表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

思考鳥籠

作者: 依篭塗吏

「君は鳥籠に入ったことがあるか?」


その問いを投げかけてきたのは、大学時代の親友であり、現代アートを生業にしている蒼井だった。

ぼんやりと煙草の煙が漂うアトリエで、彼は床に描いた不可解な模様の上にしゃがみこみ、まるで悪戯を思いついた少年のような顔で僕を見上げていた。


「鳥籠って、あの……檻の?」


「まあね。でも僕の鳥籠はちょっと違う。ほら、見てみなよ」


蒼井が指さしたのは、アトリエの奥に据えられた奇妙な立体作品だった。

鉄線が複雑に絡み合い、楕円形の鳥籠を模している。

ただし通常の鳥籠と違うのは、扉がない。

どこからも入れず、どこからも出られない——だが、中にはちゃんと小さな椅子が据えられている。


「入る場所がないじゃないか」


「それが、思考鳥籠なんだ。物理的には入れない。でも、君の思考なら入れる」


意味がわからない。

だが、蒼井はいたずらっぽく笑って、僕に一冊のノートを差し出した。


「このノートに『鳥籠に入った』と三回書いてみて。冗談だと思ってもいい。ルールはただ一つ、他人には絶対見せないこと」


——奇妙な頼みだ。

だが僕は、蒼井の言葉には逆らえなかった。

昔から、彼の奇策には、いつも巻き込まれてきた。

興味半分、面倒くささ半分で、ノートの表紙をめくる。

すでに何ページか、他の誰かの手書きの文字が書き込まれている。


『鳥籠に入った』


僕はそのフレーズを、三回、丁寧に書いた。

最後の一文字を書き終えた瞬間、奇妙な既視感が頭をよぎった。

何か、ずっと以前にもこれと同じようなことをした気がする——。


「よし、それでOK。ノートは僕が預かる」


蒼井はノートを取り上げ、乱暴に机の引き出しへ放り込んだ。

僕は気の抜けた気分で、なんとなく鳥籠を眺めた。

中の椅子が、いつの間にか二脚になっているような気がした。


蒼井のアトリエから帰る道すがら、胸の奥に不穏な感覚が残った。

鳥籠、ノート、入れないはずの中の椅子——。

それらが妙に脳裏にこびりついて、離れなかった。



 


数日後、職場で事件が起こった。

同僚の神谷が、会議中に突然、窓から飛び降りたのだ。

幸い命に別状はなかったが、彼女の口から漏れた最初の言葉は奇妙だった。


「……あの鳥籠から、出られなかった」


心底ぞっとした。

その言葉に、まるで自分の内側を引き裂かれるような感覚があった。

——どうしてだ?鳥籠?それは、つい数日前に自分が関わった、あの作品のことじゃないのか?


神谷とは特に親しかったわけではない。

だが、彼女のデスクの上にあった小さなノートに目がとまる。

表紙には手書きで「Birdcage」とだけ書かれていた。


 


夜、アトリエに戻った。

蒼井はいつものように無造作に床に座り、薄暗いライトの下で何かを作業していた。

僕は、居ても立ってもいられず、彼に問い詰めた。


「蒼井、あのノート、他の人にも同じことをさせたのか?」


「……させたよ。最初は遊びのつもりだった。でも、ある時から本当に鳥籠が動き出した」


「それは、どういう——」


蒼井は静かに立ち上がった。

その顔は妙に真剣だった。


「この世には思考が現実になる時がある。もし君が、自分が鳥籠の中にいると思い込んだら、本当に出られなくなることもある。人間の常識は、その程度のものなんだよ」


嘘だ、そんなはずがない。

でも、神谷のあの顔。

ノート。

鳥籠。

頭の中で点と点がつながっていく。

僕は無性に怖くなった。


 


その日以来、日常に小さな違和感が増えていった。

職場の会議室の椅子が一つだけ古い型に変わっている。

通勤電車の窓の外、同じ場所に鳥が何羽も留まっている。

家の扉を閉めるたび、「ガチャン」という金属の音がやけに耳につく。


 


ある朝、目覚めると枕元にノートが置いてあった。

それは確かに、蒼井のアトリエで書き込んだはずのノートだった。

開くと、自分の筆跡で、三行のフレーズ。


『鳥籠に入った』


どうして、ここに——?

いや、それより、これを書いたのは本当に自分だったのだろうか?


