思考鳥籠
「君は鳥籠に入ったことがあるか?」
その問いを投げかけてきたのは、大学時代の親友であり、現代アートを生業にしている蒼井だった。
ぼんやりと煙草の煙が漂うアトリエで、彼は床に描いた不可解な模様の上にしゃがみこみ、まるで悪戯を思いついた少年のような顔で僕を見上げていた。
「鳥籠って、あの……檻の?」
「まあね。でも僕の鳥籠はちょっと違う。ほら、見てみなよ」
蒼井が指さしたのは、アトリエの奥に据えられた奇妙な立体作品だった。
鉄線が複雑に絡み合い、楕円形の鳥籠を模している。
ただし通常の鳥籠と違うのは、扉がない。
どこからも入れず、どこからも出られない——だが、中にはちゃんと小さな椅子が据えられている。
「入る場所がないじゃないか」
「それが、思考鳥籠なんだ。物理的には入れない。でも、君の思考なら入れる」
意味がわからない。
だが、蒼井はいたずらっぽく笑って、僕に一冊のノートを差し出した。
「このノートに『鳥籠に入った』と三回書いてみて。冗談だと思ってもいい。ルールはただ一つ、他人には絶対見せないこと」
——奇妙な頼みだ。
だが僕は、蒼井の言葉には逆らえなかった。
昔から、彼の奇策には、いつも巻き込まれてきた。
興味半分、面倒くささ半分で、ノートの表紙をめくる。
すでに何ページか、他の誰かの手書きの文字が書き込まれている。
『鳥籠に入った』
僕はそのフレーズを、三回、丁寧に書いた。
最後の一文字を書き終えた瞬間、奇妙な既視感が頭をよぎった。
何か、ずっと以前にもこれと同じようなことをした気がする——。
「よし、それでOK。ノートは僕が預かる」
蒼井はノートを取り上げ、乱暴に机の引き出しへ放り込んだ。
僕は気の抜けた気分で、なんとなく鳥籠を眺めた。
中の椅子が、いつの間にか二脚になっているような気がした。
蒼井のアトリエから帰る道すがら、胸の奥に不穏な感覚が残った。
鳥籠、ノート、入れないはずの中の椅子——。
それらが妙に脳裏にこびりついて、離れなかった。
数日後、職場で事件が起こった。
同僚の神谷が、会議中に突然、窓から飛び降りたのだ。
幸い命に別状はなかったが、彼女の口から漏れた最初の言葉は奇妙だった。
「……あの鳥籠から、出られなかった」
心底ぞっとした。
その言葉に、まるで自分の内側を引き裂かれるような感覚があった。
——どうしてだ?鳥籠?それは、つい数日前に自分が関わった、あの作品のことじゃないのか?
神谷とは特に親しかったわけではない。
だが、彼女のデスクの上にあった小さなノートに目がとまる。
表紙には手書きで「Birdcage」とだけ書かれていた。
夜、アトリエに戻った。
蒼井はいつものように無造作に床に座り、薄暗いライトの下で何かを作業していた。
僕は、居ても立ってもいられず、彼に問い詰めた。
「蒼井、あのノート、他の人にも同じことをさせたのか?」
「……させたよ。最初は遊びのつもりだった。でも、ある時から本当に鳥籠が動き出した」
「それは、どういう——」
蒼井は静かに立ち上がった。
その顔は妙に真剣だった。
「この世には思考が現実になる時がある。もし君が、自分が鳥籠の中にいると思い込んだら、本当に出られなくなることもある。人間の常識は、その程度のものなんだよ」
嘘だ、そんなはずがない。
でも、神谷のあの顔。
ノート。
鳥籠。
頭の中で点と点がつながっていく。
僕は無性に怖くなった。
その日以来、日常に小さな違和感が増えていった。
職場の会議室の椅子が一つだけ古い型に変わっている。
通勤電車の窓の外、同じ場所に鳥が何羽も留まっている。
家の扉を閉めるたび、「ガチャン」という金属の音がやけに耳につく。
ある朝、目覚めると枕元にノートが置いてあった。
それは確かに、蒼井のアトリエで書き込んだはずのノートだった。
開くと、自分の筆跡で、三行のフレーズ。
『鳥籠に入った』
どうして、ここに——?
いや、それより、これを書いたのは本当に自分だったのだろうか?
