場を出て行った。
まずは父であるライネス侯爵に叱られ、きっとその後は領地に送られるのだろう。
己の未来図をぼんやり思い浮かべるも、この混乱と後悔の中では、どうしてもうまく描けなかった。
しばらくして、とある令嬢に匿名で贈り続けた男性子爵の詩集が出版される。
学園から聞こえてきていた前評判もあり、広く知れ渡ったその詩たちは、愛しい相手に送る手紙にその詩を引用することが社交界で流行するほど親しまれた。
思いついたのでリハビリで書きました。
アンドレイがやらかしたのは、手紙の回数が多い婚約者(+実家)を無視しただけで、あとは運が悪かった(ヘンリクたちが出会ってしまった)だけです。
アンドレイが贈ったドレスは多分デイフィーリアの母親あたりが直感を働かせて隠しています。ただそれも「婚約解消後も娘のことを想って…?」と思っていのに後日勘違いか~いと知ります。
2025.7.2 ちょっとだけ加筆修正。
更に指摘があった箇所も修正しました。やべやべ。
誤字報告ありがとうございます。