不安と恐怖が、現実を侵食し始めていた。

そして、いつしか——

僕は、夢の中で何度も同じ光景を見るようになる。


見渡す限りの鳥籠。

それぞれの中に、自分と同じ顔をした人間が、ただ黙って座っている。


 


思考鳥籠——。

果たして、僕は今、どこにいるのだろうか?


それからというもの、僕の世界は静かに、しかし確実に歪んでいった。


最初に異変を感じたのは、家の鏡の前に立ったときだった。

眠気の残る目をこすりながら歯を磨く。

ふと顔を上げると、鏡の中の自分が一瞬だけ、誰か別人の顔になった気がした。

すぐに元に戻ったが、そのとき心の奥底に沈んでいた恐怖が泡立ち始めた。


日常の風景が微妙に違う。

通い慣れた駅のホームで、同じ服を着た男が三人並んで座っている。

カフェの奥の席に座る女性が、こちらを見て微笑んでいる——と思ったら、その目には瞳孔がなく、真っ黒な穴が開いているように見えた。


自分が狂ってきているのか、それとも世界が変質しつつあるのか。

分からないまま、仕事も私生活も、ただ不安に苛まれながら過ごしていた。



 


そんなある日、蒼井から一通のメールが届いた。


『ノートを返してほしい。今夜、アトリエで待つ』


妙にぶっきらぼうな文面だった。

ノートは、いまだに僕の手元にあった。

枕元で見つけてから、ずっと開くことができずにいた。

あの三行が目に入るだけで、胸の奥がざわつく。


蒼井のアトリエに向かう道すがら、頭の中で警鐘が鳴り響いていた。

鳥籠。

ノート。

誰かの記憶。

僕は果たして、現実の地面を踏みしめて歩いているのだろうか?


 


アトリエのドアを開けると、薄暗い室内に蒼井がひとり、鳥籠のオブジェの前に座っていた。

彼は振り返り、どこか憔悴した顔で僕を見る。


「ノート、持ってきたか」


「ここにある。……でも、本当に、これは何なんだ?」


蒼井は無言でノートを受け取ると、しばらくページをめくっていた。

そしてぽつりと呟く。


「これ、君の字じゃないよ」


「は?」


「ここに書かれている『鳥籠に入った』、筆跡が違う。……見覚えない?」


そう言われて改めて見返すと、確かに微妙に自分の字と違うような気がする。

だが、僕は確かにあのとき、自分の手で書いたはずだ。

だとすれば——


「もしかして、誰かが勝手に書き換えた?」


「いや、たぶん……君自身が変化したんだ」


蒼井は鳥籠のオブジェを指差した。


「この作品は、思考を揺さぶる装置なんだ。入ったつもりになれば、脳は入ったという事実を書き換える。君の思考と現実が、すでにズレ始めている証拠だよ」


彼の言葉はどこか現実味を欠いているのに、僕の身体はひどく寒くなった。


「神谷さんも同じことを?」


「ああ。……実は、彼女だけじゃない。このノートに『鳥籠に入った』と三回書かせた人間は、全員少しずつ、現実から切り離されていく。最初は幻覚や悪夢。次第に、自分が誰なのか分からなくなる。そして……」