不安と恐怖が、現実を侵食し始めていた。
そして、いつしか——
僕は、夢の中で何度も同じ光景を見るようになる。
見渡す限りの鳥籠。
それぞれの中に、自分と同じ顔をした人間が、ただ黙って座っている。
思考鳥籠——。
果たして、僕は今、どこにいるのだろうか?
それからというもの、僕の世界は静かに、しかし確実に歪んでいった。
最初に異変を感じたのは、家の鏡の前に立ったときだった。
眠気の残る目をこすりながら歯を磨く。
ふと顔を上げると、鏡の中の自分が一瞬だけ、誰か別人の顔になった気がした。
すぐに元に戻ったが、そのとき心の奥底に沈んでいた恐怖が泡立ち始めた。
日常の風景が微妙に違う。
通い慣れた駅のホームで、同じ服を着た男が三人並んで座っている。
カフェの奥の席に座る女性が、こちらを見て微笑んでいる——と思ったら、その目には瞳孔がなく、真っ黒な穴が開いているように見えた。
自分が狂ってきているのか、それとも世界が変質しつつあるのか。
分からないまま、仕事も私生活も、ただ不安に苛まれながら過ごしていた。
そんなある日、蒼井から一通のメールが届いた。
『ノートを返してほしい。今夜、アトリエで待つ』
妙にぶっきらぼうな文面だった。
ノートは、いまだに僕の手元にあった。
枕元で見つけてから、ずっと開くことができずにいた。
あの三行が目に入るだけで、胸の奥がざわつく。
蒼井のアトリエに向かう道すがら、頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
鳥籠。
ノート。
誰かの記憶。
僕は果たして、現実の地面を踏みしめて歩いているのだろうか?
アトリエのドアを開けると、薄暗い室内に蒼井がひとり、鳥籠のオブジェの前に座っていた。
彼は振り返り、どこか憔悴した顔で僕を見る。
「ノート、持ってきたか」
「ここにある。……でも、本当に、これは何なんだ?」
蒼井は無言でノートを受け取ると、しばらくページをめくっていた。
そしてぽつりと呟く。
「これ、君の字じゃないよ」
「は?」
「ここに書かれている『鳥籠に入った』、筆跡が違う。……見覚えない?」
そう言われて改めて見返すと、確かに微妙に自分の字と違うような気がする。
だが、僕は確かにあのとき、自分の手で書いたはずだ。
だとすれば——
「もしかして、誰かが勝手に書き換えた?」
「いや、たぶん……君自身が変化したんだ」
蒼井は鳥籠のオブジェを指差した。
「この作品は、思考を揺さぶる装置なんだ。入ったつもりになれば、脳は入ったという事実を書き換える。君の思考と現実が、すでにズレ始めている証拠だよ」
彼の言葉はどこか現実味を欠いているのに、僕の身体はひどく寒くなった。
「神谷さんも同じことを?」
「ああ。……実は、彼女だけじゃない。このノートに『鳥籠に入った』と三回書かせた人間は、全員少しずつ、現実から切り離されていく。最初は幻覚や悪夢。次第に、自分が誰なのか分からなくなる。そして……」
蒼井の目が、妙に濁っていた。
「最後は、自分がこの鳥籠の中にしか存在しないと思い込んでしまうんだ」
「思い込む、って……それだけで?」
「人間の常識なんて脆いものさ。一度、現実の座標軸がズレれば、世界そのものが歪んでしまう。……それを証明するのが、この作品だったんだ」
そのとき、不意にアトリエの奥の闇から、誰かが笑う声がした。
振り返ると、影の中に何人もの人影が、鳥籠の中で微動だにせず座っているのが見えた。
いや、それは現実の人間ではない。
すべて僕の顔をしている。
僕の服を着て、僕と同じ髪型で、同じように怯えた目をしていた。
「……どうして、こんなことを?」
僕の声は震えていた。
「僕自身も、この鳥籠に入った人間の一人なんだよ」
蒼井の目が虚ろに揺れる。
「最初は好奇心だった。思考を作品に変換したかった。でも、気づけば……僕自身、現実の感覚がどこにあるのか分からなくなった。このノートも、君も、きっと——」
蒼井の手が、鳥籠の鉄線をつかむ。
その手が、静かに消えていく。
「もし……本当に現実に戻りたいなら、一つだけ方法がある」
「どうすれば?」
「鳥籠の外側にいる自分を見つけて、その自分に助けてと叫ぶんだ」
「外側……?」
僕は鳥籠の中から、ガラスの壁越しに外側を見上げた。
そこには、もう一人の自分が無表情で立っていた。
それは、あの朝、鏡の中で一瞬だけ見た他人の顔をした自分だった。
「……助けて」
かすかに、声が出た。
だが、外側の僕は、まるで僕の存在に気付かないかのように、無関心な目でこちらを見下ろしていた。
思考鳥籠の鉄線が、静かに、しかし確実に僕を締め付けていく。
現実と虚構の境目が、ぼやけていく。
僕は本当に、鳥籠の中にいるのだろうか——それとも、最初から外側になど、誰もいなかったのだろうか。
目の前に広がるのは、終わりのない鳥籠の海だった。
透明な檻の一つひとつに、僕がいた。
怒り、哀しみ、絶望、無表情——あらゆる感情を貼り付けた顔が、ただ黙って座っている。
僕は鉄線に指をかけて、外を覗き込む。
が、どこまでいっても見えるのは自分だけだった。
自分以外の人間など、最初からこの世界に存在しないのかもしれない。
頭が痛い。
現実感がすり減っていく。
これは夢か、それとも現実か。
気を紛らわそうと、鳥籠の椅子から立ち上がり、壁を叩いた。
カン、カン、と乾いた金属音が響く。
その音は、すぐ隣の鳥籠からも、また隣の隣からも同じように返ってきた。
無限に連なる檻の中で、無数の僕が、同時に壁を叩いていた。
そのとき、突然、声が聞こえた。
それは蒼井の声だった。
だが姿はない。
どこからともなく、ただ耳元に直接響く。
『思考の檻は、自分で鍵をかけるものだ。出たいと叫ぶほど、出口は遠ざかる。本当に抜け出したいなら、何を常識だと思い込んでいるか見直すしかない。そのためのトリックが、ここにある』
耳鳴りのように残るその言葉に、僕は思考を巡らせた。
常識——?
自分は、本当に鳥籠の中にいるのか?
そもそも鳥籠とは何だ?
物理的な檻が見えるのは確かだが、他の人間から見た自分は今、どんな存在なのだろう?
ふと、遠い昔の記憶がよみがえった。
幼いころ、誰もいない部屋で想像上の友達と話していたこと。
そのときも、家族から「変わった子」だとからかわれた。
あれは本当に想像だったのか?
それとも、最初から自分は現実だと思い込んだ夢の中にいたのか?
気がつくと、ノートが手元にあった。
蒼井がくれた、あの「鳥籠に入った」と書かれたノート。
ページを開くと、今まで読んだはずのフレーズが、まるで他人の手で綴られたように滲んでいる。
『鳥籠に入った』
指先でその文字をなぞる。
すると、不思議なことに、自分が鳥籠に入ったという記憶が薄れていく気がした。
いや、もしかすると、最初から「入った」ことなどなかったのではないか?
蒼井が言っていた。
「思い込むことで、現実が書き換わる」と。
僕はノートの最後のページに、震える手でこう書いた。
『僕は鳥籠に入っていない』
その瞬間、世界が一瞬だけ、白くノイズに包まれた。
全てがかき消える。
耳をつんざくほどの静寂と、無音の叫び声。
次に気がついたとき、僕は自分の部屋のベッドで目を覚ました。
カーテンの隙間からは朝の光が差し込んでいる。
心臓の鼓動だけがやけに現実的だ。
枕元には、あのノートがあった。
だがページをめくっても、「鳥籠に入った」という文字は消えている。
何も書かれていない、真っ白な紙だけが残っていた。
安堵と同時に、不安が湧き上がる。
本当に現実に戻ってきたのか?
それとも、これは鳥籠の中の新しい夢なのか?
スマートフォンが鳴る。
画面には「蒼井」の名前。
だが、受話器越しに聞こえてきたのは、蒼井のものではない声だった。
「——おはようございます。外側は、どうでしたか?」
鳥肌が立つ。
僕はまだ、何かの檻の中にいるのだろうか。
そのとき、ふと窓の外を見ると、一羽の小鳥が鉄線の上に留まってこちらを見ていた。
小鳥の目には、僕の顔が映っている。
世界は、今日も常識の鳥籠の中。
ただ一つ違うのは、その鳥籠の鍵を持つのが、いつだって自分自身だということ——