蒼井の目が、妙に濁っていた。


「最後は、自分がこの鳥籠の中にしか存在しないと思い込んでしまうんだ」


「思い込む、って……それだけで?」


「人間の常識なんて脆いものさ。一度、現実の座標軸がズレれば、世界そのものが歪んでしまう。……それを証明するのが、この作品だったんだ」


そのとき、不意にアトリエの奥の闇から、誰かが笑う声がした。

振り返ると、影の中に何人もの人影が、鳥籠の中で微動だにせず座っているのが見えた。

いや、それは現実の人間ではない。

すべて僕の顔をしている。

僕の服を着て、僕と同じ髪型で、同じように怯えた目をしていた。


「……どうして、こんなことを?」


僕の声は震えていた。


「僕自身も、この鳥籠に入った人間の一人なんだよ」


蒼井の目が虚ろに揺れる。


「最初は好奇心だった。思考を作品に変換したかった。でも、気づけば……僕自身、現実の感覚がどこにあるのか分からなくなった。このノートも、君も、きっと——」


蒼井の手が、鳥籠の鉄線をつかむ。

その手が、静かに消えていく。


「もし……本当に現実に戻りたいなら、一つだけ方法がある」


「どうすれば?」


「鳥籠の外側にいる自分を見つけて、その自分に助けてと叫ぶんだ」


「外側……?」


僕は鳥籠の中から、ガラスの壁越しに外側を見上げた。

そこには、もう一人の自分が無表情で立っていた。

それは、あの朝、鏡の中で一瞬だけ見た他人の顔をした自分だった。


「……助けて」


かすかに、声が出た。

だが、外側の僕は、まるで僕の存在に気付かないかのように、無関心な目でこちらを見下ろしていた。


思考鳥籠の鉄線が、静かに、しかし確実に僕を締め付けていく。


現実と虚構の境目が、ぼやけていく。

僕は本当に、鳥籠の中にいるのだろうか——それとも、最初から外側になど、誰もいなかったのだろうか。


目の前に広がるのは、終わりのない鳥籠の海だった。

透明な檻の一つひとつに、僕がいた。

怒り、哀しみ、絶望、無表情——あらゆる感情を貼り付けた顔が、ただ黙って座っている。


僕は鉄線に指をかけて、外を覗き込む。

が、どこまでいっても見えるのは自分だけだった。

自分以外の人間など、最初からこの世界に存在しないのかもしれない。


 


頭が痛い。

現実感がすり減っていく。

これは夢か、それとも現実か。

気を紛らわそうと、鳥籠の椅子から立ち上がり、壁を叩いた。

カン、カン、と乾いた金属音が響く。

その音は、すぐ隣の鳥籠からも、また隣の隣からも同じように返ってきた。

無限に連なる檻の中で、無数の僕が、同時に壁を叩いていた。


そのとき、突然、声が聞こえた。

それは蒼井の声だった。

だが姿はない。

どこからともなく、ただ耳元に直接響く。


『思考の檻は、自分で鍵をかけるものだ。出たいと叫ぶほど、出口は遠ざかる。本当に抜け出したいなら、何を常識だと思い込んでいるか見直すしかない。そのためのトリックが、ここにある』


耳鳴りのように残るその言葉に、僕は思考を巡らせた。


常識——?

自分は、本当に鳥籠の中にいるのか?

そもそも鳥籠とは何だ?

物理的な檻が見えるのは確かだが、他の人間から見た自分は今、どんな存在なのだろう?


ふと、遠い昔の記憶がよみがえった。

幼いころ、誰もいない部屋で想像上の友達と話していたこと。

そのときも、家族から「変わった子」だとからかわれた。

あれは本当に想像だったのか?

それとも、最初から自分は現実だと思い込んだ夢の中にいたのか?


気がつくと、ノートが手元にあった。

蒼井がくれた、あの「鳥籠に入った」と書かれたノート。

ページを開くと、今まで読んだはずのフレーズが、まるで他人の手で綴られたように滲んでいる。


『鳥籠に入った』


指先でその文字をなぞる。

すると、不思議なことに、自分が鳥籠に入ったという記憶が薄れていく気がした。

いや、もしかすると、最初から「入った」ことなどなかったのではないか?

蒼井が言っていた。

「思い込むことで、現実が書き換わる」と。


僕はノートの最後のページに、震える手でこう書いた。


『僕は鳥籠に入っていない』


その瞬間、世界が一瞬だけ、白くノイズに包まれた。

全てがかき消える。

耳をつんざくほどの静寂と、無音の叫び声。


次に気がついたとき、僕は自分の部屋のベッドで目を覚ました。

カーテンの隙間からは朝の光が差し込んでいる。

心臓の鼓動だけがやけに現実的だ。


枕元には、あのノートがあった。

だがページをめくっても、「鳥籠に入った」という文字は消えている。

何も書かれていない、真っ白な紙だけが残っていた。


安堵と同時に、不安が湧き上がる。

本当に現実に戻ってきたのか?

それとも、これは鳥籠の中の新しい夢なのか?


スマートフォンが鳴る。

画面には「蒼井」の名前。

だが、受話器越しに聞こえてきたのは、蒼井のものではない声だった。


「——おはようございます。外側は、どうでしたか?」


鳥肌が立つ。

僕はまだ、何かの檻の中にいるのだろうか。


そのとき、ふと窓の外を見ると、一羽の小鳥が鉄線の上に留まってこちらを見ていた。

小鳥の目には、僕の顔が映っている。


世界は、今日も常識の鳥籠の中。

ただ一つ違うのは、その鳥籠の鍵を持つのが、いつだって自分自身だということ——

